千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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海軍第三一二航空隊(秋水隊)関連の聞き取り

2013-05-05 | Weblog

柏市で標記の聞き取りが去る3月後半に行われた。

これは手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会が行ったもので、聞き取りの相手は三一二空パイロットの元海軍中尉である。詳しくは同会から今後何らかの発信があるかもしれないが、生存者が少なくなっている現在、貴重な体験談といえる。

 

<三菱重工名古屋航空・宇宙システム製作所にある秋水>

 秋水

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足利学校孔子廟にある提督手植えの月桂樹

2012-05-05 | Weblog

先日、天気は小雨が降っていたが、それほどでもなく、体調も良かったので、久しぶりに足利まで行ってきた。足利といえば、世間の人はフラワーパークに行く人が多いが、駅から歩いて行ける距離の場所で、史跡がいくつかある。 今では想像できないかもしれないが、足利の人は、足利尊氏は逆賊だという皇国史観のねじ曲がった考え方から、戦時中など肩身の狭い思いをしたらしい。軍隊では足利出身だというだけで、古参兵から殴られたり、足利尊氏と関係のある寺などは、逆賊の寺と言われたりしたそうだ。
足利にある史跡で、有名なのはなんといっても足利学校である。足利学校自体が国の指定史跡で、国宝になっているものも含め、貴重な書物も沢山所蔵している。ちかくにある鑁阿寺も、国の史跡である。

<足利学校の門>

足利学校は、日本最古の学校といわれるが、その歴史が明らかになるのは室町時代の1439年(永享11年)関東管領であった上杉憲実が、鎌倉円覚寺から僧快元を招いて初代の庠主として経営にあたらせ、書籍を納めるなどして学校を再興してからというが、遠くフランシスコ・ザビエルなどの宣教師たちの記録にも出てくる、当時としては有名なアカデミックな場所であった。

実は、この足利学校に海軍の「有名人」が植えた月桂樹の木がある。「文」の象徴である足利学校と「武」の海軍とでは余り頭の中で結びつかないが、別に軍人だからといって、こうした場所に植樹してはいけないという法もあるまい。

<足利学校の玄関附近で>

学問といえば、儒学が中心だったのは、江戸時代もそれ以前もあまり変わるまい。儒学といえば勿論尊崇されていたのは孔子であり、東京では湯島聖堂などが有名であるが、やはり足利学校にも孔子廟がある。
孔子廟は、聖廟とも呼ばれ孔子を祀ってある廟である。足利学校では江戸時代前期の1668年(寛文8年)に足利学校第13世庠主伝英元教の時に造営された。
扁額「大成殿」は有栖川宮織仁親王の子で、のちに京都知恩院門跡となった尊超法親王の書である。

<足利学校にある孔子廟>

ところで、この孔子廟の入口をはいり、向かって左側に、東郷平八郎が植樹した月桂樹があり、廟堂をはさんで向かって右側には伊東祐亨、上村彦之丞が植えた月桂樹がある。この三人が植えた月桂樹の横にたつ立札には、それぞれの当時の官姓名と日付が書かれている。その日付は、どれも日露戦争後の1906年(明治39年)12月23日である。

<東郷平八郎の植えた月桂樹>

これは、三人が足利学校の孔子廟において、孔子とその高弟を祀る釋奠(せきてん)に参加した折に、日露戦争の勝利を記念して植樹したものである。
足利学校事務所によれば、その釋奠という式典で使う釋奠幕の前で撮った記念写真があるそうである。  

<伊東祐亨の植えた月桂樹(左)と上村彦之丞の植えた月桂樹(右)>

東郷平八郎は、連合艦隊司令長官として日本海海戦でバルチック艦隊を破った日露戦争の立役者であり、伊東祐亨は東郷と同じ薩摩出身で、大本営にあって海軍軍令部長、日露戦争当時元帥になった、上村彦之丞は第二艦隊司令長官であるが、実質的に日本海海戦の勝利をもたらした。それぞれが日露戦争当時の海軍を代表するような人物である。それが揃って、足利学校で植樹していたのだから面白い。

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予科練志願

2010-10-31 | Weblog


軍隊には、いわゆる兵隊ソングという歌があって、軍歌以上に歌われていた。それは替え歌であったり、独自に作られた歌で、兵隊の真情をあらわしたものが多い。なかには、本当にふざけたものや、くだらないもの、猥雑なものもあるが、総じて言えば、軍隊生活での喜怒哀楽をうたっている。

その中に、「お国の為とは言いながら 人の嫌がる軍隊に 志願で出てくる馬鹿もある 可愛いスーちゃんと泣きわかれ」という、『可愛いスーチャン』というのがある。その志願で出てきたのが、小生であり、小生の身内には何人か同様の者がいる。そもそも、海軍は一部応召のものもいることはいるが、基本的に志願兵ばかりである。

