1.八千代市域にも及ぶ陸軍習志野原錬兵場
現在の陸上自衛隊習志野駐屯地のある船橋市習志野台から習志野市実籾、八千代市高津におよぶ一帯には、かつて陸軍習志野原錬兵場があった。
この習志野という地名は、明治以降の新地名であり、明治天皇が名づけたことになっている。1873年(明治6年)4月に近衛兵の大規模な演習の直後、この地を「習志野ノ原」と命名する旨、明治天皇の名で触れだされている。この習志野原は、旧陸軍の駐屯地となり、1916年(大正5年)に東京目黒から騎兵学校が移転して陸軍騎兵学校が創設されるなどして、演習場から更に発展し、習志野市大久保には騎兵旅団が設置されるにいたる。
現在の八千代市域にあったのは、射撃場である。これは、第一次大戦でのドイツ人捕虜を使って、造成したものという。現在、近くに新木戸交差点、高津団地などがあるが、射撃場があったのは、今でも自衛隊駐屯地の敷地内である。規模は、幅約300m、長さ約500mで、周囲は土手で囲われて一段高くなっていた。終戦後、射撃場は米軍に接収されたが、その演習での流れ弾にあたり、開拓民が一人死んでいる。また、戦後習志野学校にあった毒ガス類がこの射撃場付近で隠匿され、自衛隊員が被災したといわれる。すなわち、陸軍習志野学校で実験されていた毒ガスの実物演習場が、この射撃場北側の平坦な松林にあり、「きい剤」の撒毒が行われ、捜索、検知、徐毒、通過の基本訓練が行われた。
「昭和26年6月28日、千葉県習志野演習場でルイサイト入りのドラム缶3本発見により演習中の自衛隊員14名負傷、米軍が除染した」
「昭和35年2月17日から19日にかけて、千葉県習志野市(演習場)で、ルイサイト入りドラム缶1本が発見、空挺部隊で処理された」
「昭和35年3月4日から11日にかけて、千葉県習志野市(演習場)で催涙剤(固体)10kgが発見され、土地の除染と海洋投棄を行った」
という毒ガスの被災・発見事案がある。
なお、現在も陸上自衛隊の射撃場は習志野駐屯地にあるが、旧陸軍のものをそのまま使用している訳ではなく、かつての射撃場は土手なども崩され、原形を留めていない。
<かつての陸軍射撃場>
2.関東大震災での朝鮮人・日本人虐殺に手を染めさせられた住民
さて、関東大震災での朝鮮人・日本人虐殺に、習志野騎兵隊が一役買っており、高津廠舎に捕えられた朝鮮人・中国人が軍当局と軍から強制された民衆によって虐殺されたことは、あまり知られていない。
1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災の直後、戒厳令がしかれた東京に習志野騎兵隊は出動、東京衛戍司令官の指揮下にはいった。そこで、東京における多くの朝鮮人虐殺事件が軍当局や煽動された民衆によるものとして起きた。また、9月3日午前8時15分には、内務省警保局長が船橋海軍無線電信所から全国に無線で「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし…」と無線打電しており、流言蜚語を取り締まる側の官憲が騒動を煽ったことが分かる。
地震の起きた9月1日の翌2日には千葉県南行徳村下江戸川橋際で騎兵第十五連隊の2名の兵士が朝鮮人1名を射殺したのをはじめ、東京の四つ木橋周辺でも騎兵連隊の兵による朝鮮人虐殺があり、さらに9月10日頃には高津廠舎に拘束した朝鮮人たちを自警団に引渡し、虐殺させている。千葉県内では、現浦安市、市川市、船橋市、習志野市、八千代市などを含め、約200名(350名余という説もある)が虐殺されたが、そのなかには朝鮮人に間違われた日本人(大阪出身者など)が多数混じっている。
