千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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船橋市の戦争遺跡5(嗚呼海軍七勇殉難之趾)

2009-06-07 | 船橋市の戦争遺跡


船橋市は新京成滝不動駅から東に1Km余り行ったところに、大穴という地区がある。その大穴北8丁目にある高齢者用住宅の近くに、谷津田に面して、台地中段が帯状に平坦になっている場所があるが、なにやら石塔があるのに気付く。近くに寄らなければ分からないが、実はその石塔は「嗚呼海軍七勇殉難之趾」と彫られており、戦争中に海軍機が墜落した慰霊碑である。

(慰霊碑のある台地中段)


そのあたりには谷津田があり、以前は周囲にほとんど家など建っていなかったが、最近では市街化が進み、谷津田沿いの道も散歩したり、サイクリングしている人も多い。たぶん、そうした人は、ここが日本海軍の一式陸上攻撃機が墜落した場所であることは知らないであろう。

大穴という集落は、江戸時代からあり、女流俳人である斎藤その女が出た。その中心地は、もっと東の西光院辺りだったと思うが、斎藤その女の墓もその西光院にある。それはともかくとして、上述の場所に一式陸攻が墜落したのは1942年(昭和17年)11月27日で、乗組員の7名が亡くなった。だから、くだんの慰霊碑にも、「海軍七勇」と彫ってあるのである。

墜落した一式陸攻は、第七〇二海軍航空隊所属のもので、殉職した7名とは飛曹長1名、一飛曹2名、一整曹1名、二飛曹3名の准士官・下士官たちであった。第七〇二海軍航空隊といえば、第四海軍航空隊がラバウルから木更津に帰還する際に改称したものである。第四海軍航空隊は、一式陸攻をラバウルに配備するために、台湾の高雄海軍航空隊から19機引き抜き、千歳空の中攻8機とあわせて1942年(昭和17年)2月に編成された陸上攻撃機の航空隊である。しかし、その編成から半年後の8月7日にはガダルカナル島に上陸した米軍を攻撃し、6機を失い、翌8月8日には第一次ソロモン海戦に出撃するも、わずか3機が帰還でき、殆ど壊滅に近い状態となったといういわくつきの航空隊である。その後も、大きな痛手を受けることがあり、そのため第四航空隊、略して四空は、かげで「死空」と呼ばれるにいたった。

ラバウルは、日本陸海軍が南洋諸島のなかで、最重要拠点としたが、第四海軍航空隊は大きく傷つき木更津に帰還して、名前を第七〇二海軍航空隊とかえ、夜間攻撃訓練、本州東方海上哨戒にあたった。その後、1943年(昭和18年)春には再びラバウルへ行くのであるが、大穴の墜落事故は木更津にいる間に起きた。

(富士山付近を飛ぶ一式陸攻)


1942年(昭和17年)11月27日早朝4時過ぎのこと、天候が急変し、豪雨、雷となったところ、飛行訓練中であった第七〇二海軍航空隊の一式陸攻が大轟音とともに、当地に墜落した。そのため、近隣の人が駆けつけると、墜落した一式陸攻の機体は真っ二つとなって折れており、あたりには油のにおいがし、煙がたちこめていたという。墜落現場は、憲兵や警察隊などが取り囲むなか、当時の豊富村の斎藤村長だけがある程度まで近くに入ることを許された。当時の斎藤村長は、戦後も30年以上生きていたため、斎藤村長の見聞したことが伝わっており、それで当時の様子がある程度分かっている。とにかく、憲兵たちはこれは軍の機密であるから、見聞きしたことを決して漏らさないように、口外しないようにと、再三村民に注意したという。
その翌日には4台のトラックで飛行機の残骸をきれいに運び出し、斎藤村長(当時)のもとには海軍当局から極秘の書状が届いたという。

慰霊碑が建立されたのは、墜落事故の3カ月後の1943年(昭和18年)2月27日で、地元の有志が中心となったようである。建立された当初は、建てた当人たちが管理していたのだろうが、どういうわけか1964年(昭和39年)近所の住民が偶然発見するまで、土中に殆どが埋もれていた。慰霊碑は白御影石でできており、正面の「嗚呼海軍七勇殉難之趾」は大きな字で明確に分かるが、裏面と側面の字が細かくて分かりにくい。薄曇りの日を選んで行き、斜めから見るなどして、何とか判読すれば、以下の通りであった。

