へんくつゃ半睡の「とほほ」な生活!

 奇人・変人・居眠り迷人。医療関連を引退⇒
某所で隠遁準備中。性質が頑な、素直ではなく、
偏屈でひねくれています。

【読】犬にどこまで日本語が理解できるか@日本ペンクラブ

2008年11月17日 | 犬好き・猫好き

にどこまで日本語が理解できるか

 

    

編者:日本ペンクラブ 光文社 ¥495(税別)

 

        

 「親のときにも涙は出なかったが、が死んだときには本当に泣けた」など、
犬好きに対する愛情には格別深いものがあるようです。


 なぜ、は可愛いのか。言葉を喋らないからと言う人もいますが、それは犬に
限ったことではない。言葉を発せなくても人間(飼い主)の言うことは理解している
のではないかと思わせるところに、の魅力があるのかもしれません。
 いや、犬好の人なら理解していると言い切るでしょう。
(
はじめに から抜粋)

 

       

         Ⅰ

 はじめに           日本ペンクラブ

いつかミントと話をしたい            森  詠
愛娘姫子                   三好京三
われここに立つ                 磯見 辰典
ハナとカミナリ                  河野 實
わたしの用心棒、チャウチャウ犬 木下 径子
愛犬ポチとの別れ             山本鉱太郎
あの日から                   岩淵喜代子
赤い指輪                    松山 妙子
わが家の犬たち               三浦佐久子

  Ⅱ

朕のいる暮らし          伊藤 桂一
犬の辛抱              山野 貞子
アカ                 谷 龍二
花の森ゆく口笛ふいて      太田代志郎
戦友・我がキャシイ        友永 淳子
約束を実践したラッキー     神尾 久義
ハートとハートで          結城 文

    
日本語どころか・・・・・・   佐野 洋
我家の犬神さま         田村さと子
ジョンの家出          小田 淳
謙虚なカール          内藤 洋子
犬は仏さま           高田 芳夫
イヌのハンスト         廣野 卓
ポチの"出征"          筧 愼二
百個の電話           村山 精二
最後の一声           中原 道夫

     

 あとがき           安宅 夏夫

 

 (前略) 佐野 洋さんは、こう書いています。
を飼っている多くの人たちは、は人間の言葉を理解していると考えている
ようだ。だからこそ、『日本語がわかるか』というアンソロジーが編まれるのだ
ろうが、実はたちは、言葉ではなくテレパシーによって、飼い主の意志を感じ
とっているのではないか!・・・」 
(後略)

 

     

 犬派猫派、もしそのような区別をするとしたら、前者はのどのようなところに
惹かれるのだろう!?
 首輪なしで、扉を出たり入ったり。おとなしく可愛がられているかと思えば、
ワンとなったり・・・。

  

 自由気ままで神秘的とも云える。そのつかずはなれずの
存在に、人は癒されるのではないか。

 

日本ペンクラブの会員がたちとの愛情に溢れる関係を綴った傑作エッセイ集!

犬にどこまで日本語が理解できるか

 

編者:日本ペンクラブ 光文社 ¥495(税別)

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【守】世界糖尿病デー@健康管理

2008年11月15日 | 江戸を歩く

世界糖尿病デー 

   

 

 

糖尿病にならないために!

  早寝!・・・早起き!・・・適度な運動!・・・腹七分目!

     

風邪(インフェルエンザ)が流行っています。

 

うがい手洗・衣服ほこりとしを、お忘れなく・・・!  

 

糖尿病ネットワーク

http://www.dm-net.co.jp/calendar/2006/11/004834.php

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【読】わたし猫語がわかるのよ@日本ペンクラブ

2008年11月13日 | 犬好き・猫好き

わたし猫語がわかるのよ

     

編者:日本ペンクラブ 光文社 ¥495(税別)

 

 派、派、もし、そのような、区別をするとしたら、
後者はのどのようなところに惹かれるのだろう!?
 首輪なしで、家を出たり入ったり。おとなしく可愛がられて
いるかと思えば、キャッとなったり・・・。

 自由気ままで神秘的とも云える。そのつかずはなれずの
存在に、人はされるのではないか!?。

 

日本ペンクラブの会員がたちとの愛情に溢れる関係を綴った
傑作エッセイ集!

