千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
(無断転載を禁じます)

柏市の戦争遺跡3(補足:柏飛行場と秋水)

2006-10-30 | 柏市の戦争遺跡
1.柏飛行場の戦後と現況

前に述べたように、柏には陸軍の飛行場あり、秋水の燃料格納庫あり、高射砲部隊あり、陸軍病院ありと、まさに「軍都柏」の名前の通りである。そのなかで中心的なものは、1938年(昭和13年)に当地に開設された陸軍東部第百五部隊の飛行場、すなわち柏飛行場であろう。柏飛行場は、1937年(昭和12年)6月、近衛師団経理部が新飛行場を当地(当時の東葛飾郡田中村十余二)に開設することを決定し、用地買収を行って建設されたものである。その当時、日本は1931年(昭和6年)の満州事変以降、日中の戦線拡大の真只中にあり、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を契機として、日中全面戦争に突入していた。柏飛行場は、「首都防衛」の飛行場として、松戸、成増、調布などと共に陸軍が拠点としたものである。兵員はおよそ600~700人の配備であり、飛行機の配備(1945年初め)としては2式戦闘機(鍾馗)約40機、3式戦闘機(飛燕)約15機であった。

柏飛行場には、1500mの滑走路と周辺設備があり、後述するように太平洋戦争末期には、ロケット戦闘機「秋水」の飛行基地も、この柏飛行場が割り当てられた。
陸軍東部第百五部隊の営門は、現在の陸上自衛隊柏送信所の前の道路が、十余二の大通りと交差する駐在所横にあり、当時の位置のままである。コンクリート製で、今も門扉を取り付けた金具が残っている。

終戦間際の1945年(昭和20年)頃になると、空襲に際しては滑走路も無視して四方八方から戦闘機が迎撃に飛び立って行き、そのまま帰還しない機も少なくなかったという。

<東部第百五部隊の営門~1943年当時>


<東部第百五部隊の営門跡>


そして、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦の日を迎える。日本国民は天皇を頂点とした軍部ファシズム、戦時統制経済のくびきから解放されたが、多くの引揚者、復員軍人を迎えた国土は戦争で疲弊しており、戦後の食糧難の時期を迎える。柏飛行場跡地は、食糧難解消のための緊急開拓地の一つとして、開拓民が移住、引揚者や旧軍人など約140人が入植した。当地は地味や水利が良くなかったものの、陸稲や小麦、甘藷、落花生などが栽培され、柏飛行場跡地は徐々に農地へ転換した。

しかし、朝鮮戦争が始まると、開拓地は米軍に接収され、朝鮮戦争以降アンテナの立ち並ぶ通信基地として使用された。すなわち、柏飛行場の農地転換作業がほぼ完成した1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発するや、1952年(昭和27年)には日米合同委員会が米空軍通信基地の設置を決定、1955年(昭和30年)、「米空軍柏通信所」、トムリンソン通信基地が開拓地内に建設された。基地には200mの大アンテナをはじめ、アンテナが林立し、日本の国土でありながら朝鮮、ベトナムに駐留する米軍に対してアメリカ国防総省の命令を伝達する通信基地となったのである。
トムリンソン通信基地では、旧軍の柏飛行場を一部改変し、道路の付替えを行っている。

<基地跡のアンテナの残骸>


その後、農民の強い反対運動にもかかわらず、米軍基地は拡大、昭和38年(1963)施設拡充のための国による買収問題を契機に開拓農民に動揺が起き、結局ほとんどの開拓地は国に買収されて農民は去り、わずかな民有地を残して中十余二開拓は消滅した。
その後、国民運動におされて、日本政府も基地返還についてアメリカ政府と交渉せざるを得ず、関東での基地返還があいつぎ、柏のトムリンソン通信基地についても昭和50年(1975)に返還の動きが出てきた。そこで県と地元市町村(松戸市、野田市、柏市、流山市、我孫子市、鎌ヶ谷市、関宿町、沼南町)は、1976年(昭和51年)2月23日に「米空軍柏通信所跡地利用促進協議会」を設置して、基地の早期全面返還と跡地の公共的利用について、更に積極的な活動を進めることになった。

