千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
(無断転載を禁じます)

「千葉県の戦争遺跡」HPに木更津海軍航空隊などを追加

2010-06-04 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡



「千葉県の戦争遺跡」HP http://www.shimousa.net に、懸案の木更津海軍航空隊を追加した。また、第二海軍航空廠も同様に追加した。かなり、長い時間がかかったが、やむを得ない。

木更津航空隊は、巨大な飛行場を有し、負の歴史であるが、日中戦争時に渡洋爆撃(南京、重慶など)を行った。その当時の九六式陸上攻撃機(中攻)は、陸上攻撃機の花形であり、一式陸攻が出るまでは陸攻の主力であった。木更津は、鹿屋とともにその中攻の拠点であった。





今後は、房総のもう一つの海軍のメッカである、館山空をめざして行きたいと思っている。

千葉県の戦争遺跡は、現在木更津海軍航空隊、第二海軍航空廠について、「房総の海軍基地」のなかにアップし、ようやくわが海軍航空隊の記事が千葉県内においてもでき、なんとか体裁が整ってきたと思う。そのHPの充実化とともに、BGMを変えようと考えた。今までは、音楽著作権を気にするあまり、HPの雰囲気にそぐわないクラシックなどにしていたからだ。たどりついたのは、「青年よ団結せよ」の歌。

「青年よ団結せよ」の歌は、ソビエトのV.クルーチニンが作曲、P.ゲルマンが作詞した歌で、日本の戦後学生運動のはじめのころ、よく歌われた。当時は、イールズ声明反対闘争が東北大学から始まり、レッドパージ反対の広範な運動が展開された。その中で、この歌は歌われた。自由・平等・博愛のフランス国旗に似た三色旗(平和運動の象徴である)を掲げたり、剣道部の部員が防具をつけたまま、この歌を歌っていたのを記憶している。

  友よ肩に肩を組みて
  砕け敵を
  我等こよなき自由を
  守りたたかいぬかん
  輝かしき栄光を
  得(う)るはやすからじ
  幸にみちあふるる
  我が春をもとめん
   友よ肩を組めいざ進まん
   平和をかざし
   輝かしき世界創るため
   行け行け堂々と

(楽団カチューシャ訳詞)

今とは違い、当時の学生は何かと議論をし、学内外で問題があれば、みんなで団結して運動を行ったものである。戦後4,5年たっているとはいえ、みな貧乏であり、学費を稼ぐために肉体労働のアルバイトなどもよくしていた。朝鮮戦争で景気がよくなり、アルバイトの口は多くなったのは良いが、学内では反動攻勢が強くなり、トルーマン・ドクトリンが日本の隅々まで具現化していっているような気がした。
おまけに弾圧をきっかけに党は分裂、国際派全学連は党中央からにらまれ、また国際派全学連も四分五裂、最後には解体、所感派が牛耳ることにあいなった。

実は「千葉県の戦争遺跡」HPのBGMとして、今までクラシックなどを使ってきたが、どうもHPとマッチせず、いろいろ探したところ、この歌に行き着いた。もっとも最初は「モスクワ郊外の歌」にしようとしたが、案の定音楽著作権でどうにもならないのであった。

ところが、「青年よ団結せよ」の音楽素材があるはずがない。学生運動の歌としては、「国際学連の歌」が圧倒的に有名であり、YouTubeにもあがっている。一方、後にあまり歌われなくなったというこの歌は、知らない者も多いのだろう。

洋楽が好きな森-CHANが、発注して作ったBGMは、あまり完成度が高いとはいえないが、折角なのでHPのBGMとし、別にアレンジしたものも作った。かくして、ようやく「千葉県の戦争遺跡」HPのオリジナルBGMができあがったのである。
なお、「千葉県の戦争遺跡」HPのBGMのアレンジ版を作ったY陸軍少佐の孫YさんはYouTubeに、「青年よ団結せよ」をアップした。音源はロシアのものを使ったそうだ。

http://www.youtube.com/v/JXPbv3j-8b4&hl=ja_JP&fs=1&border=1

(写真は、上が海上自衛隊木更津補給処の格納庫、下が第二海軍航空廠の飛行機部工場跡)

