千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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鎌ヶ谷市の戦争遺跡2(藤ヶ谷陸軍飛行場関連)

2009-06-21 | 鎌ヶ谷市の戦争遺跡
1.藤ヶ谷陸軍飛行場

戦争末期、陸軍は「帝都防空」を任務とする飛行戦隊を首都東京近郊の各地に配置した。その根拠となる飛行場は既存の軍関係以外の飛行場を転用したり、新たに建設したりした。例えば、松戸市松飛台から鎌ヶ谷市にかけてあった逓信省松戸飛行場は、戦局が厳しさを増す中、陸軍管轄下となり、1944年(昭和19年)9月から所沢から移転した陸軍第十飛行師団の飛行第五十三戦隊が根拠とした。

この飛行第五十三戦隊は、三つの飛行隊と整備中隊からなり、夜間防空を主任務としたため、「猫の目部隊」、「ふくろう部隊」と呼ばれた。その配備された戦闘機は、二式複座戦闘機、屠龍である。第五十三戦隊には、米軍機の本土空襲に備え、背中に斜銃二門を設置した対爆用屠竜が25機、ほかにやはり斜銃を設置された百式司偵改(一〇〇式司令部偵察機改)が数機が配備された。

<屠龍>


実際に第五十三戦隊が初めて出撃したのは、1944年(昭和19年)11月1日で、初戦果はその23日後の11月24日の米軍B29による北多摩郡武蔵野町(現在の武蔵野市)の中島飛行機工場に対する初の戦略爆撃による空襲で、B29数十機と出撃可能なだけ出撃した屠龍が交戦、B29機1機を撃墜した。また1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲でも出撃、B29機を十数機を撃墜している。しかし、こうした迎撃戦で米軍機と交戦したり、松戸でも特攻隊が組織されるなどして、前途有為な若者たちが死んでいった。第五十三戦隊だけで、終戦までに50人以上がなくなったという。

この飛行第五十三戦隊は、1945年(昭和20年)6月16日に松戸から新設の藤ヶ谷陸軍飛行場に移動した。

<一〇〇式司令部偵察機>


藤ヶ谷陸軍飛行場は、現在の海上自衛隊下総航空基地の場所にあった。1932年(昭和7年)、東洋一の規模を誇り、広大な敷地をもつ「藤ヶ谷ゴルフ場」(武蔵野カントリークラブ「藤ヶ谷コース」として開発された土地を、1944年(昭和19年)には、陸軍が首都圏防衛を目的として接収、同年秋頃から鎌ヶ谷と風早村(現:柏市)にまたがって飛行場の建設が開始された。工事には、大相撲の力士や付近の住民、中学、女学校などの生徒、約1200人の朝鮮人労務者が動員された。中学生たちは、学徒動員で1ヶ月泊り込みで飛行場建設に奉仕した。

そして、藤ヶ谷陸軍飛行場として完成したのが、1945年(昭和20年)4月である。その2ヶ月後に、飛行第五十三戦隊が根拠とし、さらにその2ヶ月後に終戦となって、米軍に接収された。藤ヶ谷飛行場は、わずか4ヶ月弱で日本軍から米軍の飛行場となり、シロイ・エアー・ベース(Shiroi Air Base)と呼ばれた。以降、15年以上もの間、米軍基地であったが、1961年(昭和36年)6月に海上自衛隊が基地の全面返還を受け、現在に至っている。

現在、下総航空基地と呼んでいるが、この基地には旧海軍の戦艦長門や陸奥で使われた40糎被帽徹甲弾や魚雷などが展示されているものの、松戸飛行場とは違い、旧陸軍飛行場当時の建物、施設は残されていないようである。

後述の地下格納庫以外には、掩体壕が鎌ヶ谷市初富に近年まで残っていたが、それもなくなった。


2.軽井沢の地下格納庫

鎌ヶ谷市軽井沢の台地端の山林のなかに、コンクリート製の地下格納庫1基が大部分を地表面に出して残っている。これは、藤ヶ谷陸軍飛行場関連の遺構と考えられる。地元の人に聞くと、防空壕と呼んでいるが、これは防空壕としてはかなり立派であり、似たような地下格納庫、地下燃料庫は全国的に他にも存在するので、一旦地下格納庫と呼ぶことにする。

