千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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千葉市の戦争遺跡3(千葉市街地の戦災復興記念碑他)

2007-05-03 | 千葉市の戦争遺跡
千葉市内の戦争遺跡をもう少し調査しようとして、千葉空襲の跡地を少し歩いてみた。戦災に関係した石碑を調べようとしたのである。しかし、例えば愛知県豊川市の海軍工廠空襲の慰霊塔や平和記念の像などと比べると、あまり目立たず、石碑自体は大きくても気がつかずに通り過ぎそうな感じがした。一見、空襲の跡地にたつ記念碑ということが分からない碑のなかで、千葉市街地中心部においては川上紀一千葉県知事の名のある戦災復興の碑が唯一戦災が広範囲にあったことを示している。

実際、千葉の市街地の真ん中に空襲があったことも、今の住民は知らない人が多いのだろう。

千葉は船橋と比べると、駅前の道路も幅広く、全体的にゴミゴミした感じではなく、ひろびろしていて、市街地の奥行きが広い感じである。しかし、船橋の本町通りにあるような戦前からの古い商家がある訳でなく、せいぜい昭和30年代くらいの建物があるくらいである。
これは裏を返せば、千葉の市街地の中心部が、空襲ですっかり焼けてしまったためである。

<千葉市街地に建つ戦災復興記念碑>


千葉市の本格的な空襲は、1945年(昭和20年)5月8日が第一回目で、これは米軍の他目標広域作戦行動圏内に千葉にあった日立航空機千葉工場(現:JFEスチール東日本製鉄所・千葉工場)が入ったためである。その後、6月10日、7月7日と両度の空襲があったが、何れも千葉を直接の目標としたものである。
なお、6月10日、7月7日で空爆を行ったのは、米軍爆撃機B29であることが分かっているが、5月8日のはP51ムスタングであるという説が多いなか、別の艦載機であるという説もあって、はっきりしない。
後で述べるように、人的被害も明確になっておらず、行政資料の数字も複数あって、行政資料の数字も当てにならないのが実態(日本国内の日本国民の被害実態からして、この通りで、いわんや海外の戦争被害者においておや、である)。

空襲目標は前記の日立航空機千葉工場だけでなく、千葉県立千葉高等女学校、千葉師範学校女子部(分散学校工場)、国鉄千葉機関区や千葉、蘇我の住宅地も標的とされ、中世において下総国の守護をつとめた千葉氏所縁の千葉神社、千葉寺といった寺社も被災している。
現在、千葉神社は朱塗りの綺麗な社殿となって、元々の場所に建っているが、かつて空襲まではその南に千葉氏歴代の墓のあった大日寺があった。しかし、大日寺は空襲で全焼してしまい、今は西千葉に墓地もろとも移転して、跡地は通町公園となっている。

6月10日の空襲の主な目標は、軍需工場である日立航空機千葉工場であり、そのなかに本工場と県立千葉高女・千葉師範学校女子部の両疎開分散学校工場が含まれていた。日立航空機の疎開分散工場は大網にも半地下工場として存在していたが、米軍の地上偵察はそちらは見逃したものの、県立高女と千葉女子師範の疎開分散工場を見逃さなかった。千葉機関区・県立千葉高等女学校・千葉師範女子部などが攻撃されたと言うことである。
この空襲で千葉師範学校女子部では、8人の生徒と、教師1人、雇員1人の計10名が亡くなり、多数の負傷者をだした。

さらに、悲惨なことには、この空襲で日立航空機千葉工場に隣接する蘇我の一般住民が、空爆の狙いが誤ったことにより、152人犠牲になっている。この蘇我の空襲犠牲者の墓は、日蓮宗福正寺の墓地にあるが、犠牲となった152人の名前が刻まれている。蘇我の福正寺の碑には「日立航空機千葉工場爆撃の目標が僅かなる誤差により 昭和二十年六月十日午前七時五十四分 B29の爆撃により152名爆死者あり 蘇我町一丁目在住者129名なり 内124名は桜木町の市営墓地に野天に於いて合同火葬せり 各遺族は湯呑大に入りし遺骨を受け 残る遺骨は此の墓石下内に合同埋骨せり 爆撃に逝きたる人や碑となりて永久にねむりて平和の守り 松籟」とある。