木更津海軍航空隊の開設話

2010-03-26 | 木更津市の戦争遺跡
満州事変後、中国大陸への進出を画策する軍部にあって、中国大陸への長距離飛行での空爆を企図し、同時に航空機による攻撃から首都防衛を考えていた海軍は、かねて東京湾沿岸の適地を選び、海軍航空隊を建設しようと考えていた。

東京湾沿岸の候補地は木更津・青堀・姉ヶ崎、行徳などとなっており、1934年(昭和9年)年頭には海軍省から千葉県知事にその旨の内示があり、木更津町長であった石川善之助らも海軍航空隊の誘致運動をはじめた。
すなわち、同年7月5日には石川町長の提唱にて、「木更津飛行場建設促進同盟会」が結成され、翌々日の7日には横須賀鎮守府建築部より測量要員6名が派遣されて現地測量が行われた。一方、木更津海軍飛行場の予定地であった巌根村中里・江川地区の漁民ら住民にとっては寝耳に水であり、また中里・江川地区の海岸の一部埋め立てによって漁業を行う場所が制約されるため建設反対の声があがった。しかし、「木更津飛行場建設促進同盟会」の実行委員らが説得し、7月中旬にはほぼ反対気運はおさまった。その後、7月20日に横須賀鎮守府より木更津町に海軍航空隊設置決定の通告があった。

<木更津海軍航空隊があった陸自木更津駐屯地(南側)遠景>


撮影:染谷たけし

<木更津海軍航空隊があった陸自木更津駐屯地(北側)遠景>


撮影:染谷たけし

こうして同年9月5日より県土木課は買収事務を開始。11月1日には「東京湾海軍航空隊」(仮称)新設起工式が横須賀鎮守府司令長官の永野修身海軍大将以下の臨席で行われた。かくして、東京湾の大規模な埋立工事が開始された。請負業者は浅野財閥系の東京湾埋立株式会社(現・東亜建設工業)。
翌1935年(昭和10年)3月には航空隊建設準備委員が任命され、委員長は竹中龍造海軍大佐が就任した。施設建設は主として横須賀の馬淵組(現在の馬淵建設)が請負い、突貫工事で飛行場建設が進められた。1936年(昭和11年)3月26日には飛行場は概ね完成し、陸上攻撃機(中攻)などの飛行機が配備された。そして同年4月1日に、木更津海軍航空隊は開隊した。

開設された、木更津海軍航空隊(木更津空)は、木空(きくう、もっくう)とも呼ばれ、司令は竹中龍造大佐、副長は青木泰二郎中佐、飛行長曽我義治少佐を含め、准士官まで14名、下士官・兵が約100名であった。5月2日の開隊祝賀式には海軍大臣永野修身大将、横須賀鎮守府司令長官米内光政中将のほか陸海軍の幹部軍人が列席、5月末には町内各小学校児童を招き、優勝旗争奪の運動会も催した。

 <開隊当時の隊門前>



木更津基地は東京湾に面して、四周に障害物なく広々として、その大きさたるや、幅八十米、長さ千二百米(後に二千米)の滑走路が南西海岸から北東へのび、東西、南北にも各一つの滑走路がある、理想的な海軍基地であった。

この木更津空は、中国大陸への長距離飛行での空爆を企図した海軍が特に周到に準備した外戦作戦実施部隊であり、平時には首都防衛にあたるもので、同様の目的で西日本を担当する鹿屋海軍航空隊と同時に開隊した。しかし、一般の木更津町住民には、開隊にあたっての式典で海軍のそうそうたる高官が来たり、大相撲の横綱土俵入りがあったりと、物珍しく映ったに違いない。

初代の司令官、竹中龍造大佐にしても、のちに空母の艦長や各地の航空隊の司令を歴任し、最後は海軍航空技術廠支廠長で海軍中将となった人物であるが、当時の木更津町民には民間の家に住み、朝晩車で送迎されている「偉い人」としてしか、認識されなかったであろう。


<開隊を祝う地元の人々>



なお、開隊の日に見学を許されたのは限られた小中学、女学校生徒などで、その他一般の人には許されなかった。

鉄道連隊演習線下志津支線

2010-03-21 | 四街道市の戦争遺跡


鉄道連隊のことを「千葉県の戦争遺跡」HPにのせてきたが、下志津支線については、殆ど記載していなかった。そのことを指摘され、また千葉駅周辺の廃線跡を歩くうちに、下志津支線の廃線跡を実際に歩いてめぐり、そのことについて書いてみようと思った。これは千葉の作草部から四街道の兵営にのびていたと考えられる路線である。