 

 

 私は猫である。
 前々からそうじゃねえかなと疑ってはいたが、近ごろでは確信するようになった。
 小説を書いたり、馬券を買ったり、人間みたいなこともするにはするが、思想・
性格・容貌・行動などを客観的にはんていすると、やはり猫である。

  (中略)

  父母が死んでも泣けなかったのは、私が人間の言葉をよく知らないからであろう。
そのかわり、百匹の猫の「さよなら」には、百回泣かされた。
 やはりどう考えても、私は猫である。
 「百匹の猫」 浅田 次郎 より

 

      

百匹の猫             浅田 次郎
歌舞伎町から来た天使     野村 正樹
猫が鼠を-「ふじ」の想い出- 中原 道夫
猫バカ日誌            難波 利三
シルエット             久保田匡子
サンちゃんの手紙        田井友季子
チャアおばさん          太田 治子
コービーからの手紙       田才 益夫
風が吹けば桶屋が儲かる    高田 宏

 

Ⅱ   
猫想い            下重 暁子
八重桜            岩淵喜代子
野良猫異聞          筧 慎二
吹き溜まりのプーコ     西木 正明
チロはどこへ         河野 實
ノラや                畠山 拓
艦長モモの死亡       志茂田景樹
しなやかにわがままに    谷本多美子
白ネクタイのノワ        米原 万里

 

Ⅲ  

猫の似顔絵           出久根達郎
猫の貞節             畑 祐子
猫の成る木           川田 靖子
ペケのこと             眉村 卓
タマとリリー             つかだみちこ
猫おばさんの話         いわたとしこ
ビンラディンと暮らす     吉岡 忍
ネコたちへのレクイエム   水樹 涼子
タマ--母親の威厳     立松 和平

 

 あとがき            森 ミドリ

 

  

  

 あとがき  森 ミドリ

 (前略)
 以前、頼まれて、「花をいとおしみ、花に教えられ」と、いう言葉を色紙に書いたことがあるが、

の場合も同じような気がする。いえ、それ以上に、本来の人間らしさを取り戻させてくれるのかもしれない。

 (中略)

 この本に出てくる今も元気なはずの、グレ、キャラ、トモコ、ジャガー、あ・これはだった。

・・・・・・サンちゃん、プーコ、おかめ、クー、ちび、たま、ハルミ、チョコ、チャ、チョビ、ムー、

ノワ、ちび太、メイ、チャロミ、ちーこ、ビ・・・ビンラディン・・・・・・みんなに会いたくなってきたニャー。

 あとがきにならない、あとがきに、あがいてしまった私を、どうか愛すべき

たちに免じてお許し下さいニャー。

 

わたし猫語がわかるのよ 

編者:日本ペンクラブ 光文社 ¥495(税別)

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【読】鬼平犯科帳に出てくる昔のお医者さま!@時代小説

2008年11月11日 | 昔のお医者

鬼平犯科帳 池波正太郎 文藝春秋 (C)フジテレビジョン/松竹株式会社

 

鬼平犯科帳
 鬼平犯科帳(おにへい はんかちょう)は、池波正太郎による時代小説。
「オール讀物」(文藝春秋)に連載された。
火付盗賊改方長官・長谷川平蔵を主人公とする捕物帳で、
剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』とならび人気を保っている。
テレビ・映画・DVD・劇画化されている。


オール讀物」1967年12月号に単発物として『浅草・御厩河岸』が発表され、
この時点では連作小説の意図はなかったが、評判が良かったために次月号から
同誌の巻末を飾る作品としてシリーズ化された。
 単行本掲載時にはこの作に限って順番の入れ替えがある。


