千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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成田市の戦争遺跡2(八生国民学校に墜落した米軍機)

2008-11-30 | 成田市の戦争遺跡
成田市に八生、または埴生と書いて「はぶ」と読む地名があるが、その場所は下総松崎(まんざき)駅から歩いていける場所である。昔は純農村地域だったようで、いまでもそういう面影がある。今でも、駅に降りると、眼前に水田が広がり、八生は水田の向こうの台地上の場所になる。

<下総松崎駅より八生地区を望む>


太平洋戦争も末期となった1945年(昭和20年)2月、今の成田市松崎(まんざき)になるがJR下総松崎駅から歩いて20分ほどの八生地区に米軍機が落ちた。これは日本軍が迎撃して落としたのであるが、運悪く八生国民学校(今の八生小学校)に落ちてしまった。

その墜落現場とそのときの米軍機パイロットが一時埋葬されていたという寺を訪ねて、小生現地を訪問した。それは、この記事を書いている現在から、もう11ヶ月も前で、随分と日にちが過ぎてしまった。
下総松崎駅には、JR成田駅で成田線に乗り換えれば、5分ほどで着く。しかし、そこからは歩いて行くしかない。駅前にタクシーでもいればと思ったが、この駅自体時間帯によっては、無人駅になるような駅である。

下総松崎駅の駅員さんに、八生国民学校に米軍機が落ちた話をしても、そんな話は聞いたことがないとのこと。やむなく、そのまま八生小学校に向かうことにした。
曲がりくねった舗装道路を駅から成田方面に戻るような格好でしばらく歩くと、寿司屋があり、そのあたりから台地へのぼる坂道となる。そして、のぼると集落があり、米軍機パイロットが一時埋葬されていたという来迎寺は、すぐに見つかった。

<墜落した米軍機のパイロット、トーレイ中佐の遺体が一時改葬された来迎寺>


来迎寺には、裏手に墓地があり、何か碑でも建っているかと思い見てみたが、何もそれらしきものは見当たらず。

それで、次に戦時中八生国民学校であった八生小学校に行くことにした。途中、道を聞こうとして立ち寄った、よろず屋のおかみに聞いたが、やはり米軍機の墜落は嫁に来る前の話で、よく知らないという。おじいさんは知っていると思うが、といっていたが、あいにく留守であった。

教えられた通りに歩き、八生小学校も、結局来迎寺とそれほど離れていなかったが、行って見ると、古いスーパー(営業しているか不明)があって、その隣に新しい校舎の小学校が建っている。もはや、戦時中に焼失して再建した校舎もなく、事故の痕跡も何も残っていない。石碑があったが、それは創立百周年を記念して建立されたもので、米軍機墜落とは関係ない。

<八生小学校は米軍機墜落の痕跡なし>


前述したとおり、米軍機は日本軍によって撃墜されたが、落ちた場所が八生国民学校。それで、その国民学校は壊れて、全焼した。その米軍機を操縦していた、フィリップ・トーレイ海軍中佐は操縦席に腰掛けたまま死んでいた。

その中佐の死体を操縦席からはずそうにも、周りに集まってきた地域の人たちは英語が読めず、操縦席をどう動かして外れるかが分からない。ようやく湯浅為司郎という医者で当時の八生村村長だった人が駆けつけ、英語の説明書を読んで、操縦席からトーレイ中佐の遺体をはずした。ちなみに、その地域は隣のスーパーなどを含め、湯浅という名字の家だらけである。

その後、集まってきた人たちはトーレイ中佐の遺体を殴ったり、中佐が所持していたピストルを奪い合ったりしたが、結局ピストルは憲兵隊に没収された。

その遺体は、村はずれの馬捨て場に葬られたが、戦後になって米軍が当時の松崎村に墜落機の調査に来た。そのとき、大沢という村の収入役が、馬捨て場に埋葬したことをまずいと判断、来迎寺という近くにある寺の墓地に改葬して、事なきを得たという。そして、遺骨や遺留品を取りにきた米軍の担当者は、手厚く葬ってくれたことに感謝の意を表したという。

