今朝は穏やかな天気のようだ。書斎は暖房無しで14度あった。夜は激しい風音がしていたし、叩きつけるような雨が降っていた。気温が下がっていないので、畑には幸いだ。
昨日の「ナニコレ」、爆発的な閲覧・訪問でパンクするかと思ったら、全然たいしたことはなかった。
私と世の中の価値観に相当差ができているのかなー?
「がんばれたみや」さんの宣伝広告、時代を先端から打つのではなく、昭和の古い手法をあくまで貫いた見事なまでの店のオヤジの依怙地さ。ある意味での時代を象徴するものなのだがー
さて、昨日は心臓のCTを撮りに、久しぶりに熊本中央病院の門を潜った。狭心症の発作が起こったのが平成18年12月。もう4年になる。その後再度心臓の不調でカテーテルを挿入し「冠動脈れん縮」を発見した。はじめはステントを入れたのだが、2回目は薬を変えただけであった。そしてこれまで無事に過してきているのだが、年に一回くらいは全身くまなく調べようと心臓も造影剤を注入しながらCTを撮ることにしたのだった。
無事終わったが、来週木曜日に主治医に結果を聞くことになっている。
こういう検査検査で病院に行く機会が多かったので、待ち時間本を読む時間も多く、読書が進んだ。


11月に私にとっての文学の師匠であった鶴田康己先生が急逝された。大きな示唆を与えていただいた。大事な大事な社会科の同僚であり心の恩師であった。
訃報を得て自宅に駆けつけた。喪中の札も貼っていない。普段どおりの閑静な佇まいで、奥様と対面した。遺骨を前に号泣した。ハンカチを持っていなかった私は手の甲で涙を拭っていると奥様はティッシュをさり気なくテーブルに出された。
二人で先生の思い出話を2時間ほど語り続けた。
そしてテーブルに乗っていた本を「是非おやまさんに差し上げたい。うちの人もおやまさんだったらとても喜んでくれるはず」と頂いた4冊の本がある。

その内加島祥造と帯津良一の対談「静けさに帰る」(風雲舎)を読んだ。
二人とも全く知らなかった。読むと加島は老子の研究者で実践者=タオイストで都会から伊那谷に居を移しここでいろんなを著作活動している。帯津は東大医学部出身の医