前にも紹介したが、陸軍境界標石は意外に街なかに残っているものだ。それは、思いもしない日常生活で使っている道路脇だったり、銀行のATMコーナーのそばであったり。これは、戦争遺跡というほど、大袈裟なものではないが、確かにその場所に旧軍施設や旧軍用地があったという証拠である。そういうものが、津田沼や津田沼を起点とする新京成線沿線あるいは大久保など京成線沿線の街角にあるということは、軍郷習志野ならではということかもしれない。
<昔新津田沼駅があった西友裏の線路沿い>

例えば、昔の新京成新津田沼駅があった西友裏の線路沿いにも四本ほどある。
以前、新津田沼駅の近くには、陸軍境界標石が線路際の骨董屋の並びの塀に二本、線路の反対側の道端に一本、骨董屋の南、線路脇の駐車場の塀に二本、自転車置き場の中に一つと合計六本あった。
ところが、最近見ると、線路脇にあったマンションを建て替えており、骨董屋の並びの塀にあった陸軍境界標石二本がなくなっていた。ごく短期間に、何十年もあったものがなくなっていく。
骨董屋のビルがある踏切のところから前原駅までの手前まで線路脇に小道がある。その線路脇の小道に面して長野土地建物の事務所があるが、そこから前原駅方面までの道沿いに最低三本ある。
何十年も前から歩いた道なのに、線路脇の路上にそうしたものがあることに気付かなかった。北側に昔国際製粉の木造の何階建てかの大きな建物があり、西側には小学校のある、その線路脇の道と藤崎台方面からの道が交差するところに踏切があり、四十年ほど前までは有人踏切であった。もっと前は警報器がなかった。
この踏切には、小生にとって、やるせない思い出がある。実は、この近くで戦後小生も世話になった、スラバヤ沖海戦、ミッドウエー作戦、レイテ沖夜戦などの歴戦の勇士の元海軍大尉K氏が事故死している。あれから、もう四十五年もたつのが信じられない気がする。戦後作家・軍事評論家となり、太宰治のような髪型をしていたが、気さくないい人だった。既に河出書房から本も上梓して、週刊誌に連載も決まった矢先の事故死。潜水艦乗りで数々の戦闘で生き残った人なのに、なぜ戦後になって鉄道事故で死んだのかと話したものである。お葬式には、多くの人が弔問に来ていたが、御親戚や近所の人以外に、仕事関係など様々な人が参列していた。
なくなるまで乗っていた愛車は、水色のスバル。残された奥さんと子供は、その後どうしたのか、しばらくは前の家にいたようだが、今は元の住所には住んでいない。確か、コロという名前だったと思うが、K氏は柴犬を飼っていて、その犬をよく散歩させていた。
小生には、その陸軍境界標石が、陸軍と海軍の違いはあるが、K氏の墓標のように思えた。K氏のご冥福を改めてお祈りする。
<元海軍大尉が事故死した踏切近くの陸軍境界標石>

新京成線になった鉄道連隊演習線関係のものでは、前原駅周辺、三咲駅周辺、初富駅周辺、常盤平駅北の住宅地、新八柱駅周辺などに陸軍境界標石がかたまってある場所がある。
前原駅近くでは、駅から見える塀に埋め込まれて一本、また附近の畑の中、線路沿いに三本並び、ほかに一本やや奥まった前原の寺、道入庵に近いところにあり、都合五本あることになる。
<前原駅近くの境界標石>

三咲駅周辺では、駅の南側線路沿いにあるが、お隣の滝不動駅のほうまで続いているかどうか、そこまで歩いていないので、今後調べてみたい。
<線路沿いの何気ない風景にある境界標石>

新京成線として、現在営業している路線以外に、かつての鉄道連隊の演習線が廃線となった跡にも、陸軍境界標石はある。前述の常盤平駅北の住宅街にある陸軍境界標石も、厳密には廃線跡にある。鉄道連隊のつくった陸軍演習線は、満州の地形を模しており、ところどころわざと屈曲させるなどしているため、戦後京成電鉄に払下げられてから、営業運転に適さない屈曲部分をショートカットしたために、新京成の常盤平と五香の間は従来の演習線の路線でなく、五香駅の北、金ヶ作交差点あたりから栗ヶ沢をへて、常盤平駅の北をかすめて、21世紀の森と広場の公園の東を通り、常盤平駅の西のあたりに出てくるのが、かつての演習線の路線であった。
だから、常盤平駅から、かなり離れた北側の栗ヶ沢の住宅地などに、廃線跡が断続的に見られ、そこに陸軍境界標石群がある。
<常盤平駅のはるか北に散在する境界標石>