それは藤ヶ谷陸軍飛行場があった下総航空基地からも近い、白井市西白井と谷津一つを隔てた鎌ヶ谷市軽井沢の台地端にあるが、東側低地から見上げると、円形のコンクリートの鍔状の端部が草の中から見える。その鍔状の端部は円筒状の格納庫本体と接合し、端部には1m四方の小さな穴があって鉄の扉でふさいである。台地に上がってみると、コンクリートのドーム状の地下格納庫胴体の天井部分が地表面に露出しているのが分かる。

<地下格納庫の東側端部>


ドーム状の格納庫胴体天井部分は一部土に埋もれ、埋もれている部分で直角に曲がり、東西に9m強、南北に22mほどものびている。その先端は開口部であるが、人が入らないように鉄の柵でふさがれている。

<地下格納庫の南側開口部>


コンクリートは砂利が混ぜてあり、鉄筋も使われている。格納庫の胴体の内側は半円、外側には鎬がついて七角形になっており、南北にのびる長い方が幅も広く4.8m以上、短い方で幅2mほどである。

胴体部分の一部は、経年劣化のためか、ひびが入っている。また一つ小さな穴があいていて落葉と土が詰まっているが、これはもともとあった通風孔か、劣化による穴か不明である。

<格納庫の胴体>


その胴体の外側は、土手状になっている。格納庫の東側端部の丸い鍔状のものは、台地斜面に開口部が開いて、土が開口部に入らないようにしたものと思われ、少なくとも東の端部から現在土をかぶっている部分までは土がかぶせてあっただろう。

<地下格納庫を上から見た概略図>


南側に開口部があるが、これには鍔状の端部はなく、さらに開口部の南側は緩やかに低くくなり東南側の低地へ傾斜しているが、開口部のすぐ下の両サイドに縁石のようなコンクリートの構造物があり、排水溝のような溝もある。

<地下格納庫の南側を土手から見たところ>


<排水溝か>


おそらく南側の開口部の方から、物資を運び込んだものと思われる。南側開口部の内側は、西側に棚状のものがあり、一見すると腰掛のように見える。
今はふさがれていて入ることができないが、近所の人によると直角に折れている部分も含めて内部は全部空洞であり、南側開口部から東側端部までつながっているそうである。

<南側開口部から内部を見たところ>



参考文献:
『鎌ヶ谷市史研究』第14号「松戸飛行場と『帝都』防衛」 栗田尚弥 (2001)
『鎌ヶ谷市史研究』第19号「『帝都』防衛からシロイ・エアーベース、そして自衛隊基地へ」 栗田尚弥 (2005)

参考サイト:
海上自衛隊下総教育航空群 http://www.mod.go.jp/msdf/simohusa/

船橋市の戦争遺跡5(嗚呼海軍七勇殉難之趾)

2009-06-07 | 船橋市の戦争遺跡


船橋市は新京成滝不動駅から東に1Km余り行ったところに、大穴という地区がある。その大穴北8丁目にある高齢者用住宅の近くに、谷津田に面して、台地中段が帯状に平坦になっている場所があるが、なにやら石塔があるのに気付く。近くに寄らなければ分からないが、実はその石塔は「嗚呼海軍七勇殉難之趾」と彫られており、戦争中に海軍機が墜落した慰霊碑である。

(慰霊碑のある台地中段)


そのあたりには谷津田があり、以前は周囲にほとんど家など建っていなかったが、最近では市街化が進み、谷津田沿いの道も散歩したり、サイクリングしている人も多い。たぶん、そうした人は、ここが日本海軍の一式陸上攻撃機が墜落した場所であることは知らないであろう。

大穴という集落は、江戸時代からあり、女流俳人である斎藤その女が出た。その中心地は、もっと東の西光院辺りだったと思うが、斎藤その女の墓もその西光院にある。それはともかくとして、上述の場所に一式陸攻が墜落したのは1942年(昭和17年)11月27日で、乗組員の7名が亡くなった。だから、くだんの慰霊碑にも、「海軍七勇」と彫ってあるのである。

