この軍歴は、あまり人に自慢できるものではない。太平洋戦争も終りに近づきつつあった、1943年(昭和18年)も押し詰まってきた頃、北関東の田舎町から一人の軍国少年が志願して海軍航空隊に入った。厳しい訓練の末、結局特攻に行くことなく終戦を迎えた。そして復員し、生活に追われながら、戦後を生きてきた、ただそれだけのことである。
海軍の場合、志願で入るのが普通である。というより、一時期を除いて徴兵して海軍に入れること自体しておらず、あまり応召して海軍に入ったという話も聞かない。
田舎の中学校では陸軍の配属将校(大尉)がいて、匍匐前進やら三八式歩兵銃の射撃の仕方やら軍事教練の時間があり、いつも絞られていた。その頃、家業であった商店はうまくいっておらず、上の学校には到底進めなくなった。私は普通であれば家の仕事を継ぐしかなかった。しかし、家業自体が立ちゆかなくっていた。商家に育った私は、特に軍人になりたい訳ではなかったのだが、その私に陸軍幼年学校を受けてみないかとすすめてくれたのは、中学校の配属将校である老大尉であった。しかし、へそ曲がりだった私は、陸軍幼年学校に行っても、さらに陸軍士官学校の本科に進まなくてはならない、それでは将校になるのにも時間がかかると思い、幼年学校は受験しなかった。暫くして、海軍の甲種飛行予科練を受けることにした。もちろん、海軍兵学校という選択肢もあったが、兵学校の入学資格は16歳からであり、中学に入ったばかりの私には、やはり手っ取り早い方法と思えなかった。
やがて、中学3年となった私は、父母にも相談せず、予科練の願書を取り寄せ、出来る限り丁寧に書いて提出した。そして勇躍志願して、身体検査・学科試験の第一次試験を受験した。海軍志願兵徴募区からの合格通知が郵送され、喜ぶ私を両親は寂しそうな顔で見ていた。私は、その通知のなかの「参著」という言葉がわからず、参拝とか、参上とかいうのだから、とにかく行くことだな、というようなことを考えていただけであった。そして、第二次検査は身体検査、適正検査ばかりで、性病の検査まで含まれていた。結局、かなりの難関を突破し、採用通知をもらったのは1943年(昭和18年)11月上旬ころであったか。
私は入隊の日を一日千秋の思いで待っていた。ところが、ある日、ふとしたことから、右手の人差し指を負傷した。もとより自分の不注意であったのだが、これがもとで操縦桿が握ることができなくなるでは、と子供心にも心配した。そして、行っては行けないところに行こうとしている自分を引き止める何かを感じた。今にして思えば、その傷は戦死するかもしれない自分を思いとどまらせようと、先祖がつけたのかもしれない。実際、なぜ若いお前が飛行兵なんぞになるのかと母は陰で泣いていたし、父も口には出さなかったが、同じ思いであったのだろう。
<今はすっかり新しくなった故郷近くの乗換駅>
いよいよ入隊となり、予科練要員は出身県別に配属先の航空隊へ進んでいった。途中「京」の字の腕章を巻いた集団に出くわした。私は京都の連中がなぜ、こんなところにいるのだろうと思ったが、よく見ると、東京の「東」という字が腕章の曲がった部分で隠れていたのだった。やはり、東京の連中はスマートだなと瞬間うらやましい気がした。丹波市駅を降り、待っていた下士官から自分の所属を聞き、その誘導で兵舎についたのだが、兵舎たるや普通の日本家屋の大きいものと言ってもいい。今でも地方に行くと、銭湯のような大きな日本家屋があることがあるが、ちょうどそんな感じで、少しも軍隊らしくない。海軍二等飛行兵となって、自分の家より大きな家に他の仲間と引っ越したようであった。
入隊した三重海軍航空隊奈良分遣隊は、実は今の奈良県天理市に広い教会や宿舎を持っていた天理教の宿舎を兵舎として活用したもので、逆にいえば利用可能な天理教の宿舎がたくさんあったために、そこに航空隊を開設したということになる。高野山航空隊も同様で、高野山の宿坊を兵舎とすることができたので、海軍航空隊にも関わらず、海から遠い内陸部の、それも山の中に航空隊をつくったわけである。
