千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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柏陸軍飛行場ができた柏市十余二、柏の葉の変遷

2008-04-12 | 千葉県の地域情報
千葉県柏市十余二、柏の葉から流山市駒木台にかけて、旧陸軍柏飛行場(陸軍東部第百五部隊)と隣接して陸軍航空廠立川支廠柏分廠があった。柏飛行場の土地は、戦後入植者に払い下げられ、中十余二開拓集落ができたものの、朝鮮戦争の頃、米軍通信基地となり、一部は米軍に接収、国が買収されるなどして、開拓民がつくった中十余二集落は消滅。その後、米軍基地の返還運動により、返還され、現在に至っている。

今は柏飛行場跡地は、かつての司令部跡周辺が陸上自衛隊柏送信所になっているが、その他は官庁施設や大学の敷地、柏の葉公園という大きな公園や国立がんセンター東病院、柏の葉高校、柏の葉住宅地、隣保園などとなっている。

柏飛行場は、1938年(昭和13年)に当地に開設された。それは、1937年(昭和12年)6月、近衛師団経理部が新飛行場を当地(当時の東葛飾郡田中村十余二)に開設することを決定し、用地買収を行って建設されたものである。その当時、日本は1931年(昭和6年)の満州事変以降、中国大陸での戦線拡大の真只中にあり、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を契機として、日中全面戦争に突入していた。柏飛行場は、首都防衛の飛行場として、松戸、成増、調布などと共に陸軍が設置したものである。兵員はおよそ600~700人の配備であり、飛行機の配備(1945年初め)としては2式戦闘機(鍾馗)約40機、3式戦闘機(飛燕)約15機であった。

柏飛行場には、1500mの滑走路と周辺設備、すなわち兵舎や格納庫があり、航空廠立川支廠柏分廠の工場などが隣接していた。
陸軍東部第百五部隊の営門は、現在の陸上自衛隊柏送信所の前の道路が、十余二の大通りと交差する駐在所横にあり、当時の位置のままである。コンクリート製で、今も門扉を取り付けた金具が残っている。

ここは高射砲陣地とともに、首都防衛終戦間際の1945年(昭和20年)頃になると、空襲に際しては滑走路も無視して四方八方から戦闘機が迎撃に飛び立って行き、そのまま帰還しない機も少なくなかったという。

<東部第百五部隊の営門跡>


そして、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦の日を迎える。日本国民は天皇を頂点とした軍部ファシズム、戦時統制経済のくびきから解放されたが、多くの引揚者、復員軍人を迎えた国土は戦争で疲弊しており、戦後の食糧難の時期を迎える。柏飛行場跡地は、食糧難解消のための緊急開拓地の一つとして、開拓民が移住、引揚者や旧軍人など約140人が入植した。当地は地味や水利が良くなかったものの、陸稲や小麦、甘藷、落花生などが栽培され、柏飛行場跡地は徐々に農地へ転換した。

しかし、朝鮮戦争が始まると、開拓地は米軍に接収され、朝鮮戦争以降アンテナの立ち並ぶ通信基地として使用された。すなわち、柏飛行場の農地転換作業がほぼ完成した1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発するや、1952年(昭和27年)には日米合同委員会が米空軍通信基地の設置を決定、1955年(昭和30年)、「米空軍柏通信所」、トムリンソン通信基地が開拓地内に建設された。基地には200mの大アンテナをはじめ、アンテナが林立し、日本の国土でありながら朝鮮、ベトナムに駐留する米軍に対してアメリカ国防総省の命令を伝達する通信基地となったのである。
トムリンソン通信基地では、旧軍の柏飛行場を一部改変し、道路の付替えを行っている。

その後、農民の強い反対運動にもかかわらず、米軍基地は拡大、昭和38年(1963)施設拡充のための国による買収問題を契機に開拓農民に動揺が起き、結局ほとんどの開拓地は国に買収されて農民は去り、わずかな民有地を残して中十余二開拓は消滅した。
その後、国民運動におされて、日本政府も基地返還についてアメリカ政府と交渉せざるを得ず、関東での基地返還があいつぎ、柏のトムリンソン通信基地についても昭和50年(1975)に返還の動きが出てきた。そこで県と地元市町村(松戸市、野田市、柏市、流山市、我孫子市、鎌ヶ谷市、関宿町、沼南町)は、1976年(昭和51年)2月23日に「米空軍柏通信所跡地利用促進協議会」を設置して、基地の早期全面返還と跡地の公共的利用について、更に積極的な活動を進めることになった。

