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千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
(無断転載を禁じます)

戦争遺跡保存とは、未来に正しく負の記憶を伝えること

2008-11-16 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡


田母神という戦後生まれの元空幕長は、戦争の惨禍から何も学ばず、不戦の誓いも忘れ、果ては政府見解までないがしろにするという、自分自身で過誤と歪曲の何乗もの愚劣な「説」を唱え、一応自衛隊から放逐された。それが退職金を満額もらえる定年退職の形であり、早めにやめさせた以外には懲戒の要素がないのは、戦時中に将官が軍規違反をしても軍法会議等にかけられず、不問に付されたことがあるのに似ている(たとえば海軍乙事件で、福留繁参謀長がゲリラの捕虜となり、軍機密書類を敵のゲリラに奪われたのを、海軍上層部は擁護し、軍法会議にかけず、福留は要職に留まった件など)。

こうした荒唐無稽な言説が、ある程度まかり通っている背景には、戦争体験の風化がある。それは人の記憶も、戦争体験者が年々減っていて、語り継ぐこともままならないといったこともあるが、終戦直後に占領軍が来る前に大量の軍関係書類が焼却され、特に軍の機密にかかわる書類がほとんど残っていないことから、文書の裏付けがしにくいということもあろう。

そこで、大いに意義があるのは、金石文の刻まれた記念物、軍関係の建物、民間に残る軍関係の記録などで、戦争遺跡を残すということは、そういう戦争体験の風化に対し、物で戦争の記憶を伝えるということに他ならない。それは「負」の記憶であるが、正しい歴史を伝えるためには、耳障りのいいことばかりでなく、嫌なことも含めて記憶しておらねばならないのだ。



先日といっても、8月の9-11日であるが、名古屋で第12回戦争遺跡保存全国ネットワークのシンポジウム愛知大会が開かれた。なお、会場は名古屋市千種区の名古屋大学であった。当日は、約120名の参加があり、全国から様々な報告がなされた。小生はもう年で暑さがこたえるため、当日は親戚に出席してもらい、資料などは後で送ってもらった。
記念講演で宗田理さんの豊川海軍工廠の話があるはずだったが、本人が体調不良とのことで、それはなく、戦争遺跡保存全国ネットワークの各委員や名古屋大学の方から報告があり、豊川海軍工廠については「豊川海軍工廠跡地利用をすすめる会」の伊藤さんからの報告があった。

愛知県には、豊川海軍工廠跡や名古屋陸軍造兵廠、瀬戸地下軍需工場跡、陸軍第15師団司令部庁舎跡、豊橋連隊跡、など、305もの戦争遺跡があるそうだ。

シンポジウムのなかで、沖縄戦での「集団自決」の記述をめぐる大江健三郎氏と岩波書店に対する、元陸軍海上挺身隊戦隊長らの訴訟は、訴訟を起こした「新しい歴史教科書をつくる会」側が南京大虐殺に関して世論をミスリードしようとしてうまくいかないために、沖縄に目をつけたということが説明された。

その報告をおこなったのは、沖縄平和ネットワークの村上氏。沖縄住民の言葉の引用のなかで、住民たちが隠れたガマのなかで、幼い子供が泣き出したのに、あらわれた日本兵から毒入りおにぎりを渡して殺すことを命じられたある家族が、子供たちだけを死なすのではなく、みんな死ぬ時は一緒に死のうとガマを出て、米軍に遭遇して隠れたり、海水入りの食べ物を食ったりして新しいガマを求めて右往左往したことが語られた。



この訴訟については、一審、二審とも、沖縄戦での「集団自決」への軍の関与を認め、原告の主張を退けた。大阪高裁の判断の通り、沖縄住民は勝手に軍の保有する武器である手榴弾で自決したのではなく、軍から支給された手榴弾などで、軍の関与のもとで「集団自決」したのである。
またぞろ、原告らは上告したが、歴史の真実は変わらない。

その歴史の真実を正しく伝える、裏付けの重要な要素が戦争遺跡である。今、史跡・文化財として指定・登録された戦争遺跡は、144件あるというが、それはまだまだ少ない。文化財に指定されていない、戦争遺跡の保存は、所有者の善意によるところが多いわけで、その意義を理解しない所有者の都合で容易に壊されたり、原型をとどめないように改変されたりする。こうした戦争遺跡は、別に美しいものだけではない、なかには不気味なものも多いだろう。にも関わらず、我々はその保存に関して、今まで以上に行政側に訴えていく必要がある。

(写真上段:豊川海軍工廠跡に残る空襲時に爆弾が落ちて出来た穴、中段:戦争遺跡保存全国ネットワーク・シンポジウム愛知大会、下段:沖縄戦での沖縄住民)

こんな所にも陸軍境界標石が

2008-10-31 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡
驚くほどのことではないが、日頃見慣れた街角に陸軍境界標石がたっていることがある。

もちろん、やたらにあるわけではないが、かつての陸軍の駐屯地や演習場の跡地、陸軍演習線の鉄道跡などに、陸軍境界標石はある。

新津田沼駅に近い、新京成線の線路沿いには、かつて六本の陸軍境界標石があったが、最近四本に減ってしまった。しかし、残っているものも、あまり目立たない場所にある。



上の写真は、そのうちの自転車置き場にある陸軍境界標石である。これが陸軍のものであることは、パッと見では分からない。

また、現在は普通の道路沿いで、近くに銀行や商店街のある場所にも、境界標石があったりする。以下は、四街道の駅前にある陸軍境界標石である。これも、他の標石のようであるが、角が欠けているものの「陸軍」の文字が鮮やかである。



小生も、昔は陸軍境界標石など、気にも留めていなかったが、このようなものでもだんだん少なくなってきた。

何気なく、見送りそうな光景。そのどこに陸軍境界標石があるか、おわかりだろうか。




(自転車の車輪越しに見える電柱脇に一本、その電柱の場所から細く分岐する道路の反対側の木の根元、棕櫚の傍に一本ある)

被弾した流山寺の句碑

2008-10-01 | 流山市の戦争遺跡


千葉県流山市流山、かつて流山糧秣廠があった平和台の近くに、流山寺という寺がある。この寺は、洞雲山流山寺といい、薬師如来を本尊とする曹洞宗の寺である。創建は江戸初期であるが、境内は比較的小さく、本堂の建物は新しく再建されたもの。

実はこの流山寺に句碑がある。それは、栢日庵の庵号をもつ、今の松戸市馬橋の人、大川斗囿という俳人の句碑である。大川斗囿の父、大川平右衛門は大きな油屋であると同時に俳人であり、立砂という俳号をもっていた。また栢日庵の庵号も立砂の代からであり、立砂は小林一茶と親交があった。
松戸あたりもそうであるが、流山でも醸造業がさかんで富裕な商人もおり、そうした人たちが好んで俳諧を嗜んだが、流山でみりんの醸造をおこなっていた商人であった、秋元双樹も小林一茶と親交のあった俳人として有名である。

流山寺の句碑は、上部が三角にとがった形の石に、流麗な書体で句が刻まれている。

名月やいずれの用にたつけぶり   栢日庵斗囿

この1831年(天保二年)に建てられた句碑の「名」の字の左横に大きく窪みがあり、ひび割れているのが分かるであろう。

<流山寺の句碑(拡大)>


誰がこんな傷をつけたかといえば、太平洋戦争中に空襲によって被弾したということである。その傷がなければ、風雅な良い石碑であったが、戦争の傷跡を今に伝えることになった。

なお、この寺には入口のところに、柱状のものの上に、俵に乗った大黒様の像がある。三頭身にもみたない頭でっかちで、かなりデフォルメされている。しかし、眉毛がつながったような面白い顔で、ほほえましい。

<流山寺の大黒像>


また、その横になにか仙人のような石像があり、大きく袖をひるがえし、杖をもっているが、はたして何を彫ったものであろうか。表情もとぼけている。足もとには、三猿が彫られている。そういう形は、よく庚申塔にみられるが、これはどういうものであろうか。それにしても、ユーモラスな石像である。

<大黒の隣にある石像>


なお、この流山寺の周辺には、小林一茶・双樹記念館や双樹の墓のある光明院など、俳句にかかわる場所が多い。

つくられた農民兵士像

2008-07-19 | Weblog


もう随分昔に「農民兵士論争」というのがあった。
それは、岩手県農村文化懇談会編『戦没農民兵士の手紙』(岩波新書、1961年7月)の理解をめぐる論争のことであり、有名な『きけわだつみのこえ』など学徒兵が残した手記、遺書と異なる、農民出身の兵士たちの手記や遺書にあらわれた、農民兵士の実像の理解をめぐっての論争である。

一般に農民は純朴で、生産者特有の健全な平和志向を持っているとされる。事実、『戦没農民兵士の手紙』には、そういう意識の横溢した文章が多く載せられている。
一方、農民兵士にとって、軍隊とは、その厳しい初年兵教育も既に農村では疑似体験済みであって、逆に貧しい農村とは違い、三度三度飯が食える、天国のような場所であり、それがゆえに農民を軍隊に志願までせしめた、という説がある。農民兵士が軍隊につよい憧れを抱き、志願をするものもいた根本的な原因は、『戦没農民兵士の手紙』編者によれば農民の「底知れぬ生活の貧しさ」にあるとされている。

しかしながら、一律に農民兵士を論じることは危険であり、正しく捉えることにならない。軍隊という鋳型にはまった古年兵、さらには下士官といった人々は、当然ながら初年兵とは意識が異なるし、農民兵士の出身階層も自作、小作の区別がまずあり、自作でも広大な田畑をもつ村の有力者から、零細な自作農まで種々あったわけである。『戦没農民兵士の手紙』でも、戦死時准尉にまで昇進していた26歳の青年の手紙を、「つたない」農民兵士の手紙として紹介するなどの誤りをおかしている。26歳で准尉になるなど、下士候、乙幹でも相当優秀でなければありえないし、そういう兵士が無学であったはずがなく、軍隊内でも模範的な者であったことは間違いない。

