千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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柏市の戦争遺跡4(「柏の軍事基地と幻の戦闘機・秋水」講演会で実験隊員の話を聞く)

2007-11-04 | 柏市の戦争遺跡
2007年10月29日の日曜日、柏中央公民館で「柏の軍事基地と幻の戦闘機・秋水」と題された講演会があると親戚から聞き、出向いて聞いた。聴衆は9割以上が高齢者、中年以下の人は数名であった。小生も今回は補聴器のお世話にならずにすんだが、隣の同年代の老人は補聴器をしきりに触っていた。それはともかくとして。

基調講演は、國學院大学の栗田尚弥先生(日本近現代史、軍事史がご専門)が行った。栗田尚弥先生は柏市史編さん委員会参与でもある。

基調講演のレジュメでは、以下のようになっていた。
1.はじめに
2.国土防空の主張
  ①陸軍省軍務局「国土防空について」
  ②満州事変と空襲の懸念
  ③都市防空の主張
3.軍防空の充実と柏飛行場
  ①民防空の充実に向けて
  ②帝都防空飛行場の必要と柏飛行場
4.太平洋戦争と柏飛行場
  ①航空部隊の進出
  ②「国土防空作戦計画要綱」の策定
  ③「帝都」防空機構の改編
  ④通称「東京航空要塞」の成立
  ⑤B29の登場
  ⑥B29VS日本軍戦闘機
5.秋水登場
  ①メッサーシュミットから秋水へ
  ②陸軍の開発
  ③秋水部隊    

基調講演では、欧州大戦を機会に戦闘機が積極的に使われるようになり、日本でもいろいろ開発されたが、戦争末期にはドイツのメッサーシュミットをモデルとして、ロケット戦闘機秋水が開発され、それは犬猿の仲であった陸海軍の珍しい共同開発であり、陸軍柏飛行場はその秋水の基地となる予定であったことなどを述べられた。

このロケット戦闘機・秋水は航続時間が短く、3分で1万mの高度にまで上昇し、急降下でB29など敵機を迎撃する、その次に上昇する高度は7千mとなり、また急降下で敵を狙える、そして一度攻撃すれば滑空により着陸するというという。

<秋水の飛行方法>


またパネルディスカッションとして、柏飛行場で秋水の実験隊員として実際に活動されていた福田禮吉氏と百瀬博明氏が参加して、当時の状況が語られた。
福田氏、百瀬氏ともに、陸軍の特幹出身で1944年(昭和19年)8月15日入隊の同期とのことで、百瀬氏は第四航空教育隊で最初横田にいて、福生の陸軍航空審査部に移り、最終的に柏で秋水の実験に従事したとのこと。福田氏も福生から柏に来た人で、この人は「或る陸軍特別幹部候補生の一年間」(文芸社)という本も上梓されている。

<講演会の様子1、壇上左から栗田尚弥先生、福田禮吉氏、百瀬博明氏>


当時、秋水の開発は、エンジンを陸軍が、機体は海軍が開発し、両者を合体させて試験飛行し、実施部隊で飛ばす予定であった。
陸軍でロケットエンジンの開発テストをしていたのは、長野県の松本で今の松商学園がある場所にあたるという。一方、海軍で機体の開発をおこなっていたのは、横須賀市の追浜であった。

それまでに練習機秋草は出来ていたが、秋水の開発は難しいものであった。苦労したのは、ロケット戦闘機であるため、特別なロケット戦闘機用燃料が必要であるが、その燃料の扱いが難しかった。燃料は液体燃料で甲液(過酸化水素80%と安定剤の混合)と乙液(水化ヒドラジン、メタノール、水の混合溶液に微量の銅シアン化カリを添加)があり、両者を反応させて推力を得るというもの。特にオキシフルのような甲液の扱いが難しく、金属を溶かしてしまうため、常滑で陶製の燃料容器(甕)をつくらせた。
燃料を入れた甕は柏駅(引込線)まで貨車で運び、さらにトラックで運ぶ。
しかし、その甕を運ぶときなど、たまに液がこぼれることがあり、それが服につくとぼろぼろになり、手につくと皮膚の表面が溶けるのか白くなる。

<柏にて>


本物の秋水を飛ばすまでの間の準備として、飛行訓練としては我々が予科練でやったように、飛行機に索をつなぎグライダーを引っ張ってもらって、グライダーで飛ぶことはやったと百瀬氏が述べていた。秋水は一般の戦闘機とも違い、10分しかもたない燃料を使いつくし、滑空で降りてくるのだが、その際通常の飛行機より滞空時間が短い。

実際の飛行に際しては、ほかの多くの戦闘機とは違い、通常の車輪をつけておらず、ゴムタイヤを履いているのみで、離陸すると機体の重量を軽くするために脚を落とし、上昇、下降を繰り返し、滑空して着陸する際には腹から鉄製のソリを出してそれで着地する、だから着地するのは滑走路ではなく、地面が土の草地のようなものでなくてはならず、高度な技術を要するものである。

<講演会の様子2、壇上左から栗田尚弥先生、福田禮吉氏、百瀬博明氏>


実際の秋水に初めてエンジンをのせた試験飛行は、1945年(昭和20年)7月7日に海軍追浜にて飛行士(犬塚大尉)搭乗で行われたが、約300m飛んでロケットエンジン停止により着陸に失敗、機体は大破、操縦士犬塚大尉は重傷を負った(翌日死亡)。この大破した機が、当時完成した唯一の秋水であった。この失敗は、ロケットエンジン停止により、上昇後右旋回して不時着しようとしたが、機体の沈下速度が予想以上に速く、翼端が建物に接触、大破したというものである。それとは別に、1945年(昭和20年)8月、陸軍柏飛行場でも、伊藤大尉の操縦で、重滑空機試験飛行が行われたが、松の木に引っかかって墜落するという事故があり、伊藤大尉は重傷を負った。これは操縦士伊藤大尉が離陸直後にタイヤを落とさなかったこと、索の解除を誤ったことによるが、そもそも事前に勉強していっただろうが、十分な訓練ができていなかったのが要因だという。そして間もなく、秋水は一度も実施部隊での飛行を行うことなく、終戦となった。(2007.11.17訂正)

福田氏、百瀬氏は結局1年間の軍隊生活を殆ど、秋水のために費やしたわけであるが、秋水は幻のロケット戦闘機で終わった。その他、海軍の追浜からトラックに載せて陸路秋水を運んだ際に、空襲のあとで翼がどこかに引っかかり、両国駅で荷を直した話、米軍艦載機による空襲で仲間がなくなった話、戦闘機の掩体壕を掘った話、慰問団で轟由紀子が来て「お山の杉の子」を歌った話などがあった。轟由紀子など、久しぶりに名前を聞いた。
福田氏の話で、1945年(昭和20年)6月頃、流山の成顕寺で分宿した際に、沖縄出身の隊員が汗びっしょりで沖縄空手の稽古をしていたのは、あるいは涙をふるっていたのかもしれないというのが特に印象に残った。
実際に秋水の実験隊員の話を聞くのは初めてで、非常に興味深かった。
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