さらに、県議会、柏市・流山市議会においても早期返還の決議がなされ、また、地元協議会などの幅広い活動の結果、1977年(昭和52年)と、1979年(昭和54年)の二度に渡りほぼ半々ずつの面積で返還が行われ、跡地188 haの全面返還が実現した。
その際、アメリカは1977年(昭和52年)に基地の半分を返還すると通告してきたが、同時に残り半分を原子力潜水艦へ核攻撃の指令を出すための通信基地「ロランC」を新設すると通告、これは国会でも取り上げられ、大きな反対運動が起こった。結果、米軍は新たな基地建設を断念、1979年(昭和54年)の全面返還となったのである。

日本に返還された基地跡は、背丈ほどの雑草の生い茂る荒地となっていたのを、近年柏の葉キャンパスとして、国立がんセンター、科学警察研究所、財務省税関研修所、東葛テクノプラザ、東京大学といった官公庁、大学などの研究施設や柏の葉公園などとなった。。

<柏の葉>


そもそも、十余二とは明治の新地名であるが、それは下総台地にあった小金牧、下総牧を明治新政府が、東京にいた窮民、旧士族に開拓させ、彼らに授産しようとしたことに端を発し、自然環境が厳しい原野に近い場所を東京窮民や近隣の農家の次三男坊が開墾し、農地としていった苦闘の歴史の象徴である。その土地は開墾に苦闘する開拓民のものとはならず、開拓会社を実質的に支配する政商たちが大地主で、開拓民は小作農という関係が続き、明治新政府の不手際もあって、初期の東京窮民を中心とした開拓民は多くが脱落、わずかに残った初期開拓民と途中で開拓に加わった近隣農民の手で開拓は成し遂げられた。

小金牧、下総牧の開墾地には、、開墾順序に合わせて地名がつけられたが、その最初が現・鎌ヶ谷市の初富。初めて富を得る場所という意味か。以降、二和(船橋市)、三咲(船橋市)、豊四季(柏市)、五香(松戸市)、六実(松戸市)、七栄 (富里市)、八街(八街市)、九美上(香取市)、十倉(富里市)、十余一(白井市)、十余二(柏市)、十余三(成田市、多古町)と続く。

十余二は、かつての高田台牧があった場所を開墾して出来た地名である。
高田台牧は柏市十余二・高田のほか流山市の一部にまたがる。この土地が開墾され、原野が農地になる過程では、他の開墾地同様、開拓民の苦労があったわけであるが、ここには開拓民を小作農として大隈重信が広大な土地を所有した地主として君臨していた。現柏特別支援学校付近に、明治初期、大隈重信が屋敷部分だけで10,000m2を超える土地を所有していたという。

「当地は元小金原高田台牧也

明治二年より入植開拓せり初期入植者は自作農たるべき筈の処大隈及鍋島等の所有となりて八十余年昭和廿二年来の農地改革により初志貫徹すべて入植者の有に帰す」

これは、十余二のバス停近くの神社境内にある、「高田原開拓碑」の碑文である。こうして入植者の手に獲得された農地であったが、やがて軍によって買収、戦後も米軍基地となるなど、変転をたどった。近くの豊四季も軍との関係が深い土地であるが、ここもまた、開墾の苦闘の歴史をもっている。豊四季の、農業専業で生計をたてられない農民たちは木釘を売り、生活水準も近隣のもともとの農民と比べて低かった。

<豊四季駅>


実は、柏飛行場が、もとは牧の開墾地であったという証拠が今でも残っている。それは軍敷地の内外にあった土塁であるが、これは小金牧高田台牧の土塁を再利用したものである。ただ、軍が新たに築いた土塁もあり、どこからどこまでが牧の土塁か、軍オリジナルかが判然としない。