墜落した一式陸攻は、第七〇二海軍航空隊所属のもので、殉職した7名とは飛曹長1名、一飛曹2名、一整曹1名、二飛曹3名の准士官・下士官たちであった。第七〇二海軍航空隊といえば、第四海軍航空隊がラバウルから木更津に帰還する際に改称したものである。第四海軍航空隊は、一式陸攻をラバウルに配備するために、台湾の高雄海軍航空隊から19機引き抜き、千歳空の中攻8機とあわせて1942年(昭和17年)2月に編成された陸上攻撃機の航空隊である。しかし、その編成から半年後の8月7日にはガダルカナル島に上陸した米軍を攻撃し、6機を失い、翌8月8日には第一次ソロモン海戦に出撃するも、わずか3機が帰還でき、殆ど壊滅に近い状態となったといういわくつきの航空隊である。その後も、大きな痛手を受けることがあり、そのため第四航空隊、略して四空は、かげで「死空」と呼ばれるにいたった。

ラバウルは、日本陸海軍が南洋諸島のなかで、最重要拠点としたが、第四海軍航空隊は大きく傷つき木更津に帰還して、名前を第七〇二海軍航空隊とかえ、夜間攻撃訓練、本州東方海上哨戒にあたった。その後、1943年(昭和18年)春には再びラバウルへ行くのであるが、大穴の墜落事故は木更津にいる間に起きた。

(富士山付近を飛ぶ一式陸攻)


1942年(昭和17年)11月27日早朝4時過ぎのこと、天候が急変し、豪雨、雷となったところ、飛行訓練中であった第七〇二海軍航空隊の一式陸攻が大轟音とともに、当地に墜落した。そのため、近隣の人が駆けつけると、墜落した一式陸攻の機体は真っ二つとなって折れており、あたりには油のにおいがし、煙がたちこめていたという。墜落現場は、憲兵や警察隊などが取り囲むなか、当時の豊富村の斎藤村長だけがある程度まで近くに入ることを許された。当時の斎藤村長は、戦後も30年以上生きていたため、斎藤村長の見聞したことが伝わっており、それで当時の様子がある程度分かっている。とにかく、憲兵たちはこれは軍の機密であるから、見聞きしたことを決して漏らさないように、口外しないようにと、再三村民に注意したという。
その翌日には4台のトラックで飛行機の残骸をきれいに運び出し、斎藤村長(当時)のもとには海軍当局から極秘の書状が届いたという。

慰霊碑が建立されたのは、墜落事故の3カ月後の1943年(昭和18年)2月27日で、地元の有志が中心となったようである。建立された当初は、建てた当人たちが管理していたのだろうが、どういうわけか1964年(昭和39年)近所の住民が偶然発見するまで、土中に殆どが埋もれていた。慰霊碑は白御影石でできており、正面の「嗚呼海軍七勇殉難之趾」は大きな字で明確に分かるが、裏面と側面の字が細かくて分かりにくい。薄曇りの日を選んで行き、斜めから見るなどして、何とか判読すれば、以下の通りであった。

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(正面)
嗚呼海軍七勇殉難之趾

(裏面)
故 海軍飛行兵曹長  松本博
  海軍一等飛行兵曹 横山彦造
  同        重村惠
  海軍一等整備兵曹 富澤正吉
  海軍二等飛行兵曹 島田茂
  同        高橋利省
  同        飯田輝與

(向かって右側面)
昭和十八年二月二十七日建之 (以下略)
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思えば、ラバウルから帰還し、飛行訓練をしていた飛行兵曹長と下士官連中は、まさか内地のこんな田圃の近くの山林で墜落して死ぬとは思っていなかったに違いない。その事故を軍機密と処理した海軍、それに対して慰霊碑を建てた当地の住民。戦後一時期、土中に埋もれていた(あるいは故意に埋められていた)、この慰霊碑には、時々誰かがお参りしているものと見え、先日はきれいなユリの花などが供えられていた。こうした慰霊碑には、当時の世相を反映して軍国調な言葉が使われているが、その言葉とは別に近隣の人々の思いが伝わってくる。

(花が供えられた慰霊碑)




(参考文献)
平成15年第4回船橋市議会定例会会議録

(参考サイト)
生まれも育ちも東葛飾
http://blogs.yahoo.co.jp/nonki1945/folder/556027.html?m=lc&p=2