なぜ、千葉~津田沼沼以外に、下志津支線を作ったかといえば、それは演習というだけでなく、四街道の野戦砲兵学校や野砲兵第十八連隊に物資を送るなどの意図があった。

1910年(明治43年)10月26日に第一師団経理部が陸軍大臣寺内正毅に提出した「下志津軽便鉄道敷設ノ儀ニ付伺 」によれば、
「下志津屯在各部隊構内外ノ儀ハ一般ニ地質軽鬆ニシテ降雨ノ際ハ忽チ泥濘ト化シ運輸交通特ニ困難ヲ感シ候ニ付別紙図面ノ如ク四ツ街道停車場ヲ基点トシテ手押軽便鉄道ヲ敷設シ以テ一般軍需品ノ輸送並ニ構内排出物ノ搬出ニ任シ度候ニ付右御認可ノ上之ニ要スル経費別紙調書之通リ御増額相成度此段相伺候也」
とあり、四街道周辺に駐屯する陸軍各部隊のための軍需品輸送などに四街道駅を起点とした軽便鉄道を利用しようとしたことが分かり、それが鉄道連隊の演習を兼ねた敷設となったものと思われる。

しかし、この路線、途中にあとから下志津陸軍飛行学校ができ、四街道手前で路線変更している。また終点がどうなっていたのかが、よくわからない。
ただ、1919年(大正8年)にフランスから来日した航空使節団が四街道に来た際には、四街道停車場から下志津飛行場方面の三千米の軽便鉄道を敷設したということである。その後も、近隣の軍施設の変遷とともに、四街道周辺の路線は改廃を繰り返したと思われる。

<下志津支線の標石か>


こういう小さなことでも、分からないのはしゃくである。何とか究明したいが、その前にご存知の方がいれば教えてほしい。

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会”4/29講演会”のお知らせ

2010-03-20 | Weblog
以前、森-CHANを通じて戦争遺跡の写真を貸したこともある手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会が以下の講演会を行うそうである。

---以下、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会からの案内---

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会 4/29講演会
 
「保存運動と歴史から見た東葛の城と松ヶ崎城」




・会場:柏市柏5丁目8-12(教育福祉会館内) 中央公民館5F 講堂
・日程:2010年4月29日(木・祝日) 13時30分から (13時開場)
・テーマ:「保存運動と歴史からみた東葛の城と松ヶ崎城」
・講師:郷土史研究家 田嶋昌治氏 (北小金在住)
・参加費:300円(資料代)
・その他:講演会会場周辺では、松ヶ崎不動尊の絵馬写真なども展示予定。

市民が里親となり、河津桜やこぶし、桃、山もみじなど樹木の植樹がされた
松ヶ崎城跡。歴史を楽しみ文化財を守り市民の憩いの場とするには?

主催 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会 
問い合わせ先  柳沢 04-7131-0922

【講師 田嶋昌治氏の紹介】
長年都立高校で教鞭をとられた後、東葛の地域史研究家として活躍。
文化財保護にも一家言もたれている。北小金在住。
 著書「地域の歴史発見―歩き聞き調べる。」崙書房出版

---ここまで---

なお、写真は去年6月の見学会のときのもの。撮影者から借用した。

この手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会では、歴史の勉強会?のようなことを4月以降やっていくとのことで、戦争遺跡もテーマの一つになるようだ。また写真や資料を貸し出すことがあるかもしれない。

「千葉県の戦争遺跡」HPに「陸軍工兵学校と松戸」を追加

2009-12-28 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡


「千葉県の戦争遺跡」HP(http://www.shimousa.net/
に、ようやく「陸軍工兵学校」のページを新設することができた。

一応、今までの概要調べや遺構の踏査結果を森-CHANが本職のカメラマンに撮ってもらった写真と手持ちの資料の一部などを作って編集したものである。
小生が以前、「千葉県の戦争遺跡」ブログ(http://blog.goo.ne.jp/mercury_mori/)
に書いていた文章を加筆するとともに、八柱演習場については戦後の旧軍人たちの開拓記念碑についての地元町会が出した冊子などを参考にして記載を増やした。

まだ、「架橋」「交通」「射撃」などと工兵の演習資料が手元にあるが、なにしろ膨大なため、徐々に形にしていこうと思う。演習の記事は未完であるが、まずは大きな懸案の一つが年内に片付いた。