<空襲で焼失した千葉女子師範の記念碑>


<蘇我の福正寺にある空襲犠牲者の墓~十七回忌である1961年建立>


また、6月10日の空襲では、国鉄千葉機関区(現在のJR千葉駅、そごう周辺)も標的とされ、軍需工場だけでなく、鉄道網の中枢も破壊し、交通、輸送を遮断することをも米軍は計算していたことになる。この空襲で、国鉄千葉機関区では、職員と動員学徒の合せて23名の犠牲者が出た。千葉機関区には、佐倉中学校や国民学校の生徒らが、連日80名ほど動員され、彼ら動員学徒は石炭の積込みや機関車の掃除などの仕事を行っていた。不幸中の幸いで日曜日であったため、動員学徒は4人しかいなかったが、うち中学生1名、国民学校生徒1名が犠牲となった。

軍需工場などの空襲でよくあるように、この空襲でも動員学徒から犠牲者が出た。

<国鉄千葉機関区跡に建つ「礎」の碑>


さらに、7月7日の空襲では、千葉市街地そのものが、目標とされた。現在のJR千葉駅の南、三越の近くにあった富士見国民学校も、この空襲で焼失した。この空襲では、焼夷弾が降り注ぐなか、都川周辺や海岸、寒川地先埋立地などの避難場所に逃げた人々に、小型機による機銃掃射が加えられた。

<富士見校の碑>


このように、千葉市街地は空襲によって、大きな被害を受けた。しかし、その被害の実態は、千葉市政要覧昭和22年度版によれば、罹災面積70万坪、罹災戸数8,904戸、罹災人口38,062人、死者890人、負傷者1,500人となっているが、死者の数などは別の行政資料と数字が合わず、千人以下ではなさそうであることが分かっているのみで、戦災を記録、被災度合を確定しようという行政側の公的な努力がされないまま、今日に至っているのが現状である。

戦後復興の陰に隠れた、戦争体験の風化とともに、千葉空襲も忘れ去られようとしている。

<千葉神社と南側にあった大日寺跡の通町公園>

千葉市の戦争遺跡2(陸軍気球連隊と陸軍歩兵学校)

2007-01-13 | 千葉市の戦争遺跡
1.風船爆弾の「ふ号作戦」をおこなった陸軍気球連隊

陸軍気球連隊は千葉市稲毛区作草部の台地上にあったが、今もその格納庫跡が残り、川光倉庫という民間会社の現役の米穀倉庫として再利用されている。

気球は欧米においも盛んに研究が行われたが、日本は古くから軍事目的に利用しようとしていた。気球の軍事利用の発想は西南戦争に遡り、後に海軍機関学校の校長となった麻生武平らによって、1877年(明治10年)東京築地において初めて実験がされた。
日本陸軍の本格的な気球利用は、1904年(明治37年)年6月、臨時気球隊が編成され、日露戦争に従軍(旅順攻囲戦)したのを嚆矢とする。以来、陸軍は航空機で気球を重視する傾向があり、海軍とは好対照であった。翌1905年(明治38年)に、東京中野の電信教導大隊内に気球班が出来、1907年(明治40年)10月気球班が発展的に廃止、改組され陸軍気球隊となった。さらに1909年(明治42年)航空技術促進のため、勅令により臨時軍用気球研究会官制が発布され、帝国陸海軍合同の「臨時軍用気球研究会」が発足した。その後気球隊は所沢に移り、さらに1927年(昭和2年)に現在地に移ったが、1936年(昭和11年)平時編成全面改正で陸軍気球連隊となり、航空科から砲兵科に移管された。
なお、作草部における格納庫は当初第一格納庫一棟のみであったが、1929年(昭和4年)にさらに二棟(新しく作られた第二格納庫が現在地に現存する方である)に増築された。

