千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
(無断転載を禁じます)

ロケット戦闘機秋水関連動画

2015-06-13 | 柏市の戦争遺跡



ロケット戦闘機秋水については、柏市花野井に地下燃料庫が現存しているが、これを世の中に紹介したのは、「柏に残された地下壕の謎」という小野英夫氏、川畑光明氏の柏市での論文である。 小野英夫氏、川畑光明氏の研究により、住宅地にあるコンクリート製の地下式の台地側面に出入口のある奇怪な壕が、戦時中日本軍がロケット戦闘機秋水の燃料を格納するものとして作られたものであり、過酸化水素という劇物を燃料としているために、大掛かりで頑丈な燃料庫が必要とされ、それが柏飛行場に近い柏市花野井に建設されたことが知られるようになったのである。

写真は花野井交番の裏にある覆土がなくなってむき出しになった地下燃料庫の一部を、近くから写真家が撮影したものである。小石が混じるコンクリートの荒い様子がわかるだろうか。この燃料庫は全長40mほどあり、かなり大きい。むき出しになっていない別の燃料庫も同じような大きさなのだろう。出入口は人が少しかがんではいることが出来る位の高さで、終戦直後は大陸からの引揚者などが中に住み着いていたが、最近になって子供が入ったりして危険なので開口部が塞がれている。

<秋水地下燃料庫の出入口(現在は塞がれている)>

秋水は、言うまでもなく、ドイツのメッサーシュミットMe163Bなどをモデルとしつつ、太平洋戦争末期に日本の陸海軍が共同で開発したロケット戦闘機である。 秋水用の飛行場には、柏陸軍飛行場が割り当てられた。それは柏が首都東京に近く、もともと柏飛行場が「首都防衛」を目的とした立地であること、実際B29が首都東京を攻撃する際の経路の一つに、柏がなっていたからである。

柏飛行場は、東京に近いだけでなく、1,500m(後に2,000mに拡張)の舗装された滑走路を持つ飛行場であり、銚子沖などから東京に向って侵入してくるB29を邀撃するのに絶好の位置にあった。そういう立地条件もあって、陸軍は柏飛行場を秋水の基地とすることを考え、陸軍の航空審査部の関係者、荒蒔義次少佐以下が近くの寺院などに宿営し、秋水実験隊の拠点が作られていた。また、過酸化水素などロケット燃料の貯蔵庫として、地下燃料庫が建設されたが、最初は十余二の飛行場に近い場所に主に実験飛行用、後に1945年(昭和20年)春ごろにはリスク分散のため、柏飛行場から東へ2Kmもはなれた花野井や大室などの地に地下燃料庫が建設された。

現在の住所では柏市正連寺にある飛行場に近い場所の燃料庫は、ヒューム管をつないだだけの簡単な作りで、L字形をなし、長い方で径2mほどのヒューム管(長さ2.5m)を8つ連結し、20mほどとしたものと直角に7から8mほどの長さにヒューム管を接合したものである。それに比べて、花野井の地下燃料庫のほうは前述のとおり約40mの長さ、形は昔の黒電話の受話器のように両端が直角のカーブで曲がっている。

この異様な燃料庫は一回の飛行で2トンもの燃料を消費するロケット戦闘機秋水のためのものであり、以下にB29を高高度で迎撃するとはいえ、大掛かりな燃料庫を必要とし、その燃料生産や付随する容器製造その他で、莫大な費用と人員をかけたにも関わらず、秋水は一度も実戦で飛ぶことなく、終戦を迎えた。 実際に搭乗するために人体実験そのものといえる低圧装置での試験がなされた後に、飛行訓練は滑空機などを用いて行われたが、終戦直前の1945年7月、海軍の犬塚大尉が横須賀追浜で試験飛行して墜落して殉職、陸軍では試験飛行すらなされないまま終戦となった。 思えば日本軍国主義の破綻直前に生まれた仇花であったのか、そのモニュメントとして頑丈に作られたがゆえに今も柏市花野井に秋水地下燃料庫が残っているのである。

なお、柏市の市民団体、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会が、2004年頃から学習会、見学会などで、これを取り上げている。最近では2013年には見学会を行い、旧海軍三一二航空隊の搭乗要員(元中尉)の聞取り内容のビデオ上映も行ったと聞く。

同団体の動画があるので、以下にご紹介する。なお、旧海軍三一二航空隊の搭乗要員(元中尉)の聞取りについては1時間ほどのビデオになっていて一般には公開されていないが、文書では千葉県立図書館に寄贈されている。

ロケット戦闘機秋水と地下燃料庫 https://youtu.be/8LXuDVNacbs

ロケット戦闘機秋水~海軍搭乗要員は語る~ https://youtu.be/mZK3Kv4ky8M

 


開発で失われゆく柏飛行場の戦争遺跡

2013-12-22 | 柏市の戦争遺跡

以前、柏飛行場について、「千葉県の戦争遺跡」HPのほうで、いろいろ記載してきた。そのうち、終戦間際に柏に配備されようとしていたロケット戦闘機秋水については、以下のように記載している。