境界標石も、街なかの銀行の前にあると、廃線跡が道路になったことを知らないと奇異に思うかもしれない。
習志野市大久保の京成大久保駅前のある銀行の前の路傍にも、陸軍境界標石があるのに、この間気がついた。今は「ハミングロード」としゃれた名前がついているが、その道も鉄道連隊の演習線が津田沼から千葉にむかって延びていた廃線跡である。戦後は、自衛隊が一時線路を使っていたようだ。
そのハミングロードも、銀行の前だけでなく、スーパーの店舗前にも、分りにくいが陸軍境界標石があり、大久保駅と京成津田沼駅の間の警察署がある辺りまで、点々と境界標石がある。
<銀行店舗前にもある陸軍境界標石>

京成大久保駅前のスーパーを過ぎると、住宅街も途切れ、畑が見えてくる。そのあたりは、朝夕ジョギングをする人や散歩する人がめだち、市民の憩いの場にもなっている。晩秋から冬は椿が咲き、春から初夏にかけてはアジサイや皐月なども咲く。
<市民の憩いの場にもなっているハミングロード>

<昔新津田沼駅があった西友裏の線路沿い>

例えば、昔の新京成新津田沼駅があった西友裏の線路沿いにも四本ほどある。
以前、新津田沼駅の近くには、陸軍境界標石が線路際の骨董屋の並びの塀に二本、線路の反対側の道端に一本、骨董屋の南、線路脇の駐車場の塀に二本、自転車置き場の中に一つと合計六本あった。
ところが、最近見ると、線路脇にあったマンションを建て替えており、骨董屋の並びの塀にあった陸軍境界標石二本がなくなっていた。ごく短期間に、何十年もあったものがなくなっていく。
骨董屋のビルがある踏切のところから前原駅までの手前まで線路脇に小道がある。その線路脇の小道に面して長野土地建物の事務所があるが、そこから前原駅方面までの道沿いに最低三本ある。
何十年も前から歩いた道なのに、線路脇の路上にそうしたものがあることに気付かなかった。北側に昔国際製粉の木造の何階建てかの大きな建物があり、西側には小学校のある、その線路脇の道と藤崎台方面からの道が交差するところに踏切があり、四十年ほど前までは有人踏切であった。もっと前は警報器がなかった。
この踏切には、小生にとって、やるせない思い出がある。実は、この近くで戦後小生も世話になった、スラバヤ沖海戦、ミッドウエー作戦、レイテ沖夜戦などの歴戦の勇士の元海軍大尉K氏が事故死している。あれから、もう四十五年もたつのが信じられない気がする。戦後作家・軍事評論家となり、太宰治のような髪型をしていたが、気さくないい人だった。既に河出書房から本も上梓して、週刊誌に連載も決まった矢先の事故死。潜水艦乗りで数々の戦闘で生き残った人なのに、なぜ戦後になって鉄道事故で死んだのかと話したものである。お葬式には、多くの人が弔問に来ていたが、御親戚や近所の人以外に、仕事関係など様々な人が参列していた。
なくなるまで乗っていた愛車は、水色のスバル。残された奥さんと子供は、その後どうしたのか、しばらくは前の家にいたようだが、今は元の住所には住んでいない。確か、コロという名前だったと思うが、K氏は柴犬を飼っていて、その犬をよく散歩させていた。
小生には、その陸軍境界標石が、陸軍と海軍の違いはあるが、K氏の墓標のように思えた。K氏のご冥福を改めてお祈りする。
<元海軍大尉が事故死した踏切近くの陸軍境界標石>

新京成線になった鉄道連隊演習線関係のものでは、前原駅周辺、三咲駅周辺、初富駅周辺、常盤平駅北の住宅地、新八柱駅周辺などに陸軍境界標石がかたまってある場所がある。
前原駅近くでは、駅から見える塀に埋め込まれて一本、また附近の畑の中、線路沿いに三本並び、ほかに一本やや奥まった前原の寺、道入庵に近いところにあり、都合五本あることになる。
<前原駅近くの境界標石>

