言語空間+備忘録

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スムート=ホーリー法

2011-04-30 | 日記
アーサー・B・ラッファー、ステファン・ムーア、ピーター・タナウス 『増税が国を滅ぼす』 ( p.286 )

★スムート=ホーリー法の成立

(中略)

 一九三〇年スムート=ホーリー法は、アメリカ史上最も悪名高い法律である。一九二〇年代のアメリカは「狂騒の二〇年代」と呼ばれるほど、華やかなりし時代と考えられている。たしかに多くのアメリカ人にとってはそうだったが、じつは農家はちがっていた。アメリカの農業の生産高と生産性は上がっていたにもかかわらず、平均的な農家の所得は二〇年代を通じて減り続けていたのである。そこで、ハーバート・フーバーは大統領選挙運動中に、農家を守るために輸入農産物には高率の関税をかけると公約した。当初は農産物だけの予定だったが、やがて他の産業も保護しようということになる。今日では民主党の方が共和党よりも保護主義的だが、一九二〇年代後半から三〇年代にかけて関税引き上げを声高に要求したのは、共和党の方だった(*2)。リード・スムート(上院議員)もウィリス・ホーリー(下院議員)も共和党である。
 そして一九二八年の大統領選挙で、フーバーは民主党候補のニューヨーク市長アル・スミスを僅差で破る。ハーディング、クーリッジ時代の余勢を駆っての勝利だった。翌二九年三月に大統領に就任したフーバーは、さっそく農産物の関税引き上げを実現しようと、特別議会を招集する。ところが議会の主流派、とりわけ北東部州出身の議員は、工業製品まで含めたもっと過激な関税引き上げを目論んでいた。
 こうして幅広い品目の関税引き上げを定めた法案が、下院を通過する。ところが上院では議論が紛糾し、結局可決されないまま一九二九年半ば過ぎに特別議会は会期切れとなった。しかしいずれアメリカが引き上げに踏み切るとみて、先手を打って関税引き上げを実施する国も少なくなかった。そうこうしているうちに、一〇月に大暴落が起きる(図12・2参照)。議会が再招集された三〇年六月は、大恐慌の真っ最中だった。大恐慌を目の当たりにして一部の議員が保護主義に鞍替えしたため、ついに同年六月にスムート=ホーリー法は上院を通過した。法案は大統領が署名して初めて成立するが、その前に大統領の元には、千人以上の経済学者が署名した請願書が届けられている。この法案は重大な結果を引き起こすから署名を思いとどまるように、という内容だった。経済学を生業とする人々はほぼ例外なく自由貿易を支持しているのであって、それは当時もいまも変わりはない。フーバー自身も、この法案にいささかの懸念を抱いてはいた。これほど広範な関税引き上げを実施したら、貿易相手国が報復措置に出ることは目に見えていたからである。だが大統領は逡巡を断ち切ると、法案に署名する。かくて史上最悪の部類に属する法律は、一九三〇年六月一七日に成立。二万品目以上の関税が一気に引き上げられ、内三〇〇〇品目以上については実効税率が六〇%に達するという事態になった。予想されたとおり、他国は報復関税で応じる。アメリカの輸入と輸出は急速に縮小した。