(画像は、陸軍工兵学校で学んだ、ある工兵連隊の将校が描いた架橋作業の操作船)

大阪で元海軍兵士証言の南京事件関連の集会

2009-12-06 | Weblog
大阪で南京事件の際に、実際に虐殺された市民の遺骸などを目撃した、元海軍兵士の証言や南京で父や弟を日本軍に殺害されたという中国人の証言を中心とした集会が12/5(土)に開催された。

その集会とは、「戦場の街・南京 -安全でなかった国際安全区- PM6:10開場 6:30開演 場所:エルおおさか南館 5Fホール 被害証言:楊翠英さん(当時12歳) 加害証言:三谷 翔さん 南京戦参加元兵士 講演:『程瑞芳日記』は語る 国際安全区で続発する性暴力 南京大虐殺60カ年全国連絡会 共同代表 松岡 環さん 主催:南京大虐殺60カ年大阪実行委員会」である。

元海軍兵士とは大阪府在住の三谷翔さん(90)。南京戦当時は、支那方面艦隊第三艦隊第十一戦隊 第二十四駆逐隊所属であったが、1937年12月17日から25日の間、南京城内の掃討後の死体の山、中山埠頭での虐殺現場を目撃した人である。最後の生き残り世代として、「ほんまに見たんや」と伝える責任があるから証言したいとのことで、今までは素顔を公開していなかったが、今回は素顔でとのこと。
南京事件で親兄弟を殺されたという、中国人のほうは、楊翠英(ヤン・チュイイン)さん(84)。

南京事件といっても、当時の少年の世代が80歳を越え、実際に虐殺に加わった兵士の証言は得にくくなっている。ちなみに、三谷さんも元軍人とはいえ、目撃者であって当事者ではない。しかし、今となっては貴重な証言といえる。

今回の集会で、三谷さんは長江停泊中の駆逐艦から見た、南京の河畔の虐殺での阿鼻叫喚の光景を語った。「殺害した兵士も、出征前はよき父であり、頼もしい青年だったはず。殺すか殺されるかの日々の中で、人間が壊れた。戦争こそ元凶だ」と語っている。

三谷さんは、既に何度か証言をしているようだ。三谷さんの「虐殺の光景、わが遺言 90歳元兵士『南京大虐殺』証言」(朝日新聞大阪本社版、3日夕刊)という記事は、以下をご参照方。

http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK200912030078.html

また、「南京大虐殺 60ヵ年全国連絡会」公式サイトは以下。

http://www.nankindaigyakusatu.com/


柏陸軍飛行場跡周辺の掩体壕

2009-10-23 | 柏市の戦争遺跡


柏陸軍飛行場周辺に掩体壕があるとの話は、前からあった。しかし、それは長い間確認されていなかった。戦後60年以上たち、柏に展開していた陸軍の各飛行戦隊など飛行場関連の軍人たちは、次々と鬼籍に入り、飛行場が戦後米軍に接収されて、返還後も飛行場跡地が開発されていくなかで、飛行場の関連施設遺構にかんする記憶も風化してしまった。

どういうわけか、旧柏ゴルフ倶楽部敷地内に掩体壕跡と伝えられる箇所があり、それはこんぶくろ池の公園予定地内である。現在、柏市が管理しており、立入りが禁止されている。

國學院大學の上山教授を代表とする「手賀の湖と台地の歴史を考える会」では、柏市の許可を得て、その場所を含めて巡見を行った。掩体壕といわれる、その位置を地図上に特定する、また周辺を調べてみる、終戦後1,2年の航空写真と見比べて、その場所が航空写真でどうなっているかを調べるなどの活動を後日行った。

その後、航空写真でもうつっている税関研修所の東側の道が、柏陸軍飛行場の東誘導路といわれる道であることが分かり、その道路沿いに3基、さらに国道16号線を越えた香取神社近くに3基の掩体壕があることが踏査・実見によって判明した。

それらは、別に新たに「発見」されたものではなく、従前は野馬土手と思われていたのである。それが、航空写真に写っている掩体壕と場所が一致すること、また形状が印旛陸軍飛行場の掩体壕や茨城県小美玉市の百里原海軍飛行場とも似通っていることから、野馬土手ではなく掩体壕であることが分かったのである。
但し、一番初めに同会が調査した旧柏ゴルフ倶楽部敷地内の掩体壕跡と伝えられるものが、結局何であったかは判明していない。


