1.下志津原の「ルボン山」
以前、「佐倉市の戦争遺跡2」で述べたように、下志津原と呼ばれる四街道市の領域を含んだ、広大な原に陸軍野砲兵隊、戦車隊などの演習地があったことはよく知られている。その下志津原の南側の一角には、現在の四街道市役所にほど近い場所に野戦砲兵学校や「ルボン山」があり、JR四街道駅前から大日五叉路手前で西へ集合住宅地が多い地域を道成りに進んだ、現在の愛国学園の正門となっている野戦重砲兵第四連隊の営門や将校集会所の跡など、様々な戦争遺跡が四街道市の中心市街地に存在している。
もともと、下志津原は中世は広大な原野であり、近世になって佐倉に佐倉藩が配置され、幕末近くなると、その一部において大砲の試射・演習が行われるようになった。佐倉藩の砲術演習は、1841年(天保12年)、佐倉藩士兼松繁蔵が高島秋帆の江戸徳丸ヶ原での洋式砲術の調練に参加したのを嚆矢として、すでに宝暦年間(1751年~1764年)には太田村で大砲の演習が行われている。
1855年(安政2年)木村軍太郎は藩兵制改革を立案、高島秋帆の洋式砲術を佐倉藩では採用し、江川太郎左衛門、佐久間象山に学んだ木村軍太郎、手塚律蔵、西村茂樹らの指導で自前の火薬・大砲を作るなど、その技術は世をリードしていたといってよいだろう。下志津原での大砲演習は1861年(文久元年)からであり、明治初年まで大々的に行われた。そして、それは下志津新田木戸場を中心に、約20haの大規模な「火業所」となった。
明治政府は、旧佐倉藩の「火業所」に目をつけ、これを陸軍演習場にすることを決定した。1873年(明治6年)、明治新政府がフランス陸軍から指導者として招聘したのが、ジョルジュ・ルボン砲兵大尉で、ジョルジュ・ルボン砲兵大尉の指導にしたがって、射的場の拡張を行い、下志津原に陸軍砲兵射的学校を開設した。
旧幕時代、佐倉藩が「火業所」として下志津原を使い、西洋砲術の演習をしていたが、その砲撃演習の目標(「射垜」という)にされていた小山をルボン大尉が改造したのが「ルボン山」である。
<「ルボン山」と「砲兵射垜の跡」碑>
陸軍野戦砲兵学校が四街道に出来る前の明治前期、陸軍砲兵射的学校が下志津原の北方に作られ、ルボン山はそこからの砲撃の射垜(射的築堤)であった。ところが、1896年(明治29年)に新たに陸軍野戦砲兵射撃学校条例が公布され、翌年には陸軍砲兵射的学校が陸軍野戦砲兵射撃学校、と改称され、今の四街道市役所の場所に移ってきた。それはさらに、1922年(大正11年)に陸軍野戦砲兵学校と改称された。
そうすると、今まで大砲を撃っていた下志津原の北方が、逆に砲弾の着弾点となったのである。「下志津原一丁目」と称して、紅灯緑酒の巷となり、殷賑を競った砲兵射的学校の周りの料理屋など軍人相手の店も移動を余儀なくされた。同時に、今度はルボン山が射垜としての役割を終え、射撃演習の観測および警戒旗を掲げる場所となった。また現在の四街道図書館など文化センターのある場所にあった爆薬庫の土手の一角として使われた。
「ルボン山」が射垜としての役割を終えると、次第に「ルボン山」という名称も使われなくなり、「大土手山」と呼ばれることになる。
現地の案内板には
「大土手山 神社を頂いたこの丘は大土手山と呼ばれていた
麓には昭和四十年に四街道町史蹟保存会と陸軍野戦砲兵学校遺跡保存会有志一同によって建てられた『砲兵射垜の跡』の碑があり、碑裏には次のように刻まれている。『この地は佐倉藩士大筑尚志が藩の砲術練習所として築いたものを明治十六年(一八七三)教師として招聘されたフランスのルボン砲術大尉が増築し初めて砲術を伝習した射垜の一角である射的場は南北三千米幅三百米であった
明治十九年その北端に陸軍砲兵射的学校が創立されたが同三十年四街道に移転してより射場は急速に拡張され射垜はルボン台または大土手山と呼ばれた・・・」とある。
<「ルボン山」から見た市役所方面>
(小生の知人のYさん撮影)
2.野戦砲兵学校
前述の通り、陸軍砲兵射的学校が下志津原の北方に作られ、ルボン山はそこからの砲撃の射垜(射的築堤)であった。ところが、1896年(明治29年)に新たに陸軍野戦砲兵射撃学校条例が公布され、翌年には陸軍砲兵射的学校が陸軍野戦砲兵射撃学校、と改称され、今の四街道市役所の場所に移ってきた。国鉄四街道駅は、その移転の三年前に開設されていて、まさしく軍の都合により、荒地のなかに駅がポツンとある状態だったようだ。そして、陸軍砲兵射的学校は、さらに1922年(大正11年)に陸軍野戦砲兵学校と改称された。
当初鉄道に近い場所ということで、千葉の鉄道第一連隊付近に移転する計画であったようだが、児玉源太郎陸軍次官など、当時の軍上層部が実地調査も含めて検討した結果、四街道に移転することになった。しかし、野砲校十年記念帖で渡辺満太郎中将が「概ね現在の如き半理想の状態」と述べているように、それは当事者にとってはやや不満の残る立地であったようだ。