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(正面)
嗚呼海軍七勇殉難之趾

(裏面)
故 海軍飛行兵曹長  松本博
  海軍一等飛行兵曹 横山彦造
  同        重村惠
  海軍一等整備兵曹 富澤正吉
  海軍二等飛行兵曹 島田茂
  同        高橋利省
  同        飯田輝與

(向かって右側面)
昭和十八年二月二十七日建之 (以下略)
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思えば、ラバウルから帰還し、飛行訓練をしていた飛行兵曹長と下士官連中は、まさか内地のこんな田圃の近くの山林で墜落して死ぬとは思っていなかったに違いない。その事故を軍機密と処理した海軍、それに対して慰霊碑を建てた当地の住民。戦後一時期、土中に埋もれていた(あるいは故意に埋められていた)、この慰霊碑には、時々誰かがお参りしているものと見え、先日はきれいなユリの花などが供えられていた。こうした慰霊碑には、当時の世相を反映して軍国調な言葉が使われているが、その言葉とは別に近隣の人々の思いが伝わってくる。

(花が供えられた慰霊碑)




(参考文献)
平成15年第4回船橋市議会定例会会議録

(参考サイト)
生まれも育ちも東葛飾
http://blogs.yahoo.co.jp/nonki1945/folder/556027.html?m=lc&p=2


船橋市の戦争遺跡4(東部軍教育隊、市街地に残る石塔・石碑類)

2006-12-29 | 船橋市の戦争遺跡

1.東部軍教育隊

習志野自衛隊の近く、現在の薬円台高校のあたりは、かつて東部軍教育隊が置かれた場所である。
1873年(明治6年)に初めて大和田原(習志野原)が演習場として使われ、その後陸軍の駐留、騎兵学校の開設を経て、習志野騎兵隊の存在は、地域経済にも影響を与え、隣接する薬園台(現在は薬円台と一般に表記される)でも軍の御用商人が増え、洋服の仕立て屋、靴屋といった軍人の生活を支える商店などが出来るようになった。
当地の地名、薬園台とは、江戸時代に丹羽正伯らが徳川八代将軍吉宗の時に幕府の命令で開発した薬草園のあった場所で、そこから薬園の台、薬園台となったものである。それ以前は、一面広大な牧であった。
時代は下って、太平洋戦争も戦局の押し詰まってきた1943年(昭和18年)8月、薬円台と習志野原の一部を用地として、薬円台の農地が強制的に買収され、陸軍の下士官を養成するための東部軍管区教育隊が開設された。この教育隊は、当初下士官養成のためのものであったが、翌1944年からは幹部候補生教育が行われることになった。これは戦局が暗転し、多くの若者が職を離れ、あるいは中途で学業を放棄させられて戦線に送り出される中、兵の一番身近な指導者である下士官を大量に養成する必要によって設置されたものである。開設から半年後、幹部候補生教育を行うようになってからも、毎年千名ほどの入隊者を数えたという。

<東部軍教育隊の正門跡~右側は薬園台高校>


現在、東部軍教育隊の兵舎などの建物はない。しかし、戦争直後には兵舎を利用して小学校の教育などがされている。すなわち、1951年(昭和26年)には東部軍教育隊の兵舎を利用して船橋市立薬円台小学校が創立、道路を挟んだ南西には千葉県立船橋高校の習志野校舎が出来た(船橋高校農業科、現薬園台高校園芸科)。

東部軍教育隊の正門は、現在の薬園台高校の正門脇道路のあたりにあったというが、遺構は何も残っていない。わずかに、裏門の門柱のみ残っている。

裏門の門柱は、新京成習志野駅近くの商店街にあり、薬園台高校脇の道路を北へ進んで和菓子屋が角にある道路の突き当り、和菓子屋の横にある。いまだに金具も付いている。本来、片側だけでなく、もうひとつ門柱があったのだが、7年ほど前に倒れ、役場の人が回収したのだという。なお、近所の人に聞いても、新住民が多く、なかなか昔のことがわからず、聞いたなかで知っていたのは和菓子屋のおかみさんのみ。近所に船橋市郷土資料館があり、近隣の文化財等のマップがあるので、分からない場合には、そこで聞くのが早いかもしれない。