なぜ予科練を志願したかといえば、親父が日露戦争直後に陸軍に応召されたとき、模範兵と言われたにも関わらず、上等兵になれなかったことから、お前が志願したら上等兵などすぐになれるぞと言われたことや、学校に配属されていた陸軍大尉が軍隊(直接には陸軍幼年学校)にはいることをすすめてくれたことがあり、当時人気があった海軍予科練に憧れる、子供なりの判断があって海軍の予科練を志願したのである。

既に戦局には暗雲が立ち込めていた1943年、勇躍甲種飛行予科練を志願し、所定の手続きをして受けてみると、激しい倍率にも関わらず受かってしまった。参著先は、三重海軍航空隊奈良分遣隊。
しかし、喜んだあまり、山道を歩いているときに、手を野バラに引っ掛け、とげで指を怪我してしまった。
もし、この指の怪我が分ると、合格を取り消しになるかもしれないなどと心配した。
そんなころ、家に帰ると母が泣いている。それは小生が予科練に入り、死んでしまうかもしれない運命にあることからであった。その時はショックであった。

予科練に入る前、小生は親父にもし自分が死んだら、山の上に墓を建ててくれと言った。親父は、わかった、あそこはうちの地所ではないが、何とかすると言った。

いつの間にか、バラのとげでつくった指の傷は治っていた。

予科練に入ってからは、どこかで書いた通りである。
集団で奈良を目指す途中、東京の連中の整然とした隊列に出会い、たどり着いた奈良分遣隊の兵舎は、はたして航空隊の兵舎といえるかというような天理教の宿舎を利用したもの。奈良では練習機すらなく、操縦としては鳩ポッポというシミュレーターに乗るか、グライダーで滑空するか、そんな練習を繰り返したが、電信では個人の能力差がはっきりしていた。操偵別の発表があったとき、偵察となって落胆するものがいたが、小生は偵察となり、さらに電信員となることとなった。電信をやったことが、その後の人生にも大きく影響したのだが、その時はまったく予期していなかった。

奈良空にいる間にも、戦局はいよいよ厳しくなり、日本の敗色は濃厚になった。私も実施部隊に配属された。折りしも東京、名古屋、大阪などで大空襲があり、多くの無辜の市民がなくなった。三重から近い名古屋には1945年(昭和20年)5月、6月と主に熱田地区を狙った大きな空襲があり、名古屋の市街が燃える火が三重空からも見えたという。

1945年(昭和20年)8月15日、日本は連合国に対して無条件降伏した。私のいた航空隊でも、正午に重大放送があるとのことで、隊で整列させられ、「玉音放送」を聞いた。しかし、陸軍のなかの反乱軍が妨害電波を発していたために、途切れ途切れでよく聞こえなかった。敗戦、日本は負けたと知ると、言い知れぬ脱力感に襲われ、これからどうなるか考えようにも、まったく予想ができなかった。やがて海軍省などから慰撫書が届き、海軍軍人は悉く武装解除、日本海軍は解体することとなった。軍艦旗は降下奉焼され、連日書類は焼却された。終戦の翌日、三重空では香良洲浜で予備学生(森崎湊少尉候補生)が割腹自殺したという。ただ、東京で終戦直前に近衛師団、横浜警備隊などの反乱軍が、森近衛師団長を殺害し、首相官邸などを襲撃したようなことは首都圏以外では起こらなかったし、終戦直後もさほど大きな混乱はなかったと思う。ただ、山にこもるなどといって、息巻いていた若い士官たちがいた。
ある人は、白子浜でのんびり海水浴をしたというが、本当だろうか。そこまでのんびりした状況ではなかったと思う。

終戦と同時くらいのころに多摩川鉄橋で列車同士が正面衝突する事故があった。かなりの大事件ではあったが、その前にそれ以上の大きな敗戦ということがあったのに、なぜそんなことを覚えていたのだろうか。小生のいた航空隊も武装解除をうけ、一部要員は残務整理、その他は解員することとなったが、当時まだ部隊にいるにはいた。

解員帰郷、それはつらいものであった。両親は暖かく迎えてくれたが、戦死した身内や先輩、友たちに、どの面さげてという気はあった。

今にして思えば、予科練にはいる直前に指の怪我をしたのは、小生を軍隊に入れまいとした不思議な力のせいかもしれない。両親をはじめ、殆どの身内が鬼籍にはいり、小生ももうそろそろお迎えがくるころである。

最近、入っているMLに訳の分らん投稿が多く、辟易しているが、戦争体験者の体験は部分的、断片的とはいえ、戦争の一面を語っていることを若い人にも理解してほしい。

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手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会”4/29講演会”のお知らせ

