茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.16 )
習近平と、習近平を次期国家主席最有力候補に押し上げた曾慶紅の関係が書かれています。また、その曾慶紅とはどのような人物なのかも、簡単に書かれています。
今回も、要点を整理しておきます。
著者は、曾慶紅が江沢民を見限って胡錦濤派に転じたのは、江が「権力欲の塊で恥ずべき老醜」だからだと書いていますが、私は、かならずしもそうとはいえないと思います。
なぜなら、曾慶紅はたんに、権力の衰えつつある江沢民から、次第に権力の頂点を極めつつある胡錦濤に乗り換えただけだとも受け取れるからです。
つまり、「曾慶紅はつねに、その時点での最高権力者の側についた」という考えかたも成り立つ。「見限った」のではなく「裏切った」のかもしれない、ということです。すくなくとも、江沢民は「裏切られた」と思ったはずです。
なお、陳良宇・上海市党委書記の汚職・更迭に言及している過去記事があります。よろしければご覧ください。
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チャイナウォッチャーの間でも意外に知られていないが、曾と習は極めて緊密な関係にある。前述の胡と李の関係はせいぜい30年だが、曾と習の関係は53年に習が生まれた時まで遡る。
近平の父、習仲勲は49年の中華人民共和国成立後、北京で党中央宣伝部長や副首相を務めた。慶紅の父、曾山も同時期、北京で中国政府の内務大臣を務めるなど双方の両親は親密で、北京の中南海に住む "お隣さん同士" だった。近平は14歳年上の慶紅を兄のように慕い、胡錦濤と李克強のように、こちらもファーストネームで呼び合った仲だ。
その後、文化大革命(66-76年)の動乱で2人は離れ離れになるが、文革後はともに北京に戻り、近平は当時の耿飈(こうひょう)・副首相の、慶紅は余秋里・副首相の秘書と、同じ境遇で劇的な再会を果たす。2人が秘書を辞めた後、近平は河北省の地方幹部を経て福建省の最高幹部に名を連ね、一方の慶紅も石油関係の国有企業を経て、上海市の幹部として順調に人生の歩を進めていった。近平の勤務地となった福建省は慶紅の母、六金の故郷であり、引退の地でもあった。慶紅は同省をしばしば訪れ、幼馴染の近平と再び親交を深めたのである。
07年3月、近平は汚職事件に関与して更迭された陳良宇・上海市党委書記の後任に抜擢される。この上海市トップ人事に、上海閥の中枢メンバーであり、国家副首席として胡主席とも良好な関係を築いていた慶紅が関与していたことは間違いない。慶紅が近平を中央指導部入りさせ、胡主席の後継者の座に押し上げようという野心を抱いたことも、2人の生い立ちを知れば自然の成り行きと言える。
だが、曾慶紅には当時、政治的に致命的とも言える弱点があった。それは、引退後もなお政治的影響力を誇示しようとする江沢民の存在だった。中国は、実力よりも人脈やコネがモノを言う人治社会。共産党一党独裁体制の宿命であり、癒しがたい宿痾(しゅくあ)だ。
曾は、江が89年6月の天安門事件後に党総書記に抜擢された際、人脈も何もない北京に「懐刀」として上海から連れてきた腹心だった。曾は両親が中央幹部だった人脈を活かし、「縁の下の力持ち」に徹した。党組織部長や党書記処書記として全国の党幹部の人事権を握り、江を「上海の田舎者」と見下す党・政府幹部のクビを切るなどの "汚れ役" も敢えてやり、老幹部が顔をしかめる蛮勇も奮った。
その江への忠誠心に変化が見え始めたのは02年秋の第16回党大会だった。江は13年務めた党総書記ポストを胡錦濤に譲ったものの、中国人民解放軍に最高指導者の引退規定がないのをいいことに、兼任していた党中央軍事委主席ポストだけは手放さなかったのである。軍権も胡に譲って引退するとの見方が大勢だっただけに、党内には驚きが走った。曾にとっても、江は権力欲の塊で恥ずべき老醜と映ったことだろう。
それからは、曾は急速に胡に接近していく。胡は総書記に就任した直後の02年12月、河南省西柏坡を訪問し、「両個務必」、すなわち「2つの絶対にやるべきこと」を強調した。西柏坡は、建国直前の48年3月、中国国民党との内戦に勝利した毛沢東が「両個務必」を発表した地である。その2つとは、①政権をとっても謙虚でおごらず、②人民のために刻苦奮闘する、というものだ。同じことを胡が行なった理由について、中国専門家の間では、胡が「江は2つの絶対を行なっていない」と暗に批判し、新たな時代が到来したことを強調したかったからだ、との解釈が有力だ。胡の西柏坡視察に随行した曾は、胡の主張に共鳴し忠誠を誓ったとされる。
習近平と、習近平を次期国家主席最有力候補に押し上げた曾慶紅の関係が書かれています。また、その曾慶紅とはどのような人物なのかも、簡単に書かれています。
今回も、要点を整理しておきます。
- 胡錦濤と李克強と同様、曾慶紅と習近平もファーストネームで呼び合う仲である。習が子供の頃から習家と曾家は家族ぐるみのつきあいを続けてきた。
- 曾慶紅と習近平は、どちらも党・政府幹部の家に生まれた。ともに太子党である。
- 曾慶紅は上海閥の中枢メンバーであり、江沢民(上海閥)の腹心・懐刀だったが、のちに江沢民を見限って胡錦濤派に転じた。原因は江が党総書記引退後もなお、党中央軍事委員会主席ポストを胡錦濤に渡さず、権力にしがみついたからである。
- 中国人民解放軍には、最高指導者の引退規定がない。
- 上記権力移行過程が原因で、胡錦濤と江沢民とは、微妙な対立関係にある。
- 習近平は陳良宇・上海市党委書記の後任者だった。
著者は、曾慶紅が江沢民を見限って胡錦濤派に転じたのは、江が「権力欲の塊で恥ずべき老醜」だからだと書いていますが、私は、かならずしもそうとはいえないと思います。
なぜなら、曾慶紅はたんに、権力の衰えつつある江沢民から、次第に権力の頂点を極めつつある胡錦濤に乗り換えただけだとも受け取れるからです。
つまり、「曾慶紅はつねに、その時点での最高権力者の側についた」という考えかたも成り立つ。「見限った」のではなく「裏切った」のかもしれない、ということです。すくなくとも、江沢民は「裏切られた」と思ったはずです。
なお、陳良宇・上海市党委書記の汚職・更迭に言及している過去記事があります。よろしければご覧ください。
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