鬼平犯科帳』の題名が付されるようになったのは1968年1月号掲載の『唖の十蔵』
からである。
 当時の編集長によれば、野村胡堂の『銭形平次』のように、巻末にあって
「オール讀物」の顔となるような長期連載の作品として、『鬼平犯科帳』を考えて
いたという。
 テレビ版製作にあたっては原作をドラマ化するのみに限り、小説を使い尽くしたら
そこで打切るようにというのが作者の意向であった。

 

1968年には文藝春秋から最初の単行本が刊行された。全部で135作で、

ほか番外編が1作。このうち5作が長編、残りの130作が短編作品である。
未完に終ったのは最後の『誘拐』1作のみで、これは作者急逝のため。
現在は文春文庫に収められ、全24巻(新装版)。

 

              

 

鬼平犯科帳に出てくる昔のお医者さま

 

氏名          初出        場所(現在の地名)
表御番医師・井上立泉「暗剣白梅香( 1巻)」 芝・新銭座(港区東新橋2丁目)

 幕府から二百俵の扶持をうける表御番医師・井上立泉は、長谷川平蔵の亡父・宣雄と
 親交があったことから、平蔵も交誼を絶やさない。長谷川家や火付盗賊改方の主治医と
 いったところで、探索への強力にも労苦を惜しまない。

 

町医者・辻桃庵   「埋蔵金千両( 2巻)」 千駄ヶ谷・大番町(新宿区大京町)
 このあたりでは名のきこえた町医者。もと大泥棒の太田万右衞門を治療している。
 桃庵は、芝・新銭座の表御番医師・井上立泉とも親しい。

 

町医者・中村宗仙  「埋蔵金千両( 2巻)」 麻布・飯倉片町(港区麻布台3丁目)
 中村宗仙は、長崎の中国人から奥義を学んだ指圧の名人。
 辻桃庵の紹介で、千駄ヶ谷・立法寺裏に住む太田万右衞門の病治癒を、五十両で
 引き受ける。後に、長谷川平蔵の躰を役宅に赴いて治療するようになるが、
 宗仙はかって大坂の香具師の元締・白子屋菊右衞門の妾・お八重に手をつける
 事件を起こしていた。白子屋といえば「仕掛人・藤枝梅安」で、梅安と対決する
 最大の敵としてお馴染みだが、「鬼平犯科帳」でもその名が登場する。

 

法眼・千賀道有   「蛇の眼( 2巻)」  日本橋・浜町(中奥日本橋久松町)
 将軍の侍医として世にきこえた、法眼・千賀道有。現在の当主は道有の孫で、
 青年医師・千賀道栄。この屋敷には道有が残した莫大な金銀がある。

 

医者・福井昌貞   「夜鷹殺し( 4巻)」 下谷・御徒町(台東区上野6丁目)
 心中した旗本・川田長兵衛の子息・宗太郎の死体をあらためた医師。
 井上立泉と親交があり、長谷川平蔵は「夜鷹殺し」事件解明の手がかりを得る。

 

町医者・萩原宗順「のっそり医者( 6巻)」日本橋北・小網町二丁目(中央区日本橋小網町)
 貧困の患者には無料で治療する町医者・萩原宗順。態度物腰が騒然としていて
 土地の人から、[のっそり先生]と呼ばれ、服装はいつも粗末だが風格のある人物。
 上州無宿・熊治郎に襲われた、深川・熊井町の東玉庵でただ一人生き残った
 およしが、下女として住み込んでいる。
 この宗順は、かっては武士(早川民之助)で、三十年前に上司を斬って逃走した
 敵持ちであった。

 

町医者・中村景伯  「泥亀( 9巻)」 芝・伊皿子台町(港区三田4丁目)
 泥亀茶やの密偵・七蔵が、持病の痔瘻を治療をしてもらっている。

 