★保護主義は労働者を保護しない

 スムート=ホーリー法は大恐慌の原因となったのか、という議論にはいまだに結論が出ていない。経済学者や歴史家には、この法律が大暴落を引き起こしただけでなく、大恐慌を悪化させたと主張する人も少なくない(*3)。法案が法律として制定されたのは一九三〇年六月だが、投資家はすでにそれを見越していたからだ。経済学者のロバート・シラーは、一九二九年一〇月二八日のニューヨーク・タイムズ紙一面で同法が可決の見通しと報じられたことが、引き金になったと指摘する(*4)。これが駱駝の背を折る一本の藁となり、翌二九日の史上最悪の暴落(暗黒の木曜日と呼ばれる二四日より下げ幅が大きかった)を引き起こし、大恐慌につながったと考える専門家は少なくない。
 スムート=ホーリー法が株式市場に与えた影響について最も詳細に分析したのは、ジュード・ワニンスキーだろう。主著『世界はこう動いた』には、法案成立までの経緯、メディアの反応、各国の対応、株式市場の動向などの日々の変化が克明に記されており、サスペンス小説を読むような興奮味わえる(*5)。
「一九二九年一〇月二九日には、ワシントンからもたらされるニュースはどれも、共和党と民主党が一致協力して関税法案を可決する見通しであることを示していた」
 保護貿易主義が大恐慌を招く、と経済学者が考える理由は何だろうか。答えは、企業が海外市場でシェアを失うからであり、またアメリカの労働者が安価な輸入品の恩恵を受けられなくなるからである。つまり高い関税は、労働者の実質所得を押し下げることになる。スムート=ホーリー法が可決されてから二年足らずのうちに、世界の二五ヵ国が自国産業保護のためと称して報復関税を課すようになった。一九二九年のアメリカのGDPは一〇四〇億ドル(名目、インフレ調整前)で、財の輸出は五二億ドルだったが、三年後の一九三二年にはGDPは六八〇億ドルに縮小し、輸出はわずか一六億ドルにとどまっている。
 スムート=ホーリー法が大恐慌の原因となったかどうかはさておき、この法律が雇用を創出しなかったこと、輸入を堰き止めて実質所得を減らしたことは、火を見るより明らかだ。今日、アメリカの雇用を守る目的で、中国や日本やその他あれこれの国からの輸入品に高い関税をかけようと主張する人が少なからずいる。しかしこういう人たちは、スムート=ホーリー法成立後に何が起きたかをとっくりと見るがよい。アメリカでは何百万もの職が奪われ、一九三三年には失業率が二五・一%に達した。これは、現在の四~五倍である(*6)。保護貿易主義は、けっしてアメリカの労働者や産業を保護してはくれない。最近ある業界団体は、スムートとホーリーを「アメリカ史上最も気の滅入る二人組」に選んだ(*7)。この卓抜な命名に、乾杯。


 関税引き上げを内容とするスムート=ホーリー法の成立にいたる経緯と、成立後の状況が記されています。



 上記引用には、
スムート=ホーリー法は大恐慌の原因となったのか、という議論にはいまだに結論が出ていない。経済学者や歴史家には、この法律が大暴落を引き起こしただけでなく、大恐慌を悪化させたと主張する人も少なくない
と書かれていますが、

 大恐慌の原因となったかどうかはともかく、大恐慌を悪化させたことは間違いない、とみてよいのではないかと思います。



 その理由を著者は、
保護貿易主義が大恐慌を招く、と経済学者が考える理由は何だろうか。答えは、企業が海外市場でシェアを失うからであり、またアメリカの労働者が安価な輸入品の恩恵を受けられなくなるからである。つまり高い関税は、労働者の実質所得を押し下げることになる。
と書いています。

 保護貿易主義をとれば、「企業が海外市場でシェアを失っても、自国市場でシェアを拡大する」はずですし、「労働者が安価な輸入品の恩恵を受けられなくなっても、雇用が手に入る」はずであるにもかかわらず、他国の報復関税によって「企業も労働者も困る結果になる」のはなぜなのか。それが気になりますが、

 要は、

   (企業にとっては) 自国の国内市場よりも
       海外の市場のほうが (規模が) 大きい、

   (労働者にとっては) 雇用・給与の拡大・増額よりも
       安価な輸入品が手に入る利益のほうが大きい、

ということではないかと思います。ほとんどすべての国にとって (おそらく世界最大の市場であるアメリカにとっても) 自国の国内市場よりも海外の市場 (…の合計) のほうが規模が大きいことは明らかであり、保護貿易主義によって企業が利益を失うことは明らかです。とすれば、企業で働く労働者にとっても、保護貿易主義の結果として国内市場のみを相手にする場合よりも、広く市場を開いていたほうが利益が大きくなるのではないか、と考えられます。



 保護貿易主義 (高い関税) によって大恐慌が悪化した (または発生し、さらに悪化した) という事実がある以上、保護貿易主義 (高い関税) は好ましくない、と考えてよいのではないかと思います。



 現在、日本がTPP(環太平洋戦略的経済連携協定、Trans Pacific Partnership) に参加すべきか否かをめぐって賛否が分かれているようですが、

 「どの程度まで自由化するか」はともかく、「市場を完全に閉ざす」選択はあり得ないと思われます。

1 コメント

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2018-09-28 15:10:56
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