成田市に八生、または埴生と書いて「はぶ」と読む地名があるが、その場所は下総松崎(まんざき)駅から歩いていける場所である。昔は純農村地域だったようで、いまでもそういう面影がある。今でも、駅に降りると、眼前に水田が広がり、八生は水田の向こうの台地上の場所になる。
<下総松崎駅より八生地区を望む>
太平洋戦争も末期となった1945年(昭和20年)2月、今の成田市松崎(まんざき)になるがJR下総松崎駅から歩いて20分ほどの八生地区に米軍機が落ちた。これは日本軍が迎撃して落としたのであるが、運悪く八生国民学校(今の八生小学校)に落ちてしまった。
その墜落現場とそのときの米軍機パイロットが一時埋葬されていたという寺を訪ねて、小生現地を訪問した。それは、この記事を書いている現在から、もう11ヶ月も前で、随分と日にちが過ぎてしまった。
下総松崎駅には、JR成田駅で成田線に乗り換えれば、5分ほどで着く。しかし、そこからは歩いて行くしかない。駅前にタクシーでもいればと思ったが、この駅自体時間帯によっては、無人駅になるような駅である。
下総松崎駅の駅員さんに、八生国民学校に米軍機が落ちた話をしても、そんな話は聞いたことがないとのこと。やむなく、そのまま八生小学校に向かうことにした。
曲がりくねった舗装道路を駅から成田方面に戻るような格好でしばらく歩くと、寿司屋があり、そのあたりから台地へのぼる坂道となる。そして、のぼると集落があり、米軍機パイロットが一時埋葬されていたという来迎寺は、すぐに見つかった。
<墜落した米軍機のパイロット、トーレイ中佐の遺体が一時改葬された来迎寺>
来迎寺には、裏手に墓地があり、何か碑でも建っているかと思い見てみたが、何もそれらしきものは見当たらず。
それで、次に戦時中八生国民学校であった八生小学校に行くことにした。途中、道を聞こうとして立ち寄った、よろず屋のおかみに聞いたが、やはり米軍機の墜落は嫁に来る前の話で、よく知らないという。おじいさんは知っていると思うが、といっていたが、あいにく留守であった。
教えられた通りに歩き、八生小学校も、結局来迎寺とそれほど離れていなかったが、行って見ると、古いスーパー(営業しているか不明)があって、その隣に新しい校舎の小学校が建っている。もはや、戦時中に焼失して再建した校舎もなく、事故の痕跡も何も残っていない。石碑があったが、それは創立百周年を記念して建立されたもので、米軍機墜落とは関係ない。
<八生小学校は米軍機墜落の痕跡なし>
前述したとおり、米軍機は日本軍によって撃墜されたが、落ちた場所が八生国民学校。それで、その国民学校は壊れて、全焼した。その米軍機を操縦していた、フィリップ・トーレイ海軍中佐は操縦席に腰掛けたまま死んでいた。
その中佐の死体を操縦席からはずそうにも、周りに集まってきた地域の人たちは英語が読めず、操縦席をどう動かして外れるかが分からない。ようやく湯浅為司郎という医者で当時の八生村村長だった人が駆けつけ、英語の説明書を読んで、操縦席からトーレイ中佐の遺体をはずした。ちなみに、その地域は隣のスーパーなどを含め、湯浅という名字の家だらけである。
その後、集まってきた人たちはトーレイ中佐の遺体を殴ったり、中佐が所持していたピストルを奪い合ったりしたが、結局ピストルは憲兵隊に没収された。
その遺体は、村はずれの馬捨て場に葬られたが、戦後になって米軍が当時の松崎村に墜落機の調査に来た。そのとき、大沢という村の収入役が、馬捨て場に埋葬したことをまずいと判断、来迎寺という近くにある寺の墓地に改葬して、事なきを得たという。そして、遺骨や遺留品を取りにきた米軍の担当者は、手厚く葬ってくれたことに感謝の意を表したという。
終戦を境にして、こんな話は全国的にいろいろあった。
なお、近くの台地上にある現在の成田西陵高校(かつての八生農学校)あたりには、防空壕が地元の人の手によって、掘られていたが、現在は残っていない模様である。
<下総松崎駅より八生地区を望む>
太平洋戦争も末期となった1945年(昭和20年)2月、今の成田市松崎(まんざき)になるがJR下総松崎駅から歩いて20分ほどの八生地区に米軍機が落ちた。これは日本軍が迎撃して落としたのであるが、運悪く八生国民学校(今の八生小学校)に落ちてしまった。
その墜落現場とそのときの米軍機パイロットが一時埋葬されていたという寺を訪ねて、小生現地を訪問した。それは、この記事を書いている現在から、もう11ヶ月も前で、随分と日にちが過ぎてしまった。
下総松崎駅には、JR成田駅で成田線に乗り換えれば、5分ほどで着く。しかし、そこからは歩いて行くしかない。駅前にタクシーでもいればと思ったが、この駅自体時間帯によっては、無人駅になるような駅である。
下総松崎駅の駅員さんに、八生国民学校に米軍機が落ちた話をしても、そんな話は聞いたことがないとのこと。やむなく、そのまま八生小学校に向かうことにした。
曲がりくねった舗装道路を駅から成田方面に戻るような格好でしばらく歩くと、寿司屋があり、そのあたりから台地へのぼる坂道となる。そして、のぼると集落があり、米軍機パイロットが一時埋葬されていたという来迎寺は、すぐに見つかった。
<墜落した米軍機のパイロット、トーレイ中佐の遺体が一時改葬された来迎寺>
来迎寺には、裏手に墓地があり、何か碑でも建っているかと思い見てみたが、何もそれらしきものは見当たらず。