ちなみに、柏には陸軍射撃場があったが、これは中世の大室城跡を再利用したもの。それによって、大室城跡は原型をとどめぬように改変され、事実上消滅した。これは国府台城でも同様に、土塁の改変が多々有るとはいえ、遺構は残存している。大室城跡の例は、軍による文化財破壊といえるだろう。なお、陸軍射撃場は戦後ホークミサイル基地となり、ベトナム戦争当時、おおきな反対運動があった。今もミサイル基地のようであるが、自衛隊での正式名は「陸上自衛隊高射教育訓練所」である。

<航空廠柏分廠跡に残る土塁>


参考文献:『歴史アルバム かしわ』 柏市役所 (1984)
     『千葉県の戦争遺跡をあるく』千葉歴史教育者協議会 (2004)

四街道市の戦争遺跡1(ルボン山と野戦砲兵学校)

2008-04-03 | 四街道市の戦争遺跡
1.下志津原の「ルボン山」

以前、「佐倉市の戦争遺跡2」で述べたように、下志津原と呼ばれる四街道市の領域を含んだ、広大な原に陸軍野砲兵隊、戦車隊などの演習地があったことはよく知られている。その下志津原の南側の一角には、現在の四街道市役所にほど近い場所に野戦砲兵学校や「ルボン山」があり、JR四街道駅前から大日五叉路手前で西へ集合住宅地が多い地域を道成りに進んだ、現在の愛国学園の正門となっている野戦重砲兵第四連隊の営門や将校集会所の跡など、様々な戦争遺跡が四街道市の中心市街地に存在している。

もともと、下志津原は中世は広大な原野であり、近世になって佐倉に佐倉藩が配置され、幕末近くなると、その一部において大砲の試射・演習が行われるようになった。佐倉藩の砲術演習は、1841年(天保12年)、佐倉藩士兼松繁蔵が高島秋帆の江戸徳丸ヶ原での洋式砲術の調練に参加したのを嚆矢として、すでに宝暦年間(1751年~1764年)には太田村で大砲の演習が行われている。
1855年(安政2年)木村軍太郎は藩兵制改革を立案、高島秋帆の洋式砲術を佐倉藩では採用し、江川太郎左衛門、佐久間象山に学んだ木村軍太郎、手塚律蔵、西村茂樹らの指導で自前の火薬・大砲を作るなど、その技術は世をリードしていたといってよいだろう。下志津原での大砲演習は1861年(文久元年)からであり、明治初年まで大々的に行われた。そして、それは下志津新田木戸場を中心に、約20haの大規模な「火業所」となった。

明治政府は、旧佐倉藩の「火業所」に目をつけ、これを陸軍演習場にすることを決定した。1873年(明治6年)、明治新政府がフランス陸軍から指導者として招聘したのが、ジョルジュ・ルボン砲兵大尉で、ジョルジュ・ルボン砲兵大尉の指導にしたがって、射的場の拡張を行い、下志津原に陸軍砲兵射的学校を開設した。
旧幕時代、佐倉藩が「火業所」として下志津原を使い、西洋砲術の演習をしていたが、その砲撃演習の目標(「射垜」という)にされていた小山をルボン大尉が改造したのが「ルボン山」である。

<「ルボン山」と「砲兵射垜の跡」碑>


陸軍野戦砲兵学校が四街道に出来る前の明治前期、陸軍砲兵射的学校が下志津原の北方に作られ、ルボン山はそこからの砲撃の射垜(射的築堤)であった。ところが、1896年(明治29年)に新たに陸軍野戦砲兵射撃学校条例が公布され、翌年には陸軍砲兵射的学校が陸軍野戦砲兵射撃学校、と改称され、今の四街道市役所の場所に移ってきた。それはさらに、1922年(大正11年)に陸軍野戦砲兵学校と改称された。

そうすると、今まで大砲を撃っていた下志津原の北方が、逆に砲弾の着弾点となったのである。「下志津原一丁目」と称して、紅灯緑酒の巷となり、殷賑を競った砲兵射的学校の周りの料理屋など軍人相手の店も移動を余儀なくされた。同時に、今度はルボン山が射垜としての役割を終え、射撃演習の観測および警戒旗を掲げる場所となった。また現在の四街道図書館など文化センターのある場所にあった爆薬庫の土手の一角として使われた。