「秋水の地下燃料庫が飛行場東側に作られ、実際に使用された。それはL字形をしており、地上に径2mほどのヒューム管(長さ2.5m)を8つ連結し、20mほどとしたものと直角に7から8mほどの長さにヒューム管を接合したものと見られ、覆土していたために長年存在が分からなかったが、手賀の湖と台地の歴史を考える会の調査で、つい最近5基発見された(現在、周辺は学校や道路建設などの県の開発地域で立ち入り禁止である)。 これは、地上を少し掘り下げ直接ヒューム管を置き、接合したあとに更にコンクリートで表面を覆い、その上に土を被せて擬装している。換気孔は燃料庫の端部についているのみのようである。 一方、前述の通り、花野井と大室にも秋水の地下燃料庫が建設され、花野井の崖中段に開口のある3つほどと、花野井交番の裏手にあるコンクリート剥き出しの燃料庫が現存しているが、こちらは本格運用しようとしたものらしく、十余二(正連寺)の地下燃料庫は実験用に建設されたもののようである。 (略) 同会が秋水地下燃料庫を発見したのは、最初飛行場跡周辺の遺構として掩体壕跡を調査している際に、自然の会の方に案内されて掩体壕といわれる二つの土盛りがあるのを知り、戦後の航空写真と照合したり、終戦直後のことを知るTさんという元陸軍少尉の方や秋水実験隊の方などに聞き取りをおこなって、よくよく調べたところ、どうも秋水地下燃料庫らしいと推測したのが発端である。その後、何回か踏査の結果、あるマウンドの地上に開いた隙間から、地下燃料庫を実際に確認したものである。 

<十余二(現・正連寺)にある秋水地下燃料庫#4の内部>

 撮影:森-CHAN

プレス発表後、2010年8月8日に行われた手賀の湖と台地の歴史を考える会主催の現地見学会には、定員の90名いっぱいの人が参加した。会代表である國學院大學の上山和雄教授の挨拶と説明に続き、麗澤大学の櫻井良樹教授が柏飛行場と秋水に関する説明をおこなって、参加者は3班に分かれて見学した。 事前説明会のあったのは、柏の葉の公園センターの会議室で、そこから地下燃料庫跡のある場所までは、柏の葉公園の前の道路を渡り、数百メートル歩いていった。俗に、その道路が柏飛行場の滑走路のようにいわれているが、実際には道路の北の端がかろうじて重なっている程度で、滑走路は道路東側の科学警察研究所や関税中央分析所、税関研修所といった官庁の建物がある場所の上を通っていた。現地は、千葉県が管理している公園や小学校などの予定地であり、戦後の一時期はゴルフ場だった場所である。しかし、今はゴルフ場の面影はなく、草木の茂った荒地のような場所になっている。」

この十余二(現・正連寺)の秋水地下燃料庫は現在どういう状況か、といえば、上記のようにプレス発表まで行ったにもかかわらず、千葉県の開発に伴い、まったく打ち捨てられた状態で、保存などされないようである。

その見るも無残な状態は、上記団体とは別の、昔から柏で歴史の研究をおこなっている手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会がつくった柏飛行場の動画のなかで出てくる。どこかから望遠で撮影したようであるが。

http://youtu.be/-q806Jk9rvY

 上記動画で女性の声で、柏飛行場跡地は現在官庁の建物や大学、病院、住宅地のある場所に生まれ変わったとあるように、かつての面影はほとんどなくなり、唯一建物で残っていた陸軍航空廠柏分廠の建物もつい最近取り壊されたと聞く。民間で保存してきたが、所有者が維持しきれなくなったのだろうと推測する。

なお、動画の最後のほうに荒地にあるヒューム管が出てくるが、あれが見学会を行った秋水地下燃料庫の残骸である。あんなくらいのものであれば、掘り出してそのままどこかに展示するくらいわけないと思うのであるが、如何。

開発ばかり優先され、少しの労力で保存できるような戦争遺跡まで失われるのは誠に残念なことである。

 

 


柏飛行場関連動画

2013-11-13 | 柏市の戦争遺跡





柏陸軍飛行場とは

日中戦争の火蓋が切られる直前の1937年(昭和12年)6月、かねて首都東京に近い場所に新たに「首都防衛」の飛行場を求めていた近衛師団経理部が、新飛行場を当地(当時の東葛飾郡田中村十余二)に開設することを決定した。地元でも誘致の動きがあり、田中村の松丸厳村長が斡旋するなどして、約55万坪という用地買収は同年中に終了した。この用地のなかで、多かったのは花野井の吉田家のもの(約6万坪という)という。

翌1938(昭和13年)1月には、飛行場建設が着工、同年秋には完工し、当地に陸軍東部第百五部隊の飛行場、すなわち柏飛行場が開設された。ここに、田中村、八木村にまたがる約145万平米の敷地と、1,500m滑走路1本の柏飛行場が誕生したのである。

同年11月29日、東京立川から移転してきた陸軍飛行第五戦隊をはじめとして、飛行第一戦隊、一八戦隊、七〇戦隊などが、この柏飛行場にそれぞれ時期は違うが駐屯することになる。なお、柏の歴史で柏飛行場に駐屯した部隊を「東部第百五部隊」というが、実はこの飛行第五戦隊のことである。当時の飛行第五戦隊の戦隊長は近藤兼利大佐で、近藤戦隊長はのちに中将にまで昇進し、第一〇飛行師団の師団長になった。この飛行第五戦隊の保有機は、当初九五戦、1940(昭和15年)9月には九七戦に変更され、1942年(昭和17年)3月以降の主力は、二式複座戦闘機である屠龍であった。

