千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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松戸市の戦争遺跡4(陸軍八柱演習場、五香の戦没者供養塔)

2007-09-01 | 松戸市の戦争遺跡
1.陸軍八柱演習場

1919年(大正8年)12月に、松戸に陸軍工兵学校が出来ると、工兵学校の下士官候補生や幹部候補生たちは、江戸川で架橋訓練をするなどの野外での訓練を行った。陸軍は工兵学校の専用の演習場を求め、日暮、和名ヶ谷、松戸新田の三の地主が用地を陸軍に譲渡した。こうして出来た陸軍八柱演習場は、かつて原野であった現在の八柱から胡録台、稔台にかけて広がっていた。なお、戦後は演習場は帰農者、入植者に開放され、この稔台という地名も、1946年(昭和21年)に大きな「みのり」を期待して名づけられたものである。

<陸軍工兵学校の隊門跡>


今は陸軍八柱演習場跡は、戦後の入植や宅地化の波にのって、市街地、住宅地となっており、当時の面影を偲ぶものは殆どないが、「皇太子裕仁親王殿下駐駕所」と書かれた石碑が稔台にある。

これは1929年(昭和4年)に陸軍が建てたもので、題字は陸軍元帥上原勇作の揮毫による。石碑の周囲にも囲いがあって、立ち入れないようにしてある。
陸軍工兵学校長若山善太郎少将が書いた碑文を見ると、「天皇陛下 曩ニ 儲位ニ在シマシヽ時畏クモ陸軍工兵学校ニ 行啓アラセ給ヒ ■(一字不明)駕ヲ八柱演習場ニ枉ケテ工兵学校将卒ノ行フ演習ヲ 台覧アラセ給フ時ハ大正十五年十月二十八日演習ハ主トシテ堅固ナル陣地ノ攻撃ニ於ケル工兵ノ動作ヲ練習スル目的ノ下ニ行ハレタ(以下略)」とあり、当日の降雨に服を濡らせて裕仁皇太子は熱心にこの台から演習を見学したと書かれている。これは、昭和天皇裕仁がまだ皇太子であった1926年(大正15年)に八柱演習場で行われた陸軍工兵学校の演習を見るために、ここに立ったということを示す。なお、石碑の台座は1985年(昭和60年)に改修されたもの。但し、改修されたのはその部分だけで、囲いの石材は古く、オリジナルと思われる。

<「皇太子裕仁親王殿下駐駕所」の石碑>


石碑のある場所は新京成みのり台駅の東南、駅から5分ほど歩いた場所にある駐車場にある。この駐車場は靴の量販店の店舗の裏にあたり、周辺は住宅地で、ややわかり難いところにある。新京成みのり台駅の駅の改札口は一つしかないが、その改札口を右に出て踏切を渡ったところにある交差点を右(南)へ進んでしばらく行くと、靴屋さんの店舗が進行方向左に見えて来る。なお、周辺に遺構はないか探したが、境界標石なども見当たらず。

<上記石碑の碑文~風雨に晒され薄くなって若干読みにくい>


なお、新京成八柱駅周辺にある陸軍の境界標石は、一般には陸軍鉄道連隊演習線の引込線に関連したものと思われている。しかし、かつての陸軍鉄道連隊演習線と現在の新京成線はぴったり重なっているわけではなく、特に鎌ヶ谷市、松戸市を通っている部分は重ならない部分が多い。そして、市街地にも確かに演習線の名残がうかがえる箇所がいくつかある。八柱駅周辺には境界標石がいくつもあり、少し離れた森のホール付近にも廃線跡がある。1924年(大正13年)、松戸の陸軍工兵学校から八柱演習場までの軽便路線を工兵学校が敷設したが、その沿線に陸軍境界標石が現存している。

<新京成八柱駅周辺の境界標石>


なお、以前千駄堀の塹壕跡を調べに訪れた「21世紀の森と広場」の森のホール辺りに先日廃線跡を見にいったが、確かに廃線跡が存在していた。一部は舗装道路となっているが、未舗装の部分もあり、そちらのほうが廃線跡の雰囲気を色濃く残している。

<森のホール近くの廃線跡>


その近くの駐車場に境界標石が車止めの石として使われているのを発見。刻まれた字を見ると「陸軍省用地」とあった。陸軍の境界標石には「陸軍用地」と書いてあるものが多いと思うが、「陸軍省用地」と「陸軍用地」と何か違いがあるのだろうか、細かいが少々気になる。

<近くの駐車場の車止めに使われていた境界標石>


2.善光寺の戦没者供養塔

以前紹介した逓信省松戸飛行場は、戦局が厳しさを増す中、陸軍管轄下となった。
この陸軍の松戸飛行場には、1944年(昭和19年)9月に「帝都防空」を任務とする陸軍第十飛行師団の飛行第五十三戦隊が所沢から移ってきた。この飛行第五十三戦隊でも特攻隊が組織されるなどして、前途有為な若者たちが死んでいった。それは、戦争末期の熟練パイロットの不足への補充として、未熟なパイロットも次々に出撃させられたことによる。戦死以外にも訓練中の事故でなくなる者もいた。現在、松戸にある松飛台という地名は、松戸飛行場のあった台地という意味で名付けられたものである。

戦死や事故死などでなくなった航空兵の遺骨は、五香の善光寺に一時安置された。
五香とは明治初期の小金牧の開墾で五番目に拓かれた村という意味で名づけられた新地名である。善光寺は霊鷲山善光寺という浄土宗の寺であるが、小金原と呼ばれた当地には以前は寺がなく、1891年(明治24年)になって北小金の東漸寺の大康上人の遺志を継いだ弁栄上人が創建した。弁栄上人は手賀沼沿岸鷲野谷の農家山崎家の出身で、光明主義を掲げて大乗仏教の教えを追及した高僧である。
この寺の境内には、そうした高僧の墓などにまじって、戦後五香六実の町会が建てた戦没者供養塔がある。

<善光寺にある戦没者供養塔>