町医者・石川東雲 「お熊と茂平(10巻)」 深川・北森下町(江東区森下2丁目)
 弥勒寺から近い町医者で、寺男・茂平が行き倒れになった折、手当をした。

 

町医者・小出宗安 「むかしなじみ(10巻)」本所・林町四丁目(墨田区立川2丁目)
 五鉄や密偵・五郎蔵、おまさ夫婦の家からも近い町医者。相模の彦十が体調を
 くずした折りなどに、世話になっている。

 

町医者・阿部幸庵 「男色一本饂飩(11巻)」 京橋南・水谷町(中央区銀座1丁目)
 本湊町・稲荷やの竹松が下痢をおこし、母のお静が薬をもらいに行く町医者。
 帰り道に、川向こうの道で、同心・木村忠吾を誘拐した寺内武兵衛を見かける。

 

陰陽師・山口天竜 「毒 (11巻)」 神田・三崎町二丁目(千代田区内神田1丁目)
 祈祷により病を癒し、種々の吉凶を判断する陰陽師。天竜は医師もさじを投げた
 重病人を祈祷で癒したことが評判になり、大きな商家や大名屋敷にも出入りしている。
 大身旗本・土屋家から頼まれた毒薬を、掏摸の伊太郎に掏り盗られたことから、
 [火付盗賊改方]の探索が迫る。

 

町医者・井坂宗仙 「毒 (11巻)」 浅草・今戸町(台東区今戸2丁目)
 陰陽師・山口天竜の従兄弟で町医者・井坂宗仙。天竜は宗仙に毒薬の調達を依頼する。

 

町医者・竹村玄洞 「密偵たちの宴(12巻)」浅草・橋場町(台東区橋場1丁目)
 医者の看板は揚げていても診察はしておらず、竹村玄洞は副業の金貸しにいそしみ、
 浪人に金蔵の番をさせている。
 盗賊・鏡の仙十郎一味に押し込まれたが、事前に察知した密偵・大滝の五郎蔵ほか
 [火付盗賊改方]の活躍で未然に終わる。
 ところが、しばらくして家の者が気づかぬうちに八百五十両が奪われ、数日後その金が
 戻ってくるという事件が起きる。実行したのは密偵たちであった。
 
医師・吉野道伯  「鬼火(17巻)」 本郷・新町家(文京区湯島2丁目)
 元・表御番医師で旗本・渡辺丹後守直義の腹違いの弟の吉野道伯。
 道伯は盗賊とも深い結びつきがあり、関谷村に所有する寮は盗人宿になっている。

 

2008年11月現在・テレビ放送(予定)はない。
 作品は小説の読書や、DVDなどでの鑑賞を勧める。

 

                         

【引用・出典・参考】
鬼平犯科帳 文藝春秋
(C)フジテレビジョン/松竹株式会社
江戸切絵図にひろがる 鬼平犯科帳 雲霧仁左衛門
鶴松 房治 解説  出版:人文社  ¥1,680
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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【読】江戸へようこそ!@杉浦日向子

2008年11月10日 | 江戸を歩く

 江戸へようこそ 杉浦日向子
ちくま文庫 ISBNISBN4-480-02286-4 1989年刊行。500(税別)
 

江戸へようこそ
 江戸人と遊ぼう! 
 葛飾北平賀源内山東京伝も、みんな江戸のワタシらだ!
 江戸人に共鳴し、彼らに新たな生命を吹き込む現代絵師が、
ワクワク、イキイキ、しみじみと江戸を語る。

 

 前口上--江戸へようこそ

ありんす国だより--吉原について
きもの対談 不自由のすすめ  中島 梓
よっこら、すうすう、はあはあ--春画について
みちのく対談 江戸人のテレビ 高橋克彦
真があって運のつき--戯作について
黄表紙を読む『金々先生栄花夢』
つかず、はなれず、ユラユラと--粋について
こたつ対談 東京最後のおめでた人間 岡本 螢
特別付録『乙好太郎 駄弁居眠胡散噺 全』

 