「ルボン山」が射垜としての役割を終えると、次第に「ルボン山」という名称も使われなくなり、「大土手山」と呼ばれることになる。

現地の案内板には
「大土手山 神社を頂いたこの丘は大土手山と呼ばれていた 
麓には昭和四十年に四街道町史蹟保存会と陸軍野戦砲兵学校遺跡保存会有志一同によって建てられた『砲兵射垜の跡』の碑があり、碑裏には次のように刻まれている。『この地は佐倉藩士大筑尚志が藩の砲術練習所として築いたものを明治十六年(一八七三)教師として招聘されたフランスのルボン砲術大尉が増築し初めて砲術を伝習した射垜の一角である射的場は南北三千米幅三百米であった 
明治十九年その北端に陸軍砲兵射的学校が創立されたが同三十年四街道に移転してより射場は急速に拡張され射垜はルボン台または大土手山と呼ばれた・・・」とある。

<「ルボン山」から見た市役所方面>

(小生の知人のYさん撮影)

2.野戦砲兵学校

前述の通り、陸軍砲兵射的学校が下志津原の北方に作られ、ルボン山はそこからの砲撃の射垜(射的築堤)であった。ところが、1896年(明治29年)に新たに陸軍野戦砲兵射撃学校条例が公布され、翌年には陸軍砲兵射的学校が陸軍野戦砲兵射撃学校、と改称され、今の四街道市役所の場所に移ってきた。国鉄四街道駅は、その移転の三年前に開設されていて、まさしく軍の都合により、荒地のなかに駅がポツンとある状態だったようだ。そして、陸軍砲兵射的学校は、さらに1922年(大正11年)に陸軍野戦砲兵学校と改称された。

当初鉄道に近い場所ということで、千葉の鉄道第一連隊付近に移転する計画であったようだが、児玉源太郎陸軍次官など、当時の軍上層部が実地調査も含めて検討した結果、四街道に移転することになった。しかし、野砲校十年記念帖で渡辺満太郎中将が「概ね現在の如き半理想の状態」と述べているように、それは当事者にとってはやや不満の残る立地であったようだ。

<四街道市街地に建つ野戦砲兵学校の碑>

(後ろの御影石の石段は1936年(昭和11年)に射的学校50周年を記念してたてられたもの、終戦時にここで「御真影」を焼いたという)

この野戦砲兵学校は、後に教導連隊となった部隊の施設を含み、30数万平米の敷地を有し、その周囲の殆どが土塁とカラタチの垣根で囲まれていた。現在の四街道市役所、その南の中央小学校、さらに南の公園、バス道路を挟んだ西側の更地(セイコー光機のあった場所)およびさらに西のイトーヨーカドー敷地に渡る広大な場所が該当し、セイコー光跡地の周辺には土塁があった痕跡がみられる。

この1896年(明治29年)に四街道に設置された陸軍野戦砲兵射撃学校の周囲には、軍設備が建設され、その南には下志津衛戍病院(のちの下志津陸軍病院)、その東の現在の四街道高校のある場所には野砲兵第十八連隊が設置された。こうして、狐や狸が出る荒野に近かった四街道は軍郷として栄えることとなった。

一方で、下志津原演習場の整備拡大に伴って移転を余儀なくされた村もある。下志津新田、今宿、小深(こぶけ)新田、宇那谷(うなや)、長沼の五つの集落がそれであり、下志津村を親村として江戸後期から明治にかけて新田開発をおこなった下志津新田や、寺や学校も有していた宇那谷集落を含む。陸上自衛隊高射学校の「下志津原」によれば、「特に下志津新田の如きは、数回の移転を余儀なくされている。即ち第一回目は、親村下志津村からほど遠からぬ今宿(現在の四街道町今宿)近傍に、新田を構成したが、明治初年頃の軍の買収により、原の中央犢橋村内域に移動した。そのあと明治三十一年第四回目の演習場拡張によって、その柵外に接続して移転した。しかしたちまち同三十三年から三十五年にかけての大拡張により、漸次南方にずるずると移動して、現在地に落ち着いたものの様である」という。軍の犠牲になって翻弄された、農民の苦労が偲ばれる。

一方、陸軍野戦砲兵射撃学校は、1922年(大正11年)に陸軍野戦砲兵学校と改称されたが、これは野戦重砲兵に関する研究教育を行う学校であり、全国に17あった「実施学校」の一つであった。そこでは野戦重砲に関する射撃戦術、着弾観測、通信や馬術にいたるまで、砲兵将校をはじめ、後年には砲兵下士官要員の教育も行われた。また同年、日露戦争時旅順攻撃にも加わった野砲兵第十八連隊が廃され、かわりに広島から野戦重砲兵第四連隊が四街道に来ることになった。こうして、陸軍野戦砲兵学校を核として、砲兵の町、四街道が形成されていった。

