千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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市川市の戦争遺跡4(国府台の赤レンガ倉庫)

2011-09-24 | 市川市の戦争遺跡
市川の国府台で「赤レンガをいかす会」(代表:吉原廣氏)という団体が、戦後に県の血清研究所が使用していた赤レンガの旧軍武器庫を保存すべく、その見学会を開催していたので行ってきた。
それについては、以前工兵隊の発電所と聞いていたので、当ブログでもそう書いていたが、そうではなく現存するものは教導団の頃に設置された可能性のある武器庫だという。
実は、1970年(昭和45年)に解体されたもう一つの赤レンガの建物があったそうだが、それは現存するものより大きく、あるいはそちらが発電機を置いていた建物か。
いずれにせよ、現存する赤レンガは出来た頃より、血清研究所が使用していた頃にいたるまで、倉庫としてしか使われていないらしい。

<外観>


なるほど、実際に中に入って見ると木造の梁や柱があって、すくなくとも今残っているものには発電機を設置したような跡はみられない。

この赤レンガ倉庫が設置されたのは、明治時代であることは間違いないが、時期は特定できていない。発見された棟札には「起工明治三十六年三月六日 竣成仝三十六年三月三十一日」とあり、工期は25日間であったことがわかる。つまり1ヶ月たらずで出来たことになるのだが、これが建物全体か、のちに屋根を直した際のものかが不明である。
この棟札の件は県血清研30年誌に掲載された、当時の職員の佐藤寛三氏の「思い出」に書かれ、その後棟札自体が発見されたことで、1903年(明治36年)に建物ができたと考えられたが、市川市立博物館所蔵の1901年(明治34年)印刷の「野砲兵第一連隊及び第十六連隊兵営の図」に第十六連隊武器庫として、同じ場所と思われる位置に同様の倉庫が一棟だけ描かれているというのだ。

野砲兵第十六連隊は、国府台に設置されていた下士官養成の教導団がその役割を終えて1899年(明治32年)に廃止された後に設置され、この倉庫が出来た後のようだが、1904年(明治37年)~1905年(明治38年)日露戦役では、旅順要塞攻略戦、奉天大会戦に出陣している。既に国府台にあった野砲兵第一連隊、野砲兵第十六連隊に続いて、1908年(明治41年)に野砲兵第十五連隊が国府台に置かれた。1919年(大正8年)には野砲兵第十四連隊も世田谷から国府台に移された。野砲兵第二旅団司令部も設けられ、国府台一帯は、まさに「砲兵の街」となった。

野戦で使用する砲は砲身だけでなく、移動するための車輪、照準その他の附属物があり、その保管には赤レンガ倉庫は決して大げさなものではなかったのだろう。勿論、砲兵といえども小銃の類も使っただろうから、それらもいくらかは入っていただろうが。

<二階内部>


赤レンガ倉庫といっても、舞鶴の海軍の赤レンガ倉庫などと比べるとかなり小ぶりである。幅は7.7mほどしかなく、長さは20.69mである。それが2階建てで高さは9.78m、一棟のみ。レンガの積み方は、レンガの長手と小口を交互に積むフランス積みで、明治でも早い頃にはやったもの。旧軍施設では、猿島要塞など少数しか残っていない。1890年頃にはイギリス積みというレンガの長手だけの段、小口だけの段と一段おきに積む方式が一般的になった。ちなみに、千葉市の鉄道連隊の材料廠は、イギリス積みの変形で端部のみ長さの違うレンガにするオランダ積みである(以下参照)。

http://www.shimousa.net/tetsudourentai/tetsudourentai_no1.html

今の国府台の赤レンガ倉庫は、旧血清研の時期にいろいろ改変がされている。例えば一階東側中央の出入口は、旧軍時代のものではないそうだ。一階は血清の冷蔵に使用され、ウレタンが部屋の内側全面を覆う形にされている。二階も多少は改変されているようだが、ほとんど旧軍時代のままになっている。

本来の出入口である西側(江戸川側)にある出入口から急な階段を二階にあがると、むき出しになった天井が古い日本家屋と違い、直径25cmほどの梁の上に筋交い状に細い柱が屋根に向かい三角の形をつくっているのに気付く。