<東部軍教育隊の裏門門柱~金具も残る>


<東部軍教育隊の裏門門柱~表から見たところ>


2.中山競馬場近くの馬頭観世音

中山競馬場近くに、馬頭観音が集められている場所がある。これは江戸時代から昭和にいたる時代に弊馬となった馬たちを埋葬した証であるが、実はこれも戦争遺跡である。習志野市大久保にある陸軍騎兵旅団司令部跡にも、軍馬の碑があったり、馬と軍隊は関わりが多いのだが、この馬頭観音は少しく意味合いが違うものがある。
中山競馬場は、松戸に陸軍工兵学校が開かれるまでは、松戸の相模台にあった。1919年(大正8年)12月に松戸競馬場は中山に移転し、中山競馬場となった。太平洋戦争も中盤となった1943年(昭和18年)12月、「競馬開催の一時停止」が閣議で決められ、翌1944年(昭和19年)3月には中山競馬場は閉鎖、陸軍に接収された。その跡に、陸軍軍医学校中山出張所等が開設された。その陸軍軍医学校中山出張所では、当時陸軍で負傷した場合に、最悪手足を切断せざるをえないため、悩みのタネとなっていた破傷風、ガス壊疽などの血清の製造が行われた。すなわち、馬に破傷や壊疽の菌を注射して、抗体を作り、その馬から血を抜いて、血清とするというもの。この血清製造用に御役御免となった競走馬などが使われた。また、馬の採血や死体処理には、衛生兵などでは手が足らず、近隣の船橋中学校(現在の県立船橋高校)、市川中学(市川学園高校)の生徒が駆り出された。

現在、馬頭観音は大きな石塔が3基、その両側に8つずつ、計19基たっているが、大きな石塔の向かって右側の戦後建立のものが、血清製造の犠牲となった馬たちの供養に建てられたものであろう。
他にも、陸軍習志野学校の動物実験の慰霊塔などあるが、動物たちも犠牲を強いられていた、一つの証である。

<中山競馬場近くの馬頭観音群>


3.市街地に残る石碑類

船橋の旧市街地にも意外に、戦争に関わる石碑類が残っている。
他にもあると思うが、筆者の知っているもので忠魂碑や隊碑以外のものでは、以下の通り。

・海神の竜神社にある、国防婦人会建立の「髪塚」
・古作の熊野神社にある、「一億一心」と刻まれた国旗掲揚台
・海神の入日神社にある、「国威宣揚」と刻まれた国旗掲揚台
・西船橋の春日神社の「国威宣揚」と刻まれた石柱
・船橋本町の稲荷神社の「国威宣揚」と刻まれた石柱(陸軍中将が揮毫)
・船橋本町通りの厳島神社にある、「天壌無窮」と刻まれた国旗掲揚台
・船橋御殿通りの道祖神社にある、「国威宣揚」と刻まれた国旗掲揚台
・津田沼(元は船橋市前原西にあった)の八坂神社にある、「皇紀二千六百年」と刻まれた国旗掲揚台

<船橋道祖神社の「国威宣揚」の国旗掲揚台>

 
その他、墓碑では既出の船橋市習志野霊園(陸軍墓地)の日本、ドイツ、ソ連の各墓碑や古い明治期の墓塔、あるいは戦争遺跡とするのかどうかがあるが、船橋市街地、市民文化ホール近くの海軍少佐の墓(伊号潜水艦の航海長で、潜水艦同士の衝突事故で事故死、大尉から特進)などがある。

また、馬込霊園の中にある関東大震災後の虐殺でなくなった朝鮮人たちの慰霊碑などがある。船橋市域では北総鉄道の工事に携わっていた朝鮮人労務者が、移送中に自警団を称する暴徒に襲われ、現在の船橋市北口の天沼付近で虐殺されている。また逃げた朝鮮人を追いかけていき、下飯山満まで追いかけて日本刀で斬殺するなど、悲惨な事件も種々発生し、船橋市街地での虐殺では、あまりの悲惨さに消防団員が朝鮮人の子供二人を救助し、警察で保護させたということもあった。