東の土浦航空隊と同様、三重航空隊本隊は予科練のメッカであったが、それに比べて奈良は貧弱で、練習機すらなく少しがっかりした。しかし、奈良が私の短い軍隊生活の出発点であった。
<予科練の碑>
海軍入隊のときに、いろいろな官給品よりも早く与えられたのが、兵籍番号。兵籍番号とは、例えば「横志飛一ニ三四五」という番号で、その個人を識別管理していた。その番号は、「横」で始まるものは、横須賀鎮守府に所属していることを表し、同様に「舞」であれば舞鶴鎮守府、「呉」なら呉鎮守府ということになる。ニ番目の「志」は志願兵、その次の「飛」は飛行科で飛行兵であることを示すが、これが「水」なら兵科で水兵、「機」は機関科、「工」は工作科を示すという具合である。その兵籍番号と氏名を官給品で貰った軍装やら衣嚢やら、私物を含めたありとあらゆるものに書くのが、軍隊に初めて入ったときにする作業といってもいいであろう。
どこの社会にもヒエラルキーはあるが、それは予科練の世界でも同様である。教官や先輩からも、ややもすれば鋭い罰直の鞭が飛んでくる。特にバッターの痛みは、経験したものでなければ分からないだろう。例えば、釦が外れていたとする。それを発見されるや、「貴様、予科練の七つ釦が要らないんだな」と、全ての釦をちぎられてしまうのだ。それは、声の出し方、話し方ひとつについても、同じで、声が小さければ、「聞こえん、やり直し」で何回も発声させられる。かわいそうなのは、地方出身者で訛りのあるもの。これは本人はまじめに言っているのに、わざと分からないふりをする。こうなると苛め以外の何物でもない。実際、意地の悪い先輩には、理由もなく殴るのは朝飯前、出身地や名前などにも何かと因縁をつけてはいびるのがいた。
<練習生駆け足!>
予科練の座学は、物理、化学、国語、漢文、地理、歴史、それに気象天測、通信(電信)などで、大体のものにはついていけた。特に、電信は得意であった。「イはイトー」とか覚え方があるのだが、そのまま聞いてモールス符号はすぐに覚えた。また、私は体格は大きくなかったが、田舎の中学で球技はやっていたので、大抵の訓練にもついていけた。訓練で困ったのは、直径2メートルくらいの鉄筋でできた大きな地球儀のような訓練具のなかにはいって、ぐるぐるまわるもの。これは目が回って仕方がない。降りてからも、目が回っている。棒倒しは傷だらけになる、一番スマートでない競技で、そちらも苦手であったが、球のなかよりまだましか。それから、陸戦。なんで海軍に陸戦の訓練が必要なのか、とも思ったが、海軍も陸にあがれば陸戦をしなければならない。
1944年(昭和19年)3月海軍上等飛行兵となった。同時に、操縦・偵察の区分けがあり、私は偵察となった。てっきり操縦にいくものと思っていたのに、偵察とは残念と何人かで話したが、分隊士は偵察の重要性を説き、特に二人乗り以上の搭乗機では偵察要員が機長になる、それで落胆するなど全くのお門違いだと言った。
偵察専修は、航法、無線通信、無線機の操作、写真撮影など、より専門的な座学で学ぶことになる。偵察分隊に配属されたと同時に兵舎もかわった。また、実際の訓練も含めて、鈴鹿などの別の航空隊にも足を運ぶこととなった。
1944年(昭和19年)11月には予科練偵察専修過程を卒業、飛練に進んだ。もう既に飛行兵長になっていた。但し自分としては、「帽振れ」で人を送り出す一方であった。
<鈴鹿海軍航空隊の点鐘台>
海軍で過ごした1年8ヶ月余りは、一体何だったのか。幸いにして、小生は特攻に出ることはなかった。1944年(昭和19年)9月には特攻兵器要員志願はあったが、志願しなかった。それは入隊の時、指に怪我をした際に感じた、生存本能のような、あの何ともいえないものが引き止めたのかもしれない。
グライダーには乗ったが、本当の飛行機には乗ることとてなく、名ばかりの飛行兵といえばいえる。しかし、回天や震洋の搭乗員になったのは三重海軍航空隊奈良分遣隊のものが多い。