これはトラスというもので、両側の壁に組み込まれた二重の桁によって支えられている。阪神淡路大震災の際に話題となった耐震構造でも、日本建築に筋交いを使うことで強度を高めるということが言われたが、こういう構造は屋根の重みを松の直径40cmくらいの大きな木などの太い梁を使わなくても支えられるのだという。

窓も古いままで、窓枠の内側に少し窪みがある。元は外側に観音開き扉があったのだが、蝶番が残っているだけで失われている。窓には嵌め殺しの鉄格子があり、内側には、金網戸とガラス戸がある。

<窓の外側>


<窓の内側>


窓に嵌めこまれた鉄格子は、現地で組み立てたのではなく、工場で組み立てたのをレンガを積む過程でレンガに穴をあけて嵌めて行ったもの。だいぶこみいった作業であった模様。

なんと、面白いことに旧軍時代の「兵器係」「使役兵」といった壁への小さな貼り紙が残っており、軍帽か何かを掛けて使ったのではないかと思う。札を掛けた、出社カードのようなものではなかろう。
南側の天井の梁に近い場所にフックがあるのだが、何を掛けたものか、これは使用目的が分らない。詳細な見取り図か何かないと、はっきりしない。だれか覚えていれば幸いであるが。

<旧軍時代の名札>


人の記憶は、年とともにあいまいになる。言葉も昔歌った歌でさえ。小生が戦後復学した学生の頃に歌った「青年よ団結せよ」の歌は、ソビエトのV.クルーチニンが作曲、P.ゲルマンが作詞した歌で、日本ではイールズ声明反対闘争が盛り上がるなかで歌われた。この歌は戦争直後の1947年、プラーグ国際青年祭コンクールで入選し、「全世界民主青年歌」とともに愛唱されたというが、その一方の、「全世界民主青年歌」を学生の頃よく歌っていたかといえば、あまり記憶がない。戦後ですら、記憶が薄れている。戦時中の詳細なことは尚更分らなくなる。

話が横道にそれた。この赤レンガ倉庫は、いずれ創設の時期などが明確になってくると信じるが、歴史の証言者が高齢となり、次々に鬼籍に入ってしまう中、保存の決定とさらなる研究が急がれる。

市川市の戦争遺跡3(高射砲陣地、郭沫若の「別須和田」碑、ほか)

2007-08-08 | 市川市の戦争遺跡
1.国分の高射砲陣地

1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を端緒として日中戦争の火ぶたがきられると、日本国内でも軍事への国民生活の動員が一層求められ、同年9月には市川でも軍民共同の防空演習が行われた。また帝都防衛の目的から国府台に高射砲部隊が設置された。国府台に設置された高射砲部隊は、1938年(昭和13年)に柏市根戸に移った高射砲第二連隊であるが、1933年(昭和8年)に騎砲兵連隊が今の習志野市に移った後、空いていた兵舎を使用し、兵器廠の兵器庫などがあった衛戍地を敷地としたもので、後述するように1935年(昭和10年)に土地用途転換の手続きが行われた。

陸軍は、1921年(大正10年)にフランス航空使節団フォール大佐一行に随行したユリカ大尉から七・五糎高射砲四門を使っての実物教育をうけ、翌1922年(大正11年)には高射砲隊の戦時編制が決まり、野戦砲兵学校に二個中隊の高射砲練習隊が創設された。それは1925年(大正14年)には野戦砲兵学校の教導連隊に編入され、教導連隊高射砲隊に改組。同時に豊橋(のちに浜松)に高射砲第一連隊が朝鮮平壌野砲兵第二十六連隊高射砲隊が創設された。そのころ山下奉文中佐(当時)の防空学校構想もあったが、野戦砲兵学校の反対にあって頓挫している。しかし、防空への意識は第一次世界大戦を経て変わっていき、ようやく1935年(昭和10年)頃には日中戦争の準備を進める中で、高射砲部隊を増設する機運が高まったのである。