2010-03-20 | Weblog
以前、森-CHANを通じて戦争遺跡の写真を貸したこともある手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会が以下の講演会を行うそうである。

---以下、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会からの案内---

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会 4/29講演会
 
「保存運動と歴史から見た東葛の城と松ヶ崎城」




・会場:柏市柏5丁目8-12(教育福祉会館内) 中央公民館5F 講堂
・日程:2010年4月29日(木・祝日) 13時30分から (13時開場)
・テーマ:「保存運動と歴史からみた東葛の城と松ヶ崎城」
・講師:郷土史研究家 田嶋昌治氏 (北小金在住)
・参加費:300円(資料代)
・その他:講演会会場周辺では、松ヶ崎不動尊の絵馬写真なども展示予定。

市民が里親となり、河津桜やこぶし、桃、山もみじなど樹木の植樹がされた
松ヶ崎城跡。歴史を楽しみ文化財を守り市民の憩いの場とするには?

主催 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会 
問い合わせ先  柳沢 04-7131-0922

【講師 田嶋昌治氏の紹介】
長年都立高校で教鞭をとられた後、東葛の地域史研究家として活躍。
文化財保護にも一家言もたれている。北小金在住。
 著書「地域の歴史発見―歩き聞き調べる。」崙書房出版

---ここまで---

なお、写真は去年6月の見学会のときのもの。撮影者から借用した。

この手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会では、歴史の勉強会?のようなことを4月以降やっていくとのことで、戦争遺跡もテーマの一つになるようだ。また写真や資料を貸し出すことがあるかもしれない。
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大阪で元海軍兵士証言の南京事件関連の集会

2009-12-06 | Weblog
大阪で南京事件の際に、実際に虐殺された市民の遺骸などを目撃した、元海軍兵士の証言や南京で父や弟を日本軍に殺害されたという中国人の証言を中心とした集会が12/5(土)に開催された。

その集会とは、「戦場の街・南京 -安全でなかった国際安全区- PM6:10開場 6:30開演 場所:エルおおさか南館 5Fホール 被害証言:楊翠英さん(当時12歳) 加害証言:三谷 翔さん 南京戦参加元兵士 講演:『程瑞芳日記』は語る 国際安全区で続発する性暴力 南京大虐殺60カ年全国連絡会 共同代表 松岡 環さん 主催:南京大虐殺60カ年大阪実行委員会」である。

元海軍兵士とは大阪府在住の三谷翔さん(90)。南京戦当時は、支那方面艦隊第三艦隊第十一戦隊 第二十四駆逐隊所属であったが、1937年12月17日から25日の間、南京城内の掃討後の死体の山、中山埠頭での虐殺現場を目撃した人である。最後の生き残り世代として、「ほんまに見たんや」と伝える責任があるから証言したいとのことで、今までは素顔を公開していなかったが、今回は素顔でとのこと。
南京事件で親兄弟を殺されたという、中国人のほうは、楊翠英(ヤン・チュイイン)さん(84)。

南京事件といっても、当時の少年の世代が80歳を越え、実際に虐殺に加わった兵士の証言は得にくくなっている。ちなみに、三谷さんも元軍人とはいえ、目撃者であって当事者ではない。しかし、今となっては貴重な証言といえる。

今回の集会で、三谷さんは長江停泊中の駆逐艦から見た、南京の河畔の虐殺での阿鼻叫喚の光景を語った。「殺害した兵士も、出征前はよき父であり、頼もしい青年だったはず。殺すか殺されるかの日々の中で、人間が壊れた。戦争こそ元凶だ」と語っている。

三谷さんは、既に何度か証言をしているようだ。三谷さんの「虐殺の光景、わが遺言 90歳元兵士『南京大虐殺』証言」(朝日新聞大阪本社版、3日夕刊)という記事は、以下をご参照方。

http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK200912030078.html

また、「南京大虐殺 60ヵ年全国連絡会」公式サイトは以下。

http://www.nankindaigyakusatu.com/

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船橋市小室にある慰霊碑

2009-07-24 | Weblog


船橋市小室は、今はやりのニュータウンの街となっているが、ここは実は鎌倉時代から続く古い集落である。そのなかに寺は、日蓮宗の本覚寺という寺がある。日蓮宗の寺は船橋市北部にも多く、この本覚寺も古い寺で、その名前も、鎌倉の日蓮宗の古刹、本覚寺と同じである。

船橋市小室は、今はやりのニュータウンの街となっているが、ここは実は鎌倉時代から続く古い集落である。そのなかに寺は、日蓮宗の本覚寺という寺がある。日蓮宗の寺は船橋市北部にも多く、この本覚寺も古い寺で、その名前も、鎌倉の日蓮宗の古刹、本覚寺と同じである。