かつての気球格納庫であった川光倉庫の米穀倉庫は、大きな蒲鉾屋根の建物で、スレート屋根と分厚いコンクリートで出来ており、倉庫の開口部は上下可動式となっている。屋根の最上部が、橋の欄干にあるような宝珠の頭のような形で、天井が低くなる両端のデッドスペースは、仕切を加えられて兵の宿泊室となった。ゆえに、格納庫側面並ぶ三角形の窓は明り取り用の出窓であったものを戦後払下げされた後に塞いだものである。
往時は、もう一棟、第一格納庫が道路を隔てた向い側の現在公務員宿舎となっている場所にも、格納庫があったが、空襲を受けて破壊された。その残欠は戦後解体され、三角屋根の中央部分が二段となっているのをただの三角屋根に改造しながら千葉公園の中の体育館として移築、改装されている。

<作草部公園付近の住宅地から見た格納庫跡>


気球連隊のあった場所は、現在の川光倉庫敷地とその南東の幼稚園、唱題寺という寺院および倉庫西側の公務員宿舎がある一帯までで、ご近所の方にお聞きしたところ、寺院のさらに南東にある作草部神社はもともと現在地にあり、隣接する公園(元は葦などが茂っていた荒地)も軍用地としては使われていないそうである。川光倉庫と幼稚園、寺院の東側、南側の境界には塀がめぐっているが、一部なくなっているものの、当時のものがよく残っている。

<格納庫を前面から見たところ>


<格納庫を横から見たところ>


また、境界標石が、倉庫の北の道を挟んだ低地に1つ、埋没していて分かり難いが、寺院周辺に1つ以上はある。倉庫北の低地にあるものは、「陸軍用地」の文字が一部読み取ることができるが、寺院にあるものは地表面に出ている部分がすくなすぎ、判読不能である。

<北側低地の境界標石>


日中戦争当時、気球連隊は独立気球第一、第二、第三中隊を編成し、戦線に出動。情報収集、射撃観測を任務とした。ノホンハン事件でも臨時独立気球中隊を編成して派遣したが、制空権をソ連に握られ、一部気球は破壊され、戦死者も出ている。太平洋戦争では独立気球第一中隊を編成・派遣し、マレー作戦、第二次バターン、コレヒドール島攻略戦に参加、重砲兵部隊の砲撃に協力した。
しかし、気球連隊が前面に出た活動はここまでで、連合軍に制空権が握られていくなか、気球連隊の出番は失われていった。

<残っている気球連隊の塀>


そこで、起死回生の奇想天外な作戦として考え出されたのは、風船爆弾で偏西風を利用して米国本土を爆撃する「ふ号作戦」、いわゆる風船爆弾攻撃である。風船の直径は約10メートル、楮を原料とした和紙をコンニャク糊で幾層にも貼り合わせて気密性を保ち、水素ガスを詰めたものであった。また風船の強度を増すために、コンニャク糊の上からは苛性ソーダが塗られた。風船の下のゴンドラには、爆弾と自動高度調整装置が装填された。この風船爆弾の風船を満球試験といって、ガスを満タンに充填した状態で、水素ガスが漏れていないか確認する必要があったが、そのためには天井の高い建物を利用せねばならず、東京では日劇や東京宝塚劇場、浅草国際劇場などが使われた。その風船爆弾の製造には、東京、大阪、京都といった都市部の女学生が動員された。

1944年(昭和19年)9月、陸軍気球連隊は参謀総長隷下に入り、風船爆弾攻撃命令を受領、福島県いわき市勿来、茨城県北茨城市大津、千葉県一宮町に展開。その三ヶ所から1944年(昭和19年)11月から放球開始され、合計約9,300個の風船爆弾が打ち上げられた。翌1945年(昭和20年)4月上旬にはジェット気流が吹きやみ、水素ガスの補給も儘ならず、作戦中止となったが、米国本土にたどり着いた300個程度のうち、山火事を起こしたものがいくつかあったのに留まった。その山火事で送電線が断線し、原子爆弾のためのプルトニウム製造が一時停止したとか話があるが、大きな影響はなかった。米軍は風船爆弾に細菌兵器が搭載されるのを恐れたが、実際には搭載されなかった。
しかし、人的被害がでなかったかというと、そうではない。作戦中止後の1945年(昭和20年)5月に、オレゴン州の森林公園で、この風船爆弾が破裂し、ピクニックに来ていた子供5人と牧師夫人の6人がなくなるという非戦闘員を巻き込んだ事故が起きている。

