1.高射砲部隊関連
JR北柏駅を北上し、東へいくと布施弁天方面となる布施入口のバス停付近をしばらくそのまま行くと、富勢の大きな交差点に出る。その交差点を西側(柏方面)に進めば、高野台児童公園に出る。1937年(昭和12年)高野台に駐屯した高射砲第二連隊が、翌1938年(昭和13年)11月に元あった市川市国府台から当地へ移動し、飛行場の防空に当たった。隊は昭和16年(1941)に主力が東京へ移り、1943年(昭和18年)に廃されるまで続いた。その後、東部十四部隊、東部八十三部隊が進駐した。東部十四部隊は、1943年(昭和18年)に高射砲第二連隊跡に駐屯、兵士を召集、教育して部隊編成して戦地に送ることを目的とした。また東部八十三部隊は、正式には東京師管区歩兵第二補充隊という。同じ敷地に、東部十四部隊の東京師管区近衛工兵補充隊と同居した。彼らは1942年(昭和17年)に廃止された柏競馬場跡地を演習場として訓練を行った。
高射砲部隊が置かれたのは、柏市根戸の市営住宅一帯で、あちこちに残骸ともいうべき遺物が残っている。しかし、当時主力であった八八式など、8千メートルまでしか弾が飛ばない旧式の高射砲は、高度1万メートルを飛ぶB29にはとどかなかったという。
<高射砲第二連隊の営門(当時)>
高射砲第二連隊の営門は、かつては県道七号線「布施入口」の標識のある富勢の交差点辺りにあった。そこから西の根戸地区一帯が、高射砲部隊があった場所である。その中央には、かつて百メートル間隔で四角く四基、標的鉄塔が建っており、それは高射砲の標的練習のためのもので、頂上をワイヤーでつなぎ、模型飛行機を吊り下げて動かし、目標としたものである。
かつては、その標的鉄塔を取り囲むように、部隊本部や兵舎、倉庫、将校集会所、護国神社などが建ち並んでいた。
現在、高射砲第二連隊の営門の門柱の一部が高野台児童公園に移築、保存されている。なお、それ以外の営門の門柱の残りと歩哨舎についても、現存していて、歩哨舎については平成24年(2012)12月26日から平成25年(2013)1月初めにかけて移設工事が行われ、営門門柱脇に移設された。
<高射砲連隊の門跡(歩哨舎移設以前の様子)>
<高射砲連隊移転後にはいった東部十四部隊、東部八十三部隊の部隊配置図>
なお、その高野台周辺には、高射砲第二連隊当時の照空予習室がほぼ完全な形で、以前柏市西部消防署根戸分署として使用されていた。前は馬糧庫といわれていたが、最近の研究で、この建物が照空予習室といわれるものと判明した。これは屋上に測遠機を置いて、前方の標的鉄塔の上にワイヤーで吊るされた模型飛行機との距離を測るとともに、室内では夕暮れの状態を再現するなど内部の照明の明るさを調整したうえで、天井などに航空機像を投影し照空灯操作を訓練する施設である。日中戦争当時の陸軍の施設ながら、一見すると戦後建てられた小さな消防署としか見えない。この照空予習室の屋上には、測遠機を吊り上げる昇降機が附いていたと思われるクレーン状の支柱が残っている。
この照空予習室の近くには、土塁で囲まれた爆薬庫も、戦後も残っていたが、集合住宅などが建って残存していない。
<照空予習室跡>
<屋上のクレーン状の支柱>
ここでの主な遺構は、営門跡と消防署になっている馬糧庫跡であるが、その他では、散在する軍施設の建物の基礎などのコンクリート残骸がある。コンクリートの残骸で目に付くものでは、ある公共施設内にあるものは、かつてその辺りは車廠であった関係上、その建物基礎であろうか。
また、周辺には陸軍境界標石もいくつかあり、例えば県道沿い、布施入口を北に進み、小柳米店のさらに北をしばらくいった筋向い、公務員住宅のほうからの出入口になっている道の県道との接点付近に二基、白御影石の境界標石が見られる。
<車廠の建物基礎と思われる残骸>
2.陸軍病院
柏市花野井の柏市立病院は、元は国立柏病院で、その前身は陸軍病院である。柏陸軍病院は、1939年(昭和14年)に創設されたが、その前年には高射砲部隊が根戸に移駐している。この陸軍病院の建物などは、残っておらず、わずかに近隣の民家横に御影石で出来た境界標石が二基あるのみである。
<かつて陸軍病院であった柏市立病院>
<境界標石>
境界標石には「陸軍」と書かれているようであるが、風雪にさらされ、字が薄くなり判読できにくくなっている。この種の境界標石は、前述の高射砲部隊跡など、北柏、柏、松戸附近ではいくつか見ることができる。
3.柏飛行場