<柏陸軍飛行場の略図>


旧柏ゴルフ倶楽部敷地内の掩体壕跡といわれるものは、東側の土手は高さもあり、掩体壕の一部と考えておかしくないが、南西側は崩れた形で、高さも1.5mほどと低い。

東側の土手も、北のぼさ藪になっている部分で切れており、直下は平坦地、さらに一段低くなる。南西側の土盛の傍、土盛で囲まれた平坦地に、大木があり、太平洋戦争中にはすでに当地に生えていた模様。

これらの土手などを柏市に所蔵されている記録では、掩体壕跡としている。

ただ、箱形の掩体壕としても、三方の土手ではなく、二方のみであるのは、不自然で、掩体壕ではなく、別の構築物であったと思われる。仮に掩体壕であったとすれば、未完成であったか、一方が破壊されたと考えられる。


<旧柏ゴルフ倶楽部敷地内の伝・掩体壕跡の東側土手>


同会は、自然保護団体の案内で周辺を探索し、柏市正連寺の国道16号線の西側にあって、こんぶくろ池に近い資材置場横の藪化している場所で、馬蹄形の掩体壕跡が確認できた。

形は五角形の一辺がない形であり、土手はかなり高く、高い部分では3mほどありそうであった。東側は藪がすごく、見通しが利かず、土手の距離を図るのもレーザー距離計などでは歯がたたず、巻尺で測るしかないように思われた。西側の土手の上にのぼり、向こうをみると、土手が城の土塁のように切り立っていることが分かった。

後日、その場所を1947年(昭和22年)の米軍撮影の航空写真等で確認すると、確かに該当する掩体壕があり、その前の道が誘導路であることも分かった。さらに自然保護団体の話や会員の実見により、税関研修所脇の庭球場近くの山林に一つあることが分かった。

瓢箪から駒のような話で、伝聞から掩体壕跡といわれる土手を調べたあとで、こちらももしかしたら掩体壕かもしれないとしてまわった後のほうが、正真正銘の掩体壕であり、その場所を昔の航空写真と照合したところ、米軍が1947年に撮影した航空写真にうつっている掩体壕と一致し、芋づる式に誘導路沿いの別の掩体壕も見つかって行ったのである。

同会は前述のこんぶくろ池近くの資材置場横のものとあわせて、踏査したところ、両者の中間の位置に、半壊しているが、土手の高い掩体壕があることが分かり、税関研修所脇から国道16号線まで都合3つ掩体壕があることが判明した。そして、国道16号線の東側の香取神社周辺に3つの掩体壕があって、合計6基の掩体壕が柏にはあることになった。

<誘導路沿いの掩体壕の土手にのぼる>


実は、6基の掩体壕のうち、こんぶくろ池公園予定地のなかにはいるのは、税関研修所脇の池に近い2基のみで、あとは開発地域である。とくに、国道16号線の東側の香取神社周辺の3基については、周辺が既に整地に入っていて、風前の灯である。遺跡というものは、一度壊されれば元には戻らない。こんぶくろ池の公園予定地内の掩体壕2基を保存するのは勿論のこと、開発対象区域のものについても発掘調査などを行い、東誘導路の国道より西にある1基については保存してもらいたいものである。


柏市長へ柏陸軍飛行場関連の掩体壕等保存要請

2009-10-09 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡
柏市の本多晃市長に対し、10月5日(月)に「手賀の湖(うみ)と台地の歴史を考える会」は、柏飛行場関連の掩体壕など戦跡、および現代史調査・研究の要望書を提出した。

会の代表である國學院大學教授の上山和雄先生に森-CHANが許可を得たので、その要望書の全文を掲載するものである。

<柏飛行場関連の無蓋掩体壕の一つ、高さ3m弱の土手をのぼる>



なお、手賀の湖と台地の歴史を考える会のURLは、 http://teganoumi.blog62.fc2.com/ 。
(上記は、市民、学者・研究者で構成され、最近設立された団体。11月8日には柏市大井周辺の歴史散策を企画)