1945年(昭和20年)3月、三重海軍航空隊奈良分遣隊は三重空から独立して、奈良海軍航空隊となった。その前にも続々と甲飛の入隊があり、自分達と同じように訓練を行っていった。歴史は繰り返すというが、短い期間で繰り返されるものだ。
そして、8月15日終戦。正午に重大放送があるとのことで、隊で整列させられ、「玉音放送」を聞いた。しかし、陸軍のなかの反乱軍が妨害電波を発していたために、途切れ途切れでよく聞こえなかった。終戦、日本は負けたと知ると、言い知れぬ脱力感に襲われ、これからどうなるか考えようにも、まったく予想ができなかった。やがて海軍省などから慰撫書が届き、海軍軍人は悉く武装解除、日本海軍は解体することとなった。軍艦旗は降下奉焼され、連日書類は焼却された。終戦の翌日、三重空では香良洲浜で予備学生(森崎湊少尉候補生)が割腹自殺したという。ただ、東京で終戦直前に近衛師団、横浜警備隊などの反乱軍が、森近衛師団長を殺害し、首相官邸などを襲撃したようなことは関西では起こらなかったし、終戦直後もさほど大きな混乱はなかったと思う。
ともかくも、残務整理の一部要員を残して、一般の下士官・兵には復員命令が8月下旬には出ていた。自分も下士官に任官していたが、階級章を取った軍服を着たただの若者に戻ったのである。それにしても、寂しい復員帰郷であった。列車で帰郷する途中、近くの乗換駅で汽車がホームに入っているのに、悔しさとどの面下げて帰ることができるかという思いからベンチから立つことができず、尋常ならざる表情の小生を心配した親切な駅員さんに促されて汽車に乗り込んだ。故郷で待っていたのは、父母と兄夫婦のみ。友人は散り散りになり、近所の秀才といわれた中学の先輩は陸軍の見習士官としてボルネオで戦死していた。なによりも、東部軍38部隊にいた自分の従兄が、その時点で2年も前に中支で戦死していたのは、悲しかった。中国淅江省湯渓県の橋のたもとで戦死したとの公報は来ていたが、私の訓練にさしつかえると、わざと知らさなかったのだという。入隊以来、一度しか帰郷せず、その帰郷のさいにも従兄の家の人とは会わなかったので、分からなかった。今にして思えば、従兄の話題をみな出さないようにしていたのであろう。
親の勧めで、出身中学に復学したものの、昔のことが思い出されてならない。従兄の墓参りもしようと思いながら先送りしていたが、ある日意を決して従兄の墓のある隣村の山里の寺へ行った。
<故郷の家の近くにさく黄梅>
私は、「故陸軍伍長・・・」と位階勲等と俗名の書かれた、従兄の墓前に線香を供え、涙が止まらず。「天皇陛下の馬鹿野郎」と言って、泣いた。自分のなかで、軍隊の大元帥であった天皇、その天皇を支えていた一切の支配機構といったものは、自分の仇であり、いつか仇討ちをしなければ、死んでいった従兄にあいすまぬと思った。別に何かの思想を持っていたわけではなく、むしろ信念として仏の加護はわれにあり、悪しき天皇やその取り巻きは仏罰を受けるべしと自然と思ったのである。その日から、しばらくして上京し、そして建設会社の役員をしていた親戚の家に書生のような形で下宿して、中学の夜間部に通いながら東京で就職した。しばらくして大学受験資格をとり、大学に進み、経済の勉強をした。朝鮮戦争前の不況と朝鮮戦争特需の好況、民主運動の高まりの後、共産党の分裂による学生運動の種々の誤りなど、めまぐるしく変わる状況のもと、20代半ばにして大学を卒業すると、再度東京で就職した。
戦後はどちらかと言えば、戦争や軍隊のことは忘れようとしていたのかもしれない。日々の生活に追われ、特に高度成長時代には仕事も忙しく、やがて家庭をもった。そのうち、経済的にも安定してきたころ、ふと従兄の出征前の寂しげな表情が思い出され、なぜ戦争を日本人はやめることができなかったのか、あんな無謀な戦争をなぜ始めたのかを知りたいと思うようになった。もともと、戦後のカストリ雑誌にあるような暴露物は読んでいた。そして、四十の手習いで、井上清、藤原彰、大江志乃夫といった学者の書いた本を読むようになったのである。