国府台に陸軍高射砲第二連隊を設置するにあたって、大蔵大臣高橋是清から陸軍大臣川島義之にあてた、そのための土地用途転換のための文書が、防衛省防衛研究所に残っており、それには「陸軍省受領 貮第二一九九号 經理局建築課 土地用途變更ノ件 經建甲第三〇二号 十月廿二日 大臣ヨリ大藏大臣ヘ照會案 本年度軍備改編ニ伴ヒ千葉縣國府臺ニ新設ノ高射砲第二聯隊用地トシテ別紙調書ノ通土地用途變更致度關係圖書添付協議ス (右異存無キ回答アリタル上) 陸普第六〇八三号 昭和十年十月廿五日 昭和十年軍備改編要領細則第五十四條ニ依ルニ 建造 ノ處理方ニ關スル件 副官ヨリ近衞、第一、第二、第一九(留守経由)師團經理部長ヘ通牒案 首題ノ件ニ關シ別紙調書ノ通被定タルニ付依命通牒ス 」などとある。その他、国府台の高射砲第二連隊関係では、「国府台衛戍地各隊弾薬庫及砲兵観測所敷地及建造物の一部管轄換並用途変更の件」として近衛師団経理部長、岩永勝典が陸軍大臣川島義之にあてた1935年(昭和10年)9月10日付文書も防衛研究所にある。

現在里見公園になっている場所には、大正時代から1933年(昭和8年)まで営業していた里見八景園という遊園地があったが、そのころ軍用地として封鎖された。なお、里見八景園の名残は、今でも見ることができる。

太平洋戦争が始まると、緒戦のころはともかくとして、1944年(昭和19年)ともなれば、日本本土への空襲が頻々として行われるようになり、1945年(昭和20年)にかけて首都圏には空襲が相次いだ。市川市域最大の空襲は、1945年(昭和20年)2月25日の空襲で、正午過ぎから始まり、市川新田地区では全焼53戸、半焼5戸、中山地区全焼14戸、半焼2戸、半壊1戸、菅野地区全焼1戸、国分地区全焼1戸、鬼高の中山アルミ一棟80坪全焼という被害状況であった。
同年3月10日、奇しくも陸軍記念日のその日、東京大空襲があった。

<里見公園>


この空襲の発生状況から東部軍管区司令部を東京から移転させる計画が考えられ、その候補地として国府台がクローズアップされる。そのため、陸軍は現在の里見公園の明戸古墳のあるコの字形の土塁で囲まれた中央部分を掘り下げ、地下要塞とでもいうべき陣地を構えようとした。その際に掘られたトンネルは、今は埋められて跡形もない。

同時に、首都防空のために既に配備された高射砲陣地の砲では8,000m~10,000mもの高高度を飛ぶB29には歯が立たなかった。なお、国府台の高射砲の砲座の跡は、里見公園内ではなく、里見公園の裏口を出て、約500mほどいった、江戸川縁の道と合流する坂道の手前台地上にあったようだが、今や陸軍境界標石が立っているのみである。近所の老婦人に聞いたが、詳細は分からず、そこに何があったかは一部の高齢者しか知らないとのことであった。

<里見公園周辺の高射砲砲座があったといわれる場所にたつ境界標石>


そこで、1945年(昭和20年)にB29などを東京湾上で撃墜するために、市川と川崎に高射砲陣地が構築されつつあった。これは八糎高射砲を備え高度1万メートルまで砲弾を打ち上げることのできる高射砲陣地であり、従来の高射砲陣地から格段と進歩したものであった。

この市川における新しい高射砲陣地は、現在和洋女子中学校のある国分の国分尼寺跡のすぐ北側におかれ、1972年(昭和47年)6月~7月、国分尼寺跡のすぐ北側和洋学園国分校地の発掘調査では、鉄板や銅線が多数出土したという。駐屯していた部隊は、独立高射砲第三大隊である。近所の方に聞いてみると、「昔は要塞のようであった。今の和洋さんの所もそうだったが、戦後コンクリートの土台が残っており、それをどけて平らにするのに大変だった」とのことであった。現在は地表面を見る限りでは、遺構らしきものが残っていない。
ちなみに、国分尼寺と北側の馬捨場だった場所はきれいに芝生が植えられ、公園化されている。

<国分の高射砲陣地跡~手前は馬頭観世音石碑群>


2.郭沫若の「別須和田」碑と郭沫若記念館

あまり一般には知られていないが、郭沫若は日本に留学し、岡山の第六高校在学中に日本人の看護婦佐藤とみ(中国名:安那)と結婚、九州大学医学部を卒業して中国に帰国後、国民党で宣伝を担当していたが、蒋介石と対立し、その追跡を逃れて、日本に亡命した。

