1.藤ヶ谷陸軍飛行場
戦争末期、陸軍は「帝都防空」を任務とする飛行戦隊を首都東京近郊の各地に配置した。その根拠となる飛行場は既存の軍関係以外の飛行場を転用したり、新たに建設したりした。例えば、松戸市松飛台から鎌ヶ谷市にかけてあった逓信省松戸飛行場は、戦局が厳しさを増す中、陸軍管轄下となり、1944年(昭和19年)9月から所沢から移転した陸軍第十飛行師団の飛行第五十三戦隊が根拠とした。
この飛行第五十三戦隊は、三つの飛行隊と整備中隊からなり、夜間防空を主任務としたため、「猫の目部隊」、「ふくろう部隊」と呼ばれた。その配備された戦闘機は、二式複座戦闘機、屠龍である。第五十三戦隊には、米軍機の本土空襲に備え、背中に斜銃二門を設置した対爆用屠竜が25機、ほかにやはり斜銃を設置された百式司偵改(一〇〇式司令部偵察機改)が数機が配備された。
<屠龍>

実際に第五十三戦隊が初めて出撃したのは、1944年(昭和19年)11月1日で、初戦果はその23日後の11月24日の米軍B29による北多摩郡武蔵野町(現在の武蔵野市)の中島飛行機工場に対する初の戦略爆撃による空襲で、B29数十機と出撃可能なだけ出撃した屠龍が交戦、B29機1機を撃墜した。また1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲でも出撃、B29機を十数機を撃墜している。しかし、こうした迎撃戦で米軍機と交戦したり、松戸でも特攻隊が組織されるなどして、前途有為な若者たちが死んでいった。第五十三戦隊だけで、終戦までに50人以上がなくなったという。
この飛行第五十三戦隊は、1945年(昭和20年)6月16日に松戸から新設の藤ヶ谷陸軍飛行場に移動した。
<一〇〇式司令部偵察機>

藤ヶ谷陸軍飛行場は、現在の海上自衛隊下総航空基地の場所にあった。1932年(昭和7年)、東洋一の規模を誇り、広大な敷地をもつ「藤ヶ谷ゴルフ場」(武蔵野カントリークラブ「藤ヶ谷コース」として開発された土地を、1944年(昭和19年)には、陸軍が首都圏防衛を目的として接収、同年秋頃から鎌ヶ谷と風早村(現:柏市)にまたがって飛行場の建設が開始された。工事には、大相撲の力士や付近の住民、中学、女学校などの生徒、約1200人の朝鮮人労務者が動員された。中学生たちは、学徒動員で1ヶ月泊り込みで飛行場建設に奉仕した。
そして、藤ヶ谷陸軍飛行場として完成したのが、1945年(昭和20年)4月である。その2ヶ月後に、飛行第五十三戦隊が根拠とし、さらにその2ヶ月後に終戦となって、米軍に接収された。藤ヶ谷飛行場は、わずか4ヶ月弱で日本軍から米軍の飛行場となり、シロイ・エアー・ベース(Shiroi Air Base)と呼ばれた。以降、15年以上もの間、米軍基地であったが、1961年(昭和36年)6月に海上自衛隊が基地の全面返還を受け、現在に至っている。
現在、下総航空基地と呼んでいるが、この基地には旧海軍の戦艦長門や陸奥で使われた40糎被帽徹甲弾や魚雷などが展示されているものの、松戸飛行場とは違い、旧陸軍飛行場当時の建物、施設は残されていないようである。
後述の地下格納庫以外には、掩体壕が鎌ヶ谷市初富に近年まで残っていたが、それもなくなった。
2.軽井沢の地下格納庫
鎌ヶ谷市軽井沢の台地端の山林のなかに、コンクリート製の地下格納庫1基が大部分を地表面に出して残っている。これは、藤ヶ谷陸軍飛行場関連の遺構と考えられる。地元の人に聞くと、防空壕と呼んでいるが、これは防空壕としてはかなり立派であり、似たような地下格納庫、地下燃料庫は全国的に他にも存在するので、一旦地下格納庫と呼ぶことにする。
それは藤ヶ谷陸軍飛行場があった下総航空基地からも近い、白井市西白井と谷津一つを隔てた鎌ヶ谷市軽井沢の台地端にあるが、東側低地から見上げると、円形のコンクリートの鍔状の端部が草の中から見える。その鍔状の端部は円筒状の格納庫本体と接合し、端部には1m四方の小さな穴があって鉄の扉でふさいである。台地に上がってみると、コンクリートのドーム状の地下格納庫胴体の天井部分が地表面に露出しているのが分かる。
<地下格納庫の東側端部>