多くの人員を動員した「ふ号作戦」は、米国本土でのいくつかの山火事を起こしただけで、全く失敗に終わり、非戦闘員6人の死亡事故を引き起こした悪名のみを残した。

なお、空襲による破壊を免れた第二格納庫は、戦後しばらく学校として利用された時期もあったが、現在は前述のように倉庫として平和利用されている。

2.陸軍歩兵学校

陸軍歩兵学校は、現在の千葉都市モノレール天台駅に近い、作草部公園一帯にあった。ちょうど、轟町の鉄道第一連隊と作草部の気球連隊に挟まれた場所にある。
陸軍歩兵学校は、1912年(大正元年)に東京にあった陸軍戸山学校の戦術科が拡充に伴い独立し、当地で歩兵学校として独立したものである。ここでは、歩兵の運用に関する戦術研究がなされた。

<「平和の礎」の石碑>


現在、作草部公園のなかに、「平和の礎」という石碑があるほか、公園をとりまく土塁、土塁の途中にある門跡がわずかに当時の名残りをとどめている。
石碑には、
「陸軍歩兵学校は大正元年この地に創立され以来三十有余年歩兵の実施学校としてもっぱら歩兵戦闘法及研究とその普及に任じ軍練成上きわめて重要な使命を遂行した
この間数次の事変戦争において収めたるかくかくたる戦果は本校の努力に負うところまことに多大であり云々」とあるが、かくかくたる戦果がアジア民衆にもたらした被害と裏腹であることは言を待たない。

<歩兵学校の門跡>



千葉市の戦争遺跡1(陸軍鉄道第一連隊)

2006-12-31 | 千葉市の戦争遺跡
1.陸軍鉄道第一連隊の材料廠

JR西千葉駅を下車し、北へ進んだ轟町の住宅地は、かつて陸軍関係の施設が建ち並んだ場所であった。その住宅地の一角に、千葉経済大学があるが、その構内に、かつての陸軍鉄道第一連隊の材料廠の赤煉瓦の建物がある。これは、1908年(明治41年)に建築されたもので、煉瓦造アーチ構造、南北に幅2.7mの下屋を付設し、煉瓦構造の主要部分は54.4m×7.3mと細長い。この材料廠の赤煉瓦の建物は、洋風煉瓦造二階建、煉瓦の積み方も、長手面の段と小口面の段が交互に並び、角に4分の3の大きさの煉瓦が入るオランダ積みという積み方で、内部には長大スパンの連続した煉瓦造の孤形アーチが10連並んだ構造をもち、建築史上でも貴重な建物ということで、千葉県の指定有形文化財になっている。

<現存する陸軍鉄道第一連隊の材料廠の建物>


<美しいオランダ積みという煉瓦積み>


では、そもそも鉄道連隊とは、何であるか。それは鉄道を利用した近代戦を行うために、工兵部隊から派生し、戦地において鉄道の建設、修理や兵員、物資の輸送にあたり、平時は演習線を利用して鉄道建設、修理、汽車の運転などを含めた各種訓練を行う、鉄道専門の部隊である。

