千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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鎌ヶ谷市の戦争遺跡1(鉄道連隊軍用線の橋脚跡、航空官補慰霊碑)

2006-05-30 | 鎌ヶ谷市の戦争遺跡
1.鉄道連隊軍用線の橋脚跡

船橋市に隣接する鎌ヶ谷市にも、戦争遺跡は存在する。
現在新京成線は、新津田沼~松戸間を走っているが、その前身がかつての鉄道連隊が敷設した軍用線であることは、習志野市の戦争遺跡のところでも述べた通りである。そのなかで、鎌ヶ谷大仏駅からほど近い、鎌ヶ谷市南鎌ヶ谷の木下街道を北へ入った谷間にある道沿いに、その橋脚の跡が4基ある。その橋脚は、コンクリート製で高さは4m以上ある。知っての通り、かつての軍用線は、敗戦後しばらく放置されていたが、路線のうち、この部分を除く松戸~津田沼間のほとんどを京成電鉄が買いうけ、1946年(昭和21年)に新京成電鉄を設立、当路線の整備にあたった(全ての整備が終わり、新京成として営業運転をしたのは1955年(昭和30年)のこと)。現在の新京成線は、その場所の1km位東であるが、その場所に橋脚があるのは、戦後あまりに曲がりくねった路線のうち、大きく曲がった部分をショートカットしたためである。

<鎌ヶ谷市にある鉄道橋脚跡>


<谷合に残る橋脚跡>


軍用線を走る機関車は軽量だったとはいえ、急な勾配を上り下りするのが苦手であったらしく、土地の高低差のはげしい当地には橋脚をたて、鉄橋を築いて高低差を緩和したわけである。現在残っている遺構は、アカシヤ児童遊園の中にある。1930年(昭和5年)頃に鉄道連隊が演習用に造ったもので、現在も坂の上にある集合住宅のそばに「陸軍・・・」と下の文字が消えた標柱もある。

<「陸軍」の文字のある標柱>


<公園となった橋脚跡地で遊ぶ親子>


2.逓信省航空官補の墜落慰霊碑

現在、松戸市の松飛台にある自衛隊敷地は、かつて陸軍の松戸飛行場であり、その前身は逓信省中央航空機乗員養成所(松戸航空機高等乗員養成所に改称)である。

それは、1940年(昭和15年)に開設され、民間パイロットなどを養成するための場所であったが、戦局が進み、日本の敗色も濃くなってくると軍の管轄となった。そもそも、帝都防空のための「陸軍基地」である飛行場としても位置づけられ、建設時から陸軍が関与し、その所長も陸軍少将が務めていた。逓信省の養成所でありながら、ここを修業すると、予備陸軍伍長となり、その後軍人になるものも多かった。そして、太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)9月には、陸軍第10飛行師団指揮下の飛行第五十三連隊が所沢基地から移ってきた。

なお、現在の地名、松飛台は、陸軍の松戸飛行場からきている。そのほか、旧沼南町には藤ヶ谷陸軍飛行場があって、両飛行場は戦争末期「帝都防空」の任にあたった。

この逓信省中央航空機乗員養成所の訓練機が、現在の鎌ヶ谷市東中沢に墜落したことがある。時は1942年(昭和17年)9月10日である。その慰霊碑が、現在も建っているが、それは墜落地点に近い場所にもともとあったのを、少し離れた自然聖園に移したものである。

これは、小生の第一ブログ「千葉県の戦争遺跡」にコメントを寄せたNYさんから場所を教えられ、訪ねたが、近所の酒屋さんで聞くと最近別の場所に移ったとのこと。
その移転した場所を探すのに、鎌ヶ谷市郷土資料館の館長以下の方に聞いて、なんとかたどり着けた。

移転した後の場所は、鎌ヶ谷市中沢のなかであるが、元の場所より南西にいった万福寺近くの「弥生の里」という自然聖園である。

<現存する航空官補の慰霊碑>


「故 航空官補 田村弘 荻野義弘 殉職之地」とあり、鈴木竹徳陸軍少将の書によるもの。村人が墜落死した二人に同情して、事故のあった昭和17年に鎌ヶ谷村として建てたという内容が書かれていた。