現代でも、農民兵士を一律に捉え、戦前、戦中の農村が貧しかったがゆえに、彼らにとって軍隊は天国であった、安堵の地であったということをいう人がいる。しかし、そうではなかったことは、『戦没農民兵士の手紙』のなかでも、自分が出征している間、故郷の田畑での農作業を気遣い、親兄弟を心配するものが種々収録されていることが、その証拠となろう。

あるメーリングリストで小生が投稿した文章を以下に掲げる。

「森兵男です。小生も、この意見に同意できません。

小生自身は志願兵で、農民出身ではありませんが、小生のいとこで陸軍に応召して中国戦線で戦死した者の実家は農家でした。一度召集解除になり、太平洋戦争が始まってすぐに再応召した伍勤上等兵で、1942年(昭和17年)に死んで本当の伍長になったのですが、もともと軍隊には行きたくなかったようです。
志願した小生のような者も、元は普通の中学生ですので、軍隊に安堵していたわけでないのは事実で、海軍の甲飛予科練の先輩連中では、募集時に兵学校に準ずると聞いてきたのに、その待遇がスペアそのものであったため、海軍に騙されたと思った人が少なからずいました。

むやみに殴る上官や薬莢をなくして縊死した兵隊の話のほうは、よく分かりますが、農村出身がゆえに軍隊が安堵の地というのは実感として分かりません。下級の兵士は酒保で一日にタバコなどの買い物を何度かすればなくなってしまうほどの薄給でしたし、農民出身者は自分が兵隊にとられて田畑はどうなっているか、残された家族の生活はどうかなど、心配でしかたなかったと思います。」

なお、そのメーリングリストでは、何人かの軍隊経験者が「農民兵士にとって軍隊は安堵の地」というのに反対し、なかには「馬鹿にするな」というような強い論調で書いていた人もいるのに対して、その意見に賛成なのは軍隊経験のないひとばかりであった。

流山市の戦争遺跡2(陸軍航空廠柏分廠跡、近隣の寺社に残る石造物)

2008-05-24 | 流山市の戦争遺跡
1.陸軍航空廠立川支廠柏分廠

以前述べたように、千葉県柏市十余二、柏の葉から流山市駒木台にかけて、旧陸軍柏飛行場(陸軍東部第百五部隊)と隣接して陸軍航空廠立川支廠柏分廠があった。柏飛行場の土地は、戦後入植者に払い下げられ、中十余二開拓集落ができたものの、朝鮮戦争の頃、米軍通信基地となり、一部は米軍に接収、国が買収されるなどして、開拓民がつくった中十余二集落は消滅。その後、米軍基地の返還運動により、返還され、現在に至っている。

今は柏飛行場跡地は、かつての司令部跡周辺が陸上自衛隊柏送信所になっているが、その他は官庁施設や大学の敷地、柏の葉公園という大きな公園や国立がんセンター東病院、柏の葉高校、柏の葉住宅地、隣保園などとなっている。現在の住所では、航空廠の分廠があったのは、流山市域となり、今は殆どが住宅地、一部野原やグラウンドとなっていて、柏側が開発し尽くされているのと好対照である。

中国に戦線が拡大するさなかの1937年(昭和12年)6月、近衛師団経理部が新飛行場を当地(当時の東葛飾郡田中村十余二)に開設することを決定し、用地買収、建設を行って1938年(昭和13年)に当地に開設された柏飛行場は、太平洋戦争の時期も通じて、首都防衛の陸軍飛行場としての役割を果たした。兵員はおよそ600~700人の配備であり、飛行機の配備(1945年初め)としては2式戦闘機(鍾馗)約40機、3式戦闘機(飛燕)約15機で、1500mの滑走路と周辺設備、すなわち兵舎や格納庫があり、航空廠立川支廠柏分廠の工場などが隣接していた。

その柏飛行場、東部百五部隊関連の遺構であるが、豊四季に南下する道路の起点になっている営門跡(それは金具までそのまま残っている)、境界の土塁以外は、ほとんど何ものこっていないように見える。

<東部第百五部隊の営門跡>


陸軍東部第百五部隊の営門は、現在の陸上自衛隊柏送信所の前の道路が、十余二の大通りと交差する駐在所横にあり、当時の位置のまま、今も門扉を取り付けた金具が残っている。

ところで、営門を入って北側の柏市域を行くと、柏の葉公園や周辺の瀟洒な住宅地ばかりが目立って、すっかり様変わりした感じである。

一方、現在の流山市域にあった陸軍航空廠立川支廠柏分廠は、1938年(昭和13年)11月29日の竣工というから、飛行場そのものとほぼ同時期にできている。柏飛行場に配備された飛行機と飛行場に属する自動車の点検・整備のために設置されたものである。柏分廠には総務、経理、衛生、工務の四課があって、総勢150人ほどの軍人・軍属が働いていた。そこには分廠本部庁舎、をはじめ、酒保、医務室、発動機、電気、自動車の工場四棟、格納庫、飛行機射撃訓練場、衛兵所があった。
柏飛行場に配備された飛行機で、九七式戦闘機が多かったが、それらの戦闘機は「不良品」が多く、修理に追われていた。

実は、柏飛行場に付随する陸軍航空廠立川支廠柏分廠については、建物がいくつか現存している。ただし、今の行政の区分けでは流山市になる。その一つが柏分廠本部。分廠本部庁舎はあまり大きくない。木造平屋建ての日本家屋という感じである。なお、分廠本部などのある土地建物の所有者は、少しはなれた場所に住んでいるが、その所有者の了解を得て写真を撮ったので、掲示するものである。

<分廠本部庁舎(表から)>


以前は、この分廠本部庁舎の前に正門があり、八木郵便局方面から道が分岐していたが、その分岐した短い道も正門跡もすっかり変わって分からない状態である。

<分廠本部庁舎(裏から)>


分廠本部庁舎の裏には炊事場があり、かつては分廠本部の近くには酒保があった。むしろ、酒保のほうが大きく、「歴史アルバム かしわ」という柏市史編纂委員会が以前出した本では、どうも酒保を分廠本部庁舎と取り違えたようだ。
まあ、酒保は大勢の兵隊や軍属も出入りするから、それなりにスペースがないといかんが、本部庁舎は一部の事務をとるものだけがおればいいので、小さくてよかったのだろう。

<炊事場>


その分廠本部からさほど離れていない場所に部品庫とガス庫がある。これは、いわれなければ分からないような倉庫である。意外にそういう建物は残っているもので、航空教育隊のほうも給水塔のある場所の奥にレンガ造りの小さな倉庫のようなものがあるが、それも旧軍の建物だそうだ。その写真を撮ろうかと思ったが、今の所有者はその倉庫を含めた場所にある会社であろうが、あいにく小生が行ったときには断る相手もおらず、そちらは撮らなかった。

<ガス庫>


<部品庫>


分廠本部の南側の十余二に近い場所には、医務室の跡がある。これは土塁に囲まれた野原のなかで、コンクリートの残骸となっている。
近所の方に聞いたところ、その場所のすぐ北側は焼却炉とか便所があったそうだ。
また、柏分廠の南側は必ずしも現在の県道が境になっている訳でなく、現在パチンコ店となっている場所の西側辺りの県道近くの一部の箇所は民有地であったという。

<医務室跡>


これもいわれなければ、分からないようなもので、野原に残存するコンクリート片は、建物の基礎の残りであろう。土塁も一部は崩れ去っており、特に十余二側の損壊が激しい。こうした土塁は、野馬土手を再利用した部分があるそうだ。ただ、いまとなってはどこまでが、野馬土手でどこからが軍が新しく築いたものかは分からない。

<航空廠柏分廠跡に残る土塁>


なお、前述の分廠本部庁舎跡などの所有者である地主の話では、戦後軍用地が解放されて、その辺りにも入植の人たちが住み着き、軍の建物に住む人も出てきたそうだ。飛行場の格納庫は柏分廠本部などの北側にあって、一番西側の格納庫がずっと残り、のちに米軍の使用するところとなった。格納庫へ出入りするための門も作られていたそうである(なお、その格納庫は米軍が使用したのちは、とり壊され現存しない。しかし、一部基礎部分は残っているようだ)。

<格納庫跡か、コンクリートの床が残る>


また、飛行機の機銃の試射場があって、それは大きな土手(高さ7mほどもあったという)を伴なっていたが、よく子供のころその山で遊んだという。いまはその土砂が埋め立てのために運ばれて、すっかり平坦となった。

また、その試射場の近くにトロッコがあったでしょうと聞いたところ、それは記憶にないとのことであった。トロッコは戦後早い段階で跡形もなくなったようだ。トロッコは流山の江戸川台とかまで続いていたなら、物資の輸送をやったということであろう。ちょっと、どこまで続いていたか興味がある。

このように、戦争遺跡が民間の所有となり、しかも現存しているのは稀有な例である。それは地主さんが開発しようとか妙な気をおこさなかったということであるが、代替わりとかしてどうなるか不安でもある。こういうものは世間にはなかなか「文化遺産」として認められないのが実態だが、何とかしたい。


