千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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千葉市の戦争遺跡1(陸軍鉄道第一連隊)

2006-12-31 | 千葉市の戦争遺跡
1.陸軍鉄道第一連隊の材料廠

JR西千葉駅を下車し、北へ進んだ轟町の住宅地は、かつて陸軍関係の施設が建ち並んだ場所であった。その住宅地の一角に、千葉経済大学があるが、その構内に、かつての陸軍鉄道第一連隊の材料廠の赤煉瓦の建物がある。これは、1908年(明治41年)に建築されたもので、煉瓦造アーチ構造、南北に幅2.7mの下屋を付設し、煉瓦構造の主要部分は54.4m×7.3mと細長い。この材料廠の赤煉瓦の建物は、洋風煉瓦造二階建、煉瓦の積み方も、長手面の段と小口面の段が交互に並び、角に4分の3の大きさの煉瓦が入るオランダ積みという積み方で、内部には長大スパンの連続した煉瓦造の孤形アーチが10連並んだ構造をもち、建築史上でも貴重な建物ということで、千葉県の指定有形文化財になっている。

<現存する陸軍鉄道第一連隊の材料廠の建物>


<美しいオランダ積みという煉瓦積み>


では、そもそも鉄道連隊とは、何であるか。それは鉄道を利用した近代戦を行うために、工兵部隊から派生し、戦地において鉄道の建設、修理や兵員、物資の輸送にあたり、平時は演習線を利用して鉄道建設、修理、汽車の運転などを含めた各種訓練を行う、鉄道専門の部隊である。

明治政府は、近代戦における鉄道利用の重要性から、ドイツを手本として1896年(明治29年)11月に鉄道大隊を東京・牛込の陸軍士官学校内に創設、鉄道大隊は1897年(明治30年)6月東京・中野に転営後、1900年(明治33年)の義和団事件(北清事変)で活躍、1904年(明治37年)には日露戦争にも出動し、朝鮮半島で京義線、中国東北部(旧満州)で安奉線等を建設した。
1907年(明治40年)には東京・中野にあった交通兵旅団の一個大隊が発展拡充して、鉄道連隊となり、千葉町都賀村と津田沼町に移転、千葉に連隊本部、第一大隊、第ニ大隊、材料廠、津田沼に第三大隊が創設された。更に、シベリア出兵時の1918年(大正7年)鉄道連隊はニ個連隊へ増強され、千葉の第一大隊、第ニ大隊を第一連隊、津田沼の第三大隊を第二連隊とした。
1923年(大正12年)の関東大震災では、鉄道復旧作業に従事。満州事変勃発後は、第一大隊はハルビン、他は鉄嶺に駐屯し、中国東北部(旧満州)全域での鉄道建設、維持管理、輸送などに従事した。鉄道連隊は、アジア全土に鉄道網を作り、日本帝国主義のアジア侵略のための交通基盤として、軍事物資などを輸送するという軍事目的のために、細胞分裂する如く、1945年(昭和20年)に第二十連隊まで作られるに至る。

材料廠付近で、材料廠以外の遺構としては、かつては大日寺の北側、引込み線の近くに給水塔があったが、現在は失われている(戦後も1984年に廃されるまでJRのレールセンター内の施設として引込み線も給水塔もあったが、現況レールセンター自体なくなり、跡地は千葉経済大学と住宅地になっている)。それは、軍用鉄道の機関車に水を補給するためのものであった。

2.陸軍鉄道第一連隊の演習場跡

千葉公園のなかには、陸軍鉄道第一連隊の演習場(作業場)があって、演習線のトンネルや、架橋訓練用の橋脚、演習線のウインチ台がある。橋脚は、高台と低地という土地の高低差を利用して、高台の縁辺に低い橋脚を置き、台地下に高い橋脚を置いて、鉄橋を作る訓練をした名残りである。

<演習線の橋脚>


<演習線の高台側の低い橋脚>


また、かつては、公園内の高台は陸軍の喇叭手の練習にちなんで「喇叭山」と呼ばれていたが、脱線機の取付後、退避するのが遅れて殉職した荒木工兵大尉を悼む鉄道第一連隊将兵により、荒木大尉の銅像が建立されたため、「荒木山」と呼ばれるようになった。軍国宣伝が広く行われ、不慮の事故死や偶発的な事由での戦死をとげた軍人から、「軍神広瀬中佐」や「肉弾三勇士」など英雄が仕立て上げられるなかで、この荒木工兵大尉についても、英雄として祭り上げられたようである。

<千葉公園管理事務所敷地にある鉄道連隊演習線トンネル>


<鉄道連隊演習線トンネルを横から見たところ>


また、千葉公園内にウインチ台が残っている。これも、ただのコンクリートの塊と見過ごしてしまいそうだ。

<千葉公園内に残るウインチ台>


3.陸軍鉄道大隊の記念碑など

その他の遺構としては、わずかに椿森町の住宅街の中に、忽然と鉄道大隊の記念碑が建てられているが、これは北清事変で出動し、病死した吉見精工兵大佐や戦死した武田禮作工兵中尉ら、亡くなった将兵を悼むもの。石碑は高さ2mほどもある大きなものであるが、裏面に「北清事変ニ於ケル鉄道」として北清事変当時の北京郊外の鉄道路線図が描かれている。建立者は、「北清事変現存将校」となっていたが、氏名の下に「病気後送」などとリアルに書いてあるのも珍しい。