その碑文は、

(表面)
故 航空官補 田村 弘 荻野 義弘 殉職之地
       
                     鈴木竹 書

(裏面)
兩氏殉職ノ記
 田村荻野兩君ハ昭和十七年九月十日愛機ニ搭乘シ特種飛行猛訓練中
 此地ニ墜落殉職セラル洵ニ痛惜ノ極ナリ田村君ハ富山縣出身第二期
 操縦生ヲ修業シ人格技倆共ニ衆ヲ抜ク名教官タリキ荻野君ハ大阪府
 出身第三期操縦生ニシテ稀ニ見ル優良生徒タリキ時將ニ大東亞戰爭
 完遂ノタメ一億國民總進軍我航空ノ使命重大ナル折感更ニ深シ此報
 傳ハルヤ村民各位ノ格別ナル同情ハ翕然トシテ集マリ此地ニ煙絶エ
 ス村長■■■■■■■ヨリ此碑ヲ建テラル誠ニ感謝深ク茲ニ愈航空
 報國ノ決意ヲ新ニシ各位御同情ヲ感謝シ兩君ノ冥福ヲ祈ル

 昭和十七年十二月
  中央(××・・・×)員養成所長 陸軍少將 從四位 勲三等 鈴木竹書
                          鎌ヶ谷村建之

  ■:判読できず ×:故意に削られた部分

とあった。字が薄くなり読みにくい(摩滅したような感じの)部分と、一部故意に削られた箇所があった。

<慰霊碑の裏面>


故意に削られた箇所とは、鈴木竹徳陸軍少将の肩書きである中央(逓信省航空機高等乗務か)員養成所長の一部である。なぜそうしたのか、よく分からないが、ひょっとしたら戦後も残っている固有名詞はあえて消したのかもしれない。

その二人が航空機による飛行訓練中に、どういう原因で墜落したのかは碑文からでは分からないが、太平洋戦争中に陸海軍を問わず搭乗員養成が急務のなか起きた不幸な事故であったことは間違いない。

市川市の戦争遺跡1(陸軍教導団と野砲兵部隊、旅団坂と弾薬庫跡)

2006-05-12 | 市川市の戦争遺跡
1.陸軍教導団と野砲兵部隊がおかれた国府台

余り知られていないが、市川市の国府台には、明治時代に大学をつくろうという構想があった。用地買収など、ある程度具体的な動きになっていたのだが、それは、通勤、通学の便などの理由から中止となった。
そこで、その用地に目をつけた陸軍が、当時東京市内に分散していた陸軍教導団(明治期の陸軍下士官養成機関)を国府台に移し、病院を併設したのである。1885年(明治18年)から翌年9月のことで、1885年(明治18年)5月、歩兵大隊が配備されたのを皮切りに、兵舎などの施設も建設されていった。そして、教導団病室も真間山弘法寺内に仮設され、同じ年、教導団病院が現在の里見公園内に建設されるが、その教導団病院は現在の国立精神・神経センター国府台病院である。

国立精神・神経センター国府台病院のHP(http://www.ncnpkohnodai.go.jp/kohnodai.html)によれば、

「明治5年3月  東京教導団兵学寮病室として創設
 明治32年10月 国府台衛戊病院と改称
 昭和11年11月 国府台陸軍病院と改称
 昭和20年12月 厚生省に移管、国立国府台病院として発足
 昭和28年8月  附属高等看護学院を設置 昭和34年6月 市川市立伝染病棟を併設
 昭和62年4月  昭和61年10月1日に設立された、国立精神・神経センターと統合」
             となっている。

<一時教導団病院のあった里見公園>

 
1886年(明治19年)に入ると相次いで兵営が完成した。前記の歩兵大隊に続き、砲兵大隊、工兵中隊、騎兵中隊、教導団本部の順で移って来た。江戸川沿いに国府台の台地を上がった、現在の和洋女子大や東京歯科大などがある場所に兵舎が建てられ、里見公園の東側のスポーツセンターと、国立国府台病院を合わせた場所には錬兵場が造られて、教練が行われた。こうして教導団は多くの優秀な下士官を養成し、国府台の名前はそれに伴って、よく知られるようになった。1869年(明治32年)に下士制度が改正されたのに伴い、その年の11月に教導団は廃止され、教導団病院は国府台衛戊病院と改称される。