この陸軍野戦砲兵学校は、従来の野砲より口径が大きく、砲自体が長大で駄馬でひかせるか自走式となった野戦重砲を扱っていたが、第一次大戦の中国青島戦でドイツ軍の飛行機の実戦使用を目のあたりにした陸軍は、大阪砲兵工廠で、臨時高射砲の研究を行い、これを実用化すべく検討した結果、1922年(大正11年)には高射砲隊の戦時編成が決まり、世界並みの一一年式七・五糎野戦高射砲が制定され、野戦砲兵学校内に二個中隊の高射砲練習隊が創設された(陸軍高射学校の前身)。つまり、野戦砲兵学校は野戦重砲兵だけでなく、高射砲兵の揺籃の地でもあったのだが、高射砲連隊1925年(大正14年)に一個連隊が編成されたきりで、日中戦争さなかで防空の必要性が強く認識されだした1938年(昭和13年)頃にいたるまで、砲兵のなかでも高射砲兵は長く味噌っかすの立場に甘んじなくてはならなかった。ちょうど1938年(昭和13年)には野戦砲兵学校内に防空学校ができ、後に陸軍防空学校(後の千葉陸軍高射学校)として独立、新校舎も千葉小仲台に作られた。

<観測隊の碑>


太平洋戦争さなかの1942年(昭和17年)には、野戦砲兵学校内に生徒隊が作られた。これは15歳から17歳に受験資格があり、教育期間二年間で下士官候補の少年砲兵を養成するもので、入校後は観測班、写真音源班、自走砲班に分かれて実地教育を受けた。160名ほどの募集に対して、1943年には47倍もの受験者があったという。
 
戦局が厳しくなった1944年(昭和19年)繰上げ卒業させられ、南方へ送られた少年砲兵70名は福岡県門司港を出港、途中潜水艦の攻撃で、41名が死亡、生存者はフィリピン、台湾の部隊で転戦したが、日本に帰ったのはわずか8名のみであった。

<少年砲兵の碑>


3.千代田宮跡

砲兵学校のなかに、明治天皇を祀った千代田宮があったが、現在は中央公園に「奉納」の字だけ認識できる石碑がある。殆ど注目されないような場所に放置されており、なにやら字を削った跡もある。



参考文献:
陸上自衛隊高射学校「下志津原」(1976)
『千葉県の戦争遺跡をあるく』 千葉歴史教育協議会 (2004)
協力:「愛国の花」花ちゃんブログ作者

習志野市の戦争遺跡3(津田沼駅周辺の戦争遺跡)

2008-04-02 | 習志野市の戦争遺跡
1.津田沼鉄道連隊

鉄道第二連隊は、津田沼鉄道連隊といわれるほど、津田沼と縁が深い。しかし、現在の千葉工大が、かつて陸軍鉄道連隊のおかれた場所であったことを知る人は、今では少なくなっているかもしれない。

1907年(明治40年)に従来の鉄道大隊が鉄道連隊に昇格、津田沼に兵営を一旦移した後、1908年(明治41年)に千葉に鉄道連隊司令部、第一大隊、第二大隊が移転、津田沼には鉄道第三大隊が置かれた。1918年(大正7年)に津田沼の鉄道第三大隊が、陸軍鉄道第ニ連隊に発展的に改組された。

<鉄道第二連隊の臨時検閲>


鉄道第二連隊が出来た当初の臨時検閲。近衛師団長久邇宮邦彦王が立会い(中列右から3人目、頭上に印のある人物)。

その鉄道第二連隊が出来た当初について、新聞は以下のように書いている。

「大正7年8月4日(日)東京日日(房総版)