 吉原、春画、戯作、粋・・・。


 中島 梓さん、高橋克彦さん、岡本 螢さんらとの対談も収録。
 江戸の雰囲気に浸っているうちに、いつしか江戸人に・・・。
 解説:泉麻人 氏

 

 

 未だ杉浦日向子は漫画家だった頃。急逝前の彼女は本書で願望している通り

時代考証家になっている。
 対談は、中島梓、高橋克彦、岡本蛍解説は泉麻人。なお、高橋克彦との対談はどこか
ずれている。泉麻人はおおずれ。

 

 黄表紙という女子供向けの絵本。青本というちょっと通好みの本。浮世絵と春画と春本。
絵師。江戸の吉原と京都の島原。花魁、かむろ、新造。という形で語られる
『江戸へようこそ』は江戸という風俗の内に過ごすことを好む杉浦日向子の趣味である。
現代社会の中で江戸風に暮らすのではなくて、江戸っ子として暮らす。
言葉や環境や服装は別に江戸から伝承されているものを直接使う必要はなく、
江戸文化という形の現代社会文化・西欧文化という形とは違った文化基準の自分の生活の中に
取り込む。それが杉浦日向子の語る江戸である。

 

 現代は「経済発展」こそが推奨されるし「最新技術」だとか「最新情報」だとかが価値を持つ。
それらを流通させて金儲けをして「良い生活」を送ろうとする。
  また、それが「裕福な生活」だということになっている。「流行」というものが世界中を駆け
巡ることによって日本という国が相対化され「外国」を意識する。「追随」するのに疲れて
しまった昨今においては「追随しない」のが「流行」になる。どちらにしろ、あまり独立した
姿ではないのは確かなところだと思う。
 江戸という時代も現在と似てなくもない。ただ、決定的に違うのは「外国」がなかったという
ことだと思う。あえて経済発展をする必要もなかったし、外貨を獲得して諸外国から離れて
裕福になる必要もなかったし、それほど金銭が流通していたわけではない。

 情報が駆け巡るのも世界規模ではなくてせいぜいが町内規模であり、

「身分」という絶対的なものがあったから、上流社会である「武士」と下流社会である「町民」とは

全く別の種族として相憎み相羨みして過ごしていた。

 

 そこから厭世嗜好が出てくるのか風雅が生まれるのか自暴自棄が生まれるのかは
個人の問題であるものの、決定的な「個人」を持たなかった江戸という時代ではさほど悩むこと
なく自分を社会に住まわせていたと考えられる。

 

「江戸時代はよかったなあ」と思うほどに江戸がよかったのかといえばそうではないだろう。
少なくとも自己肥大極まる現在の人間がぽんと江戸に住んだところで決して幸せにはなれないだろう。
石川栄輔が江戸を題材にしたシリーズを書いているが時代考証は別として、主人公が裕福でなければ
江戸の長屋にマッチさせることができないほど、江戸という時代はそれぞれの身分分けが強固で
あったと云える。
 ひとつの身分に収められたら最後、一生その身分の中で過ごすのが普通であり常識だった、
ということだと思う。翻ってみれば、現代社会は子供時代には教育により身分を越えることができる
ような希望を持ち、それを育てる親は親なりの身分で子供を見るという歪みの中にあるわけだから、
一概に自己なんてものを意識するのも善し悪しというところだろうか。
 そのあたりの批判は別として、「江戸」に飛び込んで自分なりの江戸感覚を身に付けたいという
嗜好が、杉浦日向子の江戸時代考証への理由だと思う。もちろん、実際に江戸文化の研究を飯の種に
しているひとは事細かに比較対照させる「現代の研究」を追求しなければならないのだろうが、
ひとつ江戸風に物事を弄んでみるのも一興というところだろう。
 そういう自然な接し方が「通である」ということ。
 だから、高橋克彦は野暮であって、泉麻人は下司。

 

出典:稀Jr ( まれにじゅにあ )  書評 goo

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