この最初に柏にやってきた飛行第五戦隊は1943年(昭和18年)7月、ジャワ島マランに移り、周辺のチモール・ラングーン・バボに中隊を展開して輸送援護や防空に従事した。
その後柏飛行場には、飛行第一戦隊、同第一八戦隊、同第七〇戦隊と、いくつかの部隊の変遷はあったが、松戸、成増、調布などと共に、1944年(昭和19年)末から激しくなった米軍B29などによる空襲に対し防空戦闘にあたった。
飛行第一戦隊は、ラバウルから内地に帰還、一旦大阪の大正飛行場に兄弟戦隊の飛行第一一戦隊ともにあったが、旧満州ジャムスを経て1943年(昭和18年)11月から柏に展開した。1944年(昭和19年)4月、一式戦、隼から最新鋭の四式戦、疾風に機種を変更し、一時九州防空にもあたったが、九州では活躍の機会なく、同年10月8日、捷号作戦により、飛行第一戦隊はフィリピンへ進出するが、レイテ攻撃戦の中で戦力を急速に失い、戦隊長松村俊輔少佐が10月28日払暁出動時の離陸事故でなくなり、各中隊長の多くも戦死、10月末には壊滅に近い状態となった(可動機もわずか4機であった)。
11月以降も春日井敏郎大尉、さらに内地に一時帰還し新しい飛行機と特操出身者を中心とする補充者を連れて戻った橋本重治大尉という歴代の戦隊長ら幹部が次々と戦死する有様で、翌1945年(昭和20年)3月には生き残った空中勤務者と一部地上勤務者が台湾を経由して内地帰還した。しかし、多くの地上勤務者はフィリピンに残留、歩兵部隊に臨時歩兵として編入されたが、物資、食糧が欠乏する困難な中で戦死者が多く、わずかに21名が戦後復員を果たした。

飛行第一八戦隊は三式戦闘機、飛燕を装備していたが、B29 の夜間攻撃に対抗するための訓練で事故を起こし、夜間訓練は中止となった。飛行第一八戦隊の戦隊長磯塚倫三少佐以下の主力は、米軍がフィリピン・レイテ島に1944年(昭和19年)10月20日に上陸した直後の11月11日、フィリピンに向かい、フィリピン・レイテ戦に参加したが、日本軍は海軍のレイテ沖海戦も含めて一連の戦いに敗退、12月19日には遂にレイテ島を放棄せざるを得なかった。飛行第一八戦隊残置隊は五式戦闘機(キ-100)へ保有機種を変更し、1945年(昭和20年)6月に松戸へ移動、米軍機邀撃を続けた。
飛行第一八戦隊主力と入れ替わりに、坂戸篤行大尉(終戦時、少佐)を戦隊長とする飛行第七〇戦隊が柏飛行場に来たのは、1944年(昭和19年)11月7日である。この戦隊の主な保有機は、二式単座戦闘機、鐘馗であった。坂戸戦隊長は、飛行第一八戦隊残置隊も指揮下に置いた。飛行第七〇戦隊は、松戸から柏に移る前は、旧満州の鞍山にあって、B29との戦闘を経験していた。そのため、師団からの期待も大きかったが、この飛行第七〇戦隊は、1944年(昭和19年)終わりから翌年初頭にかけて、B29への正攻法での攻撃をあきらめた師団によってB29に対する空対空体当り特別攻撃隊、震天制空隊を編成せられた。
しかし、彼我の飛行機の能力の格差を埋める非常手段として、「体当り」による特攻が選択され、戦闘機から武装やパイロットの生命を守る防弾板 を外し、脱出できるかどうか分からない「体当り」をさせたのであるから、これは乗員の生命を軽視した論外の策といわざるを得ない。その機たるや、損耗しても惜しくないような老朽機であったのである。機体ごと、体当りする衝撃は、大変なもので、我々には想像もできない。ぶつかってから脱出することは、ほぼ不可能であるし、ぶつかる前に、乗っている機から脱出することも難しく、脱出できたとしてもパラシュートが無事に開くとは限らない。
震天制空隊には、飛行第七〇戦隊では小林茂少尉以下、4名が指名された。実際に人命を軽視するその方針のもと、他の戦隊機とともに、1944年(昭和19年)12月27日の東京の中島飛行機武蔵工場への空襲でB29への体当り戦死が報告されている。
翌1945年(昭和20年)2月16日、17日には、グラマン、アベンジャーを主体とする米艦載機による大空襲があり、邀撃が行われたが、2月17日の空中戦で河野涓水大尉が厚木上空でグラマンと交戦中に被弾、横須賀市市街地に落下の際、自分の名入りの航空手袋を地上に落とし、市街地を避けて東京湾に墜落、自爆した。他にも軍曹二名が、同日の戦闘で戦死している。
この戦隊は、艦上戦闘機を含む米軍機による空襲への邀撃で隊員と保有機を減耗しつつ、同年6月に機種を四式戦闘機、疾風に変更、8月10日にP-51群の来襲に対して緊急離陸直後に本多寛嗣大尉が直撃され戦死するなどの戦闘があったが、終戦まで柏に駐留した。
なお、当飛行場に配置された各飛行戦隊は、1944年(昭和19年)3月以降、第十飛行師団隷下にあり、師団長は当初、吉田喜八郎少将(陸士29期)で、1945年(昭和20年)3月からは前述の近藤兼利中将(陸士26期)となった。また、飛行場には、同じ師団隷下であるが、飛行戦隊とは別に飛行場大隊が駐留し、飛行場の警備や整備、必要資材の調達などを担当した。
兵員はおよそ600~700人配備されていたといわれているが、戦隊の入れ替わりが激しくその数はつねに変動していた。1945年(昭和20年)初頭の戦力は、二式単座戦闘機 鐘馗が約40機、三式戦闘機 飛燕が約15機であった。
柏飛行場は、1,500mの滑走路と周辺設備を保有し、太平洋戦争末期に開発されたロケット戦闘機「秋水」の飛行基地も、この柏飛行場が割り当てられた。秋水実験隊も活動し、近隣の法栄寺を荒蒔少佐ら航空審査部の秋水関係者の宿舎として使用した。秋水実戦配備の際の実施部隊としては、飛行第七○戦隊が想定されており、1945年(昭和20年)7月には操縦者全員の身体検査も行われたが、実現しなかった。