この小室の本覚寺の墓地に、「大東亜戦争戦没者之霊」という慰霊碑がある。これは1956年(昭和31年)8月に遺族が建立したものである。碑の題字を揮毫したのは、極東国際軍事裁判で終身刑となり、1955年(昭和30年)に仮釈放となった元海軍大将の嶋田繁太郎である。

碑の裏には、海軍三人、陸軍五人の計八人の戒名と俗名、階級と一部の人は勲位、そのすべてに戦死の日付と場所が簡単に刻まれている。さらに、遺族の家の屋号も刻まれており、古き良き地域共同体の雰囲気が感じられる。

それをみると、いずれも1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)の戦没であり、戦没の古い順から、

海軍上等水兵 1944年(昭和19年)6月1日  中部太平洋方面で戦死
陸軍上等兵  1944年(昭和19年)8月18日 バシイ海峡で戦死
陸軍大尉   1944年(昭和19年)12月20日 フィリピン セレベス島で戦死
陸軍軍曹   1945年(昭和20年)1月2日  フィリピン ルソン島 リンガエ沿岸で戦死 
海軍二等兵曹 1945年(昭和20年)2月12日 フィリピン マニラ クラーク飛行場で戦死
海軍兵曹長  1945年(昭和20年)3月11日 フィリピン方面で戦死
陸軍兵長   1945年(昭和20年)6月10日 フィリピン ミンダナオ島で戦死 
陸軍上等兵  1945年(昭和20年)8月17日 中支方面で戦死

とあり、8人中6人がフィリピン方面で戦死、特に陸軍軍曹が1945年(昭和20年)1月フィリピン・ルソン島リンガエ沿岸で戦死しているが、当時米軍がリンガエ湾に強行上陸しており、その米軍との攻防でその軍曹は亡くなったと思われる。その軍曹が亡くなる直前にはセレベスで陸軍大尉が、また軍曹の亡くなった翌月、翌々月と海軍の二等兵曹、兵曹長が戦死しており、激戦がうかがわれる。

また、最後になくなった陸軍上等兵は、昭和天皇による終戦の放送があった後の戦死である。おそらく、終戦の報が届いていなかったのであろう。まったく、もう死ななくてもよかったのに、どういうことだろうか。

「大東亜戦争」という言葉や、揮毫の主に問題があったとしても、戦後遺族が建立した碑には、純粋な追悼の念が込められており、今後もなるべく紹介することとしたい。

この小室の本覚寺の墓地に、「大東亜戦争戦没者之霊」という慰霊碑がある。これは1956年(昭和31年)8月に遺族が建立したものである。碑の題字を揮毫したのは、極東国際軍事裁判で終身刑となり、1955年(昭和30年)に仮釈放となった元海軍大将の嶋田繁太郎である。

碑の裏には、海軍三人、陸軍六人の計八人の戒名と俗名、階級と一部の人は勲位、そのすべてに戦死の日付と場所が簡単に刻まれている。さらに、遺族の家の屋号も刻まれており、古き良き地域共同体の雰囲気が感じられる。

それをみると、いずれも1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)の戦没であり、戦没の古い順から、

海軍上等水兵 1944年(昭和19年)6月1日  中部太平洋方面で戦死
陸軍上等兵  1944年(昭和19年)8月18日 バシイ海峡で戦死
陸軍大尉   1944年(昭和19年)12月20日 フィリピン セレベス島で戦死
陸軍軍曹   1945年(昭和20年)1月2日  フィリピン ルソン島 リンガエ沿岸で戦死 
海軍二等兵曹 1945年(昭和20年)2月12日 フィリピン マニラ クラーク飛行場で戦死
海軍兵曹長  1945年(昭和20年)3月11日 フィリピン方面で戦死
陸軍兵長   1945年(昭和20年)6月10日 フィリピン ミンダナオ島で戦死 
陸軍上等兵  1945年(昭和20年)8月17日 中支方面で戦死

とあり、8人中6人がフィリピン方面で戦死、特に陸軍軍曹が1945年(昭和20年)1月フィリピン・ルソン島リンガエ沿岸で戦死しているが、当時米軍がリンガエ湾に強行上陸しており、その米軍との攻防でその軍曹は亡くなったと思われる。その軍曹が亡くなる直前にはセレベスで陸軍大尉が、また軍曹の亡くなった翌月、翌々月と海軍の二等兵曹、兵曹長が戦死しており、激戦がうかがわれる。

また、最後になくなった陸軍上等兵は、昭和天皇による終戦の放送があった後の戦死である。おそらく、終戦の報が届いていなかったのであろう。まったく、もう死ななくてもよかったのに、どういうことだろうか。