連隊と津田沼 町民は軍隊に冷淡

千葉鉄道連隊が8月1日から拡張されて津田沼に1個連隊を置き、千葉を第一連隊、 津田沼を第二連隊とし、旅団に編成された処で、津田沼町は急に連隊附将校の居を構うる者が激増した。一体、同町附近には騎兵も4個連隊居るので、何分狭い街の事とて貸家が無く、該将校等は船橋や市川或は態々東京方面から通って来る始末で、同地には空地も多く、且つ相当財産を有する者も尠くないに拘らず、町民は一向平気で、軍隊など見向きもせぬと云った調子だが、恁麼事では同町将来の発展上遺憾である。殊に大工其他の職工が多数入り込んで居るにも拘らず、之に供給すべき物資に乏しき為め、職工連は非常な不便を感じて居れりと。」

しかし、津田沼の町の発展には、鉄道第二連隊の存在が大きかった。

1928年(昭和3年)に松井天山が描いた「津田沼町鳥瞰図」(成田山仏教図書館蔵)には、鉄道第二連隊の配置が細かく描かれている。それは国鉄津田沼駅の南北にあり、北は材料廠の倉庫群、南には連隊本部と兵舎や作業場、火薬庫が描かれている。

なお、「津田沼町鳥瞰図」にある商店街は津田沼駅の北側、その殆どが今の船橋市域にあり、これらが鉄道第二連隊に大きく依拠していたことは想像に難くない。果物の堀越商店や戦後料理屋をしていた「かし熊」、洋食の松栄軒、酒屋であった渡辺商店など、戦後も地元の人間になじみのあった店の名前が書かれている。おそらく連隊の兵隊たちも、外出時にはこういう店で買い物をしたり、外食することを楽しみにしていただろう。

現在の新津田沼駅とイトーヨーカドー、ジャスコのある場所には材料廠の倉庫が並び、連隊の主要な建物は千葉工大の敷地になっているのがよく分かる。なお、千葉工大の前の正門(現在は通用門)は、鉄道第二連隊の隊門であり、現存している。隊門と総武線の線路を挟んだ商業地域との間には、踏み切りがあり、現在ある歩道橋はもちろん存在しない。鉄道第二連隊の兵舎は戦後かなり長い期間残っていたが、千葉工大の新校舎建設に伴ってなくなった。

その他、総武線の上を通る跨線橋の土台は、かつての鉄道連隊演習線当時のものが残っているという。

<津田沼町鳥瞰図の一部>


現在のJR津田沼駅附近。赤字は筆者が追記したもの。

戦後、その津田沼の地にできた千葉工大は、東邦大学などと同様にその兵舎を校舎などとして利用したのである。

前述したように、かつては、その兵舎を利用した校舎もあったのだが、10年以上前に立て替えられ、現在は見ることができない。今なお残るのは、レンガ造りの隊門のみである。その隊門は、1998年(平成10年)に国の登録有形文化財の指定をうけた。

この鉄道第二連隊の歴史を振り返ると、

1918年(大正7年) 鉄道連隊第三大隊が改組、鉄道第二連隊となる。

1923年(大正12年)関東大震災で関東戒厳令司令官の指揮下にて、鉄道復旧作業に出動。

1928年(昭和3年)、中華民国山東省済南で出兵した日本軍と蒋介石軍が武力衝突した済南事件に派兵。

1937年(昭和12年)華北で鉄道の運営、徐州作戦に参加。なお、この頃から京漢線、津浦線、石太線、朧海線の占領、開拓、運営にあたった。

1940年(昭和15年)、旧満州・華北を転戦した後、主力は1945年(昭和20年)4月、九州に移転、終戦を迎える。

なお、1940年(昭和15年)の平時編成表で第一連隊が連隊長(大佐)のもと、連隊本部、三個大隊、三個中隊、材料廠で編成されていたのに対し、津田沼の第二連隊では、他に練習部、幹部候補生隊、下士官候補生隊が付設されており、留守部隊には練成部隊としての位置づけもあったようである。

かつての鉄道連隊の材料廠の主力は千葉の鉄道第一連隊となったが、津田沼の第二連隊でも材料廠の倉庫は現在の新津田沼駅周辺、イトーヨカドーやジャスコのある広い場所に建っていた。