飛行場跡の現在と関連動画

柏飛行場は戦後米軍に接収されたが、変換され、戦隊本部などのあった兵営の一部を自衛隊が使っているが、大部分は官庁、公園、学校、住宅地などになり、飛行場の痕跡としては十余二の道路ぞいにある土手やそこを起点として豊四季駅までまっすぐ南に道がのびる営門跡、航空廠柏分廠の建物群などに限定される。弾薬庫が残っているらしいが、実見していない。

ほかに無蓋掩体壕が残ってるが、千葉県の開発により、全部は残らないらしい。秋水の地下燃料庫も飛行場に近接する旧柏ゴルフ場跡に存在する。

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会は、飛行戦隊の生存者の聞き取りなどを行っているが、それは筆記録や記録DVDとなったようである。 簡単な動画も一般に公開している。

柏飛行場跡の動画

http://youtu.be/-q806Jk9rvY

飛行第一戦隊の納翼の碑

http://youtu.be/rLYcumhuLtk

飛行第一戦隊の沿革

http://youtu.be/qozNjQwmevY


海軍第三一二航空隊(秋水隊)関連の聞き取り

2013-05-05 | Weblog

柏市で標記の聞き取りが去る3月後半に行われた。

これは手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会が行ったもので、聞き取りの相手は三一二空パイロットの元海軍中尉である。詳しくは同会から今後何らかの発信があるかもしれないが、生存者が少なくなっている現在、貴重な体験談といえる。

 

<三菱重工名古屋航空・宇宙システム製作所にある秋水>

 秋水


足利学校孔子廟にある提督手植えの月桂樹

2012-05-05 | Weblog

先日、天気は小雨が降っていたが、それほどでもなく、体調も良かったので、久しぶりに足利まで行ってきた。足利といえば、世間の人はフラワーパークに行く人が多いが、駅から歩いて行ける距離の場所で、史跡がいくつかある。 今では想像できないかもしれないが、足利の人は、足利尊氏は逆賊だという皇国史観のねじ曲がった考え方から、戦時中など肩身の狭い思いをしたらしい。軍隊では足利出身だというだけで、古参兵から殴られたり、足利尊氏と関係のある寺などは、逆賊の寺と言われたりしたそうだ。
足利にある史跡で、有名なのはなんといっても足利学校である。足利学校自体が国の指定史跡で、国宝になっているものも含め、貴重な書物も沢山所蔵している。ちかくにある鑁阿寺も、国の史跡である。

<足利学校の門>

足利学校は、日本最古の学校といわれるが、その歴史が明らかになるのは室町時代の1439年(永享11年)関東管領であった上杉憲実が、鎌倉円覚寺から僧快元を招いて初代の庠主として経営にあたらせ、書籍を納めるなどして学校を再興してからというが、遠くフランシスコ・ザビエルなどの宣教師たちの記録にも出てくる、当時としては有名なアカデミックな場所であった。

実は、この足利学校に海軍の「有名人」が植えた月桂樹の木がある。「文」の象徴である足利学校と「武」の海軍とでは余り頭の中で結びつかないが、別に軍人だからといって、こうした場所に植樹してはいけないという法もあるまい。

<足利学校の玄関附近で>

学問といえば、儒学が中心だったのは、江戸時代もそれ以前もあまり変わるまい。儒学といえば勿論尊崇されていたのは孔子であり、東京では湯島聖堂などが有名であるが、やはり足利学校にも孔子廟がある。
孔子廟は、聖廟とも呼ばれ孔子を祀ってある廟である。足利学校では江戸時代前期の1668年(寛文8年)に足利学校第13世庠主伝英元教の時に造営された。
扁額「大成殿」は有栖川宮織仁親王の子で、のちに京都知恩院門跡となった尊超法親王の書である。

<足利学校にある孔子廟>

ところで、この孔子廟の入口をはいり、向かって左側に、東郷平八郎が植樹した月桂樹があり、廟堂をはさんで向かって右側には伊東祐亨、上村彦之丞が植えた月桂樹がある。この三人が植えた月桂樹の横にたつ立札には、それぞれの当時の官姓名と日付が書かれている。その日付は、どれも日露戦争後の1906年(明治39年)12月23日である。

<東郷平八郎の植えた月桂樹>

これは、三人が足利学校の孔子廟において、孔子とその高弟を祀る釋奠(せきてん)に参加した折に、日露戦争の勝利を記念して植樹したものである。
足利学校事務所によれば、その釋奠という式典で使う釋奠幕の前で撮った記念写真があるそうである。  