終戦を境にして、こんな話は全国的にいろいろあった。

なお、近くの台地上にある現在の成田西陵高校(かつての八生農学校)あたりには、防空壕が地元の人の手によって、掘られていたが、現在は残っていない模様である。

成田市の戦争遺跡1

2008-01-01 | 成田市の戦争遺跡
1.成田山新勝寺にみる戦争の痕跡

成田山新勝寺は、成田の市街の中心にあって、成田周辺というより関東一円からの参拝客を集める大寺で、この寺を核として成田の町が発展してきたといってよい。
朱雀天皇は平将門の乱平定のため、939年(天慶2年)、僧寛朝を東国へ遣わした。寛朝は京都神護寺護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、九十九里浜より房総に上陸。翌940年(天慶3年)、僧寛朝らは公津ヶ原まで進むと将門の戦乱により、荒れ果てた土地、すさみ疲れた人々を見て、護摩壇を設け不動明王像を安置して朝敵調伏を祈祷した。新勝寺は、この940年(天慶3年)を開山の年としている。このように、成田山は平将門調伏に端を発した、国家鎮護のための寺であり、戦いとは縁が深い。その後、戦国時代に成田村一七軒の名主が不動明王を背負って、現在の場所に遷座し伽藍を建立、東国鎮護の寺院となった。

成田は戦国期には十七軒の村であったのが、1701年(元禄14年)には九十八軒の村となった。しかし、この頃はまだ純農村であった。その後、江戸でたびたび成田不動の出開帳が行われ、成田の隣村幡谷出身である市川団十郎が歌舞伎で成田不動に因んだ題目を行い、また自身が成田屋の屋号をもつなどして、成田山の知名度は高くなり、江戸などからの参詣客で賑わうようになった。江戸中期からは門前町として、成田の人口も増え、各種の職人の家や成田山の用に供するための商家が参道に立ち並ぶようになった。明治になって交通網が整備され、ますます参詣する人が多くなった。さらに大正時代に入り、第一次世界大戦によってもたらされた活況や、その反動により起こった恐慌にも成田の参詣客数には関係なく、宿泊客数も増加した。

江戸時代後期の天保2年(1831年)3月、成田山の仁王門再建工事をしていた大工辰五郎が誤って高い足場から転落したが、成田山の焼印を押したお守りが二つに割れ、お不動様の霊験により怪我ひとつなく助かったということがあったそうだ。これは大工や職人の信仰を集めるもとになったが、明治以降の軍隊において、身代り札を持っていれば戦争においても命を守ってくれると知られるようになった。
実際、日清戦争の時には弾除けの札として、信仰を集め、佐倉連隊などが度々参詣し、昭和初年には各中隊で大護摩の祈祷を頼んだりした。

兵士やその家族の武運長久の願いは切実であったが、成田山ではその願いに乗るように、1927年(昭和2年)の新更会の設立や「皇国伝統の健全思想」の教化を通じて、積極的に戦勝祈願を行うようになる。特に日中戦争が始まると、毎朝「国威発揚・武運長久」の大護摩を行い、国威発揚の法会を何度も行うなど、戦争を通じて成田山の信仰をおおいに普及させ、戦争に巻き込まれたというより、それを担っていく姿勢が見られた。成田山は陸海軍への十万円もの献納、戦闘機の献納など、物質的にも貢献し、精神面では戦勝祈願のほかに、新更会を通じた、軍人を講師とする地域への戦時教育という役割も担った。

成田には三里塚の御料牧場があったため、皇族との結びつきも深く、特に東久邇家は成田山を熱心に信仰していた。そうした中で、地域の青年団、愛国婦人会などの団体は、成田山を中心に結束を強めた。