さらに、県議会、柏市・流山市議会においても早期返還の決議がなされ、また、地元協議会などの幅広い活動の結果、1977年(昭和52年)と、1979年(昭和54年)の二度に渡りほぼ半々ずつの面積で返還が行われ、跡地188 haの全面返還が実現した。
その際、アメリカは1977年(昭和52年)に基地の半分を返還すると通告してきたが、同時に残り半分を原子力潜水艦へ核攻撃の指令を出すための通信基地「ロランC」を新設すると通告、これは国会でも取り上げられ、大きな反対運動が起こった。結果、米軍は新たな基地建設を断念、1979年(昭和54年)の全面返還となったのである。

日本に返還された基地跡は、背丈ほどの雑草の生い茂る荒地となっていたのを、近年柏の葉キャンパスとして、国立がんセンター、科学警察研究所、財務省税関研修所、東葛テクノプラザ、東京大学といった官公庁、大学などの研究施設や柏の葉公園などとなった。
実は、前述したように、米軍の通信基地になった段階で、旧軍の柏飛行場は大きく改変が加えられたが、通信基地には殆ど無用な滑走路が廃され、新たに道が付替えられるなどした。
航空写真(1974年)と現在の住宅地図を重ね合わせることによって、柏飛行場跡の現況を見ると、以下のようになる。なお、地図を合わせるポイントは、1974年当時から変化がすくないと考えられる営門跡付近、柏養護学校付近の道路とし、それが丁度重なることを確認して、重ねあわせた。

<柏飛行場跡の航空写真と住宅地図を重ねたもの>

航空写真:国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省より

色々な文献に、柏の葉公園脇の道路は、かつての滑走路跡を通っていると書かれている。また当ブログでもそのように記述していた。しかし、航空写真から見られるように、柏の葉公園脇の道路は北側については滑走路跡に重なっているものの、財務省税関研修所付近から南は滑走路跡の西にずれていき、南側は東大第2キャンパスの地点で約200mずれている。科学警察研究所や東大第2キャンパスの一部、柏西高校の校舎などは、かつての滑走路跡に建っていることになる。

<財務省税関研修所脇から北の滑走路跡を望む>


それにしても、折角入植していながら、米軍、政府の勝手で土地を取り上げられた開拓農民の人々は、一体どこへ行ったのか。軍隊でもベタ金(将官をあらわす兵隊言葉)や部隊長クラスなど一部高級将校のみ優遇され、下級将校や下士官兵は、天皇や将官からみてどうでもいい存在であった。事実、我下級将校や下士官は、最も減耗率の高い、「消耗品」だったのである。そして、戦後においても犠牲になるのは、いつも真面目にはたらいている労働者・農民・中小商工業者であるのは腹立たしい限りである。


2.秋水と柏飛行場

戦争末期、頻々として日本国土を空襲する米軍のB29やP51は、1万メートルの高高度を飛ぶ爆撃機であった。特にB29は、空の要塞とも言われた。それを迎撃するにも、日本陸海軍の戦闘機、零戦、隼は既に時代遅れ、月光、雷電、紫電、紫電改では高高度にあがるまでに時間がかかる上、高空性能が悪く、歯が立たなかった。陸軍の高射砲も、一般的な八八式七十五粍野戦高射砲では、最大射高9千百メートルと届かない。1万メートルに届く九九式八十八粍高射砲がのちに量産されるが、間に合わず、他に新しい高射砲も開発されたが、故障が多いなど問題もあり、配備される数もすくなかった。
そこで、ドイツのメッサーシュミットのロケット戦闘機を模して、ロケット戦闘機を開発し、迎撃用とすることが計画された。この開発には戦争末期の国家予算の7%がつぎ込まれ、陸海軍の垣根を越えて開発が進められた。そのロケット戦闘機が、秋水である。それは、当初1945年9月までに数千機作る計画であったが、計画そのものの無謀さもさることながら、如何に戦争末期の日本が最後の切り札として、このロケット戦闘機に賭けていたかがよく分かる。

<メッサーシュミットのロケット戦闘機>
ベルリン・ガトウのドイツ空軍博物館に展示されるMe163B


<ロケット戦闘機 秋水>


三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料館にて、許可を得て撮影(撮影:森-CHAN)

その秋水用の飛行場も、建設されつつあった。その飛行場に柏飛行場が割り当てられた。それはB29が首都東京を攻撃する際の経路の一つに、柏がなっていたからである。そのため、柏飛行場には、秋水用の掩体壕などが作られつつあった。また、過酸化水素などロケット燃料の貯蔵庫として、地下壕が建設されたが、リスク分散のため、それは柏飛行場から東へ2Kmもはなれた花野井や大室などの地であった。