「大東亜戦争」という言葉や、揮毫の主に問題があったとしても、戦後遺族が建立した碑には、純粋な追悼の念が込められており、今後もなるべく紹介することとしたい。
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つくられた農民兵士像

2008-07-19 | Weblog


もう随分昔に「農民兵士論争」というのがあった。
それは、岩手県農村文化懇談会編『戦没農民兵士の手紙』(岩波新書、1961年7月)の理解をめぐる論争のことであり、有名な『きけわだつみのこえ』など学徒兵が残した手記、遺書と異なる、農民出身の兵士たちの手記や遺書にあらわれた、農民兵士の実像の理解をめぐっての論争である。

一般に農民は純朴で、生産者特有の健全な平和志向を持っているとされる。事実、『戦没農民兵士の手紙』には、そういう意識の横溢した文章が多く載せられている。
一方、農民兵士にとって、軍隊とは、その厳しい初年兵教育も既に農村では疑似体験済みであって、逆に貧しい農村とは違い、三度三度飯が食える、天国のような場所であり、それがゆえに農民を軍隊に志願までせしめた、という説がある。農民兵士が軍隊につよい憧れを抱き、志願をするものもいた根本的な原因は、『戦没農民兵士の手紙』編者によれば農民の「底知れぬ生活の貧しさ」にあるとされている。

しかしながら、一律に農民兵士を論じることは危険であり、正しく捉えることにならない。軍隊という鋳型にはまった古年兵、さらには下士官といった人々は、当然ながら初年兵とは意識が異なるし、農民兵士の出身階層も自作、小作の区別がまずあり、自作でも広大な田畑をもつ村の有力者から、零細な自作農まで種々あったわけである。『戦没農民兵士の手紙』でも、戦死時准尉にまで昇進していた26歳の青年の手紙を、「つたない」農民兵士の手紙として紹介するなどの誤りをおかしている。26歳で准尉になるなど、下士候、乙幹でも相当優秀でなければありえないし、そういう兵士が無学であったはずがなく、軍隊内でも模範的な者であったことは間違いない。

現代でも、農民兵士を一律に捉え、戦前、戦中の農村が貧しかったがゆえに、彼らにとって軍隊は天国であった、安堵の地であったということをいう人がいる。しかし、そうではなかったことは、『戦没農民兵士の手紙』のなかでも、自分が出征している間、故郷の田畑での農作業を気遣い、親兄弟を心配するものが種々収録されていることが、その証拠となろう。

あるメーリングリストで小生が投稿した文章を以下に掲げる。

「森兵男です。小生も、この意見に同意できません。

小生自身は志願兵で、農民出身ではありませんが、小生のいとこで陸軍に応召して中国戦線で戦死した者の実家は農家でした。一度召集解除になり、太平洋戦争が始まってすぐに再応召した伍勤上等兵で、1942年(昭和17年)に死んで本当の伍長になったのですが、もともと軍隊には行きたくなかったようです。
志願した小生のような者も、元は普通の中学生ですので、軍隊に安堵していたわけでないのは事実で、海軍の甲飛予科練の先輩連中では、募集時に兵学校に準ずると聞いてきたのに、その待遇がスペアそのものであったため、海軍に騙されたと思った人が少なからずいました。

むやみに殴る上官や薬莢をなくして縊死した兵隊の話のほうは、よく分かりますが、農村出身がゆえに軍隊が安堵の地というのは実感として分かりません。下級の兵士は酒保で一日にタバコなどの買い物を何度かすればなくなってしまうほどの薄給でしたし、農民出身者は自分が兵隊にとられて田畑はどうなっているか、残された家族の生活はどうかなど、心配でしかたなかったと思います。」

なお、そのメーリングリストでは、何人かの軍隊経験者が「農民兵士にとって軍隊は安堵の地」というのに反対し、なかには「馬鹿にするな」というような強い論調で書いていた人もいるのに対して、その意見に賛成なのは軍隊経験のないひとばかりであった。
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「野党は文句ばかり」ではなく「安倍首相は嘘ばかり」

2007-04-15 | Weblog
首相「野党は文句ばかり」と批判 福島遊説で、鳩山氏と火花(共同通信) - goo ニュース

gooニュースに以下の記事が載っていた。

「首相『野党は文句ばかり』と批判 福島遊説で、鳩山氏と火花
2007年4月14日(土)19:54 (共同通信)