<市川市郭沫若記念館>


それは、1928年(昭和3年)のことであり、家族と共に住んだのが、市川市須和田である。しかし、日本政府は郭沫若を警戒し、行動を制限した。郭沫若は国民党に所属しながら、中国共産党の秘密党員であった。日本政府からも監視下におかれた郭沫若は、中国古代史などの研究に専念し、日本にいる間も、大きな業績を残している。なお、市川市のHPによれば、郭沫若の経歴は以下の通り。

「明治25年(1892)中国四川省楽山市に生まれる。

 大正3年(1914) 日本に留学。

 大正5年(1917) 「佐藤とみ」と結婚。

 大正7年(1918) 九州帝大医学部に入学。この頃より詩作を始める。

 昭和3年(1928)  夫人の郷里である日本に亡命。
           上海当時の知人村松梢風の紹介で市川市須和田に居を構える。

 昭和12年(1937) 盧溝橋事件の勃発を見て祖国の現状を憂い、ひとり家族と離れ中国に帰国。
             新中国誕生後は、政務院副総理など中枢で活躍する。

 昭和30年(1955) 中国学術文化視察団団長として来日。
            亡命生活を過ごした市川市須和田の旧宅を訪れ、旧知と交歓。
            この時の感慨を「別須和田」という長歌に詠んだ。

 昭和42年(1967) 「別須和田」の碑が須和田公園内に建立される。

 昭和53年(1978) 逝去。享年85歳。」

1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件の勃発に端を発した日中戦争は、郭沫若を抗日戦とくに宣伝活動によるたたかいに駆り立てることになった。1937年(昭和12年)7月25日の朝、郭沫若は家族にも告げずに、妻と4男1女を残し中国に帰国するのである。

<郭沫若のレリーフ>


郭沫若の「別須和田」(須和田に別る)の詩については、1955年(昭和30年)に来日し、須和田の旧宅を訪ねた際に、旧知の人々と再会した感慨を帰国後に詠んだものである。その9年後の1964年(昭和39年)春、日中友好協会市川支部により詩碑の建立が発起され、郭自身による揮毫も同年7月13日には出来上がり、1967年(昭和42年)4月16日、旧宅にほど近い須和田公園内に黒御影石の詩碑が建立された。郭のレリーフは、中山在住の彫刻家大須賀力によるもの。

<「別須和田」碑>


須和田の旧宅の方は、一時郭沫若の四男の志鵬が住んだりしていたが、老朽化が激しくなり、2004年(平成16年)9月、須和田公園近くの真間の地に旧宅を移築・復元し、市川市郭沫若記念館となった。
なお、文化大革命の狂気は、この文化人も巻き込み、早々に自らの文化的業績を否定し、変質した毛沢東路線に屈服したのは残念であるが、郭沫若の「屈原」などの創作や数々の文化研究の業績はその価値を損なうものではない。

3.東台の開墾碑と復員軍人による製パン業

前述の高射砲陣地跡の近く、西部公民館のある辺りからじゅんさい池の東側台地一帯は、陸軍の東練兵場のあった場所である。現在は宅地化されているが、明治初めには広大な野原が広がっていた。そこを陸軍が練兵場として利用したわけである。
この西部公民館の敷地の一角に、レンガの土台で囲った石碑があるが、これは東台開拓農業協同組合が建てた石碑である。

<東台開墾碑>


碑文には、
「昭和二十年八月十五日太平洋戦争が終結し、明治十八年より使用された此処旧陸軍東練兵場にわれら復員軍人等が入植し混乱する社会の安定と食糧確保を目的としてこの荒野に開墾の鍬を下した。
そして昭和二十三年東台開拓農業協同組合を結成し、組合員の一致団結と不撓不屈の努力により四十余ヘクタールの荒野を開墾、作物の生産、酪農、養鶏等の事業並びに農村工業としてのパン工場を経営し、新農村の建設が成りその目的を達成した。(略)