それで、次に戦時中八生国民学校であった八生小学校に行くことにした。途中、道を聞こうとして立ち寄った、よろず屋のおかみに聞いたが、やはり米軍機の墜落は嫁に来る前の話で、よく知らないという。おじいさんは知っていると思うが、といっていたが、あいにく留守であった。
教えられた通りに歩き、八生小学校も、結局来迎寺とそれほど離れていなかったが、行って見ると、古いスーパー(営業しているか不明)があって、その隣に新しい校舎の小学校が建っている。もはや、戦時中に焼失して再建した校舎もなく、事故の痕跡も何も残っていない。石碑があったが、それは創立百周年を記念して建立されたもので、米軍機墜落とは関係ない。
<八生小学校は米軍機墜落の痕跡なし>
前述したとおり、米軍機は日本軍によって撃墜されたが、落ちた場所が八生国民学校。それで、その国民学校は壊れて、全焼した。その米軍機を操縦していた、フィリップ・トーレイ海軍中佐は操縦席に腰掛けたまま死んでいた。
その中佐の死体を操縦席からはずそうにも、周りに集まってきた地域の人たちは英語が読めず、操縦席をどう動かして外れるかが分からない。ようやく湯浅為司郎という医者で当時の八生村村長だった人が駆けつけ、英語の説明書を読んで、操縦席からトーレイ中佐の遺体をはずした。ちなみに、その地域は隣のスーパーなどを含め、湯浅という名字の家だらけである。
その後、集まってきた人たちはトーレイ中佐の遺体を殴ったり、中佐が所持していたピストルを奪い合ったりしたが、結局ピストルは憲兵隊に没収された。
その遺体は、村はずれの馬捨て場に葬られたが、戦後になって米軍が当時の松崎村に墜落機の調査に来た。そのとき、大沢という村の収入役が、馬捨て場に埋葬したことをまずいと判断、来迎寺という近くにある寺の墓地に改葬して、事なきを得たという。そして、遺骨や遺留品を取りにきた米軍の担当者は、手厚く葬ってくれたことに感謝の意を表したという。
終戦を境にして、こんな話は全国的にいろいろあった。
なお、近くの台地上にある現在の成田西陵高校(かつての八生農学校)あたりには、防空壕が地元の人の手によって、掘られていたが、現在は残っていない模様である。
実は、私のBLOGでこちらの記事を紹介させて頂きたいと思っているんですが、事前にご許可を頂きたくコメントさせて頂きました。
津田沼の陸軍鉄道連隊の事を書かれた記事が素晴らしいのでぜひ紹介させて頂きたいのですが、お許し願えますでしょうか?普段森さんのような素晴らしい事は書けないporcoですが、千葉に住んでいる人も最近訪れてくれておりぜひ皆さんにこんないいBlogがあるんだよと教えてあげたいという気持ちをくんで頂き、ご許可して頂ければと思っております。
ぜひよろしくお願いします。
porco
こちらこそ、ありがとうございます。足で稼いだといっても、それほど遠くへは行っていないのが実際のところです。
貴ブログのご発展をお祈りいたします。
八生小と検索したらここにたどり着きました。
米国兵の慰霊碑は校庭の裏庭のようなところにたっていましたよ!道路から見ると後者の裏側です。
小学生のときはその場所は薄暗くて、あんまり近寄りませんでした。
いつだか、全校集会のときに校長が当時の状況についてお話してくれたのを覚えています。当時は校舎にいたそうですが、空中戦がひどくなってきていったん防空壕に避難した際に飛行機が落ちたとか。集まって来た人たちは米国兵を見て目が青くてめずらしがってたみたいです。
慰霊碑があったとは知りませんでした。痕跡がないというのは間違いですね。早速確認に行こうと思います。
成田には鉄道連隊の門跡もあり、HPに載せようとしていたところでした。情報、ありがとうございます。
しかし、地域の出征者の慰霊碑であり、戦後地元の人が建立したのですから、戦争遺跡には違いありません。
ちなみに、成田、三里塚の鉄道連隊がつくった軽便鉄道関連の遺構については、HPに載せました。
そうだったのですね。
誤った情報をお伝えしてしまい申し訳ありませんでした。
よく裏庭(確かわんぱく広場?)に米兵の慰霊碑があると聞いていたので、何も疑わずにそう思っておりました^^;
しかし、出征者の慰霊碑が小学校の校庭内に立っているんですね。
私は、US企業の子会社に勤務している者です。
先日、上司の上司に当たる本社の人間が、出張で日本にやってきました。私に松崎の地図を見せここに行きたい取っていました。
彼の叔父がそこに行ったことがあるとの事で、八生小学校と来迎寺に行きたいと言っていました。
よくよく聞いてみると、第2次大戦中、彼の母方の祖父が操縦していた戦闘機が小学校に落ちたというではありませんか。
私は、八生小学校と来迎寺のあたりの地図を印刷し、行き方を教えました。成田なので帰りの飛行機の前に立ち寄るのがいいだろうと伝え、タクシーに渡す日本語のメモももたせました。
彼は、本国に帰ったあとメールで連絡をくれました。八生小学校と来迎寺には無事たどり着けたそうです。来迎寺では、祖父の慰霊碑のようなものを探していたそうですが、見つからなかったそうです。小学校では、創立記念の碑の写真を撮ったみたいです。
彼の叔父が、30年ほど前に八生に訪れた時にトーレイ中佐の葬儀が行われたそうです。八生の人たちは、とてもよくしてくれたそうです。
世の中狭いですね。
トーレイ中佐は名家の出身らしく、戦後米軍の調査団が訪ねてくるときは、大騒ぎになったようです。トーレイ中佐のお身内が来たことはしっていましたが、30年前に葬儀が行われたことは知りませんでした。ありがとうございます。