2.柏航空観測所と近隣の寺社に残る戦争関連の石造物

柏分廠に近い流山市駒木台には、柏分廠以外にも柏航空観測所があった。現在は駒木台福祉会館などとなり、遺構がなくなってしまったが、1940年(昭和15年)11月着工で、二階建ての建物には常時30人ほどの観測員がいて軍用機の発着に欠かせない気象観測を行っていた。駒木台福祉会館は、児童館が併設されており、近隣のもう一つの施設との間に築山状のものがあるが、後につくったものらしい。福祉会館の職員に聞いても軍の施設の遺構はないというし、周辺歩いてみたが、残骸も見当たらなかった。ただ八幡神社脇を通って福祉会館にいたる道筋が直線的でいかにも軍が観測所のためにつくったような道であった。

<柏航空観測所跡~遺構が残っていない、道筋は当時のままか>


柏飛行場は、柏の根戸高野台の高射砲陣地とともに、首都防衛の拠点となったのだが、終戦間際の1945年(昭和20年)頃になると、空襲に際しては滑走路も無視して四方八方から戦闘機が迎撃に飛び立って行き、そのまま帰還しない機も少なくなかったという。

この飛行場近隣の集落からも、出征し、戦死した若者たちがいた。柏分廠の西側道路沿いにある八幡神社に「顕彰碑」と刻した駒木台の戦没者慰霊碑がある。そして、ちょうどその八幡神社の裏手に柏航空観測所があった。

<駒木台の戦没者慰霊碑>


この碑には戦没者九名の戦没年月日、戦死した場所が名前とともに刻まれている。うち六名が1945年の戦死で、さらに五名はフィリピンでなくなっていることが分かる。

八幡神社の道路を挟んだ向かいにある日蓮宗の法栄寺にも、平和観音像というものが境内にあり、その台座には戦没者の法名と俗名が刻まれている。その法号は日蓮宗独特の「日」ではじまるものが多い。実は、この法栄寺は終戦近く陸海軍がロケット戦闘機秋水の開発をおこなっていた頃、陸軍が柏飛行場近くに操縦要員などを駐留させていたときの本部が置かれた場所でもある。陸軍航空本部審査部にいて、当時特兵隊隊長として秋水の操縦訓練を担当していた荒薪義次元少佐は、秋水の操縦訓練のために柏に駐留していたが、本部は法栄寺で、「そこに、木村(秀政)教授、パイロット(将校)、連絡係などがいた。木村教授は柏で機体の三角翼のことなどについて研究していた。」(『柏に残された地下壕の謎』小野英明、川畑光明)と語っていたそうだ。

<法栄寺の平和観音像の台座>


同じ日蓮宗で、豊四季方面に南下した駒木にある成顕寺には、1943年(昭和18年)に建てられた「大東亜戦争記念」と書かれた国旗掲揚台がある。これは横になにか字が書いてあったように思われたが、全面にたがねの跡があり、文字は今みえるものだけであるようだ。しかし、駒木台の平和観音と対照的である。

また、国旗掲揚台の後ろには、大きな「獻燈」と書かれた石の燈明台があるが、そこには「紀元二千六百年 八月」とある。新しく見えるが、これは紀元二千六百年を記念して建てられたものであろう。この寺は太平洋戦争中、柏飛行場に勤務する陸軍特別幹部候補生たちが分宿した場所でもある。


<成顕寺の国旗掲揚台>



<成顕寺の燈明台>


そして、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦の日を迎える。日本国民は天皇を頂点とした軍部ファシズム、戦時統制経済のくびきから解放されたが、多くの引揚者、復員軍人を迎えた国土は戦争で疲弊しており、戦後の食糧難の時期を迎える。柏飛行場跡地は、食糧難解消のための緊急開拓地の一つとして、開拓民が移住、引揚者や旧軍人などが入植、苦労してこれを農地へ転換した。

しかし、朝鮮戦争が始まると、開拓地や旧軍施設は米軍に接収され、その後紆余曲折あって返還され、今日にいたっている。


参考文献:『歴史アルバム かしわ』 柏市役所 (1984)
     「八木郵便局から見た陸軍柏飛行場の兵隊たち」相原正義
      『流山研究におどり』第6号 流山市立博物館友の会 (1987)
     『千葉県の戦争遺跡をあるく』千葉歴史教育者協議会 (2004)
     『柏に残された地下壕の謎』小野英明、川畑光明

柏陸軍飛行場ができた柏市十余二、柏の葉の変遷

2008-04-12 | 千葉県の地域情報
千葉県柏市十余二、柏の葉から流山市駒木台にかけて、旧陸軍柏飛行場(陸軍東部第百五部隊)と隣接して陸軍航空廠立川支廠柏分廠があった。柏飛行場の土地は、戦後入植者に払い下げられ、中十余二開拓集落ができたものの、朝鮮戦争の頃、米軍通信基地となり、一部は米軍に接収、国が買収されるなどして、開拓民がつくった中十余二集落は消滅。その後、米軍基地の返還運動により、返還され、現在に至っている。

今は柏飛行場跡地は、かつての司令部跡周辺が陸上自衛隊柏送信所になっているが、その他は官庁施設や大学の敷地、柏の葉公園という大きな公園や国立がんセンター東病院、柏の葉高校、柏の葉住宅地、隣保園などとなっている。

柏飛行場は、1938年(昭和13年)に当地に開設された。それは、1937年(昭和12年)6月、近衛師団経理部が新飛行場を当地(当時の東葛飾郡田中村十余二)に開設することを決定し、用地買収を行って建設されたものである。その当時、日本は1931年(昭和6年)の満州事変以降、中国大陸での戦線拡大の真只中にあり、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を契機として、日中全面戦争に突入していた。柏飛行場は、首都防衛の飛行場として、松戸、成増、調布などと共に陸軍が設置したものである。兵員はおよそ600~700人の配備であり、飛行機の配備(1945年初め)としては2式戦闘機(鍾馗)約40機、3式戦闘機(飛燕)約15機であった。

柏飛行場には、1500mの滑走路と周辺設備、すなわち兵舎や格納庫があり、航空廠立川支廠柏分廠の工場などが隣接していた。
陸軍東部第百五部隊の営門は、現在の陸上自衛隊柏送信所の前の道路が、十余二の大通りと交差する駐在所横にあり、当時の位置のままである。コンクリート製で、今も門扉を取り付けた金具が残っている。

ここは高射砲陣地とともに、首都防衛終戦間際の1945年(昭和20年)頃になると、空襲に際しては滑走路も無視して四方八方から戦闘機が迎撃に飛び立って行き、そのまま帰還しない機も少なくなかったという。

<東部第百五部隊の営門跡>


そして、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦の日を迎える。日本国民は天皇を頂点とした軍部ファシズム、戦時統制経済のくびきから解放されたが、多くの引揚者、復員軍人を迎えた国土は戦争で疲弊しており、戦後の食糧難の時期を迎える。柏飛行場跡地は、食糧難解消のための緊急開拓地の一つとして、開拓民が移住、引揚者や旧軍人など約140人が入植した。当地は地味や水利が良くなかったものの、陸稲や小麦、甘藷、落花生などが栽培され、柏飛行場跡地は徐々に農地へ転換した。

しかし、朝鮮戦争が始まると、開拓地は米軍に接収され、朝鮮戦争以降アンテナの立ち並ぶ通信基地として使用された。すなわち、柏飛行場の農地転換作業がほぼ完成した1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発するや、1952年(昭和27年)には日米合同委員会が米空軍通信基地の設置を決定、1955年(昭和30年)、「米空軍柏通信所」、トムリンソン通信基地が開拓地内に建設された。基地には200mの大アンテナをはじめ、アンテナが林立し、日本の国土でありながら朝鮮、ベトナムに駐留する米軍に対してアメリカ国防総省の命令を伝達する通信基地となったのである。
トムリンソン通信基地では、旧軍の柏飛行場を一部改変し、道路の付替えを行っている。

その後、農民の強い反対運動にもかかわらず、米軍基地は拡大、昭和38年(1963)施設拡充のための国による買収問題を契機に開拓農民に動揺が起き、結局ほとんどの開拓地は国に買収されて農民は去り、わずかな民有地を残して中十余二開拓は消滅した。
その後、国民運動におされて、日本政府も基地返還についてアメリカ政府と交渉せざるを得ず、関東での基地返還があいつぎ、柏のトムリンソン通信基地についても昭和50年(1975)に返還の動きが出てきた。そこで県と地元市町村(松戸市、野田市、柏市、流山市、我孫子市、鎌ヶ谷市、関宿町、沼南町)は、1976年(昭和51年)2月23日に「米空軍柏通信所跡地利用促進協議会」を設置して、基地の早期全面返還と跡地の公共的利用について、更に積極的な活動を進めることになった。

さらに、県議会、柏市・流山市議会においても早期返還の決議がなされ、また、地元協議会などの幅広い活動の結果、1977年(昭和52年)と、1979年(昭和54年)の二度に渡りほぼ半々ずつの面積で返還が行われ、跡地188 haの全面返還が実現した。
その際、アメリカは1977年(昭和52年)に基地の半分を返還すると通告してきたが、同時に残り半分を原子力潜水艦へ核攻撃の指令を出すための通信基地「ロランC」を新設すると通告、これは国会でも取り上げられ、大きな反対運動が起こった。結果、米軍は新たな基地建設を断念、1979年(昭和54年)の全面返還となったのである。

日本に返還された基地跡は、背丈ほどの雑草の生い茂る荒地となっていたのを、近年柏の葉キャンパスとして、国立がんセンター、科学警察研究所、財務省税関研修所、東葛テクノプラザ、東京大学といった官公庁、大学などの研究施設や柏の葉公園などとなった。。

