ロケット戦闘機秋水については、柏市花野井に地下燃料庫が現存しているが、これを世の中に紹介したのは、「柏に残された地下壕の謎」という小野英夫氏、川畑光明氏の柏市での論文である。 小野英夫氏、川畑光明氏の研究により、住宅地にあるコンクリート製の地下式の台地側面に出入口のある奇怪な壕が、戦時中日本軍がロケット戦闘機秋水の燃料を格納するものとして作られたものであり、過酸化水素という劇物を燃料としているために、大掛かりで頑丈な燃料庫が必要とされ、それが柏飛行場に近い柏市花野井に建設されたことが知られるようになったのである。
写真は花野井交番の裏にある覆土がなくなってむき出しになった地下燃料庫の一部を、近くから写真家が撮影したものである。小石が混じるコンクリートの荒い様子がわかるだろうか。この燃料庫は全長40mほどあり、かなり大きい。むき出しになっていない別の燃料庫も同じような大きさなのだろう。出入口は人が少しかがんではいることが出来る位の高さで、終戦直後は大陸からの引揚者などが中に住み着いていたが、最近になって子供が入ったりして危険なので開口部が塞がれている。
<秋水地下燃料庫の出入口(現在は塞がれている)>
秋水は、言うまでもなく、ドイツのメッサーシュミットMe163Bなどをモデルとしつつ、太平洋戦争末期に日本の陸海軍が共同で開発したロケット戦闘機である。 秋水用の飛行場には、柏陸軍飛行場が割り当てられた。それは柏が首都東京に近く、もともと柏飛行場が「首都防衛」を目的とした立地であること、実際B29が首都東京を攻撃する際の経路の一つに、柏がなっていたからである。
柏飛行場は、東京に近いだけでなく、1,500m(後に2,000mに拡張)の舗装された滑走路を持つ飛行場であり、銚子沖などから東京に向って侵入してくるB29を邀撃するのに絶好の位置にあった。そういう立地条件もあって、陸軍は柏飛行場を秋水の基地とすることを考え、陸軍の航空審査部の関係者、荒蒔義次少佐以下が近くの寺院などに宿営し、秋水実験隊の拠点が作られていた。また、過酸化水素などロケット燃料の貯蔵庫として、地下燃料庫が建設されたが、最初は十余二の飛行場に近い場所に主に実験飛行用、後に1945年(昭和20年)春ごろにはリスク分散のため、柏飛行場から東へ2Kmもはなれた花野井や大室などの地に地下燃料庫が建設された。
現在の住所では柏市正連寺にある飛行場に近い場所の燃料庫は、ヒューム管をつないだだけの簡単な作りで、L字形をなし、長い方で径2mほどのヒューム管(長さ2.5m)を8つ連結し、20mほどとしたものと直角に7から8mほどの長さにヒューム管を接合したものである。それに比べて、花野井の地下燃料庫のほうは前述のとおり約40mの長さ、形は昔の黒電話の受話器のように両端が直角のカーブで曲がっている。
この異様な燃料庫は一回の飛行で2トンもの燃料を消費するロケット戦闘機秋水のためのものであり、以下にB29を高高度で迎撃するとはいえ、大掛かりな燃料庫を必要とし、その燃料生産や付随する容器製造その他で、莫大な費用と人員をかけたにも関わらず、秋水は一度も実戦で飛ぶことなく、終戦を迎えた。 実際に搭乗するために人体実験そのものといえる低圧装置での試験がなされた後に、飛行訓練は滑空機などを用いて行われたが、終戦直前の1945年7月、海軍の犬塚大尉が横須賀追浜で試験飛行して墜落して殉職、陸軍では試験飛行すらなされないまま終戦となった。 思えば日本軍国主義の破綻直前に生まれた仇花であったのか、そのモニュメントとして頑丈に作られたがゆえに今も柏市花野井に秋水地下燃料庫が残っているのである。
なお、柏市の市民団体、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会が、2004年頃から学習会、見学会などで、これを取り上げている。最近では2013年には見学会を行い、旧海軍三一二航空隊の搭乗要員(元中尉)の聞取り内容のビデオ上映も行ったと聞く。
同団体の動画があるので、以下にご紹介する。なお、旧海軍三一二航空隊の搭乗要員(元中尉)の聞取りについては1時間ほどのビデオになっていて一般には公開されていないが、文書では千葉県立図書館に寄贈されている。
ロケット戦闘機秋水と地下燃料庫 https://youtu.be/8LXuDVNacbs
ロケット戦闘機秋水~海軍搭乗要員は語る~ https://youtu.be/mZK3Kv4ky8M