千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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柏の航空教育隊(東部百二部隊)跡に残る小さな倉庫

2009-04-20 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡
何気なく手に取った本に、以前分からないで、そのままになっていたことが、さらりと書いてあることがある。
よく調べきらずに、そのままにしたことが良くないのであるが、それが偶然判明することは神の助けのような気がする。

柏陸軍飛行場跡の南側の金属工業団地一帯に存在した、陸軍東部第百二部隊、すなわち陸軍第四航空教育隊は、1945年(昭和20年)の戦争末期に多くの兵を擁し、多いときには一万名もの兵員が南北600m、東西400mほどの隊の敷地にいた。その長方形の区画のなかに、部隊本部、兵舎、格納庫などがあったのだが、今では工場や宅地などになっている。

<東部百二部隊略図~梅林第四公園の案内図の写真に追記>


東部百二部隊は東部第百五部隊、柏飛行場の南にあって、柏飛行場の門から豊四季駅にいたる県道279号線、豊四季停車場高田原線の駒木交差点附近が、東部第百二部隊入口であり、そこを東に折れてしばらくいった、現在の梅林第三公園付近に営門があった。ちょうど、その営門があった場所の近く、角地にある住宅横の溝に陸軍境界標石がある。

その「百二(以下不明)」と書かれた陸軍境界標石が民家の塀の基礎に寄り添うようにあるが、その家の人もそれが旧陸軍のものであることを知らないようであった。


<近隣の公園に残る東部百二部隊の営門>


その営門は前述のように、梅林第三公園近くにあったのだが、現在は少し離れた柏までのバス通りに面した梅林第四公園に移設されている。門柱は、赤味がかった砂岩質の石で出来ているが、その赤い色から地元の人は「赤門」と呼んでいる。かつて、本来の場所にあったときは、門を入ると左手に衛兵所と部隊本部、兵舎が建ち並び、右手には面会所があった。営門は豊四季と柏飛行場営門を結ぶ県道豊四季停車場高田原線の側に開いていて、兵員の出入り口は主にそちら側であった。現在のように柏の葉公園から柏駅を結ぶバス通りはなく、部隊の東側は林であった。

現在のつくばエクスプレスがすぐ近くを通る柏浄水センターの北側から、南は十余二の光風園、高田車庫入口のバス停の辺りまでが、東部百二部隊が駐屯していた場所である。

1938年(昭和13年)に当地に開設された陸軍東部第百五部隊の飛行場、すなわち柏飛行場は、1937年(昭和12年)6月、近衛師団経理部が新飛行場を当地(当時の東葛飾郡田中村十余二)に開設することを決定し、用地買収を行って建設されたものである。その柏飛行場開設から遅れること約2年、1940年(昭和15年)2月に高田、十余二にまたがる上記地域に、第四航空教育隊(東部百二部隊)は移駐した。この部隊は、1938年(昭和13年)7月立川で開設されたものである。

陸軍航空教育隊とは、文字通り陸軍の航空兵を教育、養成する部隊である。1937年(昭和12年)7月「支那駐屯軍」による北京郊外での通告なしの夜間演習時、中国軍から発砲があったとして、日本軍が中国軍を攻撃した盧溝橋事件に端を発する日中戦争開戦以降、航空兵の減耗率が高くなったことに危機感を覚えた陸軍は、航空兵の養成のために各地に航空教育隊を開設していった。

航空教育隊に入隊すると、初年兵教育としての基礎訓練3ヶ月、各部門(機関・武装・通信・写真・自動車など)に分かれた特業教育3ヶ月、都合半年の訓練ののち、実施部隊に配属される。

この東部百二部隊跡の一角である、柏浄水場の北側工場脇に、給水塔が残存している。梅林第四公園にあった案内図をみると、現在の場所ではなく、もっと南側の部隊の中心からみれば西側にあったはずだが、戦後移設したものであろうか。

<給水塔>


その給水塔の奥に、煉瓦造りの小さな倉庫がある。これが何であるが、おそらくこれも百二部隊関連の遺構であろうとは思っていた。しかし、何の用途の建物であるかは、分からなかった。ところが、柏の図書館に行ったとき、1995年に東葛市民生協の発行した「戦時下のひとびと」という冊子を何気なく手にとると、「三ヵ月の訓練で前線へ」、「部隊は全滅」、「十七歳で陸軍に志願」といった第四航空教育隊で訓練を受けた方の戦争体験記事のなかで、その建物そっくりの煉瓦造りの倉庫が「今も残る弾薬庫」として紹介されていた。