<住宅地の中にある鉄道大隊記念碑>


北京郊外の鉄道路線図は、細い字で書いてあるが、左隅の四角(城壁か)で囲まれた部分に北京とあり、それから点線で線路が描かれ、「郎坊」「楊林」「天津」などと駅名も記入されている。

<鉄道大隊記念碑の裏面にある北京郊外の鉄道路線図>


また、鉄道大隊記念碑の北側100mほどの地点にある椿森公園はかつての兵営跡であるが、公園の片隅に将校集会所の築山が、そっくり残っている。ただし、何も案内板などないため、知らない人には何の変哲もない公園に見えることであろう。

<椿森公園に残る将校集会所の築山~公園奥の木が生えた場所>

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船橋市の戦争遺跡4(東部軍教育隊、市街地に残る石塔・石碑類)

2006-12-29 | 船橋市の戦争遺跡

1.東部軍教育隊

習志野自衛隊の近く、現在の薬円台高校のあたりは、かつて東部軍教育隊が置かれた場所である。
1873年(明治6年)に初めて大和田原(習志野原)が演習場として使われ、その後陸軍の駐留、騎兵学校の開設を経て、習志野騎兵隊の存在は、地域経済にも影響を与え、隣接する薬園台(現在は薬円台と一般に表記される)でも軍の御用商人が増え、洋服の仕立て屋、靴屋といった軍人の生活を支える商店などが出来るようになった。
当地の地名、薬園台とは、江戸時代に丹羽正伯らが徳川八代将軍吉宗の時に幕府の命令で開発した薬草園のあった場所で、そこから薬園の台、薬園台となったものである。それ以前は、一面広大な牧であった。
時代は下って、太平洋戦争も戦局の押し詰まってきた1943年(昭和18年)8月、薬円台と習志野原の一部を用地として、薬円台の農地が強制的に買収され、陸軍の下士官を養成するための東部軍管区教育隊が開設された。この教育隊は、当初下士官養成のためのものであったが、翌1944年からは幹部候補生教育が行われることになった。これは戦局が暗転し、多くの若者が職を離れ、あるいは中途で学業を放棄させられて戦線に送り出される中、兵の一番身近な指導者である下士官を大量に養成する必要によって設置されたものである。開設から半年後、幹部候補生教育を行うようになってからも、毎年千名ほどの入隊者を数えたという。

<東部軍教育隊の正門跡~右側は薬園台高校>


現在、東部軍教育隊の兵舎などの建物はない。しかし、戦争直後には兵舎を利用して小学校の教育などがされている。すなわち、1951年(昭和26年)には東部軍教育隊の兵舎を利用して船橋市立薬円台小学校が創立、道路を挟んだ南西には千葉県立船橋高校の習志野校舎が出来た(船橋高校農業科、現薬園台高校園芸科)。

東部軍教育隊の正門は、現在の薬園台高校の正門脇道路のあたりにあったというが、遺構は何も残っていない。わずかに、裏門の門柱のみ残っている。

裏門の門柱は、新京成習志野駅近くの商店街にあり、薬園台高校脇の道路を北へ進んで和菓子屋が角にある道路の突き当り、和菓子屋の横にある。いまだに金具も付いている。本来、片側だけでなく、もうひとつ門柱があったのだが、7年ほど前に倒れ、役場の人が回収したのだという。なお、近所の人に聞いても、新住民が多く、なかなか昔のことがわからず、聞いたなかで知っていたのは和菓子屋のおかみさんのみ。近所に船橋市郷土資料館があり、近隣の文化財等のマップがあるので、分からない場合には、そこで聞くのが早いかもしれない。

<東部軍教育隊の裏門門柱~金具も残る>


<東部軍教育隊の裏門門柱~表から見たところ>


2.中山競馬場近くの馬頭観世音

中山競馬場近くに、馬頭観音が集められている場所がある。これは江戸時代から昭和にいたる時代に弊馬となった馬たちを埋葬した証であるが、実はこれも戦争遺跡である。習志野市大久保にある陸軍騎兵旅団司令部跡にも、軍馬の碑があったり、馬と軍隊は関わりが多いのだが、この馬頭観音は少しく意味合いが違うものがある。
中山競馬場は、松戸に陸軍工兵学校が開かれるまでは、松戸の相模台にあった。1919年(大正8年)12月に松戸競馬場は中山に移転し、中山競馬場となった。太平洋戦争も中盤となった1943年(昭和18年)12月、「競馬開催の一時停止」が閣議で決められ、翌1944年(昭和19年)3月には中山競馬場は閉鎖、陸軍に接収された。その跡に、陸軍軍医学校中山出張所等が開設された。その陸軍軍医学校中山出張所では、当時陸軍で負傷した場合に、最悪手足を切断せざるをえないため、悩みのタネとなっていた破傷風、ガス壊疽などの血清の製造が行われた。すなわち、馬に破傷や壊疽の菌を注射して、抗体を作り、その馬から血を抜いて、血清とするというもの。この血清製造用に御役御免となった競走馬などが使われた。また、馬の採血や死体処理には、衛生兵などでは手が足らず、近隣の船橋中学校(現在の県立船橋高校)、市川中学(市川学園高校)の生徒が駆り出された。

