千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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八千代市の戦争遺跡

2007-05-22 | 八千代市の戦争遺跡
1.八千代市域にも及ぶ陸軍習志野原錬兵場

現在の陸上自衛隊習志野駐屯地のある船橋市習志野台から習志野市実籾、八千代市高津におよぶ一帯には、かつて陸軍習志野原錬兵場があった。

この習志野という地名は、明治以降の新地名であり、明治天皇が名づけたことになっている。1873年(明治6年)4月に近衛兵の大規模な演習の直後、この地を「習志野ノ原」と命名する旨、明治天皇の名で触れだされている。この習志野原は、旧陸軍の駐屯地となり、1916年(大正5年)に東京目黒から騎兵学校が移転して陸軍騎兵学校が創設されるなどして、演習場から更に発展し、習志野市大久保には騎兵旅団が設置されるにいたる。

現在の八千代市域にあったのは、射撃場である。これは、第一次大戦でのドイツ人捕虜を使って、造成したものという。現在、近くに新木戸交差点、高津団地などがあるが、射撃場があったのは、今でも自衛隊駐屯地の敷地内である。規模は、幅約300m、長さ約500mで、周囲は土手で囲われて一段高くなっていた。終戦後、射撃場は米軍に接収されたが、その演習での流れ弾にあたり、開拓民が一人死んでいる。また、戦後習志野学校にあった毒ガス類がこの射撃場付近で隠匿され、自衛隊員が被災したといわれる。すなわち、陸軍習志野学校で実験されていた毒ガスの実物演習場が、この射撃場北側の平坦な松林にあり、「きい剤」の撒毒が行われ、捜索、検知、徐毒、通過の基本訓練が行われた。

「昭和26年6月28日、千葉県習志野演習場でルイサイト入りのドラム缶3本発見により演習中の自衛隊員14名負傷、米軍が除染した」
「昭和35年2月17日から19日にかけて、千葉県習志野市(演習場)で、ルイサイト入りドラム缶1本が発見、空挺部隊で処理された」
「昭和35年3月4日から11日にかけて、千葉県習志野市(演習場)で催涙剤(固体)10kgが発見され、土地の除染と海洋投棄を行った」     
という毒ガスの被災・発見事案がある。

なお、現在も陸上自衛隊の射撃場は習志野駐屯地にあるが、旧陸軍のものをそのまま使用している訳ではなく、かつての射撃場は土手なども崩され、原形を留めていない。

<かつての陸軍射撃場>



2.関東大震災での朝鮮人・日本人虐殺に手を染めさせられた住民

さて、関東大震災での朝鮮人・日本人虐殺に、習志野騎兵隊が一役買っており、高津廠舎に捕えられた朝鮮人・中国人が軍当局と軍から強制された民衆によって虐殺されたことは、あまり知られていない。

1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災の直後、戒厳令がしかれた東京に習志野騎兵隊は出動、東京衛戍司令官の指揮下にはいった。そこで、東京における多くの朝鮮人虐殺事件が軍当局や煽動された民衆によるものとして起きた。また、9月3日午前8時15分には、内務省警保局長が船橋海軍無線電信所から全国に無線で「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし…」と無線打電しており、流言蜚語を取り締まる側の官憲が騒動を煽ったことが分かる。
地震の起きた9月1日の翌2日には千葉県南行徳村下江戸川橋際で騎兵第十五連隊の2名の兵士が朝鮮人1名を射殺したのをはじめ、東京の四つ木橋周辺でも騎兵連隊の兵による朝鮮人虐殺があり、さらに9月10日頃には高津廠舎に拘束した朝鮮人たちを自警団に引渡し、虐殺させている。千葉県内では、現浦安市、市川市、船橋市、習志野市、八千代市などを含め、約200名(350名余という説もある)が虐殺されたが、そのなかには朝鮮人に間違われた日本人(大阪出身者など)が多数混じっている。

現八千代市の高津辺りで起きた虐殺では、軍・警察当局が自分達の手を汚さずに不穏分子を始末しようとしたのが明確である。それは、一旦朝鮮人たちを習志野の旧捕虜収容所に保護するような形で収容しながら、その中で反抗的なもの、反帝国主義的で「思想的に」問題のありそうなものを、近隣の自警団に払い下げ、殺害させたことによくあらわれている。一方、高津、萱田、大和田などの、朝鮮人を払い下げられた側は、好んで朝鮮人たちを殺害したのではなく、猟銃などを使える人に頼んで射殺したのだという。

対照的に、船橋市街地で朝鮮人虐殺のなかから子供2人を助け出し、保護して船橋警察署に連れて行った消防団員の話や、同じ船橋の丸山地区で朝鮮人たちと日常交流のあった集落の人々が、朝鮮人を差し出すよう迫る近隣の自警団から文字通り身体をはって彼らを守った話もある。丸山地区の住民の行動には、地区の指導者が社会運動家で差別的な考えがなく、他の住民にも同じ考え方が浸透していた、元々貧しい地区で、日本人、朝鮮人の区別なく、助け合いながら生活していたのが、その背景にある。