陸軍東部第百五部隊は、1938年(昭和13年)に当地に開設された。その飛行場、すなわち柏飛行場は、「首都防衛」の飛行場として、松戸、成増、調布などと共に陸軍が拠点とした。柏飛行場には、第五、八十七、一、十八、七十の各飛行戦隊があって、1944年(昭和19年)末から激しくなったB-29による空襲に対して、B-29を迎撃し首都防衛の任務にあたった。柏市はかつて「軍都柏」と呼ばれ、市内各所に軍事施設や軍需工場があったが、柏飛行場としては、1500mの滑走路と周辺設備を持っていて、太平洋戦争末期に開発されたロケット戦闘機「秋水」の飛行基地も、この柏飛行場が割り当てられた。現在、滑走路が柏の葉公園の脇を通る街路樹のある通りと一部重なる(税関研修所辺りから北側部分)ほか、何も残っていない。終戦間際の1945年(昭和20年)頃になると、空襲に際しては滑走路も無視して四方八方から戦闘機が迎撃に飛び立って行き、そのまま帰還しない機も少なくなかったという。この柏飛行場は、戦後米軍に接収され、朝鮮戦争時にはアンテナの立ち並ぶ通信基地として使用された。その後、1979年(昭和54年)に日本に返還され、背丈ほどの雑草の生い茂る荒地となっていたのを、近年柏の葉キャンパスとして、国立がんセンター、科学警察研究所、財務省税関研修所、東葛テクノプラザ、東京大学、千葉大学といった官公庁、大学などの研究施設や柏の葉公園などとなった。柏の葉公園は、休みには周囲をジョギングしたり、散歩する市民の目立つ、周辺住民の憩いの場になっており、かつてここから多くの飛行機が飛び立ち、帰還しなかったことなど嘘のようである。
陸軍東部第百五部隊の営門は、現在の陸上自衛隊柏送信所の前の道路が、十余二の大通りと交差する駐在所横にあり、当時の位置のままである。コンクリート製で、今も門扉を取り付けた金具が残っている。
<陸軍柏飛行場の滑走路跡(財務省関税中央分析所付近から北を望む)>
~実際の滑走路は、この写真では道の右(東)側の財務省敷地に食い込んだ部分を走っていた。しかし、財務省税関研修所付近からはこの道路は滑走路の西端を使って建設された模様である(この件は別に述べる)。
<東部第百五部隊の営門跡>
<営門跡の門扉をつけた金具>
この柏飛行場の西隣には陸軍航空工廠があった。これは、1938年(昭和13年)に柏飛行場が開設されたのに伴って飛行機と付随する車両の点検整備のために設置された。正式名は陸軍航空廠立川支廠柏分廠といい、総務、経理、衛生、工務四課、約150名の人が働いていた。本部庁舎、工場四棟、酒保、衛兵所があったが、建物は一部を除いて現存しない。
<柏送信所前から航空工廠跡方面を望む>
参考文献:『歴史アルバム かしわ』 柏市役所 (1984)
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これは柏市教育委員会もおそらく間違えていると思うが、本当の主滑走路はこの道路よりもやや東側に走っていた。この道路は米軍柏通信所跡地の区画整理事業で新しく設置された道路で、滑走路とほぼ同じぐらいの位置にあり、道幅もあるため、滑走路をそのまま舗装したものと勘違いされている方が多いようだ。
詳しく確かめたい方は国土交通省ウェブマッピングシステムなどで、1974年・1979年・1984年の当地域の航空写真が確認できます。
柏在住六十年以上の人に聞くと、昔は高射砲連隊のところから柏飛行場へつづく道が、アスファルトではなく、コンクリートだったそうで、ベーゴマを研ぎだすのに便利だったということです。
このブログの筆者も、元軍人でどうも海軍の飛行機屋だったらしいですから、滅多なことは書かないでしょう。
ちなみに、昔の滑走路を改修して道路に作り直すなどということは日本中でされていました。愛知県半田市にある中島飛行機の滑走路なぞは、生活道路にされています。柏の場合も、しかりで、飛行機の方向転換させる丸い角はすっかり削られていますが。
少し位置がずれているくらいで、目くじらたてるより、戦争や軍隊の本質が何か考えることの方がよっぽど重要だと、この元軍人ブロガーも言っているんじゃないですか。爺同志で弁護するのもなんですが。
ご指摘の通り、柏飛行場の滑走路は柏の葉公園の東をはしる道路そのものではありません。ただ、筆者は現在の道路が滑走路と重なるものと読んだ文献や柏の人の話から信じていましたが、滑走路跡全てが重なるものではない、その一部を含むものの、南になるほど東にそれた場所にあることが、米軍から基地返還前の1974の航空写真等によって判明しました。
「柏の葉」さん、すなわち柏のHさんから当方を弁護するコメントもありましたが、上記は1947年の不鮮明な航空写真からも分かりましたので、記事を修正し、写真も一枚差し替えました。
また、コメントを頂いてから、1週間以上たってからの訂正で、遅くなりましたことをお詫びします。
この件については、再度調べなおし、別途記事をアップできればと考えております。