<真間山弘法寺境内にある「国府台砲兵之碑」>


教導団が廃止になった後、跡地に野砲兵第十六連隊が開設された。この連隊は、1904~1905年(明治37~38年)の日露戦争に出陣し、旅順の要塞攻撃や奉天大会戦に参加して目覚ましい活躍を行った。さらに、1908年(明治41年)に野砲兵第十五連隊が国府台に置かれた。1919年(大正8年)には野砲兵第十四連隊も世田谷から国府台に移された。野砲兵第二旅団司令部も設けられ、国府台一帯は、まさに「砲兵の街」となった。のちに、砲兵隊の機械化に伴い、野砲兵から野戦重砲兵と改編される部隊が出てくるが、日露戦争時の独立野戦重砲兵連隊が、旅順、奉天会戦に参加後改編され、1918年(大正7年)初めて野戦重砲兵第一連隊と称し、1922年(大正11年)国府台に駐営するなど、大正期の終わりから昭和にかけて国府台には野戦重砲兵第一・第七連隊、高射砲第二連隊が配備された。
これだけ、多くの陸軍部隊が配備されながら、実際に残っている遺構はわずかである。松戸街道から里見公園方面へ向う道路は、通称「裏門通り」と呼ばれ、野砲兵第十六連隊(後に野戦重砲兵第七連隊が同じ場所に入った)の裏門があった。その裏門跡に、わずかに裏門関連の遺構と考えられるレンガ塀の一部が残っているが、旧軍関係の施設、設備の残欠で残っているのは、旧千葉県血清研究所となった武器庫の建物を除けば、それくらいか。

日清、日露両戦役とその後の権益獲得は、日本帝国主義のアジア侵略の大きな布石となったが、その武力発動の一つの基地に、国府台はなっていたわけである。真間山弘法寺には伏姫桜という大きな枝垂れ桜の木があるが、その根元に近い場所に、「国府台砲兵之碑」が建っている。
一方、国府台にあった国府や古墳群、国府台城などの遺跡は、戦後の学校建設や住宅開発などによる影響もあるが、明治期から陸軍が駐留してきて、兵舎などの施設の建設、錬兵場の整備などで、土地が掘り返されたために、かなり破壊されている。特に国府台城の土塁、空堀といった地表面にある遺構は、明治期からの陸軍教導団、野砲兵連隊の駐留、戦時中の高射砲陣地敷設等による改変を受け、江戸期に書かれた絵図と比較しても、原形を留めていない部分が多々ある。

明治期以来、陸軍の下士官養成を行ってきた教導団の廃止とそのあとを受けた陸軍野砲兵連隊の開設、1919年(大正8年)以降も変遷があったが、1945年(昭和20年)の敗戦になるまで、国府台界隈の松戸街道沿いは「軍隊の町」として栄えていた。

<野砲兵連隊、野戦重砲兵連隊の裏門関連遺構か>



2.旅団坂と弾薬庫跡

市川駅方面から松戸街道を国府台に向かって進むと、大きな切通しの坂道となる。これは多くの囚人を動員して山を削って作った軍用道路である。その坂の途中、国府神社の道路の向い側に分岐するかなり急勾配の坂道があり、これを通称「旅団坂」という。なぜ、「旅団坂」というかといえば、坂をあがった途中に野砲兵第二旅団司令部があったからである。司令部の近く、旅団坂の坂下には衛兵所があった。

<衛兵所跡付近に残る陸軍境界標柱>


実は、この旅団坂の先の道は今でこそ、学校敷地で行き止まりとなっているが、昔は総寧寺(今の里見公園)の門前まで続いていた表参道であった。この総寧寺門前からの道が左手に法皇塚古墳を見て、やがて市川津方面へ下る坂(のちの「旅団坂」)はまた、「法皇坂」(あるいは「鳳凰坂」)とも呼ばれたようであるが、それが法皇塚古墳からくるものか、国府神社の鴻伝説から来るものかは定かではない。そして、その道は弘法寺方面に続いていたようである。いずれにせよ、現在の松戸街道の切通しは、明治に入って多くの囚人たちに作らせた道であることは間違いない。

<旅団坂を坂の途中から見下ろしたところ>


この野砲兵第二旅団司令部跡には現在殆ど何も残っておらず、坂の途中にある平坦な公園となっている。大きな丸いコンクリート製の蓋が載った防火水槽があるが、これは戦前からあるとされ、軍の貯水槽か何か付属設備であろうことは容易に推定できる。