 安倍晋三首相は14日、参院福島、沖縄両選挙区補選の告示後初めて遊説、福島県内4カ所で街頭演説した。民主党の鳩山由紀夫幹事長も同県内を回り、火花を散らした。首相は福島市で『野党は格差、格差と文句を言うばかり』と民主党などを厳しく批判、構造改革を推進し景気底上げを図る路線の正当性を訴えた。格差問題について『フリーターらが正規の職に就けるよう再チャレンジ支援を進めていく』と表明。」

その格差を放置、助長してきたのは、お前さんがたではないのかい。不公正税制は正されるどころか、ますますひどくなっている。消費税という低所得者に不利な税については税率アップが過去にされたし、今後もされようとしている。
それを民主党などの野党にあたるのは、お門違いも良い所。このように、この安倍という人間は、論理的思考力が欠落しているのではないか。

「慰安婦の強制がなかった」とか、そもそも軍が慰安婦の募集や移送、慰安所の設営、管理にいたるまで関わっているのに、「軍は慰安婦と一切関係ございません、だから慰安婦の補償なんか一切関知しません」と嘘八百並べているのは、自分の方じゃないか。

「野党は文句ばかり」ではなく、「安倍首相は嘘ばかり」である。

カルト安倍よ、統一協会と関係がないというなら、その証拠を出してみよ。嘘ばかり言うな、卑怯者!

<写真は陸軍南支派遣軍有田部隊が広東・恵州で撮影した中国人の行商人>
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ある海軍飛行兵の手記

2007-04-01 | Weblog
この軍歴は、あまり人に自慢できるものではない。太平洋戦争も終りに近づきつつあった、1943年(昭和18年)も押し詰まってきた頃、北関東の田舎町から一人の軍国少年が志願して海軍航空隊に入った。厳しい訓練の末、結局特攻に行くことなく終戦を迎えた。そして復員し、生活に追われながら、戦後を生きてきた、ただそれだけのことである。

海軍の場合、志願で入るのが普通である。というより、一時期を除いて徴兵して海軍に入れること自体しておらず、あまり応召して海軍に入ったという話も聞かない。
田舎の中学校では陸軍の配属将校(大尉)がいて、匍匐前進やら三八式歩兵銃の射撃の仕方やら軍事教練の時間があり、いつも絞られていた。その頃、家業であった商店はうまくいっておらず、上の学校には到底進めなくなった。私は普通であれば家の仕事を継ぐしかなかった。しかし、家業自体が立ちゆかなくっていた。商家に育った私は、特に軍人になりたい訳ではなかったのだが、その私に陸軍幼年学校を受けてみないかとすすめてくれたのは、中学校の配属将校である老大尉であった。しかし、へそ曲がりだった私は、陸軍幼年学校に行っても、さらに陸軍士官学校の本科に進まなくてはならない、それでは将校になるのにも時間がかかると思い、幼年学校は受験しなかった。暫くして、海軍の甲種飛行予科練を受けることにした。もちろん、海軍兵学校という選択肢もあったが、兵学校の入学資格は16歳からであり、中学に入ったばかりの私には、やはり手っ取り早い方法と思えなかった。
やがて、中学3年となった私は、父母にも相談せず、予科練の願書を取り寄せ、出来る限り丁寧に書いて提出した。そして勇躍志願して、身体検査・学科試験の第一次試験を受験した。海軍志願兵徴募区からの合格通知が郵送され、喜ぶ私を両親は寂しそうな顔で見ていた。私は、その通知のなかの「参著」という言葉がわからず、参拝とか、参上とかいうのだから、とにかく行くことだな、というようなことを考えていただけであった。そして、第二次検査は身体検査、適正検査ばかりで、性病の検査まで含まれていた。結局、かなりの難関を突破し、採用通知をもらったのは1943年(昭和18年)11月上旬ころであったか。
私は入隊の日を一日千秋の思いで待っていた。ところが、ある日、ふとしたことから、右手の人差し指を負傷した。もとより自分の不注意であったのだが、これがもとで操縦桿が握ることができなくなるでは、と子供心にも心配した。そして、行っては行けないところに行こうとしている自分を引き止める何かを感じた。今にして思えば、その傷は戦死するかもしれない自分を思いとどまらせようと、先祖がつけたのかもしれない。実際、なぜ若いお前が飛行兵なんぞになるのかと母は陰で泣いていたし、父も口には出さなかったが、同じ思いであったのだろう。

<今はすっかり新しくなった故郷近くの乗換駅>



いよいよ入隊となり、予科練要員は出身県別に配属先の航空隊へ進んでいった。途中「京」の字の腕章を巻いた集団に出くわした。私は京都の連中がなぜ、こんなところにいるのだろうと思ったが、よく見ると、東京の「東」という字が腕章の曲がった部分で隠れていたのだった。やはり、東京の連中はスマートだなと瞬間うらやましい気がした。丹波市駅を降り、待っていた下士官から自分の所属を聞き、その誘導で兵舎についたのだが、兵舎たるや普通の日本家屋の大きいものと言ってもいい。今でも地方に行くと、銭湯のような大きな日本家屋があることがあるが、ちょうどそんな感じで、少しも軍隊らしくない。海軍二等飛行兵となって、自分の家より大きな家に他の仲間と引っ越したようであった。

