小生は、天皇制を否定するものである。象徴天皇制も認めたくないが、憲法でそのように定められてしまっている。
だから、日本のあちこちにある、天皇の行幸記念碑などには、興味がなかった。
しかしながら、習志野原には明治天皇が明治新政府ができた当初に来ているし、昭和天皇も近衛兵の演習視察などのために、習志野原に視察に来ている。大正天皇については、習志野原を視察したかどうかは知らないが、手元にある資料では、赤羽の陸軍工兵隊練兵場へ行幸し、近衛歩兵第一旅団連合演習および工兵第一大隊坑道演習などを視察しているから、方々視察に行っていたものと思われる。
天皇は、陸海軍を統帥する大元帥であり、軍の演習を視察することは、その本来業務である。
そうした歴史を知ることは、戦争遺跡を研究する者にとっては、必要なことである。
<習志野原の演習を視察する昭和天皇>
これは、直接的な意味では戦争遺跡とはいえないかもしれないが、京成津田沼駅の踏切の近くに「御大典記念道」という石碑がたっている。
その「御大典」とは、1928年(昭和3年)11月10日、京都御所で挙行された昭和天皇の即位式を意味している。そしてこの記念碑は、昭和天皇の即位式を記念して道をつくったことをしるした石碑である。石碑自体は、1929年(昭和4年)2月に建立されている。小生とほとんど同年輩の記念碑である。
大正天皇は昭憲皇太后の実子ではなく、明治天皇が女官に産ませた子供である。なぜか明治天皇の子で男子で成人するまで成長したのは、大正天皇だけであった。その大正天皇も脳の病気を患ったりして子供の頃から病弱、かつ性格的にも思ったことをすぐに話すといった欠点をもっていた。それで、既に大正天皇在世のときから、病弱な大正天皇に代わって、摂政として実質的な天皇の役割を昭和天皇は果たしていた。だから、1928年(昭和3年)に即位したとはいえ、実質的な昭和天皇の統治は始っていたといえる。
その「御大典記念道」というのは、京成津田沼駅の踏切際から京成線軌道に沿って谷津に向かう道路であり、現在もその道はあるが、車より歩行者の通行が多い生活道である。
今では、何の変哲もない、その道の造成のために、工事費4,682円が使われた。
京成津田沼駅の踏切際にある石碑の側面に、その経緯が書かれている。しかし、所々の字が不鮮明で読みにくい。
小生が読んだ文字は以下の通り。若干、怪しいのが含まれているので、金石文を記録した資料があれば、そちらを参照していただきたい。
「昭和三年十一月十日御即位大礼行■津田沼町民■■■
工費四千六百八十二円■担於町其半寄附於久久田■■
其十分三昭和三年十月■七日起工同年十一月廿六日■
百八十六間砂利■久久田(充)(足)寄附於是互両区交■■」
■は判読できなかった文字。( )内はあやしいもの。
「御大典記念道」をつくるのに、工費が4,682円かかり、半分を津田沼町が負担し、残りを久久田地区(菊田神社のある現在の菊田地区)の有志が負担した。また1928年(昭和3年)10月に起工して、翌月26日には完工したようである。
実は、京成津田沼駅の踏切際の石碑は、小生も昔から存在を知っていたが、もう一つ同じような石碑があるのを最近知った。それは、京成電車で船橋から津田沼に向かっていた車中から見て、同じような石碑のようなものをあるなと気付いたのである。
それは、京成谷津駅と京成津田沼駅の間、といってもだいぶ津田沼寄りの道路脇にある。
つい最近、京成津田沼駅の近くに来たついでに、その電車の中から見た石碑らしきものを見に行った。最初の石碑から歩くこと7分くらい、マロニエ橋の高架下道路脇の目立たない場所にその碑はあった。しかし、驚いたことにまるでアバタだらけになったように、石碑の表面がでこぼこして、かろじて「大典記念道」という文字が読める程度となっている。なぜ、これほどまでに、醜く変形してしまったのか。置いてある環境に問題があるのか。申し訳程度に、脇に解説の案内板が取り付けてあった。
町辻にたつ地蔵や庚申塔など、江戸時代後期の石造物のほうが、まだよく保存されている。