<柏の葉>


そもそも、十余二とは明治の新地名であるが、それは下総台地にあった小金牧、下総牧を明治新政府が、東京にいた窮民、旧士族に開拓させ、彼らに授産しようとしたことに端を発し、自然環境が厳しい原野に近い場所を東京窮民や近隣の農家の次三男坊が開墾し、農地としていった苦闘の歴史の象徴である。その土地は開墾に苦闘する開拓民のものとはならず、開拓会社を実質的に支配する政商たちが大地主で、開拓民は小作農という関係が続き、明治新政府の不手際もあって、初期の東京窮民を中心とした開拓民は多くが脱落、わずかに残った初期開拓民と途中で開拓に加わった近隣農民の手で開拓は成し遂げられた。

小金牧、下総牧の開墾地には、、開墾順序に合わせて地名がつけられたが、その最初が現・鎌ヶ谷市の初富。初めて富を得る場所という意味か。以降、二和(船橋市)、三咲(船橋市)、豊四季(柏市)、五香(松戸市)、六実(松戸市)、七栄 (富里市)、八街(八街市)、九美上(香取市)、十倉(富里市)、十余一(白井市)、十余二(柏市)、十余三(成田市、多古町)と続く。

十余二は、かつての高田台牧があった場所を開墾して出来た地名である。
高田台牧は柏市十余二・高田のほか流山市の一部にまたがる。この土地が開墾され、原野が農地になる過程では、他の開墾地同様、開拓民の苦労があったわけであるが、ここには開拓民を小作農として大隈重信が広大な土地を所有した地主として君臨していた。現柏特別支援学校付近に、明治初期、大隈重信が屋敷部分だけで10,000m2を超える土地を所有していたという。

「当地は元小金原高田台牧也

明治二年より入植開拓せり初期入植者は自作農たるべき筈の処大隈及鍋島等の所有となりて八十余年昭和廿二年来の農地改革により初志貫徹すべて入植者の有に帰す」

これは、十余二のバス停近くの神社境内にある、「高田原開拓碑」の碑文である。こうして入植者の手に獲得された農地であったが、やがて軍によって買収、戦後も米軍基地となるなど、変転をたどった。近くの豊四季も軍との関係が深い土地であるが、ここもまた、開墾の苦闘の歴史をもっている。豊四季の、農業専業で生計をたてられない農民たちは木釘を売り、生活水準も近隣のもともとの農民と比べて低かった。

<豊四季駅>


実は、柏飛行場が、もとは牧の開墾地であったという証拠が今でも残っている。それは軍敷地の内外にあった土塁であるが、これは小金牧高田台牧の土塁を再利用したものである。ただ、軍が新たに築いた土塁もあり、どこからどこまでが牧の土塁か、軍オリジナルかが判然としない。

ちなみに、柏には陸軍射撃場があったが、これは中世の大室城跡を再利用したもの。それによって、大室城跡は原型をとどめぬように改変され、事実上消滅した。これは国府台城でも同様に、土塁の改変が多々有るとはいえ、遺構は残存している。大室城跡の例は、軍による文化財破壊といえるだろう。なお、陸軍射撃場は戦後ホークミサイル基地となり、ベトナム戦争当時、おおきな反対運動があった。今もミサイル基地のようであるが、自衛隊での正式名は「陸上自衛隊高射教育訓練所」である。

<航空廠柏分廠跡に残る土塁>


参考文献:『歴史アルバム かしわ』 柏市役所 (1984)
     『千葉県の戦争遺跡をあるく』千葉歴史教育者協議会 (2004)

四街道市の戦争遺跡1(ルボン山と野戦砲兵学校)

2008-04-03 | 四街道市の戦争遺跡
1.下志津原の「ルボン山」

以前、「佐倉市の戦争遺跡2」で述べたように、下志津原と呼ばれる四街道市の領域を含んだ、広大な原に陸軍野砲兵隊、戦車隊などの演習地があったことはよく知られている。その下志津原の南側の一角には、現在の四街道市役所にほど近い場所に野戦砲兵学校や「ルボン山」があり、JR四街道駅前から大日五叉路手前で西へ集合住宅地が多い地域を道成りに進んだ、現在の愛国学園の正門となっている野戦重砲兵第四連隊の営門や将校集会所の跡など、様々な戦争遺跡が四街道市の中心市街地に存在している。

もともと、下志津原は中世は広大な原野であり、近世になって佐倉に佐倉藩が配置され、幕末近くなると、その一部において大砲の試射・演習が行われるようになった。佐倉藩の砲術演習は、1841年(天保12年)、佐倉藩士兼松繁蔵が高島秋帆の江戸徳丸ヶ原での洋式砲術の調練に参加したのを嚆矢として、すでに宝暦年間(1751年~1764年)には太田村で大砲の演習が行われている。
1855年(安政2年)木村軍太郎は藩兵制改革を立案、高島秋帆の洋式砲術を佐倉藩では採用し、江川太郎左衛門、佐久間象山に学んだ木村軍太郎、手塚律蔵、西村茂樹らの指導で自前の火薬・大砲を作るなど、その技術は世をリードしていたといってよいだろう。下志津原での大砲演習は1861年(文久元年)からであり、明治初年まで大々的に行われた。そして、それは下志津新田木戸場を中心に、約20haの大規模な「火業所」となった。

明治政府は、旧佐倉藩の「火業所」に目をつけ、これを陸軍演習場にすることを決定した。1873年(明治6年)、明治新政府がフランス陸軍から指導者として招聘したのが、ジョルジュ・ルボン砲兵大尉で、ジョルジュ・ルボン砲兵大尉の指導にしたがって、射的場の拡張を行い、下志津原に陸軍砲兵射的学校を開設した。
旧幕時代、佐倉藩が「火業所」として下志津原を使い、西洋砲術の演習をしていたが、その砲撃演習の目標(「射垜」という)にされていた小山をルボン大尉が改造したのが「ルボン山」である。

<「ルボン山」と「砲兵射垜の跡」碑>


陸軍野戦砲兵学校が四街道に出来る前の明治前期、陸軍砲兵射的学校が下志津原の北方に作られ、ルボン山はそこからの砲撃の射垜(射的築堤)であった。ところが、1896年(明治29年)に新たに陸軍野戦砲兵射撃学校条例が公布され、翌年には陸軍砲兵射的学校が陸軍野戦砲兵射撃学校、と改称され、今の四街道市役所の場所に移ってきた。それはさらに、1922年(大正11年)に陸軍野戦砲兵学校と改称された。

そうすると、今まで大砲を撃っていた下志津原の北方が、逆に砲弾の着弾点となったのである。「下志津原一丁目」と称して、紅灯緑酒の巷となり、殷賑を競った砲兵射的学校の周りの料理屋など軍人相手の店も移動を余儀なくされた。同時に、今度はルボン山が射垜としての役割を終え、射撃演習の観測および警戒旗を掲げる場所となった。また現在の四街道図書館など文化センターのある場所にあった爆薬庫の土手の一角として使われた。

「ルボン山」が射垜としての役割を終えると、次第に「ルボン山」という名称も使われなくなり、「大土手山」と呼ばれることになる。

現地の案内板には
「大土手山 神社を頂いたこの丘は大土手山と呼ばれていた 
麓には昭和四十年に四街道町史蹟保存会と陸軍野戦砲兵学校遺跡保存会有志一同によって建てられた『砲兵射垜の跡』の碑があり、碑裏には次のように刻まれている。『この地は佐倉藩士大筑尚志が藩の砲術練習所として築いたものを明治十六年(一八七三)教師として招聘されたフランスのルボン砲術大尉が増築し初めて砲術を伝習した射垜の一角である射的場は南北三千米幅三百米であった 
明治十九年その北端に陸軍砲兵射的学校が創立されたが同三十年四街道に移転してより射場は急速に拡張され射垜はルボン台または大土手山と呼ばれた・・・」とある。

<「ルボン山」から見た市役所方面>

(小生の知人のYさん撮影)

2.野戦砲兵学校

前述の通り、陸軍砲兵射的学校が下志津原の北方に作られ、ルボン山はそこからの砲撃の射垜(射的築堤)であった。ところが、1896年(明治29年)に新たに陸軍野戦砲兵射撃学校条例が公布され、翌年には陸軍砲兵射的学校が陸軍野戦砲兵射撃学校、と改称され、今の四街道市役所の場所に移ってきた。国鉄四街道駅は、その移転の三年前に開設されていて、まさしく軍の都合により、荒地のなかに駅がポツンとある状態だったようだ。そして、陸軍砲兵射的学校は、さらに1922年(大正11年)に陸軍野戦砲兵学校と改称された。

当初鉄道に近い場所ということで、千葉の鉄道第一連隊付近に移転する計画であったようだが、児玉源太郎陸軍次官など、当時の軍上層部が実地調査も含めて検討した結果、四街道に移転することになった。しかし、野砲校十年記念帖で渡辺満太郎中将が「概ね現在の如き半理想の状態」と述べているように、それは当事者にとってはやや不満の残る立地であったようだ。

<四街道市街地に建つ野戦砲兵学校の碑>

(後ろの御影石の石段は1936年(昭和11年)に射的学校50周年を記念してたてられたもの、終戦時にここで「御真影」を焼いたという)

この野戦砲兵学校は、後に教導連隊となった部隊の施設を含み、30数万平米の敷地を有し、その周囲の殆どが土塁とカラタチの垣根で囲まれていた。現在の四街道市役所、その南の中央小学校、さらに南の公園、バス道路を挟んだ西側の更地(セイコー光機のあった場所)およびさらに西のイトーヨーカドー敷地に渡る広大な場所が該当し、セイコー光跡地の周辺には土塁があった痕跡がみられる。

この1896年(明治29年)に四街道に設置された陸軍野戦砲兵射撃学校の周囲には、軍設備が建設され、その南には下志津衛戍病院(のちの下志津陸軍病院)、その東の現在の四街道高校のある場所には野砲兵第十八連隊が設置された。こうして、狐や狸が出る荒野に近かった四街道は軍郷として栄えることとなった。