現八千代市の高津辺りで起きた虐殺では、軍・警察当局が自分達の手を汚さずに不穏分子を始末しようとしたのが明確である。それは、一旦朝鮮人たちを習志野の旧捕虜収容所に保護するような形で収容しながら、その中で反抗的なもの、反帝国主義的で「思想的に」問題のありそうなものを、近隣の自警団に払い下げ、殺害させたことによくあらわれている。一方、高津、萱田、大和田などの、朝鮮人を払い下げられた側は、好んで朝鮮人たちを殺害したのではなく、猟銃などを使える人に頼んで射殺したのだという。
対照的に、船橋市街地で朝鮮人虐殺のなかから子供2人を助け出し、保護して船橋警察署に連れて行った消防団員の話や、同じ船橋の丸山地区で朝鮮人たちと日常交流のあった集落の人々が、朝鮮人を差し出すよう迫る近隣の自警団から文字通り身体をはって彼らを守った話もある。丸山地区の住民の行動には、地区の指導者が社会運動家で差別的な考えがなく、他の住民にも同じ考え方が浸透していた、元々貧しい地区で、日本人、朝鮮人の区別なく、助け合いながら生活していたのが、その背景にある。
<高津観音寺にある朝鮮人犠牲者慰霊の鐘楼と慰霊碑>
なお、高津の慰霊碑(写真右の白い菊が供えられている黒い石碑)の下には、付近で虐殺された犠牲者(虐殺された六名のうち朝鮮人が六名か朝鮮人五名に大阪出身の日本人一名かは不明)が眠っている。慰霊碑には明確に「関東大震災朝鮮人犠牲者」と刻まれているが、ことの経緯や犠牲者の名前は書かれていない。本当は、高津の誰が殺したのか、その時の様子はどうだったのかは、最近まで分かっていたはずであるが、皆口に戸を立てて語らず、銘文だけの慰霊碑とあいなった。
<高津観音寺の虐殺者慰霊碑>
高津廠舎から周辺の「自警団」に渡された朝鮮人(一部は日本人)は、十八人以上といわれるが、うち六人は高津において埋葬された事実があり、萱田の長福寺にも三名が埋葬されている。萱田の長福寺には、あたらしい供養塔が建っているが、「震災異国人犠牲者」とあり、「異国人」とは、明確に朝鮮人と書くことにためらいがあったものと推測する。
<萱田の長福寺にある供養塔>
また、近くの中台墓地にも、真新しい無縁供養塔が建っている。こちらには、誰の供養なのか、名前もいつなくなったかの日付も書かれていない。ちょっと異様であるが、そこに明確に「朝鮮人虐殺」と明確に書けない地元住民の苦悩が滲んでいるようである。
なお、この中台墓地は市民会館の南側細い道路沿いにある。海軍の水兵ら地元の戦没者の大きな墓も建つ中で、無縁供養塔の文字通り無名な状況は寂しい感じである。まさか、殺された人々も労働力として連れてこられた日本内地で、民衆に殺されるとは思っていなかったであろう。萱田の長福寺の供養塔とともに、線香を供えた。
<中台墓地の供養塔>
このように、大地震のあとの社会不安、異常心理が「不逞鮮人が井戸に毒をまいた」などといった流言蜚語となり、またそれを軍、警察当局が利用して、社会主義者や在日中国人指導者などの抹殺にいたった。アナキスト大杉栄と妻の伊藤野枝、そして6歳の甥の橘宗一を虐殺した甘粕正彦大尉は、軍法会議にかけられたが、結局たしいた罪にならず、昭和天皇の即位に伴う恩赦で釈放されている。朝鮮人虐殺に手を染めた民衆も、罪に問われることがなかった。全く、無辜の者が殺され、悪行で手を血に汚した者が生き残って、甘粕にいたっては、さらに中国大陸でより大きな悪事を行ったのだから、歴史の暗黒というしかない。
(参考文献)
『習志野市史』 習志野市教育委員会 (1995)
『いわれなく殺された人びと』 千葉県における関東大震災犠牲者追悼・調査実行委員会 青木書店 (1983)
『関東大震災人権救済申立事件調査報告書』 日弁連 (2003)
http://www.azusawa.jp/shiryou/kantou-200309.html