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柏市長 本多 晃 様
2009年10 月5 日

旧柏飛行場掩体壕等戦跡、及び現代史関係調査の要望書

手賀の湖(うみ)と台地の歴史を考える会
代表 上山和雄

太平洋戦争終戦後64年がたち、戦争の惨禍を知る人々も少なくなってきました。日本国民やアジア各国の人々に大きな打撃を与えた戦争の経験を風化させないため、自治体、民間団体のレベルにおいて、様々な取り組みが行われています。こうした各地の動きを踏まえ、文化庁記念物課は「近代の遺跡調査」の中に「戦跡」の調査を加え、1996年度以降「近代遺跡の全国調査」を実施し、その中には544件の戦争遺跡が含まれています。そして現在では、国・自治体が指定・登録する近代の戦争関係の遺跡・文化財は、合計157件に及んでいます。また2002年度以降、重要な戦跡遺跡のうち50件が詳細調査の対象とされ、近いうちにその報告が公表される予定です。
各自治体では、調査を進めると同時に、散策路などを整備して市民や観光客が遺跡に触れつつ自然に親しむ取り組み、あるいは平和教育の重要な教材とする取り組みなども行っています。
柏市花野井・大室に、有人ロケット機「秋水」の燃料貯蔵庫の遺跡が残されていることは、地元の人々にはよく知られています。しかし柏市がかつて軍都・軍郷とも言われて、帝都防衛の重要拠点に位置づけられ、市域全体が本土決戦の兵営とまでなりつつあったことを知る市民は、ますます少なくなりつつあります。
今春、当会がこんぶくろ池から「秋水」燃料庫までの見学会・巡見(柏の葉~花野井)を行った際、旧柏ゴルフ倶楽部内の小高い部分が、陸軍機の掩体壕だったのではないかという話題になりました。その後、戦後直後の米軍の空中写真や文献を集めて現況と比較し、掩体壕と思われるいくつかの遺構を、柏の葉周辺で確認することができました。
当時の写真や百里基地を調査した茨城県小美玉市の報告書などと照合しても、掩体壕であることは間違いないと思われます。一方、東葛地区に存在した松戸飛行場(現、陸上自衛隊松戸駐屯地、松飛台の住宅地・工業団地他)や藤ヶ谷飛行場(現、海上自衛隊下総基地)周辺では、松戸市五香西に掩体壕の基部が一カ所残っているのみで、その他の掩体壕の残存は確認されておりません。鎌ヶ谷市初富に10年前までほぼ完全に残っていた掩体壕も消失し、ほとんど未調査のまま遺構が失われているのが現状です。
豊四季駅までの軍用道路の起点であった柏飛行場営門、航空廠柏分廠跡、掩体壕、「秋水」燃料庫といった、柏の葉周辺の複数の遺構は、東葛全体としても貴重なものと言えます。
十余二の柏通信所跡地の返還やつくばエクスプレスの開通によって、柏北部の姿は一変しつつあります。戦後の柏市は東京の衛星都市、ベッドタウンとして、また国道六号線、十六号線がクロスする地の利などにより、商業都市として目覚ましい発展を遂げました。その背後には柏北部への工場立地などがあったことは言うまでもありません。
柏という土地が常磐炭鉱・日立地方と東京を結ぶ地点にあったことによる日立資本の進出、筑波学園都市と東京の中間地域に位置していることも大きく影響しています。このような東京郊外における柏という地域の特性を考えるとき、戦時期における柏の役割との連続性を考えざるを得ません。
柏飛行場の存在や、帝都防衛の重要拠点だった柏の役割をうかがわせる遺跡は急速に失われつつあります。確認できる掩体壕のうち、かつての形状を残しているのはごく少数となっています。開発ですべてが消滅する以前に、残された数少ない遺跡である掩体壕の調査の実施と、残すことの可能な部分は柏の重要な歴史の一部として保存し、次代の市民に伝えていただきたくお願いするものです。前述した小美玉市の調査では、米軍の掃射による弾丸などが掘り出され、戦争中の爆撃を裏付けることとなりました。さらに掩体壕のみでなく、柏が戦時期にどのように位置づけられていたのかを明らかにするという視点をもって、飛行場や憲兵分遣所などその他の軍施設の遺跡を全体として捉えた調査もお願いしたいと存じます。
言うまでもなく柏は、戦後高度成長期に最も大きな歴史的変化を遂げました。戦時から苦難の時期の昭和20年代に活動した人々は一線を退かれています。あと10年たてば、この時期を語る方々はごく少数になるものと思われます。まさに今、戦時期、復興期、高度成長期の柏の歩み、すなわち、柏が戦争にどのように組み込まれたのか、戦後の開拓の進展、人口過密への対処、首都圏整備法以降の衛星都市としての発展といった現代的な問題を射程に入れ、オーラルヒストリーをも組み込んだ調査と資料収集を開始されることを切に要望します。このことは、今を生きる私たちの、次代の柏に生きる人々に対する歴史的な責務であると考えます。
以上