<弾薬庫と判明した煉瓦造りの倉庫>


過去に実際に陸軍第四航空教育隊にいた人の証言は、たまたま生協が残してくれた。一般的なことを言えば、活字としては残っているが、Webの世界にまで取り込まれた情報は、それほど多くない。問題は、人の記憶が年々失われること。早い話、その証言をした人のなかには、現在あるいは故人になっている人もいるかもしれない。かくいう小生も、じきにあの世に行くのである。

いかに細かいことでも、なんとか後世につないでいきたい。



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京成津田沼駅近くの「御大典記念道」碑

2009-04-05 | 習志野市の戦争遺跡
小生は、天皇制を否定するものである。象徴天皇制も認めたくないが、憲法でそのように定められてしまっている。

だから、日本のあちこちにある、天皇の行幸記念碑などには、興味がなかった。
しかしながら、習志野原には明治天皇が明治新政府ができた当初に来ているし、昭和天皇も近衛兵の演習視察などのために、習志野原に視察に来ている。大正天皇については、習志野原を視察したかどうかは知らないが、手元にある資料では、赤羽の陸軍工兵隊練兵場へ行幸し、近衛歩兵第一旅団連合演習および工兵第一大隊坑道演習などを視察しているから、方々視察に行っていたものと思われる。

天皇は、陸海軍を統帥する大元帥であり、軍の演習を視察することは、その本来業務である。

そうした歴史を知ることは、戦争遺跡を研究する者にとっては、必要なことである。

<習志野原の演習を視察する昭和天皇>


これは、直接的な意味では戦争遺跡とはいえないかもしれないが、京成津田沼駅の踏切の近くに「御大典記念道」という石碑がたっている。

その「御大典」とは、1928年(昭和3年)11月10日、京都御所で挙行された昭和天皇の即位式を意味している。そしてこの記念碑は、昭和天皇の即位式を記念して道をつくったことをしるした石碑である。石碑自体は、1929年(昭和4年)2月に建立されている。小生とほとんど同年輩の記念碑である。

大正天皇は昭憲皇太后の実子ではなく、明治天皇が女官に産ませた子供である。なぜか明治天皇の子で男子で成人するまで成長したのは、大正天皇だけであった。その大正天皇も脳の病気を患ったりして子供の頃から病弱、かつ性格的にも思ったことをすぐに話すといった欠点をもっていた。それで、既に大正天皇在世のときから、病弱な大正天皇に代わって、摂政として実質的な天皇の役割を昭和天皇は果たしていた。だから、1928年(昭和3年)に即位したとはいえ、実質的な昭和天皇の統治は始っていたといえる。




その「御大典記念道」というのは、京成津田沼駅の踏切際から京成線軌道に沿って谷津に向かう道路であり、現在もその道はあるが、車より歩行者の通行が多い生活道である。
今では、何の変哲もない、その道の造成のために、工事費4,682円が使われた。

京成津田沼駅の踏切際にある石碑の側面に、その経緯が書かれている。しかし、所々の字が不鮮明で読みにくい。

小生が読んだ文字は以下の通り。若干、怪しいのが含まれているので、金石文を記録した資料があれば、そちらを参照していただきたい。

「昭和三年十一月十日御即位大礼行■津田沼町民■■■
 工費四千六百八十二円■担於町其半寄附於久久田■■
 其十分三昭和三年十月■七日起工同年十一月廿六日■
 百八十六間砂利■久久田(充)(足)寄附於是互両区交■■」

■は判読できなかった文字。( )内はあやしいもの。

「御大典記念道」をつくるのに、工費が4,682円かかり、半分を津田沼町が負担し、残りを久久田地区(菊田神社のある現在の菊田地区)の有志が負担した。また1928年(昭和3年)10月に起工して、翌月26日には完工したようである。

実は、京成津田沼駅の踏切際の石碑は、小生も昔から存在を知っていたが、もう一つ同じような石碑があるのを最近知った。それは、京成電車で船橋から津田沼に向かっていた車中から見て、同じような石碑のようなものをあるなと気付いたのである。

それは、京成谷津駅と京成津田沼駅の間、といってもだいぶ津田沼寄りの道路脇にある。



つい最近、京成津田沼駅の近くに来たついでに、その電車の中から見た石碑らしきものを見に行った。最初の石碑から歩くこと7分くらい、マロニエ橋の高架下道路脇の目立たない場所にその碑はあった。しかし、驚いたことにまるでアバタだらけになったように、石碑の表面がでこぼこして、かろじて「大典記念道」という文字が読める程度となっている。なぜ、これほどまでに、醜く変形してしまったのか。置いてある環境に問題があるのか。申し訳程度に、脇に解説の案内板が取り付けてあった。

町辻にたつ地蔵や庚申塔など、江戸時代後期の石造物のほうが、まだよく保存されている。

<現在の「御大典記念道」>

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