三咲駅周辺では、駅の南側線路沿いにあるが、お隣の滝不動駅のほうまで続いているかどうか、そこまで歩いていないので、今後調べてみたい。
<線路沿いの何気ない風景にある境界標石>

新京成線として、現在営業している路線以外に、かつての鉄道連隊の演習線が廃線となった跡にも、陸軍境界標石はある。前述の常盤平駅北の住宅街にある陸軍境界標石も、厳密には廃線跡にある。鉄道連隊のつくった陸軍演習線は、満州の地形を模しており、ところどころわざと屈曲させるなどしているため、戦後京成電鉄に払下げられてから、営業運転に適さない屈曲部分をショートカットしたために、新京成の常盤平と五香の間は従来の演習線の路線でなく、五香駅の北、金ヶ作交差点あたりから栗ヶ沢をへて、常盤平駅の北をかすめて、21世紀の森と広場の公園の東を通り、常盤平駅の西のあたりに出てくるのが、かつての演習線の路線であった。
だから、常盤平駅から、かなり離れた北側の栗ヶ沢の住宅地などに、廃線跡が断続的に見られ、そこに陸軍境界標石群がある。
<常盤平駅のはるか北に散在する境界標石>

境界標石も、街なかの銀行の前にあると、廃線跡が道路になったことを知らないと奇異に思うかもしれない。
習志野市大久保の京成大久保駅前のある銀行の前の路傍にも、陸軍境界標石があるのに、この間気がついた。今は「ハミングロード」としゃれた名前がついているが、その道も鉄道連隊の演習線が津田沼から千葉にむかって延びていた廃線跡である。戦後は、自衛隊が一時線路を使っていたようだ。
そのハミングロードも、銀行の前だけでなく、スーパーの店舗前にも、分りにくいが陸軍境界標石があり、大久保駅と京成津田沼駅の間の警察署がある辺りまで、点々と境界標石がある。
<銀行店舗前にもある陸軍境界標石>

京成大久保駅前のスーパーを過ぎると、住宅街も途切れ、畑が見えてくる。そのあたりは、朝夕ジョギングをする人や散歩する人がめだち、市民の憩いの場にもなっている。晩秋から冬は椿が咲き、春から初夏にかけてはアジサイや皐月なども咲く。
<市民の憩いの場にもなっているハミングロード>

幼い頃に見た[陸軍]と書かれた標石。
あれはいったい何だったのだろうかと、ふと気になって拝読させていただきました。
あれは「陸軍境界標石」というのかと、長年の疑問が解けて、すっきりしたところです。
先日、久しぶりに実家を訪れた際、「陸軍境界標石」の写真を撮っておこうともとあった場所に行ってみましたが、今はすっかり風景が変貌し、「陸軍境界標石」はどこかに姿を消していました。。
このページで紹介されている津田沼や大久保からやや離れた場所にあるため、ご参考までにと思い、コメントさせていただいた次第です。
ハミングロードをさらに花見川団地方面に向かった、作新台6丁目付近。今はTSUTAYAがある場所にそれはありました。
(Yahoo!地図で正確に示しておきます)
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.690424342029&lon=140.08607590097&z=18&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=35.690424342029&hlon=140.08607590097&layout=&ei=utf-8&p=%E8%8A%B1%E8%A6%8B%E5%B7%9D%E5%8C%BA%E4%BD%9C%E6%96%B0%E5%8F%B06%E4%B8%81%E7%9B%AE19-33
やはりあのあたりも演習場だったと考えてよろしいのでしょうか?
今は姿を消してしまった「陸軍境界標石」。きちんと保存すべきなのではないかと思うのですが。。
以上、乱文にて失礼致しました。
それは、間違いなく、陸軍鉄道第一連隊の千葉から津田沼まで敷いた演習線の境界標石と思います。
千葉市の穴川あたりから、園生を通り、長沼をへて、作新台の京成電鉄のガードをくぐり、ハミングロードを大久保、津田沼に至る路線が、その作新台6丁目を通っていたのです。
そのあたりを含めて標石を探してみましたが、どういう訳か千葉から船橋市三山に至るまで、私の目では見つかりませんでした。良く見ればあるのかもしれませんが、それだけ少なくなっているのでしょう。
標石も保存すべきでしょうね。先日新京成の線路沿いの標石が家の新築のために途中から切断されているのを見ました。金儲け一辺倒の業者にとっては作業の邪魔という訳なのでしょうが、今では貴重な歴史の証人と思います。