一方、1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃によって太平洋戦争の火蓋が切られると、市川団十郎の銅像の献納や、「大東亜戦争大勝利大護摩」が行われたりしたが、次第に戦争が激しくなると、1944年(昭和19年)新更会館に海軍水路部が移駐、市内の各学校に陸海軍部隊が本土決戦に備えてやってきた。
戦争末期には、空襲に備えて、成田山のなかでも、たとえば延命院境内や現在の光輪閣から延命院へ抜ける場所に横穴式防空壕が掘られたり、新更会館(現・霊光館)裏にも防空壕が掘られた。

成田山新勝寺自体への空襲被害は殆どないが、1945年(昭和20年)2月に来襲した米軍機が日本軍機に撃墜され、八生国民学校(現・八生小学校)校舎に墜落、校舎が全焼する事件も起きた。そのため、成田では防空壕をたくさん堀るようになったが、その多くはタコツボ式の簡単なものであり、実際に空襲があった場合にどれだけ耐えられたか疑問が残る。終戦にいたるまで、成田周辺では壕掘りや千葉市の空襲被害への炊き出しが新勝寺、大野屋、梅屋といった旅館で行われるなどしたが、結局本格的な空襲被害を受けず、多くの文化財や戦前からの建物が現存している。

<かつて防空壕があった光輪閣の裏手>



<戦後まで防空壕のあった延命院の裏山>


太平洋戦争が激しくなると、前述のように市川団十郎の銅像などが供出された。
金属供出は、銅像以外にも、灯篭、天水桶など、寺の身近な器物におよび、それがいかなる文化的価値を持とうと、戦争遂行が第一ということで進められた。

そのなかには、「横須賀泉勝講初代講元」である小泉岩吉の銅像がある。小泉岩吉は元総理大臣小泉純一郎の祖父の弟にあたる人物で、その銅像は日露戦争の戦勝を記念して建立されたが、戦時中供出され、1955年(昭和30年)に小泉純也(小泉元総理の父)によって再建されたものである。横須賀泉勝講とは、日露戦勝を記念した講から端を発し、小泉の泉をとって「小泉が勝つ」と泉勝講とした成田山新勝寺の講の一つである。成田山には、○○講という講がいくつもあり、それぞれの目的で信徒が集団化していた。再建された小泉岩吉銅像のわきには、「横須賀泉勝講創立九拾周年記念銘鈑」という銅板があり、「顧問小泉純一郎」の名がある。

<小泉岩吉銅像>


前出の市川団十郎の銅像は、正確には七代市川団十郎と六代目市川団蔵のものである。歌舞伎の市川団十郎は成田屋と名乗り、成田不動を世に知らしめた役者であるが、その銅像を成田山が供出したとは皮肉である。
その銅像は1941年(昭和16年)に供出され、1943年(昭和18年)に八代目市川団蔵が追善供養のため、残った台座に高浜虚子の句碑を建てたものである。

「凄かりし 月の団蔵 七代目」

句碑の建立後、結局七代市川団十郎と六代目市川団蔵の銅像は再建されなかった。

<成田屋銅像の台座にのる高浜虚子の句碑>


そのほか、成田山境内には金属供出の跡として、仁王門脇の台座のみとなった灯篭や、釈迦堂の裏にある台座だけ残った天水桶がある。

<仁王門脇の台座のみとなった灯篭>


<台座のみとなった天水桶>


さらに、成田山公園の小泉岩吉銅像、市川団十郎の銅像跡のさきに、三池照鳳大僧正の銅像があるが、これも1943年(昭和18年)に供出され、現在のものは1990年(平成2年)に再建されたものである。

<三池大僧正の銅像>


2.戦争への精神動員を推進した成田山新勝寺

一般兵士の弾除け絵馬信仰を成田山は、むしろ積極的に受け入れた。そのなかには、日清戦争で軍艦吉野に乗った藤山金蔵という海軍機関士の身代り札の絵馬(1895年2月)もあるが、これは実際に敵艦から撃たれた弾が身代り札に当たって「危害ヲ避ケタリ」という話のもの。現在、その絵馬は平和の大塔に奉納されている。