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本件、市長への要請と前後して記者会見も行われ、三大紙と東京新聞、千葉日報の記者も来たそうだが、実際に報道したのは東京新聞だけだったようだ。しかし、市長ならびに教育長、教育委員会の担当部長には、要望書が届けられ、この件について浅羽副市長とも会話したというから、柏市当局には十分伝わったと思う。

文中、「松戸市五香西に掩体壕の基部が一カ所残っている」とあるのは、「千葉県の戦争遺跡」HP(http://www.shimousa.net/) の「首都防衛」の飛行場のメニューのなかにある「松戸陸軍飛行場」のページに詳しく書かれている掩体壕のことである。上記メニューには「柏陸軍飛行場」もあり、あわせて参照願いたい。

なお、柏陸軍飛行場の掩体壕は、無蓋掩体壕で馬蹄形をなし、高さ2mから3mの土手がぐるりとめぐり、開口部は15m強、幅25mほどの比較的小さいものであり、現在6基確認されている。無蓋掩体壕は土造りのもので、空襲に際して飛行機を分散秘匿するため、誘導路に沿って作られた。牧のあった場所にあるため、従前は野馬土手と混同されていた。

柏陸軍飛行場の掩体壕については、前から噂レベルでは聞いていたが、これを機会に調査が進むことを期待したい。

<「秋水」地下燃料庫のヒューム管>

柏陸軍飛行場と印旛陸軍飛行場をHPに掲載

2009-08-16 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡


ブログ記事ではなく、自分のHPのご紹介です。

自分のHP「千葉県の戦争遺跡」に、「『首都防衛』の飛行場」として、柏陸軍飛行場と印旛陸軍飛行場の記事を掲載しました。

URLは、http://www.shimousa.net/
です。

印旛陸軍飛行場は草深(そうふけ)飛行場とも呼ばれていましたが、資料が自分の自宅周辺で手に入るものがほとんどなく、印西市に直接行くしかありませんでした。

以下の写真は、現在の印旛地方航空機乗員養成所 本館跡。現在開発中で、木が一本公園として残るだけ。



印旛飛行場に駐屯していた陸軍飛行第二三戦隊の戦友会が、回想録のようなものを出してくれており、また逓信省の印旛地方航空機乗員養成所の元生徒有志の方の回想録もあり、助かりました。

また、森―CHANが印西市教育委員会との折衝やら、やってくれたので、印旛のほうは思ったよりスムーズにいったかもしれない。

あとは、松戸、藤ヶ谷、下志津飛行学校、八街。

できれば、海軍の木更津、茂原も。



船橋市小室にある慰霊碑

2009-07-24 | Weblog


船橋市小室は、今はやりのニュータウンの街となっているが、ここは実は鎌倉時代から続く古い集落である。そのなかに寺は、日蓮宗の本覚寺という寺がある。日蓮宗の寺は船橋市北部にも多く、この本覚寺も古い寺で、その名前も、鎌倉の日蓮宗の古刹、本覚寺と同じである。

船橋市小室は、今はやりのニュータウンの街となっているが、ここは実は鎌倉時代から続く古い集落である。そのなかに寺は、日蓮宗の本覚寺という寺がある。日蓮宗の寺は船橋市北部にも多く、この本覚寺も古い寺で、その名前も、鎌倉の日蓮宗の古刹、本覚寺と同じである。



この小室の本覚寺の墓地に、「大東亜戦争戦没者之霊」という慰霊碑がある。これは1956年(昭和31年)8月に遺族が建立したものである。碑の題字を揮毫したのは、極東国際軍事裁判で終身刑となり、1955年(昭和30年)に仮釈放となった元海軍大将の嶋田繁太郎である。

碑の裏には、海軍三人、陸軍五人の計八人の戒名と俗名、階級と一部の人は勲位、そのすべてに戦死の日付と場所が簡単に刻まれている。さらに、遺族の家の屋号も刻まれており、古き良き地域共同体の雰囲気が感じられる。