ドーム状の格納庫胴体天井部分は一部土に埋もれ、埋もれている部分で直角に曲がり、東西に9m強、南北に22mほどものびている。その先端は開口部であるが、人が入らないように鉄の柵でふさがれている。
<地下格納庫の南側開口部>

コンクリートは砂利が混ぜてあり、鉄筋も使われている。格納庫の胴体の内側は半円、外側には鎬がついて七角形になっており、南北にのびる長い方が幅も広く4.8m以上、短い方で幅2mほどである。
胴体部分の一部は、経年劣化のためか、ひびが入っている。また一つ小さな穴があいていて落葉と土が詰まっているが、これはもともとあった通風孔か、劣化による穴か不明である。
<格納庫の胴体>

その胴体の外側は、土手状になっている。格納庫の東側端部の丸い鍔状のものは、台地斜面に開口部が開いて、土が開口部に入らないようにしたものと思われ、少なくとも東の端部から現在土をかぶっている部分までは土がかぶせてあっただろう。
<地下格納庫を上から見た概略図>

南側に開口部があるが、これには鍔状の端部はなく、さらに開口部の南側は緩やかに低くくなり東南側の低地へ傾斜しているが、開口部のすぐ下の両サイドに縁石のようなコンクリートの構造物があり、排水溝のような溝もある。
<地下格納庫の南側を土手から見たところ>

<排水溝か>

おそらく南側の開口部の方から、物資を運び込んだものと思われる。南側開口部の内側は、西側に棚状のものがあり、一見すると腰掛のように見える。
今はふさがれていて入ることができないが、近所の人によると直角に折れている部分も含めて内部は全部空洞であり、南側開口部から東側端部までつながっているそうである。
<南側開口部から内部を見たところ>

参考文献:
『鎌ヶ谷市史研究』第14号「松戸飛行場と『帝都』防衛」 栗田尚弥 (2001)
『鎌ヶ谷市史研究』第19号「『帝都』防衛からシロイ・エアーベース、そして自衛隊基地へ」 栗田尚弥 (2005)
参考サイト:
海上自衛隊下総教育航空群 http://www.mod.go.jp/msdf/simohusa/
戦争末期、陸軍は「帝都防空」を任務とする飛行戦隊を首都東京近郊の各地に配置した。その根拠となる飛行場は既存の軍関係以外の飛行場を転用したり、新たに建設したりした。例えば、松戸市松飛台から鎌ヶ谷市にかけてあった逓信省松戸飛行場は、戦局が厳しさを増す中、陸軍管轄下となり、1944年(昭和19年)9月から所沢から移転した陸軍第十飛行師団の飛行第五十三戦隊が根拠とした。
この飛行第五十三戦隊は、三つの飛行隊と整備中隊からなり、夜間防空を主任務としたため、「猫の目部隊」、「ふくろう部隊」と呼ばれた。その配備された戦闘機は、二式複座戦闘機、屠龍である。第五十三戦隊には、米軍機の本土空襲に備え、背中に斜銃二門を設置した対爆用屠竜が25機、ほかにやはり斜銃を設置された百式司偵改(一〇〇式司令部偵察機改)が数機が配備された。
<屠龍>

実際に第五十三戦隊が初めて出撃したのは、1944年(昭和19年)11月1日で、初戦果はその23日後の11月24日の米軍B29による北多摩郡武蔵野町(現在の武蔵野市)の中島飛行機工場に対する初の戦略爆撃による空襲で、B29数十機と出撃可能なだけ出撃した屠龍が交戦、B29機1機を撃墜した。また1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲でも出撃、B29機を十数機を撃墜している。しかし、こうした迎撃戦で米軍機と交戦したり、松戸でも特攻隊が組織されるなどして、前途有為な若者たちが死んでいった。第五十三戦隊だけで、終戦までに50人以上がなくなったという。
この飛行第五十三戦隊は、1945年(昭和20年)6月16日に松戸から新設の藤ヶ谷陸軍飛行場に移動した。
<一〇〇式司令部偵察機>

