千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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柏陸軍飛行場ができた柏市十余二、柏の葉の変遷

2008-04-12 | 千葉県の地域情報
千葉県柏市十余二、柏の葉から流山市駒木台にかけて、旧陸軍柏飛行場(陸軍東部第百五部隊)と隣接して陸軍航空廠立川支廠柏分廠があった。柏飛行場の土地は、戦後入植者に払い下げられ、中十余二開拓集落ができたものの、朝鮮戦争の頃、米軍通信基地となり、一部は米軍に接収、国が買収されるなどして、開拓民がつくった中十余二集落は消滅。その後、米軍基地の返還運動により、返還され、現在に至っている。

今は柏飛行場跡地は、かつての司令部跡周辺が陸上自衛隊柏送信所になっているが、その他は官庁施設や大学の敷地、柏の葉公園という大きな公園や国立がんセンター東病院、柏の葉高校、柏の葉住宅地、隣保園などとなっている。

柏飛行場は、1938年(昭和13年)に当地に開設された。それは、1937年(昭和12年)6月、近衛師団経理部が新飛行場を当地(当時の東葛飾郡田中村十余二)に開設することを決定し、用地買収を行って建設されたものである。その当時、日本は1931年(昭和6年)の満州事変以降、中国大陸での戦線拡大の真只中にあり、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を契機として、日中全面戦争に突入していた。柏飛行場は、首都防衛の飛行場として、松戸、成増、調布などと共に陸軍が設置したものである。兵員はおよそ600~700人の配備であり、飛行機の配備(1945年初め)としては2式戦闘機(鍾馗)約40機、3式戦闘機(飛燕)約15機であった。

柏飛行場には、1500mの滑走路と周辺設備、すなわち兵舎や格納庫があり、航空廠立川支廠柏分廠の工場などが隣接していた。
陸軍東部第百五部隊の営門は、現在の陸上自衛隊柏送信所の前の道路が、十余二の大通りと交差する駐在所横にあり、当時の位置のままである。コンクリート製で、今も門扉を取り付けた金具が残っている。

ここは高射砲陣地とともに、首都防衛終戦間際の1945年(昭和20年)頃になると、空襲に際しては滑走路も無視して四方八方から戦闘機が迎撃に飛び立って行き、そのまま帰還しない機も少なくなかったという。

<東部第百五部隊の営門跡>


そして、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦の日を迎える。日本国民は天皇を頂点とした軍部ファシズム、戦時統制経済のくびきから解放されたが、多くの引揚者、復員軍人を迎えた国土は戦争で疲弊しており、戦後の食糧難の時期を迎える。柏飛行場跡地は、食糧難解消のための緊急開拓地の一つとして、開拓民が移住、引揚者や旧軍人など約140人が入植した。当地は地味や水利が良くなかったものの、陸稲や小麦、甘藷、落花生などが栽培され、柏飛行場跡地は徐々に農地へ転換した。

しかし、朝鮮戦争が始まると、開拓地は米軍に接収され、朝鮮戦争以降アンテナの立ち並ぶ通信基地として使用された。すなわち、柏飛行場の農地転換作業がほぼ完成した1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発するや、1952年(昭和27年)には日米合同委員会が米空軍通信基地の設置を決定、1955年(昭和30年)、「米空軍柏通信所」、トムリンソン通信基地が開拓地内に建設された。基地には200mの大アンテナをはじめ、アンテナが林立し、日本の国土でありながら朝鮮、ベトナムに駐留する米軍に対してアメリカ国防総省の命令を伝達する通信基地となったのである。
トムリンソン通信基地では、旧軍の柏飛行場を一部改変し、道路の付替えを行っている。

その後、農民の強い反対運動にもかかわらず、米軍基地は拡大、昭和38年(1963)施設拡充のための国による買収問題を契機に開拓農民に動揺が起き、結局ほとんどの開拓地は国に買収されて農民は去り、わずかな民有地を残して中十余二開拓部落は消滅した。
その後、国民運動におされて、日本政府も基地返還についてアメリカ政府と交渉せざるを得ず、関東での基地返還があいつぎ、柏のトムリンソン通信基地についても昭和50年(1975)に返還の動きが出てきた。そこで県と地元市町村(松戸市、野田市、柏市、流山市、我孫子市、鎌ヶ谷市、関宿町、沼南町)は、1976年(昭和51年)2月23日に「米空軍柏通信所跡地利用促進協議会」を設置して、基地の早期全面返還と跡地の公共的利用について、更に積極的な活動を進めることになった。