昭和五十年十二月十四日 東台開拓農業協同組合 組合員一同」とある。

入植した人々は、元の土地所有者もいたが、復員軍人やその他の人々のなかには、農業経験のないものもおり、厳しい自然環境とともに、開墾は苦労の連続であった。

実はこの石碑に出てくるパン工場は、山崎製パンの創業者である飯島藤十郎が中心となって経営していたものである。飯島藤十郎も復員軍人で、豊島師範、現在の東京学芸大学を卒業して教師となっていたが、1941年(昭和16年)に応召し、陸軍の高射砲兵となって、国府台にいた。そして終戦後、かつて自分が高射砲兵として過ごした東練兵場跡に入植した。そこで東台農業実行組合を設立し、パンの製造を始めた。1947年(昭和22年)のキャサリン台風では被災した製紙工場の濡れ藁と交換で30俵以上の小麦を入手し、製パン業を始めるきっかけとなる。そして、飯島は姉とともに、組合を抜け、製パン業で身を立てていく。飯島は、1948年(昭和23年)に国府台で山崎製パンを創業し、パンの委託加工を始め、現在のような大企業に仕立て上げた。

<東台開墾碑の碑文>


4.軍用道路を切り開いた囚人の墓

現在、市川駅方面から松戸方面に松戸街道を進む場合、真間山下、国府神社の辺りから和洋女子大正門まではまっすぐな坂道になっているが、これは昔からのみちではなく、かつては、『成田参詣記』の「真間国府台略図」に描かれているように、現在の千葉商大側に食い込んで大きく鍵の手状にクランクしていた。これを現在の道筋になったのは、明治政府が教導団移転を決め、それに伴って軍用に道を整備拡張したことによる。その作業にあたり、千葉監獄所に服役していた囚人を連れて来て、山を切り開かせ、現在のような道筋を造る工事につかせたという。その囚人たちの宿舎として総寧寺が利用され、寺の北側、天満宮のある台地にも囚人の宿舎が建てられて、監獄山と呼ばれた。

<駒形明神付近~写真提供:「夜霧の古城」by 森-CHAN>


なお、軽犯罪人には青い着物を、重犯罪人には赤い着物を着せて、足は鎖でつないで、麦と米が半々のむすび一個の食事で、一日中苛酷な労働を強いたといわれる。昔、子供がイタズラとか何か悪いことをすると、「赤い着物を着せて、監獄山に連れて行くよ」と叱ったといい、それだけ住民の印象に残ったものであろう。
この工事は、台地を削る大工事であり、全て人力で行った。死人も多く続出、引き取り手のない死体は駒形墓地へ葬ったという。この駒形墓地は、もともとは堀ノ内貝塚がある台地にあった。今はその台地もバス道に近い先端部分は、すっかり削られてしまった。大正時代頃は、国府台方面からは、北へ中国分の台地を進み、道免谷津を越え、舌状台地を「中廟の坂」という坂道を上ると、駒形明神の近くに墓地があり、雑木生い茂って馬捨場や無縁墓もあったといい、これを改修して現在地に移したのが今の駒形墓地である。

<現在の駒形墓地>


囚人たちの墓地は、駒形墓地の片隅にあった。「合葬之墓」と書いてあるだけで、これでは謂れも何も分からないが、裏に「自明治十七年 至明治十九年 死亡」、「明治三十三年五月千葉県監獄」とある。

<囚人たちの墓>


そのほか、国分の竺園寺には移転した陸軍墓地の墓塔が記念碑とともにあるが、その件については別途記載することにする。

参考文献:『下志津原』陸上自衛隊高射学校 
     『市川の歴史を尋ねて』 市川市教育委員会 (1988 ~綿貫喜郎氏記述部分)
     『江戸川ライン歴史散歩』 千野原靖方 崙書房 (1991)

市川市の戦争遺跡2(陸軍病院、総寧寺の境界標石、陸軍射撃場)

2007-07-22 | 市川市の戦争遺跡
1.国府台陸軍病院

「市川市の戦争遺跡」で前述した通り、市川の国府台は陸軍教導団が置かれたのを嚆矢として、陸軍野砲兵の町として変貌した。国府台はもとは大学用地であったが、大学の建設が交通の便など種々の理由から頓挫し、その土地に目をつけた陸軍が、当時東京市内に分散していた陸軍教導団(明治期の陸軍下士官養成機関)を国府台に移し、病院を併設した。国府台に教導団が集結すると、国府台坂下の根本(市川4丁目・真間4丁目)付近には、軍隊相手の御用商人が集まって、軍人の生活物資を扱う店などを含めて商店が建ち並んだ。この教導団出身の下士官は非常に優秀で、その中からはやがて将校となり、田中義一が陸軍大将、総理大臣となったのに代表されるように、陸軍における重要な地位についた人々もいた。

