千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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こんな所にも陸軍境界標石が

2008-10-31 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡
驚くほどのことではないが、日頃見慣れた街角に陸軍境界標石がたっていることがある。

もちろん、やたらにあるわけではないが、かつての陸軍の駐屯地や演習場の跡地、陸軍演習線の鉄道跡などに、陸軍境界標石はある。

新津田沼駅に近い、新京成線の線路沿いには、かつて六本の陸軍境界標石があったが、最近四本に減ってしまった。しかし、残っているものも、あまり目立たない場所にある。



上の写真は、そのうちの自転車置き場にある陸軍境界標石である。これが陸軍のものであることは、パッと見では分からない。

また、現在は普通の道路沿いで、近くに銀行や商店街のある場所にも、境界標石があったりする。以下は、四街道の駅前にある陸軍境界標石である。これも、他の標石のようであるが、角が欠けているものの「陸軍」の文字が鮮やかである。



小生も、昔は陸軍境界標石など、気にも留めていなかったが、このようなものでもだんだん少なくなってきた。

何気なく、見送りそうな光景。そのどこに陸軍境界標石があるか、おわかりだろうか。




(自転車の車輪越しに見える電柱脇に一本、その電柱の場所から細く分岐する道路の反対側の木の根元、棕櫚の傍に一本ある)

被弾した流山寺の句碑

2008-10-01 | 流山市の戦争遺跡


千葉県流山市流山、かつて流山糧秣廠があった平和台の近くに、流山寺という寺がある。この寺は、洞雲山流山寺といい、薬師如来を本尊とする曹洞宗の寺である。創建は江戸初期であるが、境内は比較的小さく、本堂の建物は新しく再建されたもの。

実はこの流山寺に句碑がある。それは、栢日庵の庵号をもつ、今の松戸市馬橋の人、大川斗囿という俳人の句碑である。大川斗囿の父、大川平右衛門は大きな油屋であると同時に俳人であり、立砂という俳号をもっていた。また栢日庵の庵号も立砂の代からであり、立砂は小林一茶と親交があった。
松戸あたりもそうであるが、流山でも醸造業がさかんで富裕な商人もおり、そうした人たちが好んで俳諧を嗜んだが、流山でみりんの醸造をおこなっていた商人であった、秋元双樹も小林一茶と親交のあった俳人として有名である。

流山寺の句碑は、上部が三角にとがった形の石に、流麗な書体で句が刻まれている。

名月やいずれの用にたつけぶり   栢日庵斗囿

この1831年(天保二年)に建てられた句碑の「名」の字の左横に大きく窪みがあり、ひび割れているのが分かるであろう。

<流山寺の句碑(拡大)>


誰がこんな傷をつけたかといえば、太平洋戦争中に空襲によって被弾したということである。その傷がなければ、風雅な良い石碑であったが、戦争の傷跡を今に伝えることになった。

なお、この寺には入口のところに、柱状のものの上に、俵に乗った大黒様の像がある。三頭身にもみたない頭でっかちで、かなりデフォルメされている。しかし、眉毛がつながったような面白い顔で、ほほえましい。

<流山寺の大黒像>


また、その横になにか仙人のような石像があり、大きく袖をひるがえし、杖をもっているが、はたして何を彫ったものであろうか。表情もとぼけている。足もとには、三猿が彫られている。そういう形は、よく庚申塔にみられるが、これはどういうものであろうか。それにしても、ユーモラスな石像である。

<大黒の隣にある石像>


なお、この流山寺の周辺には、小林一茶・双樹記念館や双樹の墓のある光明院など、俳句にかかわる場所が多い。