<弾除けの身代り札の絵馬が奉納された平和の大塔>


成田山には忠魂碑やその類のものが、意外にも少ない。しかし、これは成田山が戦争に反対してきたとか言うわけではなく、成田の忠魂碑の多くは宗吾霊堂の方に集められているためである。そのなかで、前出の小泉岩吉が組織した横須賀戦勝講の記念碑類は成田山に残る日本の帝国主義的拡大の一種のシンボルであろう。戦後は「横須賀泉勝講」となったが、元は「横須賀戦勝講」で成田山新勝寺の講の一つである。日露戦争が終わった1905年(明治38年)に小泉純一郎元・総理大臣の祖父・又次郎の弟である岩吉が講元となり始めた。岩吉の長男を経て、現在は孫の小泉一郎が講元を引き受けている。小泉又次郎、純也、純一郎という小泉家の政治家三代も参加してきた。
小泉岩吉は戦勝講について、「日露戦争平和克復と同時に組織した」と説明しているが、日露戦争の勝利に沸く世の中の状況を背景にしていることは間違いない。

<戦勝講の記念碑類>


前述の通り、成田山は新更会の活動を通じて、軍と結びついて「皇国伝統の健全思想」の教化などを行ってきた。それは、1925年から27年にヨーロッパを遊学した住職、荒木照定が欧米偏重の思想を嘆いて、1928年(昭和3年)に「現代社会の純化浄化」をうたって新更会を設立したのに端を発する。また同時に「地方青年に国民としての知徳を涵養せしむる」目的で、新更学院を設立した。現在、新更会館跡には、霊光館(歴史博物館)が建っている。

<新更会館跡に建った霊光館>



3.霞ヶ浦海軍航空隊飛行機墜落の慰霊碑

あまり知られていないが、1936年(昭和11年)3月12日、霞ヶ浦海軍航空隊の飛行機が故障のために現・成田高校の裏山に墜落、田中助市海軍一等航空兵曹、江口義夫海軍一等整備兵曹の両名が亡くなっている(「千葉県の戦争遺跡をあるく」の記事では名前こそ合っているが、田中助市兵曹の階級が間違っているし、江口義夫兵曹については何故か「陸軍」になっているが誤りである。海軍と陸軍の下士官が同じ飛行機で飛ぶことなど、通常あり得ない。また当時の一等兵曹は、1942年(昭和17年)11月の兵制改革以降の上等兵曹にあたり、陸軍では曹長に相当する)。この慰霊碑が成田山公園の一隅にある廃業した大浦屋ともう一軒の一休庵といったか、やはり同じような店の裏にある。その店は廃業したものか、しもた屋のように見えるが、その裏に細い通路があり、階段を登ると、四角柱の形をした碑が見えてくる。これは1938年(昭和13年)3月12日に成田町有志によって設立された。碑文は成田山貫首荒木照定が書き、成田町総代として宮崎廣町長の名が刻まれている。

なにしろ、この慰霊碑の場所が分かりにくい。それで、近隣の方に聞いたのだが、参道のある土産物屋の老主人がかろうじて、戦前成田高校の裏山に飛行機が落ちたことを記憶していたくらいで、事故そのものが風化している。また、碑の場所について聞いたところ、その参道の店では分からず、いろいろ聞いたが、なかなか分からなかった。この碑の存在自体、近所の人も殆ど知らず、最後に聞いた割烹名取亭の社長以下、従業員の方にはお騒がせした。
細かい場所は違っていたが、名取亭の社長の指した方向はあっており、何とかたどり着くことができた。

<霞ヶ浦海軍航空隊隊門(1930年代初め)>


<海軍機墜落慰霊碑>


参考文献:
「千葉県の戦争遺跡をあるく」 千葉県歴史教育者協議会編 国書刊行会(2004)
「『成田参詣記』を歩く」   川田 壽著  崙書房    (2001)