一方で、下志津原演習場の整備拡大に伴って移転を余儀なくされた村もある。下志津新田、今宿、小深(こぶけ)新田、宇那谷(うなや)、長沼の五つの集落がそれであり、下志津村を親村として江戸後期から明治にかけて新田開発をおこなった下志津新田や、寺や学校も有していた宇那谷集落を含む。陸上自衛隊高射学校の「下志津原」によれば、「特に下志津新田の如きは、数回の移転を余儀なくされている。即ち第一回目は、親村下志津村からほど遠からぬ今宿(現在の四街道町今宿)近傍に、新田を構成したが、明治初年頃の軍の買収により、原の中央犢橋村内域に移動した。そのあと明治三十一年第四回目の演習場拡張によって、その柵外に接続して移転した。しかしたちまち同三十三年から三十五年にかけての大拡張により、漸次南方にずるずると移動して、現在地に落ち着いたものの様である」という。軍の犠牲になって翻弄された、農民の苦労が偲ばれる。

一方、陸軍野戦砲兵射撃学校は、1922年(大正11年)に陸軍野戦砲兵学校と改称されたが、これは野戦重砲兵に関する研究教育を行う学校であり、全国に17あった「実施学校」の一つであった。そこでは野戦重砲に関する射撃戦術、着弾観測、通信や馬術にいたるまで、砲兵将校をはじめ、後年には砲兵下士官要員の教育も行われた。また同年、日露戦争時旅順攻撃にも加わった野砲兵第十八連隊が廃され、かわりに広島から野戦重砲兵第四連隊が四街道に来ることになった。こうして、陸軍野戦砲兵学校を核として、砲兵の町、四街道が形成されていった。

この陸軍野戦砲兵学校は、従来の野砲より口径が大きく、砲自体が長大で駄馬でひかせるか自走式となった野戦重砲を扱っていたが、第一次大戦の中国青島戦でドイツ軍の飛行機の実戦使用を目のあたりにした陸軍は、大阪砲兵工廠で、臨時高射砲の研究を行い、これを実用化すべく検討した結果、1922年(大正11年)には高射砲隊の戦時編成が決まり、世界並みの一一年式七・五糎野戦高射砲が制定され、野戦砲兵学校内に二個中隊の高射砲練習隊が創設された(陸軍高射学校の前身)。つまり、野戦砲兵学校は野戦重砲兵だけでなく、高射砲兵の揺籃の地でもあったのだが、高射砲連隊1925年(大正14年)に一個連隊が編成されたきりで、日中戦争さなかで防空の必要性が強く認識されだした1938年(昭和13年)頃にいたるまで、砲兵のなかでも高射砲兵は長く味噌っかすの立場に甘んじなくてはならなかった。ちょうど1938年(昭和13年)には野戦砲兵学校内に防空学校ができ、後に陸軍防空学校(後の千葉陸軍高射学校)として独立、新校舎も千葉小仲台に作られた。

<観測隊の碑>


太平洋戦争さなかの1942年(昭和17年)には、野戦砲兵学校内に生徒隊が作られた。これは15歳から17歳に受験資格があり、教育期間二年間で下士官候補の少年砲兵を養成するもので、入校後は観測班、写真音源班、自走砲班に分かれて実地教育を受けた。160名ほどの募集に対して、1943年には47倍もの受験者があったという。
 
戦局が厳しくなった1944年(昭和19年)繰上げ卒業させられ、南方へ送られた少年砲兵70名は福岡県門司港を出港、途中潜水艦の攻撃で、41名が死亡、生存者はフィリピン、台湾の部隊で転戦したが、日本に帰ったのはわずか8名のみであった。

<少年砲兵の碑>


3.千代田宮跡

砲兵学校のなかに、明治天皇を祀った千代田宮があったが、現在は中央公園に「奉納」の字だけ認識できる石碑がある。殆ど注目されないような場所に放置されており、なにやら字を削った跡もある。



参考文献:
陸上自衛隊高射学校「下志津原」(1976)
『千葉県の戦争遺跡をあるく』 千葉歴史教育協議会 (2004)
協力:「愛国の花」花ちゃんブログ作者

習志野市の戦争遺跡3(津田沼駅周辺の戦争遺跡)

2008-04-02 | 習志野市の戦争遺跡
1.津田沼鉄道連隊

鉄道第二連隊は、津田沼鉄道連隊といわれるほど、津田沼と縁が深い。しかし、現在の千葉工大が、かつて陸軍鉄道連隊のおかれた場所であったことを知る人は、今では少なくなっているかもしれない。

1907年(明治40年)に従来の鉄道大隊が鉄道連隊に昇格、津田沼に兵営を一旦移した後、1908年(明治41年)に千葉に鉄道連隊司令部、第一大隊、第二大隊が移転、津田沼には鉄道第三大隊が置かれた。1918年(大正7年)に津田沼の鉄道第三大隊が、陸軍鉄道第ニ連隊に発展的に改組された。

<鉄道第二連隊の臨時検閲>


鉄道第二連隊が出来た当初の臨時検閲。近衛師団長久邇宮邦彦王が立会い(中列右から3人目、頭上に印のある人物)。

その鉄道第二連隊が出来た当初について、新聞は以下のように書いている。

「大正7年8月4日(日)東京日日(房総版)

連隊と津田沼 町民は軍隊に冷淡

千葉鉄道連隊が8月1日から拡張されて津田沼に1個連隊を置き、千葉を第一連隊、 津田沼を第二連隊とし、旅団に編成された処で、津田沼町は急に連隊附将校の居を構うる者が激増した。一体、同町附近には騎兵も4個連隊居るので、何分狭い街の事とて貸家が無く、該将校等は船橋や市川或は態々東京方面から通って来る始末で、同地には空地も多く、且つ相当財産を有する者も尠くないに拘らず、町民は一向平気で、軍隊など見向きもせぬと云った調子だが、恁麼事では同町将来の発展上遺憾である。殊に大工其他の職工が多数入り込んで居るにも拘らず、之に供給すべき物資に乏しき為め、職工連は非常な不便を感じて居れりと。」

しかし、津田沼の町の発展には、鉄道第二連隊の存在が大きかった。

1928年(昭和3年)に松井天山が描いた「津田沼町鳥瞰図」(成田山仏教図書館蔵)には、鉄道第二連隊の配置が細かく描かれている。それは国鉄津田沼駅の南北にあり、北は材料廠の倉庫群、南には連隊本部と兵舎や作業場、火薬庫が描かれている。

なお、「津田沼町鳥瞰図」にある商店街は津田沼駅の北側、その殆どが今の船橋市域にあり、これらが鉄道第二連隊に大きく依拠していたことは想像に難くない。果物の堀越商店や戦後料理屋をしていた「かし熊」、洋食の松栄軒、酒屋であった渡辺商店など、戦後も地元の人間になじみのあった店の名前が書かれている。おそらく連隊の兵隊たちも、外出時にはこういう店で買い物をしたり、外食することを楽しみにしていただろう。

現在の新津田沼駅とイトーヨーカドー、ジャスコのある場所には材料廠の倉庫が並び、連隊の主要な建物は千葉工大の敷地になっているのがよく分かる。なお、千葉工大の前の正門(現在は通用門)は、鉄道第二連隊の隊門であり、現存している。隊門と総武線の線路を挟んだ商業地域との間には、踏み切りがあり、現在ある歩道橋はもちろん存在しない。鉄道第二連隊の兵舎は戦後かなり長い期間残っていたが、千葉工大の新校舎建設に伴ってなくなった。

その他、総武線の上を通る跨線橋の土台は、かつての鉄道連隊演習線当時のものが残っているという。

<津田沼町鳥瞰図の一部>


現在のJR津田沼駅附近。赤字は筆者が追記したもの。

戦後、その津田沼の地にできた千葉工大は、東邦大学などと同様にその兵舎を校舎などとして利用したのである。

前述したように、かつては、その兵舎を利用した校舎もあったのだが、10年以上前に立て替えられ、現在は見ることができない。今なお残るのは、レンガ造りの隊門のみである。その隊門は、1998年(平成10年)に国の登録有形文化財の指定をうけた。

この鉄道第二連隊の歴史を振り返ると、

1918年(大正7年) 鉄道連隊第三大隊が改組、鉄道第二連隊となる。

1923年(大正12年)関東大震災で関東戒厳令司令官の指揮下にて、鉄道復旧作業に出動。

1928年(昭和3年)、中華民国山東省済南で出兵した日本軍と蒋介石軍が武力衝突した済南事件に派兵。

1937年(昭和12年)華北で鉄道の運営、徐州作戦に参加。なお、この頃から京漢線、津浦線、石太線、朧海線の占領、開拓、運営にあたった。

1940年(昭和15年)、旧満州・華北を転戦した後、主力は1945年(昭和20年)4月、九州に移転、終戦を迎える。

なお、1940年(昭和15年)の平時編成表で第一連隊が連隊長(大佐)のもと、連隊本部、三個大隊、三個中隊、材料廠で編成されていたのに対し、津田沼の第二連隊では、他に練習部、幹部候補生隊、下士官候補生隊が付設されており、留守部隊には練成部隊としての位置づけもあったようである。

かつての鉄道連隊の材料廠の主力は千葉の鉄道第一連隊となったが、津田沼の第二連隊でも材料廠の倉庫は現在の新津田沼駅周辺、イトーヨカドーやジャスコのある広い場所に建っていた。

2.鉄道第ニ連隊の演習線廃線跡

前述のように鉄道第三大隊を津田沼に移転させた軍は、占領地への軍用物資補給を円滑にするための手段として、演習線を作り、それで要員訓練することを考えた。演習線は、津田沼~松戸、津田沼~三山新田~犢橋~千葉のニ区間とし、総延長45Kmで、敷設、撤去、修理の訓練も行われた。それは、千葉に鉄道第一連隊、津田沼に鉄道第二連隊と連隊が地区ごとに独立してからも同様であった。そして、ここで教育を受けた兵たちは、樺太の鉄道敷設、日中戦争などへの出動に駆り出されたのである。