現在、馬頭観音は大きな石塔が3基、その両側に8つずつ、計19基たっているが、大きな石塔の向かって右側の戦後建立のものが、血清製造の犠牲となった馬たちの供養に建てられたものであろう。
他にも、陸軍習志野学校の動物実験の慰霊塔などあるが、動物たちも犠牲を強いられていた、一つの証である。

<中山競馬場近くの馬頭観音群>


3.市街地に残る石碑類

船橋の旧市街地にも意外に、戦争に関わる石碑類が残っている。
他にもあると思うが、筆者の知っているもので忠魂碑や隊碑以外のものでは、以下の通り。

・海神の竜神社にある、国防婦人会建立の「髪塚」
・古作の熊野神社にある、「一億一心」と刻まれた国旗掲揚台
・海神の入日神社にある、「国威宣揚」と刻まれた国旗掲揚台
・西船橋の春日神社の「国威宣揚」と刻まれた石柱
・船橋本町の稲荷神社の「国威宣揚」と刻まれた石柱(陸軍中将が揮毫)
・船橋本町通りの厳島神社にある、「天壌無窮」と刻まれた国旗掲揚台
・船橋御殿通りの道祖神社にある、「国威宣揚」と刻まれた国旗掲揚台
・津田沼(元は船橋市前原西にあった)の八坂神社にある、「皇紀二千六百年」と刻まれた国旗掲揚台

<船橋道祖神社の「国威宣揚」の国旗掲揚台>

 
その他、墓碑では既出の船橋市習志野霊園(陸軍墓地)の日本、ドイツ、ソ連の各墓碑や古い明治期の墓塔、あるいは戦争遺跡とするのかどうかがあるが、船橋市街地、市民文化ホール近くの海軍少佐の墓(伊号潜水艦の航海長で、潜水艦同士の衝突事故で事故死、大尉から特進)などがある。

また、馬込霊園の中にある関東大震災後の虐殺でなくなった朝鮮人たちの慰霊碑などがある。船橋市域では北総鉄道の工事に携わっていた朝鮮人労務者が、移送中に自警団を称する暴徒に襲われ、現在の船橋市北口の天沼付近で虐殺されている。また逃げた朝鮮人を追いかけていき、下飯山満まで追いかけて日本刀で斬殺するなど、悲惨な事件も種々発生し、船橋市街地での虐殺では、あまりの悲惨さに消防団員が朝鮮人の子供二人を救助し、警察で保護させたということもあった。

大きな石碑は戦後(1947年)になって、在日本朝鮮人連盟が建てたもので、最初本町に建てられ、のちに当地に移されたものである。

<馬込霊園の関東大震災時の朝鮮人虐殺犠牲者の碑>


なお、関東大震災の朝鮮人たち虐殺の犠牲者などの碑は、もうひとつ馬込霊園にあり、「法界無縁塔」と裏面に「大正十三年九月一日建之」と刻まれているのみである。これは、1924年(大正13年)9月1日に船橋仏教会を中心とした地元の有志が、殺された朝鮮人を供養して建てたものという。もともとは、船橋市本町2丁目816番地の火葬場にあった。これも、1967年(昭和42年)にその火葬場から現在の場所に移された。

<馬込霊園の「法界無縁塔」>


海神の竜神社の「髪塚」は、「昭和十七年三月建之」「大日本国防婦人会海神班」とある。また、古作の熊野神社にある、「一億一心」と刻まれた国旗掲揚台には、横に「紀元二千六百年」「昭和十五年七月七日 町会設立紀念」とあり、これは、太平洋戦争開戦前の北部仏印進駐が行われ、日独伊三国同盟が結ばれようとしていた時期に、行政の末端にまで戦意高揚の気運が高められていたことの資料であろう。

<海神の竜神社の「髪塚」>  


<古作熊野神社の「一億一心」の国旗掲揚台>


<津田沼の八坂神社にある「皇紀二千六百年」の国旗掲揚台>


4.鉄道連隊演習線の境界標石

現・新京成電鉄の路線となっている、かつての鉄道連隊演習線関連の遺構としては、習志野市にある陸軍鉄道第二連隊の隊門、鎌ヶ谷市内の橋脚などがある。そのほか、地味ではあるが、かつての演習線に沿って境界標石がみられ、松戸市内に数多くあるが、船橋市内にもいくつか存在する。下は、その一つで、新京成前原駅にほど近い場所にある、民家の塀に埋め込まれるようにして、残っている。

<新京成前原駅近くにある境界標石>

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