<高津観音寺にある朝鮮人犠牲者慰霊の鐘楼と慰霊碑>


なお、高津の慰霊碑(写真右の白い菊が供えられている黒い石碑)の下には、付近で虐殺された犠牲者(虐殺された六名のうち朝鮮人が六名か朝鮮人五名に大阪出身の日本人一名かは不明)が眠っている。慰霊碑には明確に「関東大震災朝鮮人犠牲者」と刻まれているが、ことの経緯や犠牲者の名前は書かれていない。本当は、高津の誰が殺したのか、その時の様子はどうだったのかは、最近まで分かっていたはずであるが、皆口に戸を立てて語らず、銘文だけの慰霊碑とあいなった。

<高津観音寺の虐殺者慰霊碑>


高津廠舎から周辺の「自警団」に渡された朝鮮人(一部は日本人)は、十八人以上といわれるが、うち六人は高津において埋葬された事実があり、萱田の長福寺にも三名が埋葬されている。萱田の長福寺には、あたらしい供養塔が建っているが、「震災異国人犠牲者」とあり、「異国人」とは、明確に朝鮮人と書くことにためらいがあったものと推測する。

<萱田の長福寺にある供養塔>


また、近くの中台墓地にも、真新しい無縁供養塔が建っている。こちらには、誰の供養なのか、名前もいつなくなったかの日付も書かれていない。ちょっと異様であるが、そこに明確に「朝鮮人虐殺」と明確に書けない地元住民の苦悩が滲んでいるようである。
なお、この中台墓地は市民会館の南側細い道路沿いにある。海軍の水兵ら地元の戦没者の大きな墓も建つ中で、無縁供養塔の文字通り無名な状況は寂しい感じである。まさか、殺された人々も労働力として連れてこられた日本内地で、民衆に殺されるとは思っていなかったであろう。萱田の長福寺の供養塔とともに、線香を供えた。

<中台墓地の供養塔>


このように、大地震のあとの社会不安、異常心理が「不逞鮮人が井戸に毒をまいた」などといった流言蜚語となり、またそれを軍、警察当局が利用して、社会主義者や在日中国人指導者などの抹殺にいたった。アナキスト大杉栄と妻の伊藤野枝、そして6歳の甥の橘宗一を虐殺した甘粕正彦大尉は、軍法会議にかけられたが、結局たしいた罪にならず、昭和天皇の即位に伴う恩赦で釈放されている。朝鮮人虐殺に手を染めた民衆も、罪に問われることがなかった。全く、無辜の者が殺され、悪行で手を血に汚した者が生き残って、甘粕にいたっては、さらに中国大陸でより大きな悪事を行ったのだから、歴史の暗黒というしかない。



(参考文献)
『習志野市史』 習志野市教育委員会  (1995)
『いわれなく殺された人びと』 千葉県における関東大震災犠牲者追悼・調査実行委員会 青木書店 (1983)
『関東大震災人権救済申立事件調査報告書』  日弁連 (2003)
 http://www.azusawa.jp/shiryou/kantou-200309.html
 
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千葉市の戦争遺跡3(千葉市街地の戦災復興記念碑他)

2007-05-03 | 千葉市の戦争遺跡
千葉市内の戦争遺跡をもう少し調査しようとして、千葉空襲の跡地を少し歩いてみた。戦災に関係した石碑を調べようとしたのである。しかし、例えば愛知県豊川市の海軍工廠空襲の慰霊塔や平和記念の像などと比べると、あまり目立たず、石碑自体は大きくても気がつかずに通り過ぎそうな感じがした。一見、空襲の跡地にたつ記念碑ということが分からない碑のなかで、千葉市街地中心部においては川上紀一千葉県知事の名のある戦災復興の碑が唯一戦災が広範囲にあったことを示している。

実際、千葉の市街地の真ん中に空襲があったことも、今の住民は知らない人が多いのだろう。

千葉は船橋と比べると、駅前の道路も幅広く、全体的にゴミゴミした感じではなく、ひろびろしていて、市街地の奥行きが広い感じである。しかし、船橋の本町通りにあるような戦前からの古い商家がある訳でなく、せいぜい昭和30年代くらいの建物があるくらいである。
これは裏を返せば、千葉の市街地の中心部が、空襲ですっかり焼けてしまったためである。