津田沼~松戸の演習線は、戦後京成が払下げをうけて、新京成電鉄とした営業運転をするようになったが、津田沼~千葉の演習線については廃線となった。

その一部の演習線の廃線跡は、現在ハミングロードとして市民の遊歩道ともなっている。これは京成大久保駅近くのスーパーマルエツ前の歩道が該当する。今では、地域の人の生活道路となっているが、れっきとした軍用の演習線である。これは、津田沼から総武線を離れて大久保方面へ大きく湾曲しながら続き、京成大久保駅の前を通って、八千代方面へつながっている。

遺構としては、多くはないが、境界標石が残っており、鷺沼台の畑のなかやスーパー店舗前にいくつか現存する。いずれも白御影石製の「陸軍用地」と刻まれたものである。

<京成大久保駅近くの鉄道連隊演習線跡>


<ハミングロード脇の畑の中にあった陸軍境界標石>


<陸軍境界標石に近づいてみたところ>


<駅前のスーパー店頭にも境界標石が残る>


3.新京成新津田沼駅および周辺に残る遺構

現在の新京成線は、鉄道連隊の軍用線のうち、津田沼~松戸間の路線を戦後京成電鉄が獲得し、演習用にその余りに湾曲していた部分はショートカットするなどして営業運転させたものである。現在のイトーヨーカドーに隣接した新京成電鉄新津田沼駅付近は、かつて鉄道連隊の倉庫や資材置場があった。また戦後の一時期、千葉工業高校があった場所でもある。

現在の新京成線新津田沼駅といっても、三代目くらいの駅で、今はない藤崎台駅が新津田沼駅という名前だったこともあり、また西友裏の、かつて八坂神社があった場所の近くに、新津田沼駅があったこともある。

今の新津田沼駅の前の新津田沼駅があった、現在の西友の東の線路脇の駐車場のなかや、その近くの線路沿いにも、陸軍境界標石がある。

新津田沼駅と京成津田沼駅の間にある総武線を越える、新京成電鉄の鉄橋(跨線橋)は、前出の松井天山の「津田沼町鳥瞰図」にも描かれているが、その基礎部分には鉄道連隊時代の煉瓦の基礎が使われている。ただし、外からは確認できなくなっているので分かりにくい。

<鉄道連隊時代の基礎が残った跨線橋>


なお、現在新津田沼駅の南側、総武線の線路沿いに上述の八坂神社がある。これは元は船橋市域にあったため、純粋な習志野市の戦争遺跡とはいえないが、その境内に「皇紀二千六百年紀念」と書かれた国旗掲揚台がある。

<八坂神社の国旗掲揚台>


現在は、津田沼の商店街と遠くなってしまったが、八坂神社はかつては商店街のなかにあって、お参りする人も多かった。おそらく鉄道連隊の兵士たちも外出時には船橋市域に広がった津田沼商店街で洋食を食べ、買い物を楽しんだであろうが、商店街近くの八坂神社にもお参りした兵士も多かったであろう。

(付記:以前の習志野一中にあった防空壕について)

現在の千葉工大の西、前のサンペデック、現・モリシア津田沼がある場所には、習志野第一中学校がありました。昭和30年代終り頃には、その校庭の一角に防空壕があったのですが、現在は習志野一中自体、別の場所に移転し、防空壕も残っていません。小生の知人によれば、それは土を掘っただけの簡単なもので、「危険なので防空壕に入るな」という立て札が傍にあったそうです。

場所からみて、鉄道第二連隊関連のものと思われますが、それ以上の情報がないのです。当時の習志野第一中学校関係者の方、どなたかご存知の方、コメント等でご連絡をお願いします。 

参考文献:『千葉県の戦争遺跡をあるく』 千葉県歴史教育者協議会 (2004)

       『千葉県の歴史』 山川出版社 (2000)

      『歴史読本 日本陸軍機械化部隊総覧』 新人物往来社 (1991)ほか




柏市の戦争遺跡5(東部百二部隊:第四航空教育隊、毒ガス事案)

2008-03-31 | 柏市の戦争遺跡
1.東部第百二部隊:第四航空教育隊

柏陸軍飛行場跡の南側の金属工業団地のある辺りには、陸軍東部第百二部隊、すなわち陸軍第四航空教育隊があった。南北600m、東西400mほどの長方形の区画のなかに、部隊本部、兵舎、格納庫などがあった。それは東部第百五部隊、柏飛行場の門跡から南下し、豊四季駅にいたる県道279号線、豊四季停車場高田原線の駒木交差点附近が、東部第百二部隊入口であり、そこを東に折れてしばらくいったところ、現在の梅林第三公園の手前に営門があった。
現在のつくばエクスプレスがすぐ近くを通る柏浄水センターの北側から、南は十余二の光風園、高田車庫入口のバス停の辺りまでが、東部百二部隊が駐屯していた場所である。

<東部百二部隊略図~梅林第四公園の案内図の写真に追記>


1938年(昭和13年)に当地に開設された陸軍東部第百五部隊の飛行場、すなわち柏飛行場は、1937年(昭和12年)6月、近衛師団経理部が新飛行場を当地(当時の東葛飾郡田中村十余二)に開設することを決定し、用地買収を行って建設されたものである。その当時、日本は1931年(昭和6年)の満州事変以降、日中の戦線拡大の真只中にあり、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を契機として、日中全面戦争に突入していた。柏飛行場は、首都防衛の飛行場として、松戸、成増、調布などと共に陸軍が設置したものである。

その柏飛行場開設から遅れること約2年、1940年(昭和15年)2月に高田、十余二にまたがる上記地域に、第四航空教育隊(東部百二部隊)は移駐した。この部隊は、1938年(昭和13年)7月立川で開設されたものである。その兵員は3,500名から4,000名、終戦当時は7,000名以上といわれる。

陸軍航空教育隊とは、文字通り陸軍の航空兵を教育、養成する部隊である。1937年(昭和12年)7月「支那駐屯軍」による北京郊外での通告なしの夜間演習時、中国軍から発砲があったとして、日本軍が中国軍を攻撃した盧溝橋事件に端を発する日中戦争開戦以降、航空兵の減耗率が高くなったことに危機感を覚えた陸軍は、航空兵の養成のために各地に航空教育隊を開設していった。

航空教育隊に入隊すると、初年兵教育としての基礎訓練3ヶ月、各部門(機関・武装・通信・写真・自動車など)に分かれた特業教育3ヶ月、都合半年の訓練ののち、実施部隊に配属される。

いわゆる特幹(特別幹部候補生)の教育をする航空教育隊もあった。特幹とは、海軍でいえば予科練に相当する。いや、海軍では飛行科、整備科に限られていたから、陸軍の特幹のほうが幅広い兵科、兵種を対象とした。それは海軍の予科練に対抗するものとして、短期間の軍隊教育で即戦力として活用できる中等学校生徒(十五才から二十才)を登用し、不足している航空、船舶、通信等、軍の中堅幹部である現役下士官要員のため作られた陸軍特別幹部候補生をいう。

柏の第四航空教育隊(東部百二部隊)も、特幹の訓練を行った。彼らは、厳しい訓練に耐えて、陸軍航空兵の不足を補った。

<近隣の公園に残る東部百二部隊の営門>


この東部百二部隊の遺構といえば、まず営門があげられよう。これは前述のように、梅林第三公園近くにあったのだが、現在は柏までのバス通りに面した梅林第四公園に移設されている。門柱は、赤味がかった砂岩質の石で出来ているが、その赤い色から地元の人は「赤門」と呼んでいる。かつて、本来の場所にあったときは、門を入ると左手に衛兵所と部隊本部、兵舎が建ち並び、右手には面会所があった。営門は豊四季と柏飛行場営門を結ぶ県道豊四季停車場高田原線の側に開いていて、兵員の出入り口は主にそちら側であった。現在のように柏の葉公園から柏駅を結ぶバス通りはなく、部隊の東側は林であった。

今もかつての営門のあった場所を示すように、「百二(以下不明)」と書かれた陸軍境界標石が民家の塀の基礎に寄り添うようにあるが、その家の人もそれが旧陸軍のものであることを知らないようであった。

<「百二」と書かれた陸軍境界標石>


陸軍境界標石といえば、流山市域になるが、県道豊四季停車場高田原線の東部百二部隊入口附近に「陸軍」と書かれた境界標石がある。それも、この部隊関連であろう。

<県道沿いにある「陸軍」と書かれた陸軍境界標石>


面白いことに、給水塔が現在も防火用水としてか、柏浄水場の北側工場脇に残存している。梅林第四公園にあった案内図をみると、現在の場所ではなく、もっと南側の部隊の中心からみれば西側にあったはずだが、戦後移設したものであろうか。かつて給水塔があった場所は、本部の建物の北側、炊事場のすぐ東隣に位置し、炊事場の西側には兵舎があった。

柏飛行場の東部百五部隊にも、現在の柏送信所の西南に給水塔があったが、その近隣にあった兵舎とともに現存しない。

<給水塔>


2.東部第百二部隊をめぐる毒ガス事案

環境省のHPには、平成17年度第六回の「国内における毒ガス弾等に関する総合調査検討会」で、「追加的な情報収集が必要とされたB/C事案及び平成16年度新規事案と平成17年度新規事案の評価について」として、この東部第百二部隊:第四航空教育隊において、終戦直後に毒ガスが埋められたらしいとの元兵士の証言をもとにした簡単な調査結果を載せている。