現在の陸上自衛隊習志野駐屯地のある船橋市習志野台から習志野市実籾、八千代市高津におよぶ一帯には、かつて陸軍習志野原錬兵場があった。
この習志野という地名は、明治以降の新地名であり、明治天皇が名づけたことになっている。1873年(明治6年)4月に近衛兵の大規模な演習の直後、この地を「習志野ノ原」と命名する旨、明治天皇の名で触れだされている。この習志野原は、旧陸軍の駐屯地となり、1916年(大正5年)に東京目黒から騎兵学校が移転して陸軍騎兵学校が創設されるなどして、演習場から更に発展し、習志野市大久保には騎兵旅団が設置されるにいたる。
現在の八千代市域にあったのは、射撃場である。これは、第一次大戦でのドイツ人捕虜を使って、造成したものという。現在、近くに新木戸交差点、高津団地などがあるが、射撃場があったのは、今でも自衛隊駐屯地の敷地内である。規模は、幅約300m、長さ約500mで、周囲は土手で囲われて一段高くなっていた。終戦後、射撃場は米軍に接収されたが、その演習での流れ弾にあたり、開拓民が一人死んでいる。また、戦後習志野学校にあった毒ガス類がこの射撃場付近で隠匿され、自衛隊員が被災したといわれる。すなわち、陸軍習志野学校で実験されていた毒ガスの実物演習場が、この射撃場北側の平坦な松林にあり、「きい剤」の撒毒が行われ、捜索、検知、徐毒、通過の基本訓練が行われた。
「昭和26年6月28日、千葉県習志野演習場でルイサイト入りのドラム缶3本発見により演習中の自衛隊員14名負傷、米軍が除染した」
「昭和35年2月17日から19日にかけて、千葉県習志野市(演習場)で、ルイサイト入りドラム缶1本が発見、空挺部隊で処理された」
「昭和35年3月4日から11日にかけて、千葉県習志野市(演習場)で催涙剤(固体)10kgが発見され、土地の除染と海洋投棄を行った」
という毒ガスの被災・発見事案がある。
なお、現在も陸上自衛隊の射撃場は習志野駐屯地にあるが、旧陸軍のものをそのまま使用している訳ではなく、かつての射撃場は土手なども崩され、原形を留めていない。
<かつての陸軍射撃場>
2.関東大震災での朝鮮人・日本人虐殺に手を染めさせられた住民
さて、関東大震災での朝鮮人・日本人虐殺に、習志野騎兵隊が一役買っており、高津廠舎に捕えられた朝鮮人・中国人が軍当局と軍から強制された民衆によって虐殺されたことは、あまり知られていない。
1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災の直後、戒厳令がしかれた東京に習志野騎兵隊は出動、東京衛戍司令官の指揮下にはいった。そこで、東京における多くの朝鮮人虐殺事件が軍当局や煽動された民衆によるものとして起きた。また、9月3日午前8時15分には、内務省警保局長が船橋海軍無線電信所から全国に無線で「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし…」と無線打電しており、流言蜚語を取り締まる側の官憲が騒動を煽ったことが分かる。
地震の起きた9月1日の翌2日には千葉県南行徳村下江戸川橋際で騎兵第十五連隊の2名の兵士が朝鮮人1名を射殺したのをはじめ、東京の四つ木橋周辺でも騎兵連隊の兵による朝鮮人虐殺があり、さらに9月10日頃には高津廠舎に拘束した朝鮮人たちを自警団に引渡し、虐殺させている。千葉県内では、現浦安市、市川市、船橋市、習志野市、八千代市などを含め、約200名(350名余という説もある)が虐殺されたが、そのなかには朝鮮人に間違われた日本人(大阪出身者など)が多数混じっている。