2.鉄道第ニ連隊の演習線廃線跡

前述のように鉄道第三大隊を津田沼に移転させた軍は、占領地への軍用物資補給を円滑にするための手段として、演習線を作り、それで要員訓練することを考えた。演習線は、津田沼~松戸、津田沼~三山新田~犢橋~千葉のニ区間とし、総延長45Kmで、敷設、撤去、修理の訓練も行われた。それは、千葉に鉄道第一連隊、津田沼に鉄道第二連隊と連隊が地区ごとに独立してからも同様であった。そして、ここで教育を受けた兵たちは、樺太の鉄道敷設、日中戦争などへの出動に駆り出されたのである。

津田沼~松戸の演習線は、戦後京成が払下げをうけて、新京成電鉄とした営業運転をするようになったが、津田沼~千葉の演習線については廃線となった。

その一部の演習線の廃線跡は、現在ハミングロードとして市民の遊歩道ともなっている。これは京成大久保駅近くのスーパーマルエツ前の歩道が該当する。今では、地域の人の生活道路となっているが、れっきとした軍用の演習線である。これは、津田沼から総武線を離れて大久保方面へ大きく湾曲しながら続き、京成大久保駅の前を通って、八千代方面へつながっている。

遺構としては、多くはないが、境界標石が残っており、鷺沼台の畑のなかやスーパー店舗前にいくつか現存する。いずれも白御影石製の「陸軍用地」と刻まれたものである。

<京成大久保駅近くの鉄道連隊演習線跡>


<ハミングロード脇の畑の中にあった陸軍境界標石>


<陸軍境界標石に近づいてみたところ>


<駅前のスーパー店頭にも境界標石が残る>


3.新京成新津田沼駅および周辺に残る遺構

現在の新京成線は、鉄道連隊の軍用線のうち、津田沼~松戸間の路線を戦後京成電鉄が獲得し、演習用にその余りに湾曲していた部分はショートカットするなどして営業運転させたものである。現在のイトーヨーカドーに隣接した新京成電鉄新津田沼駅付近は、かつて鉄道連隊の倉庫や資材置場があった。また戦後の一時期、千葉工業高校があった場所でもある。

現在の新京成線新津田沼駅といっても、三代目くらいの駅で、今はない藤崎台駅が新津田沼駅という名前だったこともあり、また西友裏の、かつて八坂神社があった場所の近くに、新津田沼駅があったこともある。

今の新津田沼駅の前の新津田沼駅があった、現在の西友の東の線路脇の駐車場のなかや、その近くの線路沿いにも、陸軍境界標石がある。

新津田沼駅と京成津田沼駅の間にある総武線を越える、新京成電鉄の鉄橋(跨線橋)は、前出の松井天山の「津田沼町鳥瞰図」にも描かれているが、その基礎部分には鉄道連隊時代の煉瓦の基礎が使われている。ただし、外からは確認できなくなっているので分かりにくい。

<鉄道連隊時代の基礎が残った跨線橋>


なお、現在新津田沼駅の南側、総武線の線路沿いに上述の八坂神社がある。これは元は船橋市域にあったため、純粋な習志野市の戦争遺跡とはいえないが、その境内に「皇紀二千六百年紀念」と書かれた国旗掲揚台がある。

<八坂神社の国旗掲揚台>


現在は、津田沼の商店街と遠くなってしまったが、八坂神社はかつては商店街のなかにあって、お参りする人も多かった。おそらく鉄道連隊の兵士たちも外出時には船橋市域に広がった津田沼商店街で洋食を食べ、買い物を楽しんだであろうが、商店街近くの八坂神社にもお参りした兵士も多かったであろう。

(付記:以前の習志野一中にあった防空壕について)

現在の千葉工大の西、前のサンペデック、現・モリシア津田沼がある場所には、習志野第一中学校がありました。昭和30年代終り頃には、その校庭の一角に防空壕があったのですが、現在は習志野一中自体、別の場所に移転し、防空壕も残っていません。小生の知人によれば、それは土を掘っただけの簡単なもので、「危険なので防空壕に入るな」という立て札が傍にあったそうです。

場所からみて、鉄道第二連隊関連のものと思われますが、それ以上の情報がないのです。当時の習志野第一中学校関係者の方、どなたかご存知の方、コメント等でご連絡をお願いします。 

参考文献:『千葉県の戦争遺跡をあるく』 千葉県歴史教育者協議会 (2004)

       『千葉県の歴史』 山川出版社 (2000)

      『歴史読本 日本陸軍機械化部隊総覧』 新人物往来社 (1991)ほか