日本軍の戦闘機などが様々な理由で墜落した際の慰霊碑は、全国各地に多い。しかし、米軍機が日本軍の戦闘機や高射砲などで撃ち落されるなどして、墜落したものの搭乗員慰霊碑が、全国に少数ながら存在し、千葉県にもあることは寡聞にして知らなかった。
偶然にも、森-CHANが知人から教わったインターネットのWEBマガジン「ヒコーキ雲」に掲載されていた日本航空協会の「航空と文化」誌97号の記事を航空会館で複写していたところ、その記事を書いた当の航空協会の職員の方から、千葉県木更津市の慰霊碑の場所や管理しているお宅の住所を聞いたのがきっかけで、実際に慰霊碑を当HP取材チームが訪ねるにいたったのである。
慰霊碑を管理しておられるのは、木更津市の影山順一さんで、慰霊碑を建立したのは、御父堂の影山金司さん(故人)であり、それも終戦から6年後に慰霊碑を建てたとのことであった。そのB29は1945年(昭和20年)5月29日横浜空襲を実施したB29の517機のうちの一機であり、木更津の「高射砲」(高角砲)が落としたものらしい。搭乗員12名は、即死の状態であったらしいが、遺体は殆どが大きく損傷した。そのなかで、珍しくほぼ完全な形で残った遺体は首から小さな靴を下げていたという。
他にも米軍機搭乗員の慰霊碑はあるが、これは最も古い部類である。
小生が興味を抱いたのは、普通の市民であった筈の影山金司さんが、B29の墜落を目の当たりにし、軍国主義の思想がまだ色濃く残っていた戦後間もない時期に、なぜB29搭乗員の慰霊碑を建立しようと思ったかである。兄弟が軍属として南海に散ったことも、戦争犠牲者はなんびとも平等だという考えにつながったと、息子である順一さんは想像しておられるが、それを行動であらわしたのは、なかなかできることではない。
慰霊碑の存在は、ごく一部の人しか知らなかったが、最近になって近くを通る館山自動車道が開通し、その残土を入れたために山林の一部が平坦になって、人が入り込みやすくなったことから、山菜とりの人に慰霊碑が発見され、米国大使館や木更津市長を招いた慰霊祭が行われるにいたった。その慰霊祭は、影山順一さんもいろいろ世話をして実現したものであり、親子二代にわたり、義理人情に厚い人なのかもしれぬ。
実は、この取材は今年初めに行っていたが、HPにあげるのが大幅に遅れたのは、森-CHANが仕事やら地域活動やらで、なかなか時間がとれなかったためである。こういう心温まる話は、何をおいてもすぐに上梓してほしいものだ。
木更津の次は館山へ行ってくれと言っているが、いつになることやら。
(写真はB29搭乗員慰霊碑~影山さんが持たせてくれたお茶を取材チームが供えた)