千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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船橋市小室にある慰霊碑

2009-07-24 | Weblog


船橋市小室は、今はやりのニュータウンの街となっているが、ここは実は鎌倉時代から続く古い集落である。そのなかに寺は、日蓮宗の本覚寺という寺がある。日蓮宗の寺は船橋市北部にも多く、この本覚寺も古い寺で、その名前も、鎌倉の日蓮宗の古刹、本覚寺と同じである。

船橋市小室は、今はやりのニュータウンの街となっているが、ここは実は鎌倉時代から続く古い集落である。そのなかに寺は、日蓮宗の本覚寺という寺がある。日蓮宗の寺は船橋市北部にも多く、この本覚寺も古い寺で、その名前も、鎌倉の日蓮宗の古刹、本覚寺と同じである。



この小室の本覚寺の墓地に、「大東亜戦争戦没者之霊」という慰霊碑がある。これは1956年(昭和31年)8月に遺族が建立したものである。碑の題字を揮毫したのは、極東国際軍事裁判で終身刑となり、1955年(昭和30年)に仮釈放となった元海軍大将の嶋田繁太郎である。

碑の裏には、海軍三人、陸軍五人の計八人の戒名と俗名、階級と一部の人は勲位、そのすべてに戦死の日付と場所が簡単に刻まれている。さらに、遺族の家の屋号も刻まれており、古き良き地域共同体の雰囲気が感じられる。

それをみると、いずれも1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)の戦没であり、戦没の古い順から、

海軍上等水兵 1944年(昭和19年)6月1日  中部太平洋方面で戦死
陸軍上等兵  1944年(昭和19年)8月18日 バシイ海峡で戦死
陸軍大尉   1944年(昭和19年)12月20日 フィリピン セレベス島で戦死
陸軍軍曹   1945年(昭和20年)1月2日  フィリピン ルソン島 リンガエ沿岸で戦死 
海軍二等兵曹 1945年(昭和20年)2月12日 フィリピン マニラ クラーク飛行場で戦死
海軍兵曹長  1945年(昭和20年)3月11日 フィリピン方面で戦死
陸軍兵長   1945年(昭和20年)6月10日 フィリピン ミンダナオ島で戦死 
陸軍上等兵  1945年(昭和20年)8月17日 中支方面で戦死

とあり、8人中6人がフィリピン方面で戦死、特に陸軍軍曹が1945年(昭和20年)1月フィリピン・ルソン島リンガエ沿岸で戦死しているが、当時米軍がリンガエ湾に強行上陸しており、その米軍との攻防でその軍曹は亡くなったと思われる。その軍曹が亡くなる直前にはセレベスで陸軍大尉が、また軍曹の亡くなった翌月、翌々月と海軍の二等兵曹、兵曹長が戦死しており、激戦がうかがわれる。

また、最後になくなった陸軍上等兵は、昭和天皇による終戦の放送があった後の戦死である。おそらく、終戦の報が届いていなかったのであろう。まったく、もう死ななくてもよかったのに、どういうことだろうか。

「大東亜戦争」という言葉や、揮毫の主に問題があったとしても、戦後遺族が建立した碑には、純粋な追悼の念が込められており、今後もなるべく紹介することとしたい。

この小室の本覚寺の墓地に、「大東亜戦争戦没者之霊」という慰霊碑がある。これは1956年(昭和31年)8月に遺族が建立したものである。碑の題字を揮毫したのは、極東国際軍事裁判で終身刑となり、1955年(昭和30年)に仮釈放となった元海軍大将の嶋田繁太郎である。

碑の裏には、海軍三人、陸軍六人の計八人の戒名と俗名、階級と一部の人は勲位、そのすべてに戦死の日付と場所が簡単に刻まれている。さらに、遺族の家の屋号も刻まれており、古き良き地域共同体の雰囲気が感じられる。

それをみると、いずれも1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)の戦没であり、戦没の古い順から、

海軍上等水兵 1944年(昭和19年)6月1日  中部太平洋方面で戦死
陸軍上等兵  1944年(昭和19年)8月18日 バシイ海峡で戦死
陸軍大尉   1944年(昭和19年)12月20日 フィリピン セレベス島で戦死
陸軍軍曹   1945年(昭和20年)1月2日  フィリピン ルソン島 リンガエ沿岸で戦死 
海軍二等兵曹 1945年(昭和20年)2月12日 フィリピン マニラ クラーク飛行場で戦死
海軍兵曹長  1945年(昭和20年)3月11日 フィリピン方面で戦死
陸軍兵長   1945年(昭和20年)6月10日 フィリピン ミンダナオ島で戦死 
陸軍上等兵  1945年(昭和20年)8月17日 中支方面で戦死

とあり、8人中6人がフィリピン方面で戦死、特に陸軍軍曹が1945年(昭和20年)1月フィリピン・ルソン島リンガエ沿岸で戦死しているが、当時米軍がリンガエ湾に強行上陸しており、その米軍との攻防でその軍曹は亡くなったと思われる。その軍曹が亡くなる直前にはセレベスで陸軍大尉が、また軍曹の亡くなった翌月、翌々月と海軍の二等兵曹、兵曹長が戦死しており、激戦がうかがわれる。

また、最後になくなった陸軍上等兵は、昭和天皇による終戦の放送があった後の戦死である。おそらく、終戦の報が届いていなかったのであろう。まったく、もう死ななくてもよかったのに、どういうことだろうか。

「大東亜戦争」という言葉や、揮毫の主に問題があったとしても、戦後遺族が建立した碑には、純粋な追悼の念が込められており、今後もなるべく紹介することとしたい。