JR西千葉駅を下車し、北へ進んだ轟町の住宅地は、かつて陸軍関係の施設が建ち並んだ場所であった。その住宅地の一角に、千葉経済大学があるが、その構内に、かつての陸軍鉄道第一連隊の材料廠の赤煉瓦の建物がある。これは、1908年(明治41年)に建築されたもので、煉瓦造アーチ構造、南北に幅2.7mの下屋を付設し、煉瓦構造の主要部分は54.4m×7.3mと細長い。この材料廠の赤煉瓦の建物は、洋風煉瓦造二階建、煉瓦の積み方も、長手面の段と小口面の段が交互に並び、角に4分の3の大きさの煉瓦が入るオランダ積みという積み方で、内部には長大スパンの連続した煉瓦造の孤形アーチが10連並んだ構造をもち、建築史上でも貴重な建物ということで、千葉県の指定有形文化財になっている。
<現存する陸軍鉄道第一連隊の材料廠の建物>
<美しいオランダ積みという煉瓦積み>
では、そもそも鉄道連隊とは、何であるか。それは鉄道を利用した近代戦を行うために、工兵部隊から派生し、戦地において鉄道の建設、修理や兵員、物資の輸送にあたり、平時は演習線を利用して鉄道建設、修理、汽車の運転などを含めた各種訓練を行う、鉄道専門の部隊である。
明治政府は、近代戦における鉄道利用の重要性から、ドイツを手本として1896年(明治29年)11月に鉄道大隊を東京・牛込の陸軍士官学校内に創設、鉄道大隊は1897年(明治30年)6月東京・中野に転営後、1900年(明治33年)の義和団事件(北清事変)で活躍、1904年(明治37年)には日露戦争にも出動し、朝鮮半島で京義線、中国東北部(旧満州)で安奉線等を建設した。
1907年(明治40年)には東京・中野にあった交通兵旅団の一個大隊が発展拡充して、鉄道連隊となり、千葉町都賀村と津田沼町に移転、千葉に連隊本部、第一大隊、第ニ大隊、材料廠、津田沼に第三大隊が創設された。更に、シベリア出兵時の1918年(大正7年)鉄道連隊はニ個連隊へ増強され、千葉の第一大隊、第ニ大隊を第一連隊、津田沼の第三大隊を第二連隊とした。
1923年(大正12年)の関東大震災では、鉄道復旧作業に従事。満州事変勃発後は、第一大隊はハルビン、他は鉄嶺に駐屯し、中国東北部(旧満州)全域での鉄道建設、維持管理、輸送などに従事した。鉄道連隊は、アジア全土に鉄道網を作り、日本帝国主義のアジア侵略のための交通基盤として、軍事物資などを輸送するという軍事目的のために、細胞分裂する如く、1945年(昭和20年)に第二十連隊まで作られるに至る。
材料廠付近で、材料廠以外の遺構としては、かつては大日寺の北側、引込み線の近くに給水塔があったが、現在は失われている(戦後も1984年に廃されるまでJRのレールセンター内の施設として引込み線も給水塔もあったが、現況レールセンター自体なくなり、跡地は千葉経済大学と住宅地になっている)。それは、軍用鉄道の機関車に水を補給するためのものであった。
2.陸軍鉄道第一連隊の演習場跡
千葉公園のなかには、陸軍鉄道第一連隊の演習場(作業場)があって、演習線のトンネルや、架橋訓練用の橋脚、演習線のウインチ台がある。橋脚は、高台と低地という土地の高低差を利用して、高台の縁辺に低い橋脚を置き、台地下に高い橋脚を置いて、鉄橋を作る訓練をした名残りである。
<演習線の橋脚>
<演習線の高台側の低い橋脚>
また、かつては、公園内の高台は陸軍の喇叭手の練習にちなんで「喇叭山」と呼ばれていたが、脱線機の取付後、退避するのが遅れて殉職した荒木工兵大尉を悼む鉄道第一連隊将兵により、荒木大尉の銅像が建立されたため、「荒木山」と呼ばれるようになった。軍国宣伝が広く行われ、不慮の事故死や偶発的な事由での戦死をとげた軍人から、「軍神広瀬中佐」や「肉弾三勇士」など英雄が仕立て上げられるなかで、この荒木工兵大尉についても、英雄として祭り上げられたようである。
<千葉公園管理事務所敷地にある鉄道連隊演習線トンネル>
<鉄道連隊演習線トンネルを横から見たところ>
また、千葉公園内にウインチ台が残っている。これも、ただのコンクリートの塊と見過ごしてしまいそうだ。
<千葉公園内に残るウインチ台>
3.陸軍鉄道大隊の記念碑など
その他の遺構としては、わずかに椿森町の住宅街の中に、忽然と鉄道大隊の記念碑が建てられているが、これは北清事変で出動し、病死した吉見精工兵大佐や戦死した武田禮作工兵中尉ら、亡くなった将兵を悼むもの。石碑は高さ2mほどもある大きなものであるが、裏面に「北清事変ニ於ケル鉄道」として北清事変当時の北京郊外の鉄道路線図が描かれている。建立者は、「北清事変現存将校」となっていたが、氏名の下に「病気後送」などとリアルに書いてあるのも珍しい。
<住宅地の中にある鉄道大隊記念碑>
北京郊外の鉄道路線図は、細い字で書いてあるが、左隅の四角(城壁か)で囲まれた部分に北京とあり、それから点線で線路が描かれ、「郎坊」「楊林」「天津」などと駅名も記入されている。
<鉄道大隊記念碑の裏面にある北京郊外の鉄道路線図>
また、鉄道大隊記念碑の北側100mほどの地点にある椿森公園はかつての兵営跡であるが、公園の片隅に将校集会所の築山が、そっくり残っている。ただし、何も案内板などないため、知らない人には何の変哲もない公園に見えることであろう。
<椿森公園に残る将校集会所の築山~公園奥の木が生えた場所>