千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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つくられた農民兵士像

2008-07-19 | Weblog


もう随分昔に「農民兵士論争」というのがあった。
それは、岩手県農村文化懇談会編『戦没農民兵士の手紙』(岩波新書、1961年7月)の理解をめぐる論争のことであり、有名な『きけわだつみのこえ』など学徒兵が残した手記、遺書と異なる、農民出身の兵士たちの手記や遺書にあらわれた、農民兵士の実像の理解をめぐっての論争である。

一般に農民は純朴で、生産者特有の健全な平和志向を持っているとされる。事実、『戦没農民兵士の手紙』には、そういう意識の横溢した文章が多く載せられている。
一方、農民兵士にとって、軍隊とは、その厳しい初年兵教育も既に農村では疑似体験済みであって、逆に貧しい農村とは違い、三度三度飯が食える、天国のような場所であり、それがゆえに農民を軍隊に志願までせしめた、という説がある。農民兵士が軍隊につよい憧れを抱き、志願をするものもいた根本的な原因は、『戦没農民兵士の手紙』編者によれば農民の「底知れぬ生活の貧しさ」にあるとされている。

しかしながら、一律に農民兵士を論じることは危険であり、正しく捉えることにならない。軍隊という鋳型にはまった古年兵、さらには下士官といった人々は、当然ながら初年兵とは意識が異なるし、農民兵士の出身階層も自作、小作の区別がまずあり、自作でも広大な田畑をもつ村の有力者から、零細な自作農まで種々あったわけである。『戦没農民兵士の手紙』でも、戦死時准尉にまで昇進していた26歳の青年の手紙を、「つたない」農民兵士の手紙として紹介するなどの誤りをおかしている。26歳で准尉になるなど、下士候、乙幹でも相当優秀でなければありえないし、そういう兵士が無学であったはずがなく、軍隊内でも模範的な者であったことは間違いない。

現代でも、農民兵士を一律に捉え、戦前、戦中の農村が貧しかったがゆえに、彼らにとって軍隊は天国であった、安堵の地であったということをいう人がいる。しかし、そうではなかったことは、『戦没農民兵士の手紙』のなかでも、自分が出征している間、故郷の田畑での農作業を気遣い、親兄弟を心配するものが種々収録されていることが、その証拠となろう。

あるメーリングリストで小生が投稿した文章を以下に掲げる。

「森兵男です。小生も、この意見に同意できません。

小生自身は志願兵で、農民出身ではありませんが、小生のいとこで陸軍に応召して中国戦線で戦死した者の実家は農家でした。一度召集解除になり、太平洋戦争が始まってすぐに再応召した伍勤上等兵で、1942年(昭和17年)に死んで本当の伍長になったのですが、もともと軍隊には行きたくなかったようです。
志願した小生のような者も、元は普通の中学生ですので、軍隊に安堵していたわけでないのは事実で、海軍の甲飛予科練の先輩連中では、募集時に兵学校に準ずると聞いてきたのに、その待遇がスペアそのものであったため、海軍に騙されたと思った人が少なからずいました。

むやみに殴る上官や薬莢をなくして縊死した兵隊の話のほうは、よく分かりますが、農村出身がゆえに軍隊が安堵の地というのは実感として分かりません。下級の兵士は酒保で一日にタバコなどの買い物を何度かすればなくなってしまうほどの薄給でしたし、農民出身者は自分が兵隊にとられて田畑はどうなっているか、残された家族の生活はどうかなど、心配でしかたなかったと思います。」

なお、そのメーリングリストでは、何人かの軍隊経験者が「農民兵士にとって軍隊は安堵の地」というのに反対し、なかには「馬鹿にするな」というような強い論調で書いていた人もいるのに対して、その意見に賛成なのは軍隊経験のないひとばかりであった。