さらに、県議会、柏市・流山市議会においても早期返還の決議がなされ、また、地元協議会などの幅広い活動の結果、1977年(昭和52年)と、1979年(昭和54年)の二度に渡りほぼ半々ずつの面積で返還が行われ、跡地188 haの全面返還が実現した。
その際、アメリカは1977年(昭和52年)に基地の半分を返還すると通告してきたが、同時に残り半分を原子力潜水艦へ核攻撃の指令を出すための通信基地「ロランC」を新設すると通告、これは国会でも取り上げられ、大きな反対運動が起こった。結果、米軍は新たな基地建設を断念、1979年(昭和54年)の全面返還となったのである。

日本に返還された基地跡は、背丈ほどの雑草の生い茂る荒地となっていたのを、近年柏の葉キャンパスとして、国立がんセンター、科学警察研究所、財務省税関研修所、東葛テクノプラザ、東京大学といった官公庁、大学などの研究施設や柏の葉公園などとなった。。

<柏の葉>


そもそも、十余二とは明治の新地名であるが、それは下総台地にあった小金牧、下総牧を明治新政府が、東京にいた窮民、旧士族に開拓させ、彼らに授産しようとしたことに端を発し、自然環境が厳しい原野に近い場所を東京窮民や近隣の農家の次三男坊が開墾し、農地としていった苦闘の歴史の象徴である。その土地は開墾に苦闘する開拓民のものとはならず、開拓会社を実質的に支配する政商たちが大地主で、開拓民は小作農という関係が続き、明治新政府の不手際もあって、初期の東京窮民を中心とした開拓民は多くが脱落、わずかに残った初期開拓民と途中で開拓に加わった近隣農民の手で開拓は成し遂げられた。

小金牧、下総牧の開墾地には、、開墾順序に合わせて地名がつけられたが、その最初が現・鎌ヶ谷市の初富。初めて富を得る場所という意味か。以降、二和(船橋市)、三咲(船橋市)、豊四季(柏市)、五香(松戸市)、六実(松戸市)、七栄 (富里市)、八街(八街市)、九美上(香取市)、十倉(富里市)、十余一(白井市)、十余二(柏市)、十余三(成田市、多古町)と続く。

十余二は、かつての高田台牧があった場所を開墾して出来た地名である。
高田台牧は柏市十余二・高田のほか流山市の一部にまたがる。この土地が開墾され、原野が農地になる過程では、他の開墾地同様、開拓民の苦労があったわけであるが、ここには開拓民を小作農として大隈重信が広大な土地を所有した地主として君臨していた。現柏特別支援学校付近に、明治初期、大隈重信が屋敷部分だけで10,000m2を超える土地を所有していたという。

「当地は元小金原高田台牧也

明治二年より入植開拓せり初期入植者は自作農たるべき筈の処大隈及鍋島等の所有となりて八十余年昭和廿二年来の農地改革により初志貫徹すべて入植者の有に帰す」

これは、十余二のバス停近くの神社境内にある、「高田原開拓碑」の碑文である。こうして入植者の手に獲得された農地であったが、やがて軍によって買収、戦後も米軍基地となるなど、変転をたどった。近くの豊四季も軍との関係が深い土地であるが、ここもまた、開墾の苦闘の歴史をもっている。豊四季の、農業専業で生計をたてられない農民たちは木釘を売り、生活水準も近隣のもともとの農民と比べて低かった。

<豊四季駅>


実は、柏飛行場が、もとは牧の開墾地であったという証拠が今でも残っている。それは軍敷地の内外にあった土塁であるが、これは小金牧高田台牧の土塁を再利用したものである。ただ、軍が新たに築いた土塁もあり、どこからどこまでが牧の土塁か、軍オリジナルかが判然としない。

ちなみに、柏には陸軍射撃場があったが、これは中世の大室城跡を再利用したもの。それによって、大室城跡は原型をとどめぬように改変され、事実上消滅した。これは国府台城でも同様に、土塁の改変が多々有るとはいえ、遺構は残存している。大室城跡の例は、軍による文化財破壊といえるだろう。なお、陸軍射撃場は戦後ホークミサイル基地となり、ベトナム戦争当時、おおきな反対運動があった。今もミサイル基地のようであるが、自衛隊での正式名は「陸上自衛隊高射教育訓練所」である。

<航空廠柏分廠跡に残る土塁>


参考文献:『歴史アルバム かしわ』 柏市役所 (1984)
     『千葉県の戦争遺跡をあるく』千葉歴史教育者協議会 (2004)
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伊号第六三潜水艦航海長、大野博少佐の死

