おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

死は不可知だが、可信ではある

2012年12月23日 07時25分44秒 | 日記
読書を現代医学の現状とくに「医療の壁」をとことん追求してみたいと蔵書のなかの医学関係の本を書棚から何十冊か抜き出して再読、再々読になるのだが読み始めた。

今は立花隆、中川米造、村上陽一郎、小松秀樹(「医療の限界」)、熊本大学医学部の基礎医学の教授が書いている医学概論の本・・・

宗教とは人間の前にどかんと控えている「死」に対してどう対処していったらいいのかを模索した文化的な試みだったのではないか?

今朝、山折哲雄と立花隆の対談を読んだが、平安期に出た源信僧都の弟子達で作ったグループが死を前にすると五穀を断ち、さらに死に近付くと木食といって木の根、木の実だけで生活していく。そして断食していよいよ死を迎えるという。

この修行というか「死の作法」の中で、行者は臨死体験をするというのだ。目の前に阿弥陀如来が現出したとか・・・

あの冷静な宗教哲学者の山折でも自分の臨死体験(若い頃飲んでいてバケツ一杯の吐血・下血で医を3分の2切っている)で目の前に5色の幟が現れたという。

死を前にするとき生命力が極度に落ちて、脳機能も低下するから理知的判断が衰えている。そこに普段から死について持っている自分の想念=宗教的な信条かもしれないがそこが現れるのかもしれない。信仰しているご本尊が自分を浄土へ導きに御出でになるとか・・・

私の妻は一度そういう危ういときに「マリア様に会った」と今でも信じている。但しキリスト教に入信することはなかったが・・・

マヤ暦最後の日だったそうで、終末論が世界を席捲した。日本ではあまり騒がれなかったようだが、近代社会が宗教を追い出して以降、信仰のない現代人は科学的理論で分析し、記述し表現しようとする。

だから本気でこの終末論信じたものはいなかったと思う。便乗だけで・・・

しかし、それは本当に幸福であるのかどうかはわからない。終末論はさておき・・・