現八千代市の高津辺りで起きた虐殺では、軍・警察当局が自分達の手を汚さずに不穏分子を始末しようとしたのが明確である。それは、一旦朝鮮人たちを習志野の旧捕虜収容所に保護するような形で収容しながら、その中で反抗的なもの、反帝国主義的で「思想的に」問題のありそうなものを、近隣の自警団に払い下げ、殺害させたことによくあらわれている。一方、高津、萱田、大和田などの、朝鮮人を払い下げられた側は、好んで朝鮮人たちを殺害したのではなく、猟銃などを使える人に頼んで射殺したのだという。
対照的に、船橋市街地で朝鮮人虐殺のなかから子供2人を助け出し、保護して船橋警察署に連れて行った消防団員の話や、同じ船橋の丸山地区で朝鮮人たちと日常交流のあった集落の人々が、朝鮮人を差し出すよう迫る近隣の自警団から文字通り身体をはって彼らを守った話もある。丸山地区の住民の行動には、地区の指導者が社会運動家で差別的な考えがなく、他の住民にも同じ考え方が浸透していた、元々貧しい地区で、日本人、朝鮮人の区別なく、助け合いながら生活していたのが、その背景にある。
<高津観音寺にある朝鮮人犠牲者慰霊の鐘楼と慰霊碑>
なお、高津の慰霊碑(写真右の白い菊が供えられている黒い石碑)の下には、付近で虐殺された犠牲者(虐殺された六名のうち朝鮮人が六名か朝鮮人五名に大阪出身の日本人一名かは不明)が眠っている。慰霊碑には明確に「関東大震災朝鮮人犠牲者」と刻まれているが、ことの経緯や犠牲者の名前は書かれていない。本当は、高津の誰が殺したのか、その時の様子はどうだったのかは、最近まで分かっていたはずであるが、皆口に戸を立てて語らず、銘文だけの慰霊碑とあいなった。
<高津観音寺の虐殺者慰霊碑>
高津廠舎から周辺の「自警団」に渡された朝鮮人(一部は日本人)は、十八人以上といわれるが、うち六人は高津において埋葬された事実があり、萱田の長福寺にも三名が埋葬されている。萱田の長福寺には、あたらしい供養塔が建っているが、「震災異国人犠牲者」とあり、「異国人」とは、明確に朝鮮人と書くことにためらいがあったものと推測する。
<萱田の長福寺にある供養塔>
また、近くの中台墓地にも、真新しい無縁供養塔が建っている。こちらには、誰の供養なのか、名前もいつなくなったかの日付も書かれていない。ちょっと異様であるが、そこに明確に「朝鮮人虐殺」と明確に書けない地元住民の苦悩が滲んでいるようである。
なお、この中台墓地は市民会館の南側細い道路沿いにある。海軍の水兵ら地元の戦没者の大きな墓も建つ中で、無縁供養塔の文字通り無名な状況は寂しい感じである。まさか、殺された人々も労働力として連れてこられた日本内地で、民衆に殺されるとは思っていなかったであろう。萱田の長福寺の供養塔とともに、線香を供えた。
<中台墓地の供養塔>
このように、大地震のあとの社会不安、異常心理が「不逞鮮人が井戸に毒をまいた」などといった流言蜚語となり、またそれを軍、警察当局が利用して、社会主義者や在日中国人指導者などの抹殺にいたった。アナキスト大杉栄と妻の伊藤野枝、そして6歳の甥の橘宗一を虐殺した甘粕正彦大尉は、軍法会議にかけられたが、結局たしいた罪にならず、昭和天皇の即位に伴う恩赦で釈放されている。朝鮮人虐殺に手を染めた民衆も、罪に問われることがなかった。全く、無辜の者が殺され、悪行で手を血に汚した者が生き残って、甘粕にいたっては、さらに中国大陸でより大きな悪事を行ったのだから、歴史の暗黒というしかない。
(参考文献)
『習志野市史』 習志野市教育委員会 (1995)
『いわれなく殺された人びと』 千葉県における関東大震災犠牲者追悼・調査実行委員会 青木書店 (1983)
『関東大震災人権救済申立事件調査報告書』 日弁連 (2003)
http://www.azusawa.jp/shiryou/kantou-200309.html