<野砲兵旅団司令部跡>


<旧軍の貯水槽か>


この旅団坂を上りきったところに里見公園の分園がある。実はこの公園には、砲兵隊の弾薬庫があった。小生がこの場所を訪ねたとき、近隣の学生らしき若者たちが劇の練習をこの公園でしていたが、弾薬庫を取り巻いていたと想定される土塁の痕跡がわずかに残っていた。弾薬庫跡だけに、公園には「火気注意」の立て札もある。またこの公園の裏手には江戸川へ下りる通路があり、川で荷物の積み降ろしを行う際に使用したのであろう。

<弾薬庫跡~若者たちの背後に土塁の痕跡が見える>



柏市の戦争遺跡1

2006-05-11 | 柏市の戦争遺跡
1.ロケット戦闘機 秋水の地下燃料格納庫

秋水は、ロケット戦闘機であり、1944年(昭和19年)9月にドイツから図面を譲り受け、設計開発してわずか1年以内に飛行までこぎつけたものの、1945年(昭和20年)に実際に飛行機が作られ、1945年(昭和20年)7月に海軍が横須賀の追浜飛行場にて初飛行を飛行士(犬塚大尉)搭乗で行い、薬液搭載量が少なかったことによるエンジン噴射停止により300m飛んで墜落したというもの。設計図を譲り受けたといっても、資料を遠路運んできた伊号潜水艦は沈められてしまい、設計陣が手にした資料は少なかった。秋水は航続時間が短く、3分で1万mの高度にまで上昇し、急降下でB29など敵機を迎撃する、その次に上昇する高度は7千mとなり、また急降下で敵を狙える、そして一度攻撃すれば滑空により着陸するというという、終戦間際の追い詰められた状況下、当時の軍部が、まさに名刀で一撃必殺の期待をこめて作ろうとしていた迎撃戦闘機である。
困難な状況下で作られたロケット機秋水であったが、一番の問題は燃料であった。

<ロケット戦闘機秋水も配備された柏陸軍飛行場の隊門>


この開発には戦争末期の国家予算の7%がつぎ込まれ、また陸軍専用機でも海軍専用機でもなく、陸海軍の垣根を越えて開発されるという珍しい事例でもあったが、結局燃料生産がうまくいかず、また完成機も上述の状況となった。
そもそも、秋水のエンジンは、甲液(過酸化水素80%と安定剤の混合)、乙液(水化ヒドラジン、メタノール、水の混合溶液に微量の銅シアン化カリを添加)を反応させて推力を得るが、過酸化水素の扱いが難しかった。強い酸化作用で容器を溶かしてしまい、いくつかの試行ののち、たどりついたのが鉄分の少ない土を使った常滑焼の陶器であった。また、有機物が微量でも混ざると爆発するため、その取扱には注意を要した。そして、その危険な燃料の貯蔵庫が、陸軍柏飛行場(現柏の葉公園一帯)の東約2Kmの地域にいくつか作られたのである。

<海軍基地内の秋水>


Wikipediaの画像を使用

柏にはこの燃料貯蔵庫が作られたほか、秋水用の飛行場も建設されつつあった。それらが実現されれば、柏は戦争末期における日本の一大軍事拠点となった筈であるが、飛行場などの建設は未完に終わった。しかし、秋水の地下燃料貯蔵庫址は現存している。その地下燃料貯蔵庫は両端に出入口がある、ちょうど昔の黒電話の受話器のような形をしていて、中は中空になっており、出入口は台地端の斜面などにあり、小さなタンク車が中まで入ることができるような構造になっていた。この奇妙な形は、貯蔵時に出るガスを逃すように風通しを良くするためで、喚起孔もついている。

住宅地の片隅、台地の縁辺に残っている姿は異様だが、貴重な戦争遺跡である。なお、台地端にある燃料貯蔵庫址には、終戦直後引揚者など人が住んでいたとのこと。その後、農家の納屋などとして使用されたが、最近は子供が遊ぶと危険なため、入口や換気孔を塞がれている。

以下の燃料貯蔵庫の写真、上二つについては、地表に露出した址(土を被せる予定であったものか)。その他は、台地斜面を利用して出入口が設けられたもの。

<出入口からは小さなタンク車が出入りするようになっていた>


胴体部分も結構長い(10mくらいはあるか)。



この貯蔵庫自体は国有地にあるようだが、すぐ近くは私有地になっており、奥までは立ち入りできない。

<秋水の地下燃料貯蔵庫址~台地端の斜面に開く出入口>





<秋水地下燃料貯蔵庫址~~下の写真は通気筒として突き出たヒューム管>


台地の縁辺に出入口があり、台地上には通気筒としてヒューム管が斜めにつきだしている。
(低地の住宅街から台地へ上る階段の途中に、燃料庫の出入口のコンクリートが見える)