<花野井、大室の地下燃料貯蔵庫址分布>


写真は上が北、柏市花野井の花野井交番付近を写した国土交通省提供の航空写真(1979年:地形図番号NI-54-25-1の解像度400dpiのもの)にマーク・文字入れを行った。

<秋水地下燃料貯蔵庫址>


それらが実現されれば、柏は戦争末期における日本の一大軍事拠点となった筈であるが、飛行場などの建設は未完に終わった。しかし、秋水の地下燃料貯蔵庫址は現存している。花野井、大室に台地端の崖を利用した横穴式のコンクリート製の地下壕が作られた。その地下燃料貯蔵庫は両端に出入口がある、ちょうど昔の黒電話の受話器のような形をしていて、長さは40mほどで中は中空になっている。断面はかまぼこ型で高さ2m以上、幅は3mから4mもあった。地下壕の出入口は台地端の斜面などにあり、小さなタンク車が中まで入ることができるような構造になっていた。この奇妙な形は、貯蔵時に出るガスを逃すように風通しを良くするためで、喚起孔もついている。
花野井、大室以外に、十余二にも台地上にヒューム管を埋め込む形の地下燃料貯蔵庫が作られた。
現在、確認できるのは、花野井では花野井交番の近くのコンクリートの胴体が露出している地下燃料貯蔵庫のほか、台地端の出入り口が3か所、畑にヒューム管が突き出している場所である。

<畑の中に突き出たヒューム管>


住宅地の片隅、台地の縁辺に残っている姿は異様だが、貴重な戦争遺跡である。なお、台地端にある燃料貯蔵庫址には、終戦直後引揚者など人が住んでいたとのことで、戦後になって近所の子供が中に入ると人がいて怒られたという話もある。その後、農家の納屋などとして使用されたが、最近は子供が遊ぶと危険なため、入口や換気孔を塞がれている。


3.秋水用の呂号兵器を作った町、愛知県常滑市

前にも述べたが、ロケット燃料の甲液、過酸化水素水は扱い難く、通常の金属容器を溶かしてしまう、不純物が入ると爆発の危険性もあるという代物であった。特にその製造を行う濃縮過酸化水素製造装置をどんな素材でつくるか、陸海軍の技術陣の頭を悩ませたが、結局行き着いたのが耐酸性の強い陶磁器であった。それをつくるのに、白羽の矢がたったのが、製陶業の会社のなかで湿田対策など農業用の大きな土管製造の技術をもつ伊奈製陶(現在のINAX)であった。伊奈製陶は、常滑市に本社のある会社であるが、ここに1944年(昭和19年)7月下旬、海軍省燃料局より「呂号兵器」を生産するよう、それも短納期でという命令が出た。

<常滑市民俗資料館にある呂号甕(撮影:森-CHAN)>


「呂号兵器」の「呂」とはロケットのロである。「呂号兵器」とは、正式には呂号乙薬甲液製造装置という。これは、酸やアルカリに最も強い耐酸器を、ロケット推進に必要な高度の濃縮過酸化水素製造装置に用いるもので、海軍の命令は大量の大小貯蔵槽、反応塔、真空瓶、各種パイプ、蒸留装置等を8月末から11月中頃までに納入せよというものだった。そして、この新兵器は航空機以上の急用品だという。
伊奈製陶は、早速それまでの受注品を全部辞退し、中・小型の貯蔵槽など比較的簡単な物は、地域の中小工場を指導して製造を委託することになった。そうして、1944年(昭和19年)8月頃からは伊奈製陶だけでなく、常滑全体をあげて、本来の陶器生産そっちのけで呂号兵器の生産にシフトすることになった。

現在でも、常滑では町のあちこちに「呂号兵器」が残っているという。その辺りは、以下のブログを参照されたし。

「夜霧の古城」 作者:森-CHAN 
夜霧の古城:常滑に呂号甕をたずねて

参考文献:「柏に残された地下壕の謎」小野英夫 川畑光明 /『柏市史』
     『最終決戦兵器「秋水」設計者の回想』牧野育雄 光人社 (2006)
     『千葉県の戦争遺跡をあるく』千葉歴史教育者協議会 (2004)
     


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