<現在の「御大典記念道」>
だから、日本のあちこちにある、天皇の行幸記念碑などには、興味がなかった。
しかしながら、習志野原には明治天皇が明治新政府ができた当初に来ているし、昭和天皇も近衛兵の演習視察などのために、習志野原に視察に来ている。大正天皇については、習志野原を視察したかどうかは知らないが、手元にある資料では、赤羽の陸軍工兵隊練兵場へ行幸し、近衛歩兵第一旅団連合演習および工兵第一大隊坑道演習などを視察しているから、方々視察に行っていたものと思われる。
天皇は、陸海軍を統帥する大元帥であり、軍の演習を視察することは、その本来業務である。
そうした歴史を知ることは、戦争遺跡を研究する者にとっては、必要なことである。
<習志野原の演習を視察する昭和天皇>
これは、直接的な意味では戦争遺跡とはいえないかもしれないが、京成津田沼駅の踏切の近くに「御大典記念道」という石碑がたっている。
その「御大典」とは、1928年(昭和3年)11月10日、京都御所で挙行された昭和天皇の即位式を意味している。そしてこの記念碑は、昭和天皇の即位式を記念して道をつくったことをしるした石碑である。石碑自体は、1929年(昭和4年)2月に建立されている。小生とほとんど同年輩の記念碑である。
大正天皇は昭憲皇太后の実子ではなく、明治天皇が女官に産ませた子供である。なぜか明治天皇の子で男子で成人するまで成長したのは、大正天皇だけであった。その大正天皇も脳の病気を患ったりして子供の頃から病弱、かつ性格的にも思ったことをすぐに話すといった欠点をもっていた。それで、既に大正天皇在世のときから、病弱な大正天皇に代わって、摂政として実質的な天皇の役割を昭和天皇は果たしていた。だから、1928年(昭和3年)に即位したとはいえ、実質的な昭和天皇の統治は始っていたといえる。
その「御大典記念道」というのは、京成津田沼駅の踏切際から京成線軌道に沿って谷津に向かう道路であり、現在もその道はあるが、車より歩行者の通行が多い生活道である。
今では、何の変哲もない、その道の造成のために、工事費4,682円が使われた。
京成津田沼駅の踏切際にある石碑の側面に、その経緯が書かれている。しかし、所々の字が不鮮明で読みにくい。
小生が読んだ文字は以下の通り。若干、怪しいのが含まれているので、金石文を記録した資料があれば、そちらを参照していただきたい。
「昭和三年十一月十日御即位大礼行■津田沼町民■■■
工費四千六百八十二円■担於町其半寄附於久久田■■
其十分三昭和三年十月■七日起工同年十一月廿六日■
百八十六間砂利■久久田(充)(足)寄附於是互両区交■■」
■は判読できなかった文字。( )内はあやしいもの。
「御大典記念道」をつくるのに、工費が4,682円かかり、半分を津田沼町が負担し、残りを久久田地区(菊田神社のある現在の菊田地区)の有志が負担した。また1928年(昭和3年)10月に起工して、翌月26日には完工したようである。
実は、京成津田沼駅の踏切際の石碑は、小生も昔から存在を知っていたが、もう一つ同じような石碑があるのを最近知った。それは、京成電車で船橋から津田沼に向かっていた車中から見て、同じような石碑のようなものをあるなと気付いたのである。
それは、京成谷津駅と京成津田沼駅の間、といってもだいぶ津田沼寄りの道路脇にある。
つい最近、京成津田沼駅の近くに来たついでに、その電車の中から見た石碑らしきものを見に行った。最初の石碑から歩くこと7分くらい、マロニエ橋の高架下道路脇の目立たない場所にその碑はあった。しかし、驚いたことにまるでアバタだらけになったように、石碑の表面がでこぼこして、かろじて「大典記念道」という文字が読める程度となっている。なぜ、これほどまでに、醜く変形してしまったのか。置いてある環境に問題があるのか。申し訳程度に、脇に解説の案内板が取り付けてあった。
町辻にたつ地蔵や庚申塔など、江戸時代後期の石造物のほうが、まだよく保存されている。
<現在の「御大典記念道」>