国府台の土地に目をつけた人物とは教導団団長の陸軍大佐渡辺央であり、早速兵営と病院の工事に着手した。それは1885年(明治18年)から翌年9月のことで、1885年(明治18年)5月、歩兵大隊が配備されたのを皮切りに、兵舎などの施設も建設されていった。
教導団が併設した病院が、教導団廃止後は、1899年(明治32年)10月 国府台衛戊病院と改称、さらに1936年(昭和11年)11月 国府台陸軍病院と改称、終戦後の1945年(昭和20年)12月 厚生省に移管、国立国府台病院として発足したものである(現、国立精神・神経センター国府台病院)。
なお、里見公園に一時置かれた教導団の病院は、戦時中まで国府台陸軍病院の高いコンクリート塀のある精神科病棟として併存していたが、現存せず、遺構も残っていない。

この精神科に収容された陸軍軍人は、一般に軍人で精神に障害をもつ者、召集された知的障害者でトラブルを起こした者など(思想上問題があるとされたり、反軍活動などをした者が含まれていたかはさだかではない)であるが、いわゆる戦争神経症の患者も多数いたと思われる。戦争神経症は、当初、ヒステリー患者とされていたが、戦争によるストレスが原因で発症する。「たとえば、その発症原因として加害行為についての罪悪感というものがあった。山東省で部隊長命令で民を殺したことがもっとも脳裏に残っている。とくに幼児をも一緒に殺したが、自分にも同じような子どもがいたので、余計に厭な気がした。ヒステリー性反応としては、その場で卒倒するケースが多いが、夢遊病者のように動きまわり、無意識のうちに離隊・逃亡することも少なくなかった。」などと報告されている。(『日本帝国陸軍と精神障害兵士』(清水寛著 不二出版)

現在の国立精神・神経センター国府台病院は、新しく建替えられたものであり、病院の職員の人に聞いたが、特に遺構もないとのことであった。たしかに、建物では旧軍時代のものはなさそうである。病院の中庭に古そうな物置のようなものがあったが、旧軍時代からのものかどうか分らない。

<現在の国府台病院>


2.総寧寺境内の境界標石

里見公園は、もとは総寧寺の境内の一部であったものを戦後公園化したものである。したがって、里見公園と今の総寧寺境内との境界は、戦後作られたものであり、前出の陸軍病院の精神科病棟にしても、元は総寧寺境内の一部であったはずである。
この関宿の小笠原氏ゆかりの寺が、寺領を失い、存続すら危ぶまれたのは、維新後の話。江戸時代は、さぞや隆盛を極めたのでは、と想像できる。その総寧寺境内に陸軍用地の境界標石がある。寺のなかにあるのは、失礼な話と思うが、今の里見公園一帯は戦時中は病院以外に、高射砲陣地が出来たり、今の総寧寺の境内に隣接する国府台城の遺構も壊れ放題であった。
その境界標石は、よくある御影石製で、土中に埋まっていた部分も露出しているようだ。場所は境内の端の藪になっているところで、少し分りにくい。

<境界標石>


3.陸軍射撃場

松戸街道からみると東になり、式場病院の裏にあたるが、旧陸軍の実弾射撃場跡があった。今のじゅんさい池の東側台地にあり、松林に囲まれた篠竹原になっていたが、かつては、よく銃弾や薬莢が落ちていたという。ここでは三八式歩兵銃だけでなく、野戦重砲兵の大砲の射撃もされていた。近所を歩いていた老紳士に聞いたところ、その東側台地一帯が東練兵場であり、射撃場はじゅんさい池に近い、その台地端にあった、銃弾を南東から北西方向に撃ったとのことである。老紳士は親切にも、その台地がよく見える地点まで案内してくれた。