それによると、

終戦を柏付近で迎えた元第4航空教育隊員は、昭和20年8月16日朝起床すると、「自分たちのバラックの兵舎から20mくらい離れた松林の中に広さ20~30坪程で、深さ約3mの大きな穴が掘られており、兵士たちが集まっていた。
穴の周囲には掘削した際に出る土が盛られていなかったので、何かを埋めるために掘られた穴なのだろうと思った。自分たちの部隊にはこの穴を掘った者はいなかったので、どこかよその部隊が掘ったのではないか」、「そうこうするうちに兵士たちの間で、この穴は毒ガスを埋めるために掘られたのだろう、国際法違反の問題をまず消すのだろう等という噂が誰ともなくまことしやかに広まった。そのとき、ある兵士から、糜爛性ガスのイペリットは缶に入っており、そのガスに触れると手も足も腐ってしまうという話を聞いた。自分は毒ガスを見たことはないが、このとき聞いた「イペリット」という名はなぜか記憶に残った。自分が穴を見たのはこれが最初で最後である」と証言している

とのことである。

これは伝聞情報であり、確たる証拠はないのであるが、なにせ毒ガスは毒ガス戦の訓練が行われた習志野原だけでなく、全然関係ないはずの銚子の海からも多数発見され、1951年(昭和26年)の銚子の事案では尊い人命が失われた。この場合は、一見すると可能性は低いと思われる。ただし、航空教育隊は毒ガスを使用する部隊ではない、隠すなら教育中の兵士が多い部隊より、別の実施部隊にするだろうと一般には推認されるものの、逆に盲点をついているかもしれない(例えば銚子の海に投棄したのと同様、一見関係ない教育隊の営内に捨てた、など)。つまり、まったくありえない話としてしまうのも早計であろう。

環境省のHPによれば、

(2)第4航空教育隊の毒ガス関連施設に係る情報
・「東部第102部隊(航空教育隊)関係」の兵営略図には、「ガス室」の位置が示されている〔5〕。
(3)柏市内の毒ガス関連施設に係る情報
・「東部第14部隊(工兵)関係・東部83部隊(歩兵)関係」の略図中に、「ガス講堂」の位置が示されている〔5〕。また、兵舎位置図には、「毒ガス室」の位置が示されている〔4〕。
・「東部105部隊・立川航空廠柏分廠」の兵営配置図に「ガス庫」の位置が示されている〔5〕。

と、柏にあった部隊のガス室の存在を指摘している。

文中、〔4〕とか〔5〕とあるのは、引用文献の注であり、
・『歴史アルバム かしわ』〔4〕
・『平和への願い(増補版)』〔5〕と対応づけられるが、小生も持っている『歴史アルバム かしわ』を見てみると、確かに高射砲連隊がいた高野台に、高射砲の後にはいった東部十四部隊、東部八十三部隊の部隊配置図に毒ガス室の記載がある。

<高射砲連隊移転後にはいった東部十四部隊、東部八十三部隊の部隊配置図>

『歴史アルバム かしわ』(柏市役所)より引用

それは根戸消防署分署として残っている馬糧庫の西、機関銃中隊のさらに西である。あるいは、後の追及を恐れた日本軍が、柏周辺に分散していた毒ガスをまとめて、柏航空教育隊の一角に遺棄したものかもしれない。今後の調査研究が待たれる。

なお、東部百二部隊を調べているうちに、東部百五部隊の残存遺構、陸軍航空廠立川支廠柏分廠の遺構もいろいろ見聞した。それは主に、流山市域に属するものなので、ここでは述べず、別途頁をおこすこととしたい。

参考文献:
『歴史アルバム かしわ』 柏市役所 (1984)

佐倉市の戦争遺跡4(佐倉市街地の戦争遺跡、佐倉空襲「殉難の碑」)

2008-03-04 | 佐倉市の戦争遺跡
1.麻賀多神社に残る慰霊碑など

佐倉には、佐倉城跡を兵営とした通称「佐倉連隊」の遺構があり、また佐倉市街地にも、その関連遺構や西南の役、日清、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争の戦没者の慰霊碑などがある。
佐倉城は戦国時代に千葉氏一族の鹿島氏が築いた鹿島山城があって、それを改修し居城としようとした千葉邦胤によって、佐倉城の原形がつくられたが、城の完成を待たずに邦胤自身が家臣の一鍬田万五郎によって暗殺され、未完となった。それを完成させたのは江戸時代に入部した土井利勝で、1610年(慶長15年)に普請を始めて現在の形に完成させた。その後、城の主は石川氏、松平氏、堀田氏とかわり、老中堀田正盛が佐倉堀田家の初代。しかし、正盛の徳川家光殉死後跡を継いだ正信の代に、佐倉惣五郎事件が起きる。また堀田正信自身、江戸から無断帰城したとがにより、所領没収の憂き目を見た。その後、歴代の佐倉城の主は様々な大名がかわったが、堀田正盛三男、古河の堀田正俊(大老をつとめた)の四男正武の長男堀田正亮は、1746年(延享3年)山形から十万石で佐倉に転封、のちに一万石を加増、その後六代にわたり、佐倉藩主であった。その五代目にあたる、堀田正睦は蘭学を奨励し、佐藤泰然を招聘して順天堂を開かせるなど、佐倉に蘭学を開花させた。

佐倉藩は蘭学ともに、「西洋砲術」と呼ばれた高嶋秋帆の近代的な砲術を取り入れた。1841年(天保12年)、佐倉藩士兼松繁蔵が高島秋帆の江戸徳丸ヶ原での洋式砲術の調練に参加したが、1855年(安政2年)木村軍太郎は藩兵制改革を立案、高島秋帆の洋式砲術を佐倉藩では採用した。江川太郎左衛門、佐久間象山に学んだ木村軍太郎、手塚律蔵、西村茂樹らの指導で自前の火薬・大砲を作ったりした。

佐倉が城下町であることは、市街地に武家屋敷があったり、藩校をルーツとする県立高校があるだけでなく、佐倉の市街を歩いてみると気付くように、様々な場所に藩主堀田氏ゆかりの寺社、石造物があることで実感できる。
たとえば、市街地中心にある麻賀多神社には、旧佐倉藩領出身の西南の役からの戦没者などの慰霊碑、記念碑が三基ある。そのひとつは、旧佐倉藩領出身者などの日露戦争戦没者約200名の名前を記した「忠勇の碑」で、撰文と「忠勇」の篆額は一般的な軍人によるものではなく、最後の佐倉藩主堀田正倫による。この碑は、日露戦争後の1906年(明治39年)に建立されたものである。

<麻賀多神社の記念碑(中央が「忠勇の碑」)>


「忠勇の碑」の向かって左側、社殿に近いほうの碑は、「義烈の碑」で日露戦争より前の戦没者17名の名前がある。この碑は、1913年(大正2年)、旧藩士の郷友会が日露戦争前の戦没者の記念碑がないことを遺憾として建立したもので、堀田正恒(正倫の子)が撰文し、「義烈」の篆額も正恒による。
特徴的なのは、戊辰戦争で賊軍とされた幕府方についた佐倉藩士の戦没者の碑もあり、「忠勇」「義烈」の碑と並んで「両氏記念之碑」という小ぶりな碑として建てられていること。その両氏とは、佐倉藩士小柴宣雄の長男で戊辰戦争で幕府方につき、後に自刃した小柴小次郎と、もうひとりの佐倉藩脱藩者木村隆吉であり、彼らの名誉回復の意味を込めて当初郷友会が「義烈の碑」のなかに彼らの名を加えようとしたが、かなわず。やむを得ずして、別の小さな碑として、元は奥まった社殿の横に建てたのである。

これは勤皇を掲げ、過激な行動をとった水戸天狗党の鎮圧を行った水戸藩ほか諸藩の戦没者が靖国神社に祀られず、逆に勤皇を掲げた天狗党の戦死者が祀られるという矛盾に対して、佐倉郷党は等しく祀られるべしという考え方で、天皇を頂点とする靖国の画一的な思想とは反するもので、佐倉郷党に敬意を表したい。

<両氏記念之碑」


麻賀多神社を出て、西側に進むと、道の左側に古びた木造平屋建ての建物があるが、これは済生堂病院跡である。済生堂病院は佐倉藩出身の軍医で後に国会議員になった、浜野昇が開設したものである。浜野昇は佐倉藩堀田家に代々仕える医師の子として生まれたが、順天堂を開いた佐藤尚中に師事して医学を学び、東京医学校(現在の東京大学医学部)を卒業。1877年(明治10年)には陸軍軍医として西南戦争に従軍。この西南の役では、浜野など佐倉順天堂関係者が軍医団の統率と現地での治療に大きな役割を果たした。1883年(明治16年)には招かれて鹿児島県立医学校の校長に就任、さらに1890年(明治23年)には衆議院議員となる。浜野昇は医師出身の国会議員として、第一期帝国議会にコッホ肺病療法(結核予防法の前身)を通過せしめ、北里柴三郎と共に日本医師会および結核予防会の設立に貢献した。

