あまり知られていないが、流山市にも陸軍の大規模な糧秣廠(兵員や軍馬の食糧を保管、供給する軍の施設)があった。場所は、現在の総武流山電鉄の平和台駅の南西にあたる。終戦時の正式名称は陸軍糧秣本廠流山出張所というが、馬糧すなわち軍馬の糧秣を保管、供給することを任務としていた。その敷地は、南北約350m、東西は上底約260m、下底約390mの台形をなしており、終戦後は北側はキッコーマンの倉庫群(現在はイトーヨーカドー)、南側は住宅や学校敷地となって、出張所というイメージと異なる広い敷地を持っていた。
<1974年当時の航空写真にみる流山糧秣廠跡>

(なお航空写真は国土交通省の1974年撮影のもの、着色・字入れは筆者)
もとは陸軍馬糧倉庫として東京本所錦糸堀にあったのだが、付近に人家が増え、火災の危険もあるとのことで、1922年(大正11年)に本所秣倉庫移転が起案され、移転先として流山が選ばれた。なぜ、流山かといえば、千葉・茨城という干草原料の生産地をひかえ、江戸川の水運も利用できるという交通の利便性や、比較的東京に近いという地理的条件もあった。実際に流山で開庁したのは、1925年(大正14年)である。「秣倉庫移転」ということで開設されたが、当初からここで馬糧製造も役割として含まれており、「秣倉庫」という名称の業務の内容は少しく異なっていた。
<キッコーマンが建てた「流山糧秣廠跡」の碑>

なお、1941年(昭和16年)当時の設備は、倉庫が20あったほか、携帯馬糧工場、圧搾梱包工場、事務室、秤貫所、守衛所などがあった。変わったところでは、敷地内に保育所があり、当時としては珍しく福利厚生に対する配慮がみられた。また、水路や、引込線も設けられていた。この引込線については、今でもかすかにその名残をみることができる。さらに、千草稲荷が敷地内にあり、朝礼などの儀式は千草稲荷の前で行われた。
ここで働いていた人員は開庁時33名であったが、終戦当時は513名で、所長以下10名ほどの軍人と技術者、監督者などである少人数の軍属以外は、大多数の民間人からなる職員たちであった。
ここでは馬糧製造、貯蔵や干草の加工などを行ない、糧秣を近衛第一師団隷下の各部隊や宮内省警視庁に供給した。また、1933年(昭和8年)頃には、馬糧に関する各種の試験が行われ、糧秣の研究開発、生産という役割を中心を流山糧秣廠が担っていたことが分かる。
<現在の千草稲荷>

原料である干草の納入元は、関東、中部で、最も遠い納入元は甲府だったという。その運搬には流山鉄道や常磐線だけでなく、江戸川の水運も利用された。糧秣本廠東京出張所(芝浦)への糧秣の供給は、江戸川の水運が用いられたが、各部隊への供給には鉄道が主に用いられたようである。江戸川の水運を使った輸送では、現・流山5丁目地先の江戸川河畔の流山揚水機場が利用され、そこには「ガラガラ」と称される架空輸送機があって、原料である干草を荷揚し、トロッコに載せるなど、舟運の荷役に用いられた。
なお、敗戦後は、残務整理していた80名ほどの職員ともども、流山糧秣廠の設備、敷地は運輸省(国鉄)に移管された。そして鉄道用品庫として利用されていたが、1952年(昭和27年)3月の国鉄改革後は大蔵省の所管となり、キッコーマンといった民間会社などに払い下げられた。
こうして昭和50年代までは、キッコーマンの倉庫などとして、かつての流山糧秣廠の倉庫が残っていたが、キッコーマンなどが移転したあとは大型スーパー(イトーヨカドー)などの建物が建っており、かつての面影はない。
<道路と少しずれているが、引込線跡>

付記:
流山糧秣廠の引込線が柏陸軍飛行場の辺りまで続いていたという話とか、終戦前に糧秣本廠から持ち込まれた「特殊物品」の話、また流山にあったという慰安所などについては、今回調査しきれずに記載していない。もし分れば後日追記したい。
参考文献 『流山糧秣廠』 流山市立博物館 (1996)
<1974年当時の航空写真にみる流山糧秣廠跡>

(なお航空写真は国土交通省の1974年撮影のもの、着色・字入れは筆者)
もとは陸軍馬糧倉庫として東京本所錦糸堀にあったのだが、付近に人家が増え、火災の危険もあるとのことで、1922年(大正11年)に本所秣倉庫移転が起案され、移転先として流山が選ばれた。なぜ、流山かといえば、千葉・茨城という干草原料の生産地をひかえ、江戸川の水運も利用できるという交通の利便性や、比較的東京に近いという地理的条件もあった。実際に流山で開庁したのは、1925年(大正14年)である。「秣倉庫移転」ということで開設されたが、当初からここで馬糧製造も役割として含まれており、「秣倉庫」という名称の業務の内容は少しく異なっていた。
<キッコーマンが建てた「流山糧秣廠跡」の碑>

なお、1941年(昭和16年)当時の設備は、倉庫が20あったほか、携帯馬糧工場、圧搾梱包工場、事務室、秤貫所、守衛所などがあった。変わったところでは、敷地内に保育所があり、当時としては珍しく福利厚生に対する配慮がみられた。また、水路や、引込線も設けられていた。この引込線については、今でもかすかにその名残をみることができる。さらに、千草稲荷が敷地内にあり、朝礼などの儀式は千草稲荷の前で行われた。
ここで働いていた人員は開庁時33名であったが、終戦当時は513名で、所長以下10名ほどの軍人と技術者、監督者などである少人数の軍属以外は、大多数の民間人からなる職員たちであった。
ここでは馬糧製造、貯蔵や干草の加工などを行ない、糧秣を近衛第一師団隷下の各部隊や宮内省警視庁に供給した。また、1933年(昭和8年)頃には、馬糧に関する各種の試験が行われ、糧秣の研究開発、生産という役割を中心を流山糧秣廠が担っていたことが分かる。
<現在の千草稲荷>

原料である干草の納入元は、関東、中部で、最も遠い納入元は甲府だったという。その運搬には流山鉄道や常磐線だけでなく、江戸川の水運も利用された。糧秣本廠東京出張所(芝浦)への糧秣の供給は、江戸川の水運が用いられたが、各部隊への供給には鉄道が主に用いられたようである。江戸川の水運を使った輸送では、現・流山5丁目地先の江戸川河畔の流山揚水機場が利用され、そこには「ガラガラ」と称される架空輸送機があって、原料である干草を荷揚し、トロッコに載せるなど、舟運の荷役に用いられた。
なお、敗戦後は、残務整理していた80名ほどの職員ともども、流山糧秣廠の設備、敷地は運輸省(国鉄)に移管された。そして鉄道用品庫として利用されていたが、1952年(昭和27年)3月の国鉄改革後は大蔵省の所管となり、キッコーマンといった民間会社などに払い下げられた。
こうして昭和50年代までは、キッコーマンの倉庫などとして、かつての流山糧秣廠の倉庫が残っていたが、キッコーマンなどが移転したあとは大型スーパー(イトーヨカドー)などの建物が建っており、かつての面影はない。
<道路と少しずれているが、引込線跡>

付記:
流山糧秣廠の引込線が柏陸軍飛行場の辺りまで続いていたという話とか、終戦前に糧秣本廠から持ち込まれた「特殊物品」の話、また流山にあったという慰安所などについては、今回調査しきれずに記載していない。もし分れば後日追記したい。
参考文献 『流山糧秣廠』 流山市立博物館 (1996)