入隊した三重海軍航空隊奈良分遣隊は、実は今の奈良県天理市に広い教会や宿舎を持っていた天理教の宿舎を兵舎として活用したもので、逆にいえば利用可能な天理教の宿舎がたくさんあったために、そこに航空隊を開設したということになる。高野山航空隊も同様で、高野山の宿坊を兵舎とすることができたので、海軍航空隊にも関わらず、海から遠い内陸部の、それも山の中に航空隊をつくったわけである。
東の土浦航空隊と同様、三重航空隊本隊は予科練のメッカであったが、それに比べて奈良は貧弱で、練習機すらなく少しがっかりした。しかし、奈良が私の短い軍隊生活の出発点であった。

<予科練の碑>


海軍入隊のときに、いろいろな官給品よりも早く与えられたのが、兵籍番号。兵籍番号とは、例えば「横志飛一ニ三四五」という番号で、その個人を識別管理していた。その番号は、「横」で始まるものは、横須賀鎮守府に所属していることを表し、同様に「舞」であれば舞鶴鎮守府、「呉」なら呉鎮守府ということになる。ニ番目の「志」は志願兵、その次の「飛」は飛行科で飛行兵であることを示すが、これが「水」なら兵科で水兵、「機」は機関科、「工」は工作科を示すという具合である。その兵籍番号と氏名を官給品で貰った軍装やら衣嚢やら、私物を含めたありとあらゆるものに書くのが、軍隊に初めて入ったときにする作業といってもいいであろう。

どこの社会にもヒエラルキーはあるが、それは予科練の世界でも同様である。教官や先輩からも、ややもすれば鋭い罰直の鞭が飛んでくる。特にバッターの痛みは、経験したものでなければ分からないだろう。例えば、釦が外れていたとする。それを発見されるや、「貴様、予科練の七つ釦が要らないんだな」と、全ての釦をちぎられてしまうのだ。それは、声の出し方、話し方ひとつについても、同じで、声が小さければ、「聞こえん、やり直し」で何回も発声させられる。かわいそうなのは、地方出身者で訛りのあるもの。これは本人はまじめに言っているのに、わざと分からないふりをする。こうなると苛め以外の何物でもない。実際、意地の悪い先輩には、理由もなく殴るのは朝飯前、出身地や名前などにも何かと因縁をつけてはいびるのがいた。

<練習生駆け足!>


予科練の座学は、物理、化学、国語、漢文、地理、歴史、それに気象天測、通信(電信)などで、大体のものにはついていけた。特に、電信は得意であった。「イはイトー」とか覚え方があるのだが、そのまま聞いてモールス符号はすぐに覚えた。また、私は体格は大きくなかったが、田舎の中学で球技はやっていたので、大抵の訓練にもついていけた。訓練で困ったのは、直径2メートルくらいの鉄筋でできた大きな地球儀のような訓練具のなかにはいって、ぐるぐるまわるもの。これは目が回って仕方がない。降りてからも、目が回っている。棒倒しは傷だらけになる、一番スマートでない競技で、そちらも苦手であったが、球のなかよりまだましか。それから、陸戦。なんで海軍に陸戦の訓練が必要なのか、とも思ったが、海軍も陸にあがれば陸戦をしなければならない。

1944年(昭和19年)3月海軍上等飛行兵となった。同時に、操縦・偵察の区分けがあり、私は偵察となった。てっきり操縦にいくものと思っていたのに、偵察とは残念と何人かで話したが、分隊士は偵察の重要性を説き、特に二人乗り以上の搭乗機では偵察要員が機長になる、それで落胆するなど全くのお門違いだと言った。
偵察専修は、航法、無線通信、無線機の操作、写真撮影など、より専門的な座学で学ぶことになる。偵察分隊に配属されたと同時に兵舎もかわった。また、実際の訓練も含めて、鈴鹿などの別の航空隊にも足を運ぶこととなった。
1944年(昭和19年)11月には予科練偵察専修過程を卒業、飛練に進んだ。もう既に飛行兵長になっていた。但し自分としては、「帽振れ」で人を送り出す一方であった。

<鈴鹿海軍航空隊の点鐘台>


海軍で過ごした1年8ヶ月余りは、一体何だったのか。幸いにして、小生は特攻に出ることはなかった。1944年(昭和19年)9月には特攻兵器要員志願はあったが、志願しなかった。それは入隊の時、指に怪我をした際に感じた、生存本能のような、あの何ともいえないものが引き止めたのかもしれない。