国家予算を投じて作られた秋水は、着手して1年足らずで5機が完成、1945年(昭和20年)7月に前述のように海軍が横須賀で初飛行を行ったが、不時着大破し、陸軍も1945年(昭和20年)8月20日に阿南惟幾陸軍大臣立会いのもと、お披露目飛行する予定であったが、その前に終戦、阿南陸軍大臣は割腹して自決し、お披露目飛行すらかなわなかった。

註:写真は筆者の親類が地域の催しの際に写したものを一部使用。

参考文献:『歴史アルバム かしわ』 柏市役所 (1984)
     『千葉県の戦争遺跡をあるく』千葉歴史教育者協議会 (2004)
     『最終決戦兵器「秋水」設計者の回想』牧野育雄 光人社 (2006)


松戸市の戦争遺跡1

2006-05-06 | 松戸市の戦争遺跡
1.陸軍工兵学校址

陸軍工兵学校は、現在のJR松戸駅の東口をまっすぐ東へ進んだ相模台の台地上にあった。すなわち、1919年(大正8年)12月にそれまであった松戸競馬場が中山に移転した後に、陸軍工兵学校は開校した。現在、その跡地は松戸中央公園として、市民の憩いの場になっている。

陸軍工兵学校は、1919年(大正8年)4月制定された陸軍工兵学校条例により、開校した日本で唯一の工兵学校である。すでに陸軍には歩兵、騎兵、砲兵などの兵科学校はあったが、第一次大戦を目の当たりにした陸軍は、軍備近代化に伴う工兵関係学術調査研究、工兵用兵器資材の研究試験、下士官候補者・甲種幹部候補生教育を目的として同校を創設した訳である。
工兵学校の学生は全国の部隊から選抜派遣され、下士官候補生1年、甲種学生半年といった教育期間を経て、原隊に復帰し、工兵として各種任務に従事したが、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦にいたるまでの27年間、多くの専門教育を受けた工兵を輩出し、松戸はまさに「工兵の街」であった。

現在も、隊門、歩哨所が、往時そのままで残っているほか、公園内に記念碑がある。

<公園内にある工兵学校の碑>


工兵学校の碑は、松戸中央公園の西側、イトーヨーカドーのある場所に近い台地端にある。「陸軍工兵学校跡」とあり、元陸軍中将宮原國雄の書になる。宮原國雄は、工兵科で陸士、陸軍砲工学校を優秀な成績で卒業し、日露戦争などの戦役に従軍、のちに陸軍省軍務局工兵課長や陸軍砲工学校校長をつとめた人物である。
工兵学校の碑には、「陸軍工兵学校は主として工兵が技術を研究練磨しその成果を全国各工兵隊の将兵に普及する使命をもって大正八年十二月一日景勝の地ここ相模台上に創立せられ逐年その実績を挙げ大正十五年十月二十八日摂政宮殿下の台臨を始めとして幾多の栄誉に浴せしが昭和二十年戦争の終局とともに光輝ある二十七年の歴史を閉じたり。いま台上往年の面影を留めずよって縁故者あい謀り記念碑を建立して後世にに遺す。 昭和四十二年四月 工友会」とある。

<現在も残る隊門>


現在は、松戸中央公園の門になっている。門の横には、歩哨所も残っている。レンガ門であるが、保存状態がよく、工兵学校の看板をかけたフックも残っている。

<よく見ると門にフックの金具も残る>


<歩哨所>


門の横には歩哨所があるが、一人が入ることのできるほどの広さである。

<現在は公園となっている跡地>


工兵学校のあった場所は、現在松戸中央公園となっている。近隣には、検察庁法務局、松戸地方裁判所、公務員宿舎、聖徳学園(大学など)がある。

この相模台の台地へは、西側JR松戸駅のある低地からは、検察庁法務局の横をS字状にカーブした、通称「地獄坂」をのぼっていくのが近道である。一方通行のため、車ではのぼっていくのは出来るが、下ることはできない。

<通称「地獄坂」>


「地獄坂」とは、訓練などの帰途、工兵学校の学生たちが、「学校まで駆け足」という教官の号令のもと、その坂の急勾配を上っていくのが辛いため、この坂をそのように呼んだらしい。この「地獄坂」の途中、写真では車が走っている横のマンション側の電柱と並んで、陸軍の境界標柱があり、「陸軍用地」と書かれている。そのほかにも、近隣には「陸軍用地」の標柱が何本か残っている。