近くには、国分池あるいはじゅんさい池と呼ばれる細長い池があり、今では市民の憩いの場になっている。ご多分に漏れず、この界隈も宅地化が進んでおり、かつての面影はなくなってきている。
よく言う「三角山」とは、その射撃場が置かれた台地にあった小高い土手の通称のようである。それを射撃の標的にしたようだ。その話は軍関係の文書などに出てくる訳でなく、地元の伝承として残っている。銃弾がそれていかないように、高く築かれた土塁も、今は削られて平坦地となっており、殆ど跡形もない。国府台あたりの人がいう「三角山」という呼称は、地域によって変わるようで、中国分の古くからの住民の人は「私たちは、『大土手』と呼んでいました。『三角山』とは呼んでいません。戦後土手はすっかり削られて住宅地になってしまい、今ではどこに何があったかわかりませんがね」とのことで、同じ市川市域でも、「三角山」、「大土手」と呼称が違うようである。
なお、戦後1947年に米軍が撮影した航空写真にも、細長く射撃場跡が写っている。短冊形に土手を築き、その中で射撃の実弾演習をしたらしい。この射撃場と東練兵場の土地は、戦後元の持ち主に返還あるいは帰農した軍人に払下げられた。また強制連行されてきた朝鮮人が、その辺りに戦後住み着いたというHP記事もある(市民平和訴訟の会・東京)。現在は、射撃場跡もすっかり宅地化されていて、あまり面影はないが、道に沿って一部残る土手がわずかに名残をとどめている。

<じゅんさい池付近から射撃場のあった台地を望む>


<射撃場のあった台地上の現在の様子>


<1947年当時の国府台付近の航空写真>

(国土地理院のHPより、1947/11/5米軍撮影)

市川市の戦争遺跡1(陸軍教導団と野砲兵部隊、旅団坂と弾薬庫跡)

2006-05-12 | 市川市の戦争遺跡
1.陸軍教導団と野砲兵部隊がおかれた国府台

余り知られていないが、市川市の国府台には、明治時代に大学をつくろうという構想があった。用地買収など、ある程度具体的な動きになっていたのだが、それは、通勤、通学の便などの理由から中止となった。
そこで、その用地に目をつけた陸軍が、当時東京市内に分散していた陸軍教導団(明治期の陸軍下士官養成機関)を国府台に移し、病院を併設したのである。1885年(明治18年)から翌年9月のことで、1885年(明治18年)5月、歩兵大隊が配備されたのを皮切りに、兵舎などの施設も建設されていった。そして、教導団病室も真間山弘法寺内に仮設され、同じ年、教導団病院が現在の里見公園内に建設されるが、その教導団病院は現在の国立精神・神経センター国府台病院である。

国立精神・神経センター国府台病院のHP(http://www.ncnpkohnodai.go.jp/kohnodai.html)によれば、

「明治5年3月  東京教導団兵学寮病室として創設
 明治32年10月 国府台衛戊病院と改称
 昭和11年11月 国府台陸軍病院と改称
 昭和20年12月 厚生省に移管、国立国府台病院として発足
 昭和28年8月  附属高等看護学院を設置 昭和34年6月 市川市立伝染病棟を併設
 昭和62年4月  昭和61年10月1日に設立された、国立精神・神経センターと統合」
             となっている。

<一時教導団病院のあった里見公園>

 
1886年(明治19年)に入ると相次いで兵営が完成した。前記の歩兵大隊に続き、砲兵大隊、工兵中隊、騎兵中隊、教導団本部の順で移って来た。江戸川沿いに国府台の台地を上がった、現在の和洋女子大や東京歯科大などがある場所に兵舎が建てられ、里見公園の東側のスポーツセンターと、国立国府台病院を合わせた場所には錬兵場が造られて、教練が行われた。こうして教導団は多くの優秀な下士官を養成し、国府台の名前はそれに伴って、よく知られるようになった。1869年(明治32年)に下士制度が改正されたのに伴い、その年の11月に教導団は廃止され、教導団病院は国府台衛戊病院と改称される。