それをみると、いずれも1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)の戦没であり、戦没の古い順から、

海軍上等水兵 1944年(昭和19年)6月1日  中部太平洋方面で戦死
陸軍上等兵  1944年(昭和19年)8月18日 バシイ海峡で戦死
陸軍大尉   1944年(昭和19年)12月20日 フィリピン セレベス島で戦死
陸軍軍曹   1945年(昭和20年)1月2日  フィリピン ルソン島 リンガエ沿岸で戦死 
海軍二等兵曹 1945年(昭和20年)2月12日 フィリピン マニラ クラーク飛行場で戦死
海軍兵曹長  1945年(昭和20年)3月11日 フィリピン方面で戦死
陸軍兵長   1945年(昭和20年)6月10日 フィリピン ミンダナオ島で戦死 
陸軍上等兵  1945年(昭和20年)8月17日 中支方面で戦死

とあり、8人中6人がフィリピン方面で戦死、特に陸軍軍曹が1945年(昭和20年)1月フィリピン・ルソン島リンガエ沿岸で戦死しているが、当時米軍がリンガエ湾に強行上陸しており、その米軍との攻防でその軍曹は亡くなったと思われる。その軍曹が亡くなる直前にはセレベスで陸軍大尉が、また軍曹の亡くなった翌月、翌々月と海軍の二等兵曹、兵曹長が戦死しており、激戦がうかがわれる。

また、最後になくなった陸軍上等兵は、昭和天皇による終戦の放送があった後の戦死である。おそらく、終戦の報が届いていなかったのであろう。まったく、もう死ななくてもよかったのに、どういうことだろうか。

「大東亜戦争」という言葉や、揮毫の主に問題があったとしても、戦後遺族が建立した碑には、純粋な追悼の念が込められており、今後もなるべく紹介することとしたい。

この小室の本覚寺の墓地に、「大東亜戦争戦没者之霊」という慰霊碑がある。これは1956年(昭和31年)8月に遺族が建立したものである。碑の題字を揮毫したのは、極東国際軍事裁判で終身刑となり、1955年(昭和30年)に仮釈放となった元海軍大将の嶋田繁太郎である。

碑の裏には、海軍三人、陸軍六人の計八人の戒名と俗名、階級と一部の人は勲位、そのすべてに戦死の日付と場所が簡単に刻まれている。さらに、遺族の家の屋号も刻まれており、古き良き地域共同体の雰囲気が感じられる。

それをみると、いずれも1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)の戦没であり、戦没の古い順から、

海軍上等水兵 1944年(昭和19年)6月1日  中部太平洋方面で戦死
陸軍上等兵  1944年(昭和19年)8月18日 バシイ海峡で戦死
陸軍大尉   1944年(昭和19年)12月20日 フィリピン セレベス島で戦死
陸軍軍曹   1945年(昭和20年)1月2日  フィリピン ルソン島 リンガエ沿岸で戦死 
海軍二等兵曹 1945年(昭和20年)2月12日 フィリピン マニラ クラーク飛行場で戦死
海軍兵曹長  1945年(昭和20年)3月11日 フィリピン方面で戦死
陸軍兵長   1945年(昭和20年)6月10日 フィリピン ミンダナオ島で戦死 
陸軍上等兵  1945年(昭和20年)8月17日 中支方面で戦死

とあり、8人中6人がフィリピン方面で戦死、特に陸軍軍曹が1945年(昭和20年)1月フィリピン・ルソン島リンガエ沿岸で戦死しているが、当時米軍がリンガエ湾に強行上陸しており、その米軍との攻防でその軍曹は亡くなったと思われる。その軍曹が亡くなる直前にはセレベスで陸軍大尉が、また軍曹の亡くなった翌月、翌々月と海軍の二等兵曹、兵曹長が戦死しており、激戦がうかがわれる。

また、最後になくなった陸軍上等兵は、昭和天皇による終戦の放送があった後の戦死である。おそらく、終戦の報が届いていなかったのであろう。まったく、もう死ななくてもよかったのに、どういうことだろうか。

「大東亜戦争」という言葉や、揮毫の主に問題があったとしても、戦後遺族が建立した碑には、純粋な追悼の念が込められており、今後もなるべく紹介することとしたい。