なお、相模台の工兵学校のあった場所は、1538年(天文7年)の第一次国府台合戦の主要な合戦場のひとつであった。この相模台には、その合戦の際の戦死者の塚と伝える「経世塚」が、聖徳学園構内にある。これは2基の円墳で、古代の古墳であり、その上に中世の板碑がのっている。なお、学園関係者によれば、この「経世塚」は、前は別の場所にあったが、事情により現在地にうつされたとのことであるという。

<経世塚~実態は古墳である>



習志野市の戦争遺跡1

2006-05-02 | 習志野市の戦争遺跡
1.騎兵旅団司令部址

軍都津田沼を背景に、習志野市にも戦争遺跡が多い。そのうち、現在の船橋市内にそのほとんどが存在した陸軍駐屯地に関連するものもあるが、その一つが現在公園などになっている騎兵旅団司令部址である。
これは1873年(明治6年)の明治天皇行幸に際して、近衛兵による演習が行われ、それによって演習が行われた大和田原が「習志野原」と名づけられて以来、周辺に軍関係の施設なども拡張配備されてきた一環であるが、1899年(明治32年)日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野原に創設された。1901年(明治34年)には、現在の習志野市域である大久保に転営、東邦大学、日大生産工学部付近に第十三、十四連隊からなる第一旅団、東邦中学校・東邦高校付近に第十五、十六連隊からなる第二旅団がおかれた。また、八幡公園、旧習志野郵便局の場所に旅団司令部がおかれたのである。日露戦争には両旅団が、日中戦争時には第一旅団が派遣された。その日露戦争当時の第一旅団長であったのが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも有名な秋山好古陸軍少将である。ロシアのコサック騎兵部隊に対してよく戦い、騎兵に砲隊も組み込むという独自の編成と騎兵を時には歩兵として使う戦術もあえて行った。しかし、軍隊の機械化により、騎兵連隊はその役割を終え、機械化部隊に再編成されていく。
「習志野市の戦争遺跡2(習志野騎兵と大震災時の虐殺)」を参照方)

なお戦後、連隊の兵舎は、学校の校舎、寮などになり、1975年前位まではかなり残っていたが、いつの間にか新校舎などに建て替えられてしまった。旅団司令部の建物も、郵便局となり、その郵便局も移転した。八幡公園にある旅団司令部の門は現存する。

<習志野騎兵旅団司令部の隊門>


<騎兵旅団司令部址の記念碑>


また、騎兵旅団司令部の隊門付近に、「騎兵第一旅団司令部跡」と書かれた石柱碑「軍馬之碑」などがある。「軍馬之碑」とは、戦場では文字通り、人馬一体となって、騎兵を背にして戦場を駆け抜けた軍馬の霊を慰めるために建てられたもので、「軍馬之碑」「馬頭観世音」「軍馬忠魂塔」と三つが並んでいる。

<「軍馬之碑」と「馬頭観世音」>


騎兵旅団司令部址に程近い誉田(こんだ)八幡神社には、硫黄島の戦いで有名な、習志野騎兵出身の栗林忠道陸軍大将が陸軍少将のときに揮毫した「紀元二千六百年記念参道敷石竣工之碑」という石碑が、その参道脇に建っている。習志野市の一神社の参道のための記念碑にしては、ビッグネームが揮毫したものである。

<栗林忠道揮毫の石碑>


奇しくも硫黄島では、栗林忠道陸軍大将とバロン西こと、西竹一陸軍中佐(戦車第二十六連隊長)という習志野騎兵学校出身の二人の有名人がいたことになるが、かなり身近なところにその足跡があったものである。バロン西については、米軍がその馬術の名人をむざむざ戦死させるのを惜しんで投降を呼びかけたが応ぜず、顔の片側を火炎放射器で焼かれながらも最後の突撃をしたとも、自決したともいわれるが、真相は分かっていない。