大きな石碑は戦後(1947年)になって、在日本朝鮮人連盟が建てたもので、最初本町に建てられ、のちに当地に移されたものである。

<馬込霊園の関東大震災時の朝鮮人虐殺犠牲者の碑>


なお、関東大震災の朝鮮人たち虐殺の犠牲者などの碑は、もうひとつ馬込霊園にあり、「法界無縁塔」と裏面に「大正十三年九月一日建之」と刻まれているのみである。これは、1924年(大正13年)9月1日に船橋仏教会を中心とした地元の有志が、殺された朝鮮人を供養して建てたものという。もともとは、船橋市本町2丁目816番地の火葬場にあった。これも、1967年(昭和42年)にその火葬場から現在の場所に移された。

<馬込霊園の「法界無縁塔」>


海神の竜神社の「髪塚」は、「昭和十七年三月建之」「大日本国防婦人会海神班」とある。また、古作の熊野神社にある、「一億一心」と刻まれた国旗掲揚台には、横に「紀元二千六百年」「昭和十五年七月七日 町会設立紀念」とあり、これは、太平洋戦争開戦前の北部仏印進駐が行われ、日独伊三国同盟が結ばれようとしていた時期に、行政の末端にまで戦意高揚の気運が高められていたことの資料であろう。

<海神の竜神社の「髪塚」>  


<古作熊野神社の「一億一心」の国旗掲揚台>


<津田沼の八坂神社にある「皇紀二千六百年」の国旗掲揚台>


4.鉄道連隊演習線の境界標石

現・新京成電鉄の路線となっている、かつての鉄道連隊演習線関連の遺構としては、習志野市にある陸軍鉄道第二連隊の隊門、鎌ヶ谷市内の橋脚などがある。そのほか、地味ではあるが、かつての演習線に沿って境界標石がみられ、松戸市内に数多くあるが、船橋市内にもいくつか存在する。下は、その一つで、新京成前原駅にほど近い場所にある、民家の塀に埋め込まれるようにして、残っている。

<新京成前原駅近くにある境界標石>


船橋市の戦争遺跡3(日本建鐵から行田周辺)

2006-07-08 | 船橋市の戦争遺跡
1.軍用機「雷電」を製造していた日本建鐵

「ああ紅の血は燃ゆる」という軍歌をご存知だろうか。
「花も蕾の若桜・・・」で始まるこの歌は、学業を中途で投げ出し、ある者は学徒出陣、またある者は軍需工場への勤労動員という若者たちの姿を歌ったものである。歌詞の内容は、当然ながら当時の軍国模範青年を奨励するような官製のものであるが、実際に青春を犠牲にした人々の思いは、そんなものではなかっただろう。

前にも述べたが、元々船橋は余り工業が発達した地域ではなかったが、1935年(昭和10年)にJR船橋駅の近く、現在の西武百貨店のある場所に、昭和製粉船橋工場のビルがたったのを皮切りに、1939年(昭和14年)には鴨川ニッケル工業が設立、1941年(昭和16年)には日本建鉄が行田の海軍無線電信所の西の20万坪という敷地で、軍需製品を生産した。

<周辺地図:水色で囲った部分がかつての日本建鐵跡地>


その日本建鐵は、今も当地で工場の操業を続けているが、本来の敷地は現在のものより広かった。ここでは、最盛期には徴用工を含めて2万人もの人が働いていたという。当時の寮などは残っていないが、新京成バスの「建鉄循環」路線では、建鉄荘前-第一希望荘-第四希望荘という寮の名前のついたバス停があり、往時の名残りがあるのみである。
この日本建鐵では、主に海軍の航空機関連の部品を製造した。ここでは迎撃戦闘機「雷電」の大半の部品を取り付け、七十五機製造したこともあるという。

<現在の日本建鐵正門>


日本建鐵のHPを見ても、過去海軍管理工場であり、軍需工場で軍用機の部品等製造していたことは書かれていない。
「1920(大正 9年) 4月 東京建鐵株式会社創立(当社創業) 
 1921(大正10年) 1月 東京建鐵株式会社を解散、日本建鐵工業株式会社を設立し事業を継承 
 1950(昭和25年) 1月 資本金3千万円をもって日本建鐵株式会社を設立し、本社を東京都千代田区丸の内2丁目3番地におき、日本建鐵工業株式会社の事業を継承」とあるのみである。