<千葉市街地に建つ戦災復興記念碑>


千葉市の本格的な空襲は、1945年(昭和20年)5月8日が第一回目で、これは米軍の他目標広域作戦行動圏内に千葉にあった日立航空機千葉工場(現:JFEスチール東日本製鉄所・千葉工場)が入ったためである。その後、6月10日、7月7日と両度の空襲があったが、何れも千葉を直接の目標としたものである。
なお、6月10日、7月7日で空爆を行ったのは、米軍爆撃機B29であることが分かっているが、5月8日のはP51ムスタングであるという説が多いなか、別の艦載機であるという説もあって、はっきりしない。
後で述べるように、人的被害も明確になっておらず、行政資料の数字も複数あって、行政資料の数字も当てにならないのが実態(日本国内の日本国民の被害実態からして、この通りで、いわんや海外の戦争被害者においておや、である)。

空襲目標は前記の日立航空機千葉工場だけでなく、千葉県立千葉高等女学校、千葉師範学校女子部(分散学校工場)、国鉄千葉機関区や千葉、蘇我の住宅地も標的とされ、中世において下総国の守護をつとめた千葉氏所縁の千葉神社、千葉寺といった寺社も被災している。
現在、千葉神社は朱塗りの綺麗な社殿となって、元々の場所に建っているが、かつて空襲まではその南に千葉氏歴代の墓のあった大日寺があった。しかし、大日寺は空襲で全焼してしまい、今は西千葉に墓地もろとも移転して、跡地は通町公園となっている。

6月10日の空襲の主な目標は、軍需工場である日立航空機千葉工場であり、そのなかに本工場と県立千葉高女・千葉師範学校女子部の両疎開分散学校工場が含まれていた。日立航空機の疎開分散工場は大網にも半地下工場として存在していたが、米軍の地上偵察はそちらは見逃したものの、県立高女と千葉女子師範の疎開分散工場を見逃さなかった。千葉機関区・県立千葉高等女学校・千葉師範女子部などが攻撃されたと言うことである。
この空襲で千葉師範学校女子部では、8人の生徒と、教師1人、雇員1人の計10名が亡くなり、多数の負傷者をだした。

さらに、悲惨なことには、この空襲で日立航空機千葉工場に隣接する蘇我の一般住民が、空爆の狙いが誤ったことにより、152人犠牲になっている。この蘇我の空襲犠牲者の墓は、日蓮宗福正寺の墓地にあるが、犠牲となった152人の名前が刻まれている。蘇我の福正寺の碑には「日立航空機千葉工場爆撃の目標が僅かなる誤差により 昭和二十年六月十日午前七時五十四分 B29の爆撃により152名爆死者あり 蘇我町一丁目在住者129名なり 内124名は桜木町の市営墓地に野天に於いて合同火葬せり 各遺族は湯呑大に入りし遺骨を受け 残る遺骨は此の墓石下内に合同埋骨せり 爆撃に逝きたる人や碑となりて永久にねむりて平和の守り 松籟」とある。

<空襲で焼失した千葉女子師範の記念碑>


<蘇我の福正寺にある空襲犠牲者の墓~十七回忌である1961年建立>


また、6月10日の空襲では、国鉄千葉機関区(現在のJR千葉駅、そごう周辺)も標的とされ、軍需工場だけでなく、鉄道網の中枢も破壊し、交通、輸送を遮断することをも米軍は計算していたことになる。この空襲で、国鉄千葉機関区では、職員と動員学徒の合せて23名の犠牲者が出た。千葉機関区には、佐倉中学校や国民学校の生徒らが、連日80名ほど動員され、彼ら動員学徒は石炭の積込みや機関車の掃除などの仕事を行っていた。不幸中の幸いで日曜日であったため、動員学徒は4人しかいなかったが、うち中学生1名、国民学校生徒1名が犠牲となった。

軍需工場などの空襲でよくあるように、この空襲でも動員学徒から犠牲者が出た。

<国鉄千葉機関区跡に建つ「礎」の碑>


さらに、7月7日の空襲では、千葉市街地そのものが、目標とされた。現在のJR千葉駅の南、三越の近くにあった富士見国民学校も、この空襲で焼失した。この空襲では、焼夷弾が降り注ぐなか、都川周辺や海岸、寒川地先埋立地などの避難場所に逃げた人々に、小型機による機銃掃射が加えられた。

<富士見校の碑>


このように、千葉市街地は空襲によって、大きな被害を受けた。しかし、その被害の実態は、千葉市政要覧昭和22年度版によれば、罹災面積70万坪、罹災戸数8,904戸、罹災人口38,062人、死者890人、負傷者1,500人となっているが、死者の数などは別の行政資料と数字が合わず、千人以下ではなさそうであることが分かっているのみで、戦災を記録、被災度合を確定しようという行政側の公的な努力がされないまま、今日に至っているのが現状である。

戦後復興の陰に隠れた、戦争体験の風化とともに、千葉空襲も忘れ去られようとしている。

<千葉神社と南側にあった大日寺跡の通町公園>
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