2007-03-16 | 千葉県の地域情報
千葉県船橋市の中心地とでもいうべき、本町の繁華街に程近い、船橋市民文化ホール裏の路地に面した小さな墓地に、ひときわ大きな角柱の墓がある。これは、「海軍少佐大野博」の墓である。法名は「輝海院殉勇博道大居士」で、この人の最期を象徴している。小生、以前からこの墓のことは知っていたが、地方の名望家出身の下士官兵クラスの戦没軍人の墓によくある規模にも関わらず、海軍少佐という肩書きがあり、気になる存在であった。近所の稲荷屋さんで大野家の親戚の家を教えてもらい、そこで親戚の人からいくらか話を聞いたので、ここに記すものである。

<大野家のあった船橋市本町1丁目周辺>


大野博は「船橋尋常高等小学校から千葉中学(現・千葉高校)に進み、1930年(昭和5年)4月に海軍兵学校に61期生として入学、1933年(昭和8年)卒業。 海兵卒業後は、軍艦浅間、山城、羽黒に乗艦した。日中戦争勃発後の1938年(昭和13年)4月、特別陸戦隊副官兼第五艦隊司令部附となり、5月厦門(アモイ) 島攻略戦で敵前上陸、同島占領。1938年(昭和13年)11月には海軍大尉に昇進した。1939年(昭和14年)2月2日伊号第六三潜水艦の航海長兼分隊長として訓練に参加、豊後水道の水の子灯台付近で碇泊中、伊号第六三潜水艦は僚艦である伊号第六〇潜水艦に追突され、沈没。この事故は、伊号第六〇潜水艦が、伊号第六三潜水艦の舷燈と艦尾燈を漁船二隻の燈火と見誤り、間を通り抜けようと直進したことによる。なお、伊号第六〇潜水艦は、艦首に大きな損傷を負ったが、沈没を免れた。 この事故で大野博大尉も、伊号第六三潜水艦の81名の殉職者の1人となった。大野博大尉は、同日少佐に特進。享年二十八歳。この事故で沈没した伊号第六三潜水艦の船体の引揚げ、殉職者遺体の収容は、翌年1月下旬にようやく行われた。」(Wikipediaより引用)

上記記事は、大野少佐の墓誌に書かれている内容を含んでいるが、墓誌にはもう少し詳しく、伊号潜水艦同士の衝突事故が起きた場所を水の子灯台から「三一九度五小浬附近」としている。
この伊号潜水艦同士の衝突事故は、有名な事故であり、今も現地にそのときに犠牲となった人々の慰霊碑が建っている。
惜しくも、若い命を不慮の事故でなくした大野博少佐は、船橋の本町一丁目の製麩業を営む「麩屋」という屋号の家の出身で、地元の人からは、「麩屋のせがれ」と呼ばれていたらしい。父は大野善兵衛、母は正子、兄が一人で夭折、弟で中央大学に進んだ四男隆とやはり海軍に入った五男信夫がいた。父大野善兵衛は町会議員をつとめ、消防関係や各種委員にもなった町の世話役であった。大野善兵衛家では長男が夭折したので、大野博少佐は事実上嫡男であったが、潜水艦の衝突事故で亡くなってしまった。現在の大野家の当主も、大野博少佐の息子ではないそうである。また麩屋の家は、マンションに立替えられ、昔の家としては現存しない。
その生前のエピソードが、「船橋地誌 ~夏見潟を巡って」(長谷川芳夫著・2005年・崙書房出版)のなかに、「一丁目の麩屋(屋号)の伜が、同期の友達と舟遊びに来たときは、次々と船から海に飛び込んで、沖に向かって泳いだっけ」という、筆者のまさに父親の言葉として紹介されている。

大野博少佐がなくなったときは、伊号第六三潜水艦の航海長兼分隊長であったが、小生の昔お世話になった方がやはり海軍兵学校出身の元海軍大尉で、戦時中、伊号第五六潜水艦の航海長をしていた。フィリピンで全魚雷を撃ちつくした後、敵と遭遇、きわめて長時間潜航して難を逃れた経験をお持ちであったが、惜しくも戦後軍事評論家として活躍中に交通事故でなくなった。

<伊号第五六潜水艦>


大野博という人には、小生あったこともないが、恐らく海兵在校中か卒業時と思われる前のエピソードや経歴から、地元では秀才といわれ期待されていて、心身健全な、輝かしいような青年であったのであろう。だが、陸海軍を問わず、かつての軍隊では下級将校や下士官は、最も減耗率の激しい「消耗品」であった。
それは、主に戦闘においてであるが、事故でも同じであろう。
もし、大野博が千葉中学から海軍兵学校などの軍隊の学校ではなく、普通の大学に進んでいたら、この人の人生は随分と違ったものとなり、天寿をまっとうしたかもしれない。

<大野博少佐の墓の近くにある太宰治の植えた夾竹桃>
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