千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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陸軍鉄道連隊演習線の名残

2008-02-04 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡
一般的に、今の新京成電鉄の路線は、かつての陸軍鉄道連隊の演習線だったと知られている。

実際、松戸から津田沼までの、かつての陸軍鉄道連隊演習線は、今は新京成電鉄になっている部分が多いのだが、厳密には松戸に近い部分、八柱~常盤平~五香、初富~鎌ヶ谷大仏などは、元の演習線とはかなり外れたところを現在の路線が走っている。
常盤平団地のある、常盤平駅についてはほとんど演習線の内側で、だいぶ外れているのではないかと思っていたが、駅の西側は演習線と数十mしか離れていない、ほぼ重なるそうである。常盤平駅の東側から北へのびる、かつての演習線は、熊野神社の横から北へ道とほぼ重なるようにしながら、北端は栗ヶ沢辺りで、その辺では道とならずに、小金原のほうへだいぶ湾曲して、現在の新京成線の五香駅手前、金ヶ作の交差点あたりに戻ってくるイメージである。以前、附近の本屋さんで聞いた話でも、同様であった。実は1947年(昭和22年)に米軍が撮影した航空写真が国土地理院のHPで開示されているが、現在の地図を見比べると、それははっきりとわかり、駅の北側熊野神社の脇の道路を北へほぼまっすぐ行くと、金網フェンスの横の未舗装の細い道となり、かまわず行けば林を抜けて広い道路に出る。

<駅の北側熊野神社横の道路をまっすぐ北へ進むと道が細くなる>


さらに北へ進むと道が途中で切れるが、その北東の大きな通りを越えて、しばらく進み、南下すれば金ヶ作交差点を経て、五香駅にいたる。その辺りの、写真のようなありふれた道路にも旧陸軍の境界標石がある。

<金ヶ作の道路~ここにも境界標石が>


そのように、路線が変えられたのは、鎌ヶ谷大仏駅附近も同様で、例の鎌ヶ谷の橋脚跡も新京成電鉄の駅や線路から離れた場所にある。
それはあまりにも演習線が曲がりくねってつくられていたために、ショートカットしたのと、松戸付近については駅を市街地に近くするために、工兵学校や三矢小台ではなく、松戸駅に乗り入れさせるために、路線を変えたのである。

<鉄道連隊江戸川架橋演習~1914年(大正3年)7月27日>


沿線を歩いてみると、確かに演習線の名残がうかがえる箇所がいくつかある。しかし、松戸市内は廃線部分を探るのも宅地化されていて難しい。
この辺りは、戦争遺跡を探るものより、廃線を調べることを趣味としている人のほうが、あるいは詳しいかもしれない。

自分が見聞した、かつての陸軍鉄道連隊演習線の名残をいくつかあげてみよう。

1.前原駅附近の陸軍境界標石

これは、駅からすぐの民家の塀に埋めるように立っている。というより、境界標石のある場所に塀をたてようとして、それをよけて塀をたてたというのが正確だろう。一見、戦後の境界標石に見えるが、御影石製で八柱などでみかけるのと同じタイプである。他にも附近の畑の中にあるが、線路沿いに3本並び、ほかに1本やや奥まった寺に近いところにある。





2.鎌ヶ谷の橋脚跡

これは、土地の高低があるようなところで、勾配差を緩和するために橋脚をつくって線路を通す架橋訓練を行い、それを演習線に組み込んだものだそうだ。架橋演習は、前出の写真のように、江戸川などでよく行われていたが、工兵の面目躍如たるもので、千葉市内の演習場跡にも少し小さいが訓練用の橋脚が残る。
この鎌ヶ谷の橋脚はみな台地と台地の間の窪地にたっており、その部分が公園化している。最初見たときは、ちょっと威圧感があるが、付近の住民の人の憩いの場になっている。このすぐ上の台地上にも、御影石の境界標石があった。台地上の境界標石は小さく、他では見かけないタイプである。





3.八柱駅周辺の境界標石、線路跡

この境界標石は全部で十くらいあっただろうか。最近みたら、少し減っていた。この境界標石は有名である。ここになぜ集中しているのかは、よく分からない。そもそも境界標石があるのは、演習場が近く、引込み線があった関係だろうか。そして、これだけ残っているのは、あるいは、他では捨てられたものを、ここでは大事にとってあるのだろうか。また森のホール近くにかつての線路跡が残っている。この線路跡のほうは、あまり知られていないかもしれない。ここにも「陸軍省用地」と書かれた境界標石を見たが、それは哀れ駐車場の車輪止めとして使われていた。





4.松戸相模台の陸軍工兵学校附近の境界標石

これも鉄道連隊の演習線に関係ある境界標石らしい。もちろん、工兵学校があった場所であるから、隊門とか、その関係の遺構もいろいろ残っているし、境界標石も「地獄坂」に一つ、工兵学校裏の階段に一つ残っている。松戸は工兵学校まで演習線は延びていたが、松戸における演習線の終点は現在の三矢小台のあたりで、工兵学校方面は支線だったという。戦後、新京成の路線にするとき、それでは不便なので、現在のJR松戸駅に隣接するようにしたらしい。だから、松戸駅あたりも、かつての演習線と今の新京成が重ならない場所になっている。



一方、千葉から津田沼までの演習線跡は、道路となっている部分が多いが、こちらも普通の道路にしか見えないところが多いようだ。京成大久保駅付近のハミングロードも看板がなかったら、廃線道路とは思われないかもしれない。
時間はかかるが、もう少し探ってみようと思っている。

(2008年2月7日、2月18日加筆修正しました。鉄道連隊の画像は、筆者が所蔵する古い写真をスキャナーで取り込んだもので、少し汚れが写りこみました。)