<四街道市街地に建つ野戦砲兵学校の碑>
(後ろの御影石の石段は1936年(昭和11年)に射的学校50周年を記念してたてられたもの、終戦時にここで「御真影」を焼いたという)
この野戦砲兵学校は、後に教導連隊となった部隊の施設を含み、30数万平米の敷地を有し、その周囲の殆どが土塁とカラタチの垣根で囲まれていた。現在の四街道市役所、その南の中央小学校、さらに南の公園、バス道路を挟んだ西側の更地(セイコー光機のあった場所)およびさらに西のイトーヨーカドー敷地に渡る広大な場所が該当し、セイコー光跡地の周辺には土塁があった痕跡がみられる。
この1896年(明治29年)に四街道に設置された陸軍野戦砲兵射撃学校の周囲には、軍設備が建設され、その南には下志津衛戍病院(のちの下志津陸軍病院)、その東の現在の四街道高校のある場所には野砲兵第十八連隊が設置された。こうして、狐や狸が出る荒野に近かった四街道は軍郷として栄えることとなった。
一方で、下志津原演習場の整備拡大に伴って移転を余儀なくされた村もある。下志津新田、今宿、小深(こぶけ)新田、宇那谷(うなや)、長沼の五つの集落がそれであり、下志津村を親村として江戸後期から明治にかけて新田開発をおこなった下志津新田や、寺や学校も有していた宇那谷集落を含む。陸上自衛隊高射学校の「下志津原」によれば、「特に下志津新田の如きは、数回の移転を余儀なくされている。即ち第一回目は、親村下志津村からほど遠からぬ今宿(現在の四街道町今宿)近傍に、新田を構成したが、明治初年頃の軍の買収により、原の中央犢橋村内域に移動した。そのあと明治三十一年第四回目の演習場拡張によって、その柵外に接続して移転した。しかしたちまち同三十三年から三十五年にかけての大拡張により、漸次南方にずるずると移動して、現在地に落ち着いたものの様である」という。軍の犠牲になって翻弄された、農民の苦労が偲ばれる。
一方、陸軍野戦砲兵射撃学校は、1922年(大正11年)に陸軍野戦砲兵学校と改称されたが、これは野戦重砲兵に関する研究教育を行う学校であり、全国に17あった「実施学校」の一つであった。そこでは野戦重砲に関する射撃戦術、着弾観測、通信や馬術にいたるまで、砲兵将校をはじめ、後年には砲兵下士官要員の教育も行われた。また同年、日露戦争時旅順攻撃にも加わった野砲兵第十八連隊が廃され、かわりに広島から野戦重砲兵第四連隊が四街道に来ることになった。こうして、陸軍野戦砲兵学校を核として、砲兵の町、四街道が形成されていった。
この陸軍野戦砲兵学校は、従来の野砲より口径が大きく、砲自体が長大で駄馬でひかせるか自走式となった野戦重砲を扱っていたが、第一次大戦の中国青島戦でドイツ軍の飛行機の実戦使用を目のあたりにした陸軍は、大阪砲兵工廠で、臨時高射砲の研究を行い、これを実用化すべく検討した結果、1922年(大正11年)には高射砲隊の戦時編成が決まり、世界並みの一一年式七・五糎野戦高射砲が制定され、野戦砲兵学校内に二個中隊の高射砲練習隊が創設された(陸軍高射学校の前身)。つまり、野戦砲兵学校は野戦重砲兵だけでなく、高射砲兵の揺籃の地でもあったのだが、高射砲連隊1925年(大正14年)に一個連隊が編成されたきりで、日中戦争さなかで防空の必要性が強く認識されだした1938年(昭和13年)頃にいたるまで、砲兵のなかでも高射砲兵は長く味噌っかすの立場に甘んじなくてはならなかった。ちょうど1938年(昭和13年)には野戦砲兵学校内に防空学校ができ、後に陸軍防空学校(後の千葉陸軍高射学校)として独立、新校舎も千葉小仲台に作られた。
<観測隊の碑>
太平洋戦争さなかの1942年(昭和17年)には、野戦砲兵学校内に生徒隊が作られた。これは15歳から17歳に受験資格があり、教育期間二年間で下士官候補の少年砲兵を養成するもので、入校後は観測班、写真音源班、自走砲班に分かれて実地教育を受けた。160名ほどの募集に対して、1943年には47倍もの受験者があったという。
戦局が厳しくなった1944年(昭和19年)繰上げ卒業させられ、南方へ送られた少年砲兵70名は福岡県門司港を出港、途中潜水艦の攻撃で、41名が死亡、生存者はフィリピン、台湾の部隊で転戦したが、日本に帰ったのはわずか8名のみであった。
<少年砲兵の碑>
3.千代田宮跡
砲兵学校のなかに、明治天皇を祀った千代田宮があったが、現在は中央公園に「奉納」の字だけ認識できる石碑がある。殆ど注目されないような場所に放置されており、なにやら字を削った跡もある。
参考文献:
陸上自衛隊高射学校「下志津原」(1976)
『千葉県の戦争遺跡をあるく』 千葉歴史教育協議会 (2004)
協力:「愛国の花」花ちゃんブログ作者