<済生堂病院跡>


その済生堂病院跡の西隣は佐倉市立体育館があるが、その体育館前に銅像がある。これは西村勝三で、佐倉藩堀田家から支藩である佐野藩堀田家附家老として佐野に赴いた西村芳郁を父とし、佐野藩士であった。しかし、1856年(安政3年)に脱藩し、その後武士も捨てて、佐野の豪商正田利右衛門と横浜に出て貿易に従事した。
1869年(明治2年)西村勝三は大村益次郎から製靴をすすめられ、弟の綾部平輔と製革製靴事業創始を決意して断髪した。断髪令に先立つこと2年であり、この決意に感動して、高見順は「日本の靴」を著したという。
兄西村茂樹の援助もあって、西村勝三は1870年3月15日(靴の記念日)に東京に「伊勢勝製靴場」、佐倉に「相済社」を創設し、日本で最初の靴製造に取り組んだ。「伊勢勝製靴場」は、その後「桜組」と改称、更に大同合併して皮革は「日本皮革株式会社」、靴は「日本製靴株式会社」となった。
西村勝三は、溶鉱炉の耐火煉瓦などを製造する「品川白煉瓦株式会社」の創業者でもある。佐倉にある銅像周辺の煉瓦は、特に寄贈された同社製の耐火煉瓦である。
相済社の創設は明治維新後の佐倉藩士への士族授産という意味合いもあったが、日清・日露の両戦役を経て、軍靴の需要はおおいに高まった。意外に知られていないが、靴の製造も立派な軍需産業である。また、日露戦争時、相済社の一部は捕虜収容所になった。

<相済社跡>


2.陸軍墓地と顕彰碑

現在の佐倉市役所北側3千坪の広大な土地のうち、三分の一はかつての陸軍墓地であった。陸軍埋葬規則にしたがって、約1mの高さに揃えられた個人墓が100基ほど整然とならび、墓地の北東隅には日清戦争当時、日本軍に協力して戦病死した三名の中国人の墓や1945年(昭和20年)に酒々井に墜落した米軍パイロットの墓もあったという。陸軍墓地はいったん掘り起こされ、忠霊堂として遺骨が一括保管されていたが、1971年(昭和46年)市役所建設に伴い撤去され、かわって忠霊塔が建設された。その右側には、「顕彰碑」と大書した黒い一枚岩の碑がある。

<旧陸軍墓地>


顕彰碑は印旛地区傷痍軍人会が日清戦争以来の戦没者60余名の慰霊のために、1961年(昭和36年)に建てたものである。戦没者名が碑の裏面に刻まれているが、地区と氏名のみで、一般的な慰霊碑とは異なり、部隊名や軍隊の階級の記載がない。

<傷痍軍人会の顕彰碑>


3.海隣寺の顕彰碑など

佐倉市役所に隣接した場所に、海隣寺がある。海隣寺は千葉氏ゆかりの古刹であり、室町時代、享徳の乱に際して足利成氏に味方する千葉氏一族の馬加康胤が、足利成り氏に対立する上杉氏を支持する千葉宗家を倒し、以降馬加系が千葉氏を継いだ後、馬加(幕張)にあった同寺を移したもの。
この海隣寺参道左側に「故陸軍少尉試補鈴木賢君之碑」がある。鈴木賢は、佐倉出身で陸軍士官学校に入り、西南の役開戦時に試補に抜擢され、西郷隆盛軍と戦った。しかし、臼杵郡三河口で負傷、その傷がもとで1877年(明治10年)8月になくなった。7年後、海隣寺に遺族が改装するとともに、顕彰碑を建立。古い将校の顕彰碑であるため掲載したが、佐倉にはこれに類した個人の顕彰碑、慰霊碑がたくさんある。

なお、海隣寺自体に日清戦争当時、捕虜収容所が置かれた。その他、市街地には妙隆寺、勝寿寺に日露戦争時の捕虜収容所、教安寺には捕虜収容所事務所が置かれていた。

<西南の役戦没者「故陸軍少尉試補鈴木賢君之碑」>


4.うるし坂

佐倉は坂が多い城下町で、このうるし坂は江戸時代からよく知られた坂である。「古今佐倉真佐子」という江戸中期に当時の佐倉藩稲葉正知家家臣渡辺善右衛門が書いた地元紹介の書物にも出てくる。この坂を使って、根郷村、日清戦争直前に開通した総武鉄道佐倉駅から佐倉連隊への人や物資の輸送が行われた。なお、うるし坂は現在JR佐倉駅方面と佐倉市街地の宮小路町、新町、並木町付近を結ぶバス通りも坂であるが、それではなく、そのバス通りから眼下に見える旧道の坂である。

<うるし坂>


5.佐倉空襲と「殉難の碑」

佐倉で空襲警報が発令せられたのは1943年(昭和18年)4月が始まりで、以来本格的な空襲が始まる1945年2月ごろから終戦まで激化したいった。当時は連日、グアム、サイパン、テニアンよりB29が飛来して京浜地区を爆撃、佐倉上空を通って九十九里に抜けるのがコースとなっていた。京浜の帰りに、残った爆弾や焼夷弾を落とすため、千葉県各地にも被害が出た。さらに硫黄島からはP51ムスタング、空母から発進するブォトシコルF4Uコルセア、グラマンF4Fワイルドキャット、グラマンF6Fヘルキャットなどの戦闘機が佐倉機関区やその他の鉄道施設を狙って連日、機銃掃射やロケット弾攻撃を繰り返した。

戦争末期の1945年7月18日に佐倉機関区で、悲惨な空襲被害があった。被害にあったのは、当時の国鉄職員である。
現在のJR線路を跨ぐ県道印西線の陸橋は、当時は線路脇の小山であり、その小山に浅間神社が祀られていた。その小山の北側には弁天社があり、傍らに大きな杉の木があった。また小山の山裾の東側に、半地下式の防空壕が掘られていた。その日、空襲警報発令とともに、一台の機関車が線路脇の小山のかげに避難してきた。その浅間神社のある小山からは四街道、印西、八街の各飛行場への米軍機の急降下爆撃の様子などが見えたため、その日も小山に三名がのぼって見物していた。また弁天社の大杉を盾にして一名、防空壕に国鉄検車区員と退避してきた機関車の乗務員の十四名がいた。

九十九里の空母から発進したグラマンF6Fヘルキャット数機が南方から佐倉駅を目指して侵攻してきたのに対し、たまたま無蓋貨車に積んだ高射機関銃二台あり、それで迎撃、数発対空射撃をした。グラマンはすぐに急旋回、機銃掃射とロケット弾で機関銃二台とも破壊した。同時にグラマン二機は浅間神社下の機関車を狙って、機銃掃射とともに二発ロケット弾を撃ち込んだ。機関車は機銃で穴だらけになったが、ロケット弾は外れて、運悪く防空壕を直撃した。

浅間神社の小山にのぼっていた三名は銃撃をまともにうけ、浅間神社の縁の下に逃げ込んで助かった。弁天社の大杉の陰に隠れた一名は杉の木をぐるぐるっと廻って逃げたが、遂に銃撃をうけてなくなった。防空壕に逃げた十四名のうち、女性職員一名が奇跡的にほぼ無傷で助かったが、その他十三名は爆死した。その爆死した人の体はバラバラになり、陸軍衛戍病院の看護婦たちがその体を縫合した。

2007年8月20日の朝日新聞千葉版に、これに関する記事が載った。

「JR佐倉駅から数百メートルの線路沿い。陸橋の脇に「殉難之碑」と書かれた小さな慰霊碑が、忘れられたように立つ。
 『機関助士見習』
 『検車掛』
 裏には犠牲になった14人の名前と肩書、16歳から55歳までの享年が刻まれている。
 悲劇は、敗戦間際の45年7月18日に起きた。
 国立歴史民俗博物館友の会がまとめた『佐倉の軍隊』によると、数機の戦闘機が県内最大の操車場があった国鉄佐倉駅を襲撃した。駅職員が逃げ込んだ防空壕(ごう)をロケット弾が直撃し、14人が即死した。物資輸送の拠点として狙われたのだった。
 『この話をするとついこの間のような気がするけれど、62年、確かにたっている。じいさんになって、孫もいる』

 四街道市に住む鈴木国雄さん(69)は当時のことを今でも鮮明に思い出す。

 梅雨が明けたころだった。快晴。蒸し暑かったのを覚えている。
 当時7歳。今で言えば小学校2年生だった。学校から帰り、佐倉駅前の商店街で両親が営んでいた瀬戸物店兼自宅にいた。『ゴォーッ』という戦闘機の音。家の中でタンスの隅に身を寄せた。防空壕に身を隠す間も無かった。
 戦闘機が飛び去ると、表から大人たちの怒号が聞こえてきた。
 『防空壕がやられた』
 『早くしろ』
 狙われたのは、家から400メートルほど離れた、線路沿いの防空壕だった。大人たちと一緒に、鈴木さんも走った。『跡形もなかった。ひっちゃかめっちゃかだった』
 がれきと一緒に、ちぎれた腕や足が落ちているのを見た。気が動転していたのか、恐ろしさはなかった。

62年後の8月15日、鈴木さんは殉難之碑の前にいた。強い日差しが照りつけ、セミの鳴き声が響く。
 あの頃と景色は変わった。田んぼだったところに家が建ち、神社があった小山は県道の陸橋に姿を変えていた。
 だが、確かに62年前、ここで14人が亡くなったのを見た。腕が落ち、担架でむしろをかけられて運ばれ、トラックの荷台に載せられる人の姿が目に焼き付いている。鈴木さんはぽつりと言った。

 『こうやってあの時のことを話しているけれど、亡くなってしまった人たちは何も話すことができないんですよ』」

1977年(昭和52年)国鉄職員有志が、防空壕のあった場所に「殉難の碑」を建立した。その碑の裏側にはなくなった十四名の名前と年齢、国鉄の所属が刻まれている。

<「殉難の碑」>


すでに防空壕跡は埋められて痕跡がなく、浅間神社のあった小山も県道の陸橋に姿を変えた。「浅間前」の地名はあるが、浅間神社自体は移されたものか、その場所にはない。

<浅間神社があった場所からJR線を望む>


参考文献:
『佐倉の軍隊 国立歴史民俗博物館 友の会「軍隊と地域」学習会の記録』 財団法人歴史民俗博物館振興会 (2005年)