この船橋の日本建鐵用地は、1941年(昭和16年)三菱地所が買収したもので、過去に三菱商事が再建の支援もした関係もあり、日本建鐵と三菱財閥は以前からつながりがあった。三河島などで軍艦の防火鎧扉や大型艦船攻撃用爆弾、爆弾投下器などの軍需用品を作っていた日本建鐵の新工場用地を買収することで、三菱が日本建鐵の軍需関係の技術を活用する狙いも、その船橋での新工場建設にはあった。そして三菱系の技術陣も迎えられる中、日本建鐵の本格軍需工場としての生産が行われた。

前述のように日本建鐵にも、千葉中、佐原中、佐倉高女などの学生が学徒動員された。彼ら学徒勤労報国隊は、学業半ばで航空機部品の生産に従事した。

その後、日本建鐵は1944年(昭和19年)12月の空襲では、周辺住宅などへの空爆の被害があったが、工場自体への被害は軽微であり、戦後も操業を続けた。朝鮮戦争での特需に潤うこともあったが、一度は会社整理、工場用地も一部売却して規模縮小した。以前の工場敷地に大型スーパーや集合住宅が出来たりしているのは、そのためである。現在は建材事業から撤退し、事業をショーケース事業・ランドリー事業・環境事業・不動産事業に再編、三菱の家電製品の生産などを行っている。2005年(平成17年)5月、三菱電機の完全子会社となり、今日に至っている。

<日本建鐵敷地内の古い建物>


2.行田周辺の海軍標石

上記日本建鐵があった区画から程近い、行田周辺には行田海軍無線通信所があった関係からか、海軍境界標石が畑などに立っている。
まず、日本建鐵の工場から北西に向い、行田東公園が見えてくる辺りにある畑の中に数本、「海軍」と書かれた標石がある。「海軍」の字の上にある波型模様は、海軍だからやはり海の波であろうか。
もう一つ、行田東小学校の構内、グランド脇の植え込みに「無用ノ者ハ入ル可カラズ 海軍」と刻された石柱が立っている。これは行田海軍無線通信所の近辺にあったものを、戦後移動したものである。
しかし、いずれも顧みられることもなく、人知れず立っている。

<畑のなかの海軍境界標石>


<行田東小学校にある海軍標石>

船橋市の戦争遺跡2(市場にあった鴨川ニッケル製錬所)

2006-06-11 | 船橋市の戦争遺跡
1.船橋にあった軍需工場

船橋は、1935年以降(昭和10年代)になるまで、工業といっても手工業的なものが中心であり、大規模な工場などはなかった。船橋は1937年(昭和12年)に市制に移行したが、その頃から船橋に新会社の工場を設立、あるいは東京から生産拠点を船橋に移す会社が増え、一気に工業化が進んだ。その中心が、軍需に基づく金属加工や機械部品の生産であった。

1935年(昭和10年)にJR船橋駅の近く、現在の西武百貨店のある場所に、昭和製粉船橋工場のビルがたったのを皮切りに、1939年(昭和14年)には鴨川ニッケル工業が設立され、現在の船橋中央卸売市場にある場所に船橋製錬所が建設されて操業を開始、1941年(昭和16)には日本建鉄が行田の海軍無線電信所の西の20万坪という敷地で、軍需製品を生産した。そのほか、三菱化工、野村製鋼が船橋に工場を設けたが、何れも軍需関連である。

<船橋の中央を流れる海老川>



2.鴨川ニッケル工業の成り立ち

鴨川ニッケル工業とは、現在の紀文フードケミファ株式会社であるが、かつては千葉県の鴨川の山中から採掘した、ニッケル原石から、特殊金属といわれたニッケルを製錬し、金属部品加工を行っていた会社で、戦時中は製錬したニッケルで飛行機部品の加工を行っていた。
紀文フードケミファ株式会社の有価証券報告書を見ると、会社の沿革については、以下抜粋したように書かれている(西暦は筆者が付記)。