<伊東祐亨の植えた月桂樹(左)と上村彦之丞の植えた月桂樹(右)>

東郷平八郎は、連合艦隊司令長官として日本海海戦でバルチック艦隊を破った日露戦争の立役者であり、伊東祐亨は東郷と同じ薩摩出身で、大本営にあって海軍軍令部長、日露戦争当時元帥になった、上村彦之丞は第二艦隊司令長官であるが、実質的に日本海海戦の勝利をもたらした。それぞれが日露戦争当時の海軍を代表するような人物である。それが揃って、足利学校で植樹していたのだから面白い。


市川市の戦争遺跡4(国府台の赤レンガ倉庫)

2011-09-24 | 市川市の戦争遺跡
市川の国府台で「赤レンガをいかす会」(代表:吉原廣氏)という団体が、戦後に県の血清研究所が使用していた赤レンガの旧軍武器庫を保存すべく、その見学会を開催していたので行ってきた。
それについては、以前工兵隊の発電所と聞いていたので、当ブログでもそう書いていたが、そうではなく現存するものは教導団の頃に設置された可能性のある武器庫だという。
実は、1970年(昭和45年)に解体されたもう一つの赤レンガの建物があったそうだが、それは現存するものより大きく、あるいはそちらが発電機を置いていた建物か。
いずれにせよ、現存する赤レンガは出来た頃より、血清研究所が使用していた頃にいたるまで、倉庫としてしか使われていないらしい。

<外観>


なるほど、実際に中に入って見ると木造の梁や柱があって、すくなくとも今残っているものには発電機を設置したような跡はみられない。

この赤レンガ倉庫が設置されたのは、明治時代であることは間違いないが、時期は特定できていない。発見された棟札には「起工明治三十六年三月六日 竣成仝三十六年三月三十一日」とあり、工期は25日間であったことがわかる。つまり1ヶ月たらずで出来たことになるのだが、これが建物全体か、のちに屋根を直した際のものかが不明である。
この棟札の件は県血清研30年誌に掲載された、当時の職員の佐藤寛三氏の「思い出」に書かれ、その後棟札自体が発見されたことで、1903年(明治36年)に建物ができたと考えられたが、市川市立博物館所蔵の1901年(明治34年)印刷の「野砲兵第一連隊及び第十六連隊兵営の図」に第十六連隊武器庫として、同じ場所と思われる位置に同様の倉庫が一棟だけ描かれているというのだ。

野砲兵第十六連隊は、国府台に設置されていた下士官養成の教導団がその役割を終えて1899年(明治32年)に廃止された後に設置され、この倉庫が出来た後のようだが、1904年(明治37年)~1905年(明治38年)日露戦役では、旅順要塞攻略戦、奉天大会戦に出陣している。既に国府台にあった野砲兵第一連隊、野砲兵第十六連隊に続いて、1908年(明治41年)に野砲兵第十五連隊が国府台に置かれた。1919年(大正8年)には野砲兵第十四連隊も世田谷から国府台に移された。野砲兵第二旅団司令部も設けられ、国府台一帯は、まさに「砲兵の街」となった。

野戦で使用する砲は砲身だけでなく、移動するための車輪、照準その他の附属物があり、その保管には赤レンガ倉庫は決して大げさなものではなかったのだろう。勿論、砲兵といえども小銃の類も使っただろうから、それらもいくらかは入っていただろうが。

<二階内部>


赤レンガ倉庫といっても、舞鶴の海軍の赤レンガ倉庫などと比べるとかなり小ぶりである。幅は7.7mほどしかなく、長さは20.69mである。それが2階建てで高さは9.78m、一棟のみ。レンガの積み方は、レンガの長手と小口を交互に積むフランス積みで、明治でも早い頃にはやったもの。旧軍施設では、猿島要塞など少数しか残っていない。1890年頃にはイギリス積みというレンガの長手だけの段、小口だけの段と一段おきに積む方式が一般的になった。ちなみに、千葉市の鉄道連隊の材料廠は、イギリス積みの変形で端部のみ長さの違うレンガにするオランダ積みである(以下参照)。

http://www.shimousa.net/tetsudourentai/tetsudourentai_no1.html

今の国府台の赤レンガ倉庫は、旧血清研の時期にいろいろ改変がされている。例えば一階東側中央の出入口は、旧軍時代のものではないそうだ。一階は血清の冷蔵に使用され、ウレタンが部屋の内側全面を覆う形にされている。二階も多少は改変されているようだが、ほとんど旧軍時代のままになっている。

本来の出入口である西側(江戸川側)にある出入口から急な階段を二階にあがると、むき出しになった天井が古い日本家屋と違い、直径25cmほどの梁の上に筋交い状に細い柱が屋根に向かい三角の形をつくっているのに気付く。

これはトラスというもので、両側の壁に組み込まれた二重の桁によって支えられている。阪神淡路大震災の際に話題となった耐震構造でも、日本建築に筋交いを使うことで強度を高めるということが言われたが、こういう構造は屋根の重みを松の直径40cmくらいの大きな木などの太い梁を使わなくても支えられるのだという。

窓も古いままで、窓枠の内側に少し窪みがある。元は外側に観音開き扉があったのだが、蝶番が残っているだけで失われている。窓には嵌め殺しの鉄格子があり、内側には、金網戸とガラス戸がある。

<窓の外側>


<窓の内側>


窓に嵌めこまれた鉄格子は、現地で組み立てたのではなく、工場で組み立てたのをレンガを積む過程でレンガに穴をあけて嵌めて行ったもの。だいぶこみいった作業であった模様。

なんと、面白いことに旧軍時代の「兵器係」「使役兵」といった壁への小さな貼り紙が残っており、軍帽か何かを掛けて使ったのではないかと思う。札を掛けた、出社カードのようなものではなかろう。
南側の天井の梁に近い場所にフックがあるのだが、何を掛けたものか、これは使用目的が分らない。詳細な見取り図か何かないと、はっきりしない。だれか覚えていれば幸いであるが。

<旧軍時代の名札>


人の記憶は、年とともにあいまいになる。言葉も昔歌った歌でさえ。小生が戦後復学した学生の頃に歌った「青年よ団結せよ」の歌は、ソビエトのV.クルーチニンが作曲、P.ゲルマンが作詞した歌で、日本ではイールズ声明反対闘争が盛り上がるなかで歌われた。この歌は戦争直後の1947年、プラーグ国際青年祭コンクールで入選し、「全世界民主青年歌」とともに愛唱されたというが、その一方の、「全世界民主青年歌」を学生の頃よく歌っていたかといえば、あまり記憶がない。戦後ですら、記憶が薄れている。戦時中の詳細なことは尚更分らなくなる。

話が横道にそれた。この赤レンガ倉庫は、いずれ創設の時期などが明確になってくると信じるが、歴史の証言者が高齢となり、次々に鬼籍に入ってしまう中、保存の決定とさらなる研究が急がれる。

予科練志願

2010-10-31 | Weblog


軍隊には、いわゆる兵隊ソングという歌があって、軍歌以上に歌われていた。それは替え歌であったり、独自に作られた歌で、兵隊の真情をあらわしたものが多い。なかには、本当にふざけたものや、くだらないもの、猥雑なものもあるが、総じて言えば、軍隊生活での喜怒哀楽をうたっている。

その中に、「お国の為とは言いながら 人の嫌がる軍隊に 志願で出てくる馬鹿もある 可愛いスーちゃんと泣きわかれ」という、『可愛いスーチャン』というのがある。その志願で出てきたのが、小生であり、小生の身内には何人か同様の者がいる。そもそも、海軍は一部応召のものもいることはいるが、基本的に志願兵ばかりである。

なぜ予科練を志願したかといえば、親父が日露戦争直後に陸軍に応召されたとき、模範兵と言われたにも関わらず、上等兵になれなかったことから、お前が志願したら上等兵などすぐになれるぞと言われたことや、学校に配属されていた陸軍大尉が軍隊(直接には陸軍幼年学校)にはいることをすすめてくれたことがあり、当時人気があった海軍予科練に憧れる、子供なりの判断があって海軍の予科練を志願したのである。

既に戦局には暗雲が立ち込めていた1943年、勇躍甲種飛行予科練を志願し、所定の手続きをして受けてみると、激しい倍率にも関わらず受かってしまった。参著先は、三重海軍航空隊奈良分遣隊。
しかし、喜んだあまり、山道を歩いているときに、手を野バラに引っ掛け、とげで指を怪我してしまった。
もし、この指の怪我が分ると、合格を取り消しになるかもしれないなどと心配した。
そんなころ、家に帰ると母が泣いている。それは小生が予科練に入り、死んでしまうかもしれない運命にあることからであった。その時はショックであった。

予科練に入る前、小生は親父にもし自分が死んだら、山の上に墓を建ててくれと言った。親父は、わかった、あそこはうちの地所ではないが、何とかすると言った。

いつの間にか、バラのとげでつくった指の傷は治っていた。

予科練に入ってからは、どこかで書いた通りである。
集団で奈良を目指す途中、東京の連中の整然とした隊列に出会い、たどり着いた奈良分遣隊の兵舎は、はたして航空隊の兵舎といえるかというような天理教の宿舎を利用したもの。奈良では練習機すらなく、操縦としては鳩ポッポというシミュレーターに乗るか、グライダーで滑空するか、そんな練習を繰り返したが、電信では個人の能力差がはっきりしていた。操偵別の発表があったとき、偵察となって落胆するものがいたが、小生は偵察となり、さらに電信員となることとなった。電信をやったことが、その後の人生にも大きく影響したのだが、その時はまったく予期していなかった。

奈良空にいる間にも、戦局はいよいよ厳しくなり、日本の敗色は濃厚になった。私も実施部隊に配属された。折りしも東京、名古屋、大阪などで大空襲があり、多くの無辜の市民がなくなった。三重から近い名古屋には1945年(昭和20年)5月、6月と主に熱田地区を狙った大きな空襲があり、名古屋の市街が燃える火が三重空からも見えたという。

1945年(昭和20年)8月15日、日本は連合国に対して無条件降伏した。私のいた航空隊でも、正午に重大放送があるとのことで、隊で整列させられ、「玉音放送」を聞いた。しかし、陸軍のなかの反乱軍が妨害電波を発していたために、途切れ途切れでよく聞こえなかった。敗戦、日本は負けたと知ると、言い知れぬ脱力感に襲われ、これからどうなるか考えようにも、まったく予想ができなかった。やがて海軍省などから慰撫書が届き、海軍軍人は悉く武装解除、日本海軍は解体することとなった。軍艦旗は降下奉焼され、連日書類は焼却された。終戦の翌日、三重空では香良洲浜で予備学生(森崎湊少尉候補生)が割腹自殺したという。ただ、東京で終戦直前に近衛師団、横浜警備隊などの反乱軍が、森近衛師団長を殺害し、首相官邸などを襲撃したようなことは首都圏以外では起こらなかったし、終戦直後もさほど大きな混乱はなかったと思う。ただ、山にこもるなどといって、息巻いていた若い士官たちがいた。
ある人は、白子浜でのんびり海水浴をしたというが、本当だろうか。そこまでのんびりした状況ではなかったと思う。

終戦と同時くらいのころに多摩川鉄橋で列車同士が正面衝突する事故があった。かなりの大事件ではあったが、その前にそれ以上の大きな敗戦ということがあったのに、なぜそんなことを覚えていたのだろうか。小生のいた航空隊も武装解除をうけ、一部要員は残務整理、その他は解員することとなったが、当時まだ部隊にいるにはいた。

解員帰郷、それはつらいものであった。両親は暖かく迎えてくれたが、戦死した身内や先輩、友たちに、どの面さげてという気はあった。

今にして思えば、予科練にはいる直前に指の怪我をしたのは、小生を軍隊に入れまいとした不思議な力のせいかもしれない。両親をはじめ、殆どの身内が鬼籍にはいり、小生ももうそろそろお迎えがくるころである。

最近、入っているMLに訳の分らん投稿が多く、辟易しているが、戦争体験者の体験は部分的、断片的とはいえ、戦争の一面を語っていることを若い人にも理解してほしい。


柏陸軍飛行場跡地附近で新たに発見された秋水地下燃料庫(続き)

2010-07-31 | 柏市の戦争遺跡
*注意:標記遺構の場所は現在立入禁止、また8月8日の見学会は事前予約制(既に締めきり)です

森-CHANが7月27日のプレス発表で撮影した写真を、また送ってくれた。それと以前に撮影した地下燃料庫の内部写真もあり、それらを掲載するものである。

なお、今回の発表内容も含めて、千葉県の戦争遺跡HP http://www.shimousa.net/の「『首都防衛』の飛行場」に「柏とロケット戦闘機秋水」というページをアップしたので、そちらも参照して頂きたい。

1.柏市正連寺の秋水地下燃料庫 #5

地下燃料庫の上に集まる関係者



穴から内部を撮影しようとしている報道関係者



内部の様子(あいかわらず、森-CHANはいざという時の写真が下手である、光の玉は何だか分らん)



2.柏市正連寺の秋水地下燃料庫 #4

1とは別の地下燃料庫の上に集まっている記者たち(足元に小さな穴がある)



この地下燃料庫の内部



3.柏市正連寺の他の地下燃料庫

1,2とは別の地下燃料庫の内部



以上、撮影は森-CHAN。

4.柏飛行場東側国道脇の掩体壕跡

柏の葉からみて国道16線を挟んで東側の香取神社の近くにある無蓋掩体壕の残欠。一部の土手は消失しており、完全なかたちではないが、馬蹄形をなしていたことが容易に想定できる。




これは従来野馬土手だと思われていたもの。手賀の湖と台地の歴史を考える会の調査により、掩体壕であることが分った。

5.花野井交番裏にある秋水燃料庫跡

こちらは、有名になったコンクリートむき出しの燃料庫跡。



小さなタンク車で出入りするようになっていたが、今は出入口が塞がれている。



以上、撮影は染谷たけし氏。










柏陸軍飛行場跡地附近で新たに発見された秋水地下燃料庫

2010-07-27 | 柏市の戦争遺跡
*注意:標記遺構の場所は現在立入禁止、また8月8日の見学会は事前予約制(既に締めきり)です

かねて柏陸軍飛行場附近で掩体などの調査を行っていた、手賀の湖と台地の歴史を考える会(代表:國學院大學上山教授)が、この4月4日にロケット戦闘機秋水の地下燃料庫を五基発見したという。場所は掩体と同じような場所であるが、多少位置がずれている。地下燃料庫は、秋水のロケット燃料の甲液(過酸化水素80%と安定剤)を保管したもので、上から見ればL字型をしており、一基の大きさはL字の縦方向が約20m、横方向が7から8m、高さは2.5m、幅2.5m弱で、径2mのヒューム管長さ2.5mのものを縦方向に8つ並べた形であり、端に換気孔があったという。

これは7月27日プレス向けに発表があったもので、読売新聞と朝日新聞に掲載されたほか、種々のネットニュースに流れている。

<地下燃料庫跡の発見時>



その発表には海軍で秋水の飛行訓練をしていた13期予備学生出身の、鈴木晴利元海軍中尉も駆けつけ、元山海軍航空隊から移ってきて、選抜された16名で厳しい訓練を今の茨城県の百里あたりでおこなったことや、その訓練はひたすら帰投を目指した滑空訓練が主体で、その他射撃もあった、射撃といっても五式三十粍機銃ではなく、通常の零戦に付いているようなものであったことなど、具体的に述べられたという。86歳でいまだ矍鑠とされ、HPの写真にもスマートな海軍士官らしさがにじみ出ている。

<地下燃料庫跡に立つ鈴木元海軍中尉と秋水研究家の柴田さん>


(柴田さんが抱えているのは、戦後近隣の人がそのあたりの秋水地下燃料庫から持ち出したという硫酸瓶。かつては液体燃料の過酸化水素が入っていたそうだ)

なお、同会では、8月8日に一般向け見学会をするそうだが、いろいろ保険だとかあり、また人数も絞って事前予約制になっている。

最終案内かどうか、森-CHANからの情報が今一つ明確でないが、概略以下の通りらしい。
また森-CHANによれば、同会のブログに詳細が書かれているとのことで、最初見たら何もかいていなかったが、二回目に見ると、該当の記事があった。よって、同会のブログを確認して頂きたい。

「手賀の湖と台地の歴史を考える会」のブログ http://teganoumi.blog62.fc2.com/

「手賀の湖(うみ)と台地の歴史を考える会」

(以下、同会の連絡文)

柏市正連寺で有人ロケット戦闘機・秋水の地下燃料貯蔵庫5基を発見しました。完全な形ではありませんが、内部の保存状態は良く、戦争中に使用されていたことも分かっている非常に貴重な遺構です。この発見した燃料庫のうち、2基の見学会を下記のとおり開催いたします。参加ご希望の方は、事務局までEメール、電話またはファクスでお申し込みください。
日時:8月8日(日)午前10時~12時
場所:①概要説明(午前10時~11時すぎ):千葉県立柏の葉公園・公園センターの大会議室
     (場所はhttp://www.cue-net.or.jp/kouen/kasiwa/annai/access.html)
②現地見学(午前11時すぎ~12時):公園センターから徒歩5分。徒歩で移動
参加費:500円(資料代、保険料込み)
申込方法:参加される方全員の「お名前」「性別」「年齢」「ご住所」「電話番号」を、会ブログhttp://teganoumi.blog62.fc2.com/、事務局☎・Fax04-7155-2351までご連絡ください。
※要予約、申し込み先着90人、少雨決行。また、道の部分の草刈りはされていますが、周囲は薮
(やぶ)です。長袖・長ズボン・足元のしっかりした靴でご参加ください。
問い合わせ:事務局(浦久)☎04-7155-2351、090-5560-2408

(以上)

<発見された地下燃料庫の内部>


なお、わが取材班もデジタル一眼レフ持参で、柏まで行く予定。遠路はるばるご苦労さん。

本来は館山に飛んでいる時期であるが、自衛隊の開隊行事は10月らしく、それまで延期するつもりらしい。それなら、茂原でもどこでも海軍基地に行ってきてほしいものだ。

木更津の山中にあるB29搭乗員慰霊碑

2010-07-02 | 木更津市の戦争遺跡


日本軍の戦闘機などが様々な理由で墜落した際の慰霊碑は、全国各地に多い。しかし、米軍機が日本軍の戦闘機や高射砲などで撃ち落されるなどして、墜落したものの搭乗員慰霊碑が、全国に少数ながら存在し、千葉県にもあることは寡聞にして知らなかった。

偶然にも、森-CHANが知人から教わったインターネットのWEBマガジン「ヒコーキ雲」に掲載されていた日本航空協会の「航空と文化」誌97号の記事を航空会館で複写していたところ、その記事を書いた当の航空協会の職員の方から、千葉県木更津市の慰霊碑の場所や管理しているお宅の住所を聞いたのがきっかけで、実際に慰霊碑を当HP取材チームが訪ねるにいたったのである。

慰霊碑を管理しておられるのは、木更津市の影山順一さんで、慰霊碑を建立したのは、御父堂の影山金司さん(故人)であり、それも終戦から6年後に慰霊碑を建てたとのことであった。そのB29は1945年(昭和20年)5月29日横浜空襲を実施したB29の517機のうちの一機であり、木更津の「高射砲」(高角砲)が落としたものらしい。搭乗員12名は、即死の状態であったらしいが、遺体は殆どが大きく損傷した。そのなかで、珍しくほぼ完全な形で残った遺体は首から小さな靴を下げていたという。

他にも米軍機搭乗員の慰霊碑はあるが、これは最も古い部類である。

小生が興味を抱いたのは、普通の市民であった筈の影山金司さんが、B29の墜落を目の当たりにし、軍国主義の思想がまだ色濃く残っていた戦後間もない時期に、なぜB29搭乗員の慰霊碑を建立しようと思ったかである。兄弟が軍属として南海に散ったことも、戦争犠牲者はなんびとも平等だという考えにつながったと、息子である順一さんは想像しておられるが、それを行動であらわしたのは、なかなかできることではない。

慰霊碑の存在は、ごく一部の人しか知らなかったが、最近になって近くを通る館山自動車道が開通し、その残土を入れたために山林の一部が平坦になって、人が入り込みやすくなったことから、山菜とりの人に慰霊碑が発見され、米国大使館や木更津市長を招いた慰霊祭が行われるにいたった。その慰霊祭は、影山順一さんもいろいろ世話をして実現したものであり、親子二代にわたり、義理人情に厚い人なのかもしれぬ。

実は、この取材は今年初めに行っていたが、HPにあげるのが大幅に遅れたのは、森-CHANが仕事やら地域活動やらで、なかなか時間がとれなかったためである。こういう心温まる話は、何をおいてもすぐに上梓してほしいものだ。

木更津の次は館山へ行ってくれと言っているが、いつになることやら。

(写真はB29搭乗員慰霊碑~影山さんが持たせてくれたお茶を取材チームが供えた)