2.陸軍鉄道第二連隊の隊門と演習線

現在の千葉工大が、かつて陸軍鉄道連隊のおかれた場所であったことを知る人は、今では少なくなっているかもしれない。
1907年(明治40年)に従来の鉄道大隊が鉄道連隊に昇格、津田沼に兵営を一旦移した後、1908年(明治41年)に千葉に鉄道連隊司令部、第一大隊、第二大隊が移転、津田沼には鉄道第三大隊が置かれた。1918年(大正7年)に津田沼の鉄道第三大隊が、陸軍鉄道第ニ連隊に発展的に改組された。戦後、その津田沼の地にできた千葉工大は、東邦大学などと同様にその兵舎を校舎などとして利用したのである。
かつては、その兵舎を利用した校舎もあったのだが、10年以上前に立て替えられ、現在は見ることができない。今なお残るのは、レンガ造りの隊門のみである。その隊門は、1998年(平成10年)に国の登録有形文化財の指定をうけた。

<陸軍鉄道第ニ連隊の隊門址>


さらに、鉄道連隊絡みの遺跡としては、演習線の址がある。これは京成大久保駅近くのスーパーマルエツ前の歩道が該当する。今では、地域の人の生活道路となっているが、れっきとした軍用の演習線である。
前述のように鉄道第三大隊を津田沼に移転させた軍は、占領地への軍用物資補給を円滑にするための手段として、演習線を作り、それで要員訓練することを考えた。
演習線は、津田沼~松戸、津田沼~三山新田~犢橋~千葉のニ区間とし、総延長45Kmで、敷設、撤去、修理の訓練も行われた。そして、ここで教育を受けた兵たちは、樺太の鉄道敷設、日中戦争などへの出動に駆り出されたのである。

<鉄道連隊演習線址>


現在の新京成線は、鉄道連隊の軍用線のうち、津田沼~松戸間の路線を戦後京成電鉄が獲得し、演習用にその余りに湾曲していた部分はショートカットするなどして営業運転させたものである。現在のイトーヨーカドーに隣接した新京成電鉄新津田沼駅付近は、かつて鉄道連隊の倉庫や資材置場があった。また戦後の一時期、千葉工業高校があった場所でもある。ここに、かつて鉄道連隊で活躍したK2型蒸気機関車の134号機が、そのイトーヨーカドー脇の津田沼一丁目公園に展示されている。機関車としては小振りで、遊園地にでもありそうな汽車である。これは、終戦後西武鉄道に払い下げられ、砂利採り線などで使用されたもので、現役でなくなってからは、ユネスコ村にあったが、1994年(平成6年)に鉄道連隊所縁の津田沼に戻された。かつて鉄道連隊では、こうした軽機関車二台を後ろ向きに連結した、双合機関車として利用された。それは、急カーブや急勾配でも強さを発揮、また車重が軽いことや揚水機をもっているという利点もあった。

<鉄道連隊で使用されたK2型蒸気機関車>



3.陸軍習志野学校

有名な毒ガス問題が新聞等で報道され、環境庁などの住民説明会も開かれた。昭和に入って騎兵第二旅団の施設が転用されるなどして開校、化学兵器の研究がされたが、真相はわからないことが多い。動物実験などが多くなされたという。現在、その記念碑などもなく、むしろ隠蔽しようという向きが多いようである。

<習志野学校の中心部分があった「ならしのの森」>


<コンクリートの基礎などが散乱しているが、一見ただの森に見える>



この習志野学校の遺構は、研究施設などの建物基礎(「ならしのの森」となっている千葉大腐食研究所跡、および隣接する住宅)、裏門跡および歩哨舎跡(泉町の民家横および民家敷地内)、車廠の床面(大久保保育所の園内)、弾薬庫跡(児童公園)などがある。陸軍習志野学校の中心施設は、鉄筋コンクリート製の実験講堂であるが、現在は建物は跡形もなく破壊され、公務員宿舎の建設時に八角形の基礎が見つかったのみである。しかし、この八角形の基礎こそ、中国東北部のハルピン郊外において「関東軍防疫給水部」の名前で細菌兵器の研究をしていた七三一部隊の『八面房』という施設の原型といわれる。
また、戦後習志野学校が保有していた毒ガスを遺棄したという証言もある弾薬庫近くは、現在住宅地となり、弾薬庫跡はなぜか児童公園になっている。
裏門跡の北側は、練兵場であったが、現在は住宅地になっている。わずかに、「陸軍用地」と書いた御影石の境界標石が残る。

<終戦直後~近くに毒ガスを遺棄したという証言のある弾薬庫跡>


<裏門跡の北側に残る境界標石>


詳しくは、
筆者の「千葉県の戦争遺跡」HPの「陸軍習志野学校」の頁を参照方。