昭和14年(1939)12月 鴨川ニッケル工業(株)として創業
昭和23年(1948)1月 アルギン酸製造開始(鴨川工場)
昭和31年(1956)10月 ロイド製造開始(鴨川工場)
昭和36年(1961) 10月 東京証券取引所市場第二部に株式上場
昭和37年(1962)6月 社名鴨川化成工業(株)と変更
昭和58年(1983)4月 社名(株)紀文フードケミファと変更
           (株)紀文ヘルスフーズより、岐阜工場を譲り受ける。豆乳の製造を開始(岐阜工場)
昭和60年(1985)9月 (株)紀文ヘルスフーズより、埼玉工場を譲り受ける。豆乳の製造を開始(埼玉工場)
昭和62年(1987)10月 子会社(株)アグミンを吸収合併。調味料製造開始(鴨川工場)
平成2年(1990)2月 ヒアルロン酸の製造開始(鴨川工場)
平成2年(1990)9月 (株)紀文ヘルスフーズ、(株)紀文フーズより営業を譲り受ける。業務用食材の販売を開始。 (略)
平成15年(2003)6月 埼玉工場がISO(国際標準化機構)14001 認証を取得
           医薬用ヒアルロン酸原体の製造承認と製造業許可を取得(鴨川工場)       (以下略)

上記沿革には書かれていないが、元々鴨川ニッケルが設立されたのは、特殊金属であるニッケルの軍事利用が、アジアへの侵略戦争の遂行上必要となり、その安定的な確保が要求されていたからである。1937年(昭和12年)の時点では、「千葉県鴨川町郊外嶺岡山脈一帯の蛇紋岩鉱区より貧鉱処理による純ニッケル生産を計画、会社は資本金二千万円、創立委員長に日鉄会長平生釟三郎氏を推す予定」*1であったのが、翌年には「千葉県鴨川町附近の蛇紋岩を原鉱として貧鉱処理による国産ニッケルの精錬に着手」*2となり、鴨川町では既に製錬が始まったことが分かる。
そして、1939年(昭和14年)12月には、正式に鴨川ニッケル工業株式会社として設立されている。 *1、*2:朝日新聞より 神戸大学調べ

船橋では1939年(昭和14年)まで鴨川ニッケルの工場用地とされた、中世に船橋城があった「城の腰」が整地され、船橋製錬所建設が行われて、1940年(昭和15年)には工場が操業されている。

<鴨川ニッケル船橋製錬所のあった船橋中央卸売市場>


その後、1941年(昭和16年)12月8日には、太平洋戦争が日本軍による真珠湾攻撃によって始まり、以降日本は満州事変以降の戦線を太平洋全体に拡大するという無謀な戦争に突入した。それは、昭和天皇が陸軍の杉山元帥に中国戦線が収まらないことを問いただし、杉山元帥が「中国は奥がふかいので」と言い訳したことに対し、「太平洋はもっと奥が深いではないか」と叱責したのに象徴されるように、天皇、軍部も戦局の大局観を失い、無闇に戦線を拡大したがゆえに、経済は軍事一辺倒となり、国民生活は犠牲にされていった。

3.鴨川ニッケルの戦時下の事故

工業生産もまた、軍需優先となり、多くの国民や朝鮮人、中国人が徴用されて、工場労働に強制的に従事されることになる。
そのような状況下で、鴨川ニッケルでは、1943年(昭和18年)1月10日午前1時20分頃に船橋製錬所第一工場の溶鉱炉が爆発し、従業員20名が死傷するという事故が発生した。その翌日の朝日新聞によれば、「千葉県船橋市宮本町鴨川ニッケル船橋製錬所第一工場溶鉱炉が一大音響とともに爆発、天井を破壊、作業中の従業員三十名中即死者九名、重軽傷者十一名を出した」とあり、記事には即死者の氏名、住所、年齢が記されている。即死者の住所は千葉県内八名(うち船橋市内が三名)、あと一名は茨城県結城郡五箇村となっている。年齢は二十代、三十代が多く、二十歳の者が犠牲者の最年少のようだ。また、九名全て日本人名で、なくなった人々は日本人であったのだろう。

<事故を伝える新聞(1943年(昭和18年)1月11日の朝日新聞)>


彼らが徴用工であったのか、否かは不明であるが、船橋市の三名は一人が宮本町、残り二名が湊町と近所であり、湊町の一名は船橋に多い滝口姓であることから、少なくとも船橋の三名は近所に工場が出来て就職した地元青年であろう。前途有為な青年が、無謀な戦争を遂行するための「産業戦士」として動員され、事故であっけなくなくなったのは慙愧に耐えない。