<真間山弘法寺境内にある「国府台砲兵之碑」>


教導団が廃止になった後、跡地に野砲兵第十六連隊が開設された。この連隊は、1904~1905年(明治37~38年)の日露戦争に出陣し、旅順の要塞攻撃や奉天大会戦に参加して目覚ましい活躍を行った。さらに、1908年(明治41年)に野砲兵第十五連隊が国府台に置かれた。1919年(大正8年)には野砲兵第十四連隊も世田谷から国府台に移された。野砲兵第二旅団司令部も設けられ、国府台一帯は、まさに「砲兵の街」となった。のちに、砲兵隊の機械化に伴い、野砲兵から野戦重砲兵と改編される部隊が出てくるが、日露戦争時の独立野戦重砲兵連隊が、旅順、奉天会戦に参加後改編され、1918年(大正7年)初めて野戦重砲兵第一連隊と称し、1922年(大正11年)国府台に駐営するなど、大正期の終わりから昭和にかけて国府台には野戦重砲兵第一・第七連隊、高射砲第二連隊が配備された。
これだけ、多くの陸軍部隊が配備されながら、実際に残っている遺構はわずかである。松戸街道から里見公園方面へ向う道路は、通称「裏門通り」と呼ばれ、野砲兵第十六連隊(後に野戦重砲兵第七連隊が同じ場所に入った)の裏門があった。その裏門跡に、わずかに裏門関連の遺構と考えられるレンガ塀の一部が残っているが、旧軍関係の施設、設備の残欠で残っているのは、旧千葉県血清研究所となった武器庫の建物を除けば、それくらいか。

日清、日露両戦役とその後の権益獲得は、日本帝国主義のアジア侵略の大きな布石となったが、その武力発動の一つの基地に、国府台はなっていたわけである。真間山弘法寺には伏姫桜という大きな枝垂れ桜の木があるが、その根元に近い場所に、「国府台砲兵之碑」が建っている。
一方、国府台にあった国府や古墳群、国府台城などの遺跡は、戦後の学校建設や住宅開発などによる影響もあるが、明治期から陸軍が駐留してきて、兵舎などの施設の建設、錬兵場の整備などで、土地が掘り返されたために、かなり破壊されている。特に国府台城の土塁、空堀といった地表面にある遺構は、明治期からの陸軍教導団、野砲兵連隊の駐留、戦時中の高射砲陣地敷設等による改変を受け、江戸期に書かれた絵図と比較しても、原形を留めていない部分が多々ある。

明治期以来、陸軍の下士官養成を行ってきた教導団の廃止とそのあとを受けた陸軍野砲兵連隊の開設、1919年(大正8年)以降も変遷があったが、1945年(昭和20年)の敗戦になるまで、国府台界隈の松戸街道沿いは「軍隊の町」として栄えていた。

<野砲兵連隊、野戦重砲兵連隊の裏門関連遺構か>



2.旅団坂と弾薬庫跡

市川駅方面から松戸街道を国府台に向かって進むと、大きな切通しの坂道となる。これは多くの囚人を動員して山を削って作った軍用道路である。その坂の途中、国府神社の道路の向い側に分岐するかなり急勾配の坂道があり、これを通称「旅団坂」という。なぜ、「旅団坂」というかといえば、坂をあがった途中に野砲兵第二旅団司令部があったからである。司令部の近く、旅団坂の坂下には衛兵所があった。

<衛兵所跡付近に残る陸軍境界標柱>


実は、この旅団坂の先の道は今でこそ、学校敷地で行き止まりとなっているが、昔は総寧寺(今の里見公園)の門前まで続いていた表参道であった。この総寧寺門前からの道が左手に法皇塚古墳を見て、やがて市川津方面へ下る坂(のちの「旅団坂」)はまた、「法皇坂」(あるいは「鳳凰坂」)とも呼ばれたようであるが、それが法皇塚古墳からくるものか、国府神社の鴻伝説から来るものかは定かではない。そして、その道は弘法寺方面に続いていたようである。いずれにせよ、現在の松戸街道の切通しは、明治に入って多くの囚人たちに作らせた道であることは間違いない。

<旅団坂を坂の途中から見下ろしたところ>


この野砲兵第二旅団司令部跡には現在殆ど何も残っておらず、坂の途中にある平坦な公園となっている。大きな丸いコンクリート製の蓋が載った防火水槽があるが、これは戦前からあるとされ、軍の貯水槽か何か付属設備であろうことは容易に推定できる。

<野砲兵旅団司令部跡>


<旧軍の貯水槽か>


この旅団坂を上りきったところに里見公園の分園がある。実はこの公園には、砲兵隊の弾薬庫があった。小生がこの場所を訪ねたとき、近隣の学生らしき若者たちが劇の練習をこの公園でしていたが、弾薬庫を取り巻いていたと想定される土塁の痕跡がわずかに残っていた。弾薬庫跡だけに、公園には「火気注意」の立て札もある。またこの公園の裏手には江戸川へ下りる通路があり、川で荷物の積み降ろしを行う際に使用したのであろう。

<弾薬庫跡~若者たちの背後に土塁の痕跡が見える>