グライダーには乗ったが、本当の飛行機には乗ることとてなく、名ばかりの飛行兵といえばいえる。しかし、回天や震洋の搭乗員になったのは三重海軍航空隊奈良分遣隊のものが多い。

1945年(昭和20年)3月、三重海軍航空隊奈良分遣隊は三重空から独立して、奈良海軍航空隊となった。その前にも続々と甲飛の入隊があり、自分達と同じように訓練を行っていった。歴史は繰り返すというが、短い期間で繰り返されるものだ。

そして、8月15日終戦。正午に重大放送があるとのことで、隊で整列させられ、「玉音放送」を聞いた。しかし、陸軍のなかの反乱軍が妨害電波を発していたために、途切れ途切れでよく聞こえなかった。終戦、日本は負けたと知ると、言い知れぬ脱力感に襲われ、これからどうなるか考えようにも、まったく予想ができなかった。やがて海軍省などから慰撫書が届き、海軍軍人は悉く武装解除、日本海軍は解体することとなった。軍艦旗は降下奉焼され、連日書類は焼却された。終戦の翌日、三重空では香良洲浜で予備学生(森崎湊少尉候補生)が割腹自殺したという。ただ、東京で終戦直前に近衛師団、横浜警備隊などの反乱軍が、森近衛師団長を殺害し、首相官邸などを襲撃したようなことは関西では起こらなかったし、終戦直後もさほど大きな混乱はなかったと思う。

ともかくも、残務整理の一部要員を残して、一般の下士官・兵には復員命令が8月下旬には出ていた。自分も下士官に任官していたが、階級章を取った軍服を着たただの若者に戻ったのである。それにしても、寂しい復員帰郷であった。列車で帰郷する途中、近くの乗換駅で汽車がホームに入っているのに、悔しさとどの面下げて帰ることができるかという思いからベンチから立つことができず、尋常ならざる表情の小生を心配した親切な駅員さんに促されて汽車に乗り込んだ。故郷で待っていたのは、父母と兄夫婦のみ。友人は散り散りになり、近所の秀才といわれた中学の先輩は陸軍の見習士官としてボルネオで戦死していた。なによりも、東部軍38部隊にいた自分の従兄が、その時点で2年も前に中支で戦死していたのは、悲しかった。中国淅江省湯渓県の橋のたもとで戦死したとの公報は来ていたが、私の訓練にさしつかえると、わざと知らさなかったのだという。入隊以来、一度しか帰郷せず、その帰郷のさいにも従兄の家の人とは会わなかったので、分からなかった。今にして思えば、従兄の話題をみな出さないようにしていたのであろう。
親の勧めで、出身中学に復学したものの、昔のことが思い出されてならない。従兄の墓参りもしようと思いながら先送りしていたが、ある日意を決して従兄の墓のある隣村の山里の寺へ行った。

<故郷の家の近くにさく黄梅>


私は、「故陸軍伍長・・・」と位階勲等と俗名の書かれた、従兄の墓前に線香を供え、涙が止まらず。「天皇陛下の馬鹿野郎」と言って、泣いた。自分のなかで、軍隊の大元帥であった天皇、その天皇を支えていた一切の支配機構といったものは、自分の仇であり、いつか仇討ちをしなければ、死んでいった従兄にあいすまぬと思った。別に何かの思想を持っていたわけではなく、むしろ信念として仏の加護はわれにあり、悪しき天皇やその取り巻きは仏罰を受けるべしと自然と思ったのである。その日から、しばらくして上京し、そして建設会社の役員をしていた親戚の家に書生のような形で下宿して、中学の夜間部に通いながら東京で就職した。しばらくして大学受験資格をとり、大学に進み、経済の勉強をした。朝鮮戦争前の不況と朝鮮戦争特需の好況、民主運動の高まりの後、共産党の分裂による学生運動の種々の誤りなど、めまぐるしく変わる状況のもと、20代半ばにして大学を卒業すると、再度東京で就職した。

戦後はどちらかと言えば、戦争や軍隊のことは忘れようとしていたのかもしれない。日々の生活に追われ、特に高度成長時代には仕事も忙しく、やがて家庭をもった。そのうち、経済的にも安定してきたころ、ふと従兄の出征前の寂しげな表情が思い出され、なぜ戦争を日本人はやめることができなかったのか、あんな無謀な戦争をなぜ始めたのかを知りたいと思うようになった。もともと、戦後のカストリ雑誌にあるような暴露物は読んでいた。そして、四十の手習いで、井上清、藤原彰、大江志乃夫といった学者の書いた本を読むようになったのである。
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