<事故の後、1943年(昭和18年)4月19日に建てられた慰霊碑>






船橋市の戦争遺跡1

2006-04-29 | 船橋市の戦争遺跡
1.習志野原と騎兵学校

千葉県に習志野市という市があるが、実は習志野という地名は船橋市にある。こういうと、ややこしいが、習志野という町名や駅名は船橋市内にあって、もともと習志野という地名の発祥地も船橋市内の習志野原である。習志野原はかつては大和田原と呼ばれ、松原の広がる広大な原であったが、明治初期に陸軍の演習が行われて以来、陸軍の駐屯地になり、今では自衛隊がおかれている。

この習志野という地名は、明治以降の新地名であり、明治天皇が名づけたことになっている。すなわち、1873年(明治6年)4月に近衛兵の大規模な演習があり、その演習に明治天皇が観閲し、陸軍大将であった西郷隆盛が同行している。そして、その演習が無事終わった5月になって、この地を「習志野ノ原」と命名する旨、明治天皇の名で触れだされている。それで、明治天皇所縁の地名になったわけだ。その由来については、演習をおこなう原という意味で「ならし運転」の「ならし」の原から「ならしの原」になったという説と、演習に参加して活躍した篠原国幹少将に皆見習えという意味で「習え篠原」から名付けられたという説がある。

船橋市郷土資料館の前に、「明治天皇駐蹕之処」という石碑がある。これはみゆき会館(船橋市習志野台4-59-8、習志野地名発祥の地)に建てられていたが、移転して今の場所にある。仙台石でできた高さ3.9m、幅1.6mの大きな碑であり、明治天皇が近衛兵を率いて、この地で露営し、習志野原を賜り、永く陸軍操練所と定めた旨、裏面に記されている。

<「明治天皇駐蹕之処」石碑>


その習志野原は、旧陸軍の駐屯地となり、1916年(大正5年)に東京目黒から騎兵学校が移転して陸軍騎兵学校が創設された。以来、ここ習志野原の騎兵学校は騎兵のメッカとなり、数多くの騎兵を育てた。そのなかでも1932年(昭和7年)のロスアンゼルス・オリンピックで馬術で優勝の栄誉に輝いた西中尉は有名である。ちなみに亡き田中角栄元首相も騎兵出身である。その騎兵学校址としては、現在空挺館となっている旧御馬見所がある。これはかつては自衛隊習志野駐屯地の隊門近くにあったが、今は東側奥に移転している。

<空挺館(旧御馬見所)>


<現在の自衛隊習志野駐屯地>


2.陸軍墓地

かつての陸軍墓地は、自衛隊習志野駐屯地に隣接してある。陸軍墓地と言っても、今は「船橋市習志野霊園」となっており、戦後の習志野原の開拓民の墓など、一般人の墓もある。
ここには外地、内地でなくなった軍人の墓があるとともに、日露戦争や第一次大戦で捕虜となり、日本でなくなったロシア、ドイツの軍人の墓もある。
実は、近隣の習志野市東習志野にあった高津廠舎は、日露戦争時にはロシア人の捕虜収容所となり、第一大戦時にはドイツ人の捕虜収容所となっていた。そこで、捕虜生活を送っていたロシア人、ドイツ人のうちなくなった者を葬った墓が陸軍墓地内にあったため、後に船橋市が霊園整備の際に、散在していたロシア、ドイツ人の墓を墓地の奥にまとめて、日本の軍人の集合墓も新たに作り、日露独の三国軍人の墓としたのである。

<日本、ロシア、ドイツの軍人の慰霊碑が並ぶ>


<ロシア軍人の墓~ソ連成立以前の軍人であるから「ソ連」は誤り>


日露独の三国軍人の集合墓を取り巻くように配置された、日本軍人の個人墓もある。一見、集合墓の周囲を玉垣が囲んでいるようにみえるが、よく見ると明治、大正期の古い墓で、なくなった個人の名前のほかに「騎兵第十四聯隊」など部隊名も書かれている。

