千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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予科練志願

2010-10-31 | Weblog


軍隊には、いわゆる兵隊ソングという歌があって、軍歌以上に歌われていた。それは替え歌であったり、独自に作られた歌で、兵隊の真情をあらわしたものが多い。なかには、本当にふざけたものや、くだらないもの、猥雑なものもあるが、総じて言えば、軍隊生活での喜怒哀楽をうたっている。

その中に、「お国の為とは言いながら 人の嫌がる軍隊に 志願で出てくる馬鹿もある 可愛いスーちゃんと泣きわかれ」という、『可愛いスーチャン』というのがある。その志願で出てきたのが、小生であり、小生の身内には何人か同様の者がいる。そもそも、海軍は一部応召のものもいることはいるが、基本的に志願兵ばかりである。

なぜ予科練を志願したかといえば、親父が日露戦争直後に陸軍に応召されたとき、模範兵と言われたにも関わらず、上等兵になれなかったことから、お前が志願したら上等兵などすぐになれるぞと言われたことや、学校に配属されていた陸軍大尉が軍隊(直接には陸軍幼年学校)にはいることをすすめてくれたことがあり、当時人気があった海軍予科練に憧れる、子供なりの判断があって海軍の予科練を志願したのである。

既に戦局には暗雲が立ち込めていた1943年、勇躍甲種飛行予科練を志願し、所定の手続きをして受けてみると、激しい倍率にも関わらず受かってしまった。参著先は、三重海軍航空隊奈良分遣隊。
しかし、喜んだあまり、山道を歩いているときに、手を野バラに引っ掛け、とげで指を怪我してしまった。
もし、この指の怪我が分ると、合格を取り消しになるかもしれないなどと心配した。
そんなころ、家に帰ると母が泣いている。それは小生が予科練に入り、死んでしまうかもしれない運命にあることからであった。その時はショックであった。

予科練に入る前、小生は親父にもし自分が死んだら、山の上に墓を建ててくれと言った。親父は、わかった、あそこはうちの地所ではないが、何とかすると言った。

いつの間にか、バラのとげでつくった指の傷は治っていた。

予科練に入ってからは、どこかで書いた通りである。
集団で奈良を目指す途中、東京の連中の整然とした隊列に出会い、たどり着いた奈良分遣隊の兵舎は、はたして航空隊の兵舎といえるかというような天理教の宿舎を利用したもの。奈良では練習機すらなく、操縦としては鳩ポッポというシミュレーターに乗るか、グライダーで滑空するか、そんな練習を繰り返したが、電信では個人の能力差がはっきりしていた。操偵別の発表があったとき、偵察となって落胆するものがいたが、小生は偵察となり、さらに電信員となることとなった。電信をやったことが、その後の人生にも大きく影響したのだが、その時はまったく予期していなかった。

奈良空にいる間にも、戦局はいよいよ厳しくなり、日本の敗色は濃厚になった。私も実施部隊に配属された。折りしも東京、名古屋、大阪などで大空襲があり、多くの無辜の市民がなくなった。三重から近い名古屋には1945年(昭和20年)5月、6月と主に熱田地区を狙った大きな空襲があり、名古屋の市街が燃える火が三重空からも見えたという。

1945年(昭和20年)8月15日、日本は連合国に対して無条件降伏した。私のいた航空隊でも、正午に重大放送があるとのことで、隊で整列させられ、「玉音放送」を聞いた。しかし、陸軍のなかの反乱軍が妨害電波を発していたために、途切れ途切れでよく聞こえなかった。敗戦、日本は負けたと知ると、言い知れぬ脱力感に襲われ、これからどうなるか考えようにも、まったく予想ができなかった。やがて海軍省などから慰撫書が届き、海軍軍人は悉く武装解除、日本海軍は解体することとなった。軍艦旗は降下奉焼され、連日書類は焼却された。終戦の翌日、三重空では香良洲浜で予備学生(森崎湊少尉候補生)が割腹自殺したという。ただ、東京で終戦直前に近衛師団、横浜警備隊などの反乱軍が、森近衛師団長を殺害し、首相官邸などを襲撃したようなことは首都圏以外では起こらなかったし、終戦直後もさほど大きな混乱はなかったと思う。ただ、山にこもるなどといって、息巻いていた若い士官たちがいた。
ある人は、白子浜でのんびり海水浴をしたというが、本当だろうか。そこまでのんびりした状況ではなかったと思う。

終戦と同時くらいのころに多摩川鉄橋で列車同士が正面衝突する事故があった。かなりの大事件ではあったが、その前にそれ以上の大きな敗戦ということがあったのに、なぜそんなことを覚えていたのだろうか。小生のいた航空隊も武装解除をうけ、一部要員は残務整理、その他は解員することとなったが、当時まだ部隊にいるにはいた。

解員帰郷、それはつらいものであった。両親は暖かく迎えてくれたが、戦死した身内や先輩、友たちに、どの面さげてという気はあった。

今にして思えば、予科練にはいる直前に指の怪我をしたのは、小生を軍隊に入れまいとした不思議な力のせいかもしれない。両親をはじめ、殆どの身内が鬼籍にはいり、小生ももうそろそろお迎えがくるころである。

最近、入っているMLに訳の分らん投稿が多く、辟易しているが、戦争体験者の体験は部分的、断片的とはいえ、戦争の一面を語っていることを若い人にも理解してほしい。