明治政府は、近代戦における鉄道利用の重要性から、ドイツを手本として1896年(明治29年)11月に鉄道大隊を東京・牛込の陸軍士官学校内に創設、鉄道大隊は1897年(明治30年)6月東京・中野に転営後、1900年(明治33年)の義和団事件(北清事変)で活躍、1904年(明治37年)には日露戦争にも出動し、朝鮮半島で京義線、中国東北部(旧満州)で安奉線等を建設した。
1907年(明治40年)には東京・中野にあった交通兵旅団の一個大隊が発展拡充して、鉄道連隊となり、千葉町都賀村と津田沼町に移転、千葉に連隊本部、第一大隊、第ニ大隊、材料廠、津田沼に第三大隊が創設された。更に、シベリア出兵時の1918年(大正7年)鉄道連隊はニ個連隊へ増強され、千葉の第一大隊、第ニ大隊を第一連隊、津田沼の第三大隊を第二連隊とした。
1923年(大正12年)の関東大震災では、鉄道復旧作業に従事。満州事変勃発後は、第一大隊はハルビン、他は鉄嶺に駐屯し、中国東北部(旧満州)全域での鉄道建設、維持管理、輸送などに従事した。鉄道連隊は、アジア全土に鉄道網を作り、日本帝国主義のアジア侵略のための交通基盤として、軍事物資などを輸送するという軍事目的のために、細胞分裂する如く、1945年(昭和20年)に第二十連隊まで作られるに至る。

材料廠付近で、材料廠以外の遺構としては、かつては大日寺の北側、引込み線の近くに給水塔があったが、現在は失われている(戦後も1984年に廃されるまでJRのレールセンター内の施設として引込み線も給水塔もあったが、現況レールセンター自体なくなり、跡地は千葉経済大学と住宅地になっている)。それは、軍用鉄道の機関車に水を補給するためのものであった。

2.陸軍鉄道第一連隊の演習場跡

千葉公園のなかには、陸軍鉄道第一連隊の演習場(作業場)があって、演習線のトンネルや、架橋訓練用の橋脚、演習線のウインチ台がある。橋脚は、高台と低地という土地の高低差を利用して、高台の縁辺に低い橋脚を置き、台地下に高い橋脚を置いて、鉄橋を作る訓練をした名残りである。

<演習線の橋脚>


<演習線の高台側の低い橋脚>


また、かつては、公園内の高台は陸軍の喇叭手の練習にちなんで「喇叭山」と呼ばれていたが、脱線機の取付後、退避するのが遅れて殉職した荒木工兵大尉を悼む鉄道第一連隊将兵により、荒木大尉の銅像が建立されたため、「荒木山」と呼ばれるようになった。軍国宣伝が広く行われ、不慮の事故死や偶発的な事由での戦死をとげた軍人から、「軍神広瀬中佐」や「肉弾三勇士」など英雄が仕立て上げられるなかで、この荒木工兵大尉についても、英雄として祭り上げられたようである。

<千葉公園管理事務所敷地にある鉄道連隊演習線トンネル>


<鉄道連隊演習線トンネルを横から見たところ>


また、千葉公園内にウインチ台が残っている。これも、ただのコンクリートの塊と見過ごしてしまいそうだ。

<千葉公園内に残るウインチ台>


3.陸軍鉄道大隊の記念碑など

その他の遺構としては、わずかに椿森町の住宅街の中に、忽然と鉄道大隊の記念碑が建てられているが、これは北清事変で出動し、病死した吉見精工兵大佐や戦死した武田禮作工兵中尉ら、亡くなった将兵を悼むもの。石碑は高さ2mほどもある大きなものであるが、裏面に「北清事変ニ於ケル鉄道」として北清事変当時の北京郊外の鉄道路線図が描かれている。建立者は、「北清事変現存将校」となっていたが、氏名の下に「病気後送」などとリアルに書いてあるのも珍しい。

<住宅地の中にある鉄道大隊記念碑>


北京郊外の鉄道路線図は、細い字で書いてあるが、左隅の四角(城壁か)で囲まれた部分に北京とあり、それから点線で線路が描かれ、「郎坊」「楊林」「天津」などと駅名も記入されている。

<鉄道大隊記念碑の裏面にある北京郊外の鉄道路線図>


また、鉄道大隊記念碑の北側100mほどの地点にある椿森公園はかつての兵営跡であるが、公園の片隅に将校集会所の築山が、そっくり残っている。ただし、何も案内板などないため、知らない人には何の変哲もない公園に見えることであろう。

<椿森公園に残る将校集会所の築山~公園奥の木が生えた場所>