藤ヶ谷陸軍飛行場は、現在の海上自衛隊下総航空基地の場所にあった。1932年(昭和7年)、東洋一の規模を誇り、広大な敷地をもつ「藤ヶ谷ゴルフ場」(武蔵野カントリークラブ「藤ヶ谷コース」として開発された土地を、1944年(昭和19年)には、陸軍が首都圏防衛を目的として接収、同年秋頃から鎌ヶ谷と風早村(現:柏市)にまたがって飛行場の建設が開始された。工事には、大相撲の力士や付近の住民、中学、女学校などの生徒、約1200人の朝鮮人労務者が動員された。中学生たちは、学徒動員で1ヶ月泊り込みで飛行場建設に奉仕した。
そして、藤ヶ谷陸軍飛行場として完成したのが、1945年(昭和20年)4月である。その2ヶ月後に、飛行第五十三戦隊が根拠とし、さらにその2ヶ月後に終戦となって、米軍に接収された。藤ヶ谷飛行場は、わずか4ヶ月弱で日本軍から米軍の飛行場となり、シロイ・エアー・ベース(Shiroi Air Base)と呼ばれた。以降、15年以上もの間、米軍基地であったが、1961年(昭和36年)6月に海上自衛隊が基地の全面返還を受け、現在に至っている。
現在、下総航空基地と呼んでいるが、この基地には旧海軍の戦艦長門や陸奥で使われた40糎被帽徹甲弾や魚雷などが展示されているものの、松戸飛行場とは違い、旧陸軍飛行場当時の建物、施設は残されていないようである。
後述の地下格納庫以外には、掩体壕が鎌ヶ谷市初富に近年まで残っていたが、それもなくなった。
2.軽井沢の地下格納庫
鎌ヶ谷市軽井沢の台地端の山林のなかに、コンクリート製の地下格納庫1基が大部分を地表面に出して残っている。これは、藤ヶ谷陸軍飛行場関連の遺構と考えられる。地元の人に聞くと、防空壕と呼んでいるが、これは防空壕としてはかなり立派であり、似たような地下格納庫、地下燃料庫は全国的に他にも存在するので、一旦地下格納庫と呼ぶことにする。
それは藤ヶ谷陸軍飛行場があった下総航空基地からも近い、白井市西白井と谷津一つを隔てた鎌ヶ谷市軽井沢の台地端にあるが、東側低地から見上げると、円形のコンクリートの鍔状の端部が草の中から見える。その鍔状の端部は円筒状の格納庫本体と接合し、端部には1m四方の小さな穴があって鉄の扉でふさいである。台地に上がってみると、コンクリートのドーム状の地下格納庫胴体の天井部分が地表面に露出しているのが分かる。
<地下格納庫の東側端部>

ドーム状の格納庫胴体天井部分は一部土に埋もれ、埋もれている部分で直角に曲がり、東西に9m強、南北に22mほどものびている。その先端は開口部であるが、人が入らないように鉄の柵でふさがれている。
<地下格納庫の南側開口部>

コンクリートは砂利が混ぜてあり、鉄筋も使われている。格納庫の胴体の内側は半円、外側には鎬がついて七角形になっており、南北にのびる長い方が幅も広く4.8m以上、短い方で幅2mほどである。
胴体部分の一部は、経年劣化のためか、ひびが入っている。また一つ小さな穴があいていて落葉と土が詰まっているが、これはもともとあった通風孔か、劣化による穴か不明である。
<格納庫の胴体>

その胴体の外側は、土手状になっている。格納庫の東側端部の丸い鍔状のものは、台地斜面に開口部が開いて、土が開口部に入らないようにしたものと思われ、少なくとも東の端部から現在土をかぶっている部分までは土がかぶせてあっただろう。
<地下格納庫を上から見た概略図>

南側に開口部があるが、これには鍔状の端部はなく、さらに開口部の南側は緩やかに低くくなり東南側の低地へ傾斜しているが、開口部のすぐ下の両サイドに縁石のようなコンクリートの構造物があり、排水溝のような溝もある。
<地下格納庫の南側を土手から見たところ>

<排水溝か>

おそらく南側の開口部の方から、物資を運び込んだものと思われる。南側開口部の内側は、西側に棚状のものがあり、一見すると腰掛のように見える。
今はふさがれていて入ることができないが、近所の人によると直角に折れている部分も含めて内部は全部空洞であり、南側開口部から東側端部までつながっているそうである。
<南側開口部から内部を見たところ>

参考文献:
『鎌ヶ谷市史研究』第14号「松戸飛行場と『帝都』防衛」 栗田尚弥 (2001)
『鎌ヶ谷市史研究』第19号「『帝都』防衛からシロイ・エアーベース、そして自衛隊基地へ」 栗田尚弥 (2005)
参考サイト:
海上自衛隊下総教育航空群 http://www.mod.go.jp/msdf/simohusa/