<玉垣のように集合墓を囲む日本軍人の個人墓>



3.行田の海軍無線塔

西船橋の北、行田には直径800mほどの円形の道で囲まれた地域があり、かつて高さ200mのアンテナが6基あった。現在、船橋市の行田団地や税務大学校の東京研修所などが建ち並ぶ行田という地区は、地図でみると、直径800mの円形の道路があり、その中に団地や公園、商店などがあるのが分かる。地図といっても、1917年(大正6年)の帝国陸地測量部作成の地図にも、そう書かれている。そして、円形の道路の中央に、船橋海軍無線電信所と記されている。

その船橋海軍無線電信所とは、いかなるものか。
昭和46年(1971)までは、その場所にはそのままの形で無線塔があり、その塔を遠くからではあるが見たことがある。後述するが、この電信所を有名ならしめたのは、太平洋戦争開戦時、1941年(昭和16年)12月8日未明の真珠湾攻撃を告げる暗号電文「ニイタカヤマノボレ」が、この無線塔から日本海軍全艦隊に伝えられたということである。

行田の円形道路の内側にかつてあった、海軍省所管の通信施設、船橋無線電信所には、高い技術を誇るドイツのテレフンケン社の送信機が採用された。1913年(大正2年)10月に着工、ドイツ人技師の指導の下で工事が行われ、1915年(大正4年)に完成したもので、その当時「東洋一」の規模と称された。この工事の途中、第一次大戦が勃発し、日本はドイツと敵味方の関係になる。

<船橋市習志野霊園(陸軍墓地)にあるドイツ兵捕虜の墓>


1914年(大正3年)6月に対独宣戦布告が発せられるや、ドイツ人技師は図面を焼いて帰国してしまい、後は残された日本技術陣で何とかするしかなかった。難航の末、ようやく無線電信所は、1915年(大正4年)4月に完成する。当初は、中央に上下平行で高さ200mの主塔、周囲に高さ60mの副塔16基が取り囲む形で、主塔は半自立型であった。半自立とは、主塔から数本、副塔方向手前の地上に鋼鉄線を張り、副塔へは電信線が延び、支線と電信線にかかる力の均衡をとるために、支線台と副塔は主塔から等距離でなくてはならない。
結果、その周囲は円形となり、現在も残る円形道路が残った。1916年(大正5年)11月16日、ここ船橋とサンフランシスコ間で、アメリカのウイルソン大統領と大正天皇が祝電をとりかわしたが、その発信元は船橋無線電信所で、ハワイを中継したものであった。このように無線電信が行われ、その発信元が船橋であると知られるようになると、船橋の名は世界的に有名になった。

<船橋海軍無線電信所主塔~1937年に立て替えられる前の半自立型鉄塔>


1937年(昭和12年)7月、盧溝橋事件が軍部の陰謀によって起こされ、日中戦争の火ぶたが切られて軍国色が強まるが、それに前後する1937年(昭和12年)5月、この無線電信所は「東京海軍無線隊船橋分遣隊」と改称され、それまでの半自立型から自立鉄塔とする大改造が始まった。それによって、182mの大鉄塔6基、数基の中型小型鉄塔が建ち並ぶことになった。

1941年(昭和16年)10月東條内閣が成立、11月5日の御前会議にて、12月1日までに対米交渉不成立の場合、武力発動を行うことが決められ、同日、対英米蘭開戦が決定された。そして、12月8日にハワイ真珠湾攻撃により、日米開戦となったのである。
この真珠湾攻撃実行の電文「新高山登レ一二〇八」は、瀬戸内海の柱島付近に停泊していた戦艦長門が打電したものを、船橋無線塔を経由して、全艦隊に伝達されるべく、連合艦隊に向けて発信された。12月2日午後5時30分のことである。

戦後、逓信省に移管され、復員船との連絡等にあたったが、それもつかの間、無線電信所はGHQに接収され、昭和41年(1966)に日本に返還されたが、もはや、その時には無線塔は通信業務の用に供されず、無用の長物となっていた。1966年(昭和41年)に日本に返還され、しばらく立ち腐れたようにたっていたあと、1972年(昭和47年)にすべて解体され現存しない。現在その場所には大規模な団地がたち、わずかに船橋無線塔記念碑が1979年(昭和54年)に地元ロータリークラブ、連合自治会、西船橋農協が中心となって建てられた。


海軍無線搭があった船橋市行田付近地図

<記念碑のたつ行田の無線塔址>

注)行田の無線塔の写真は船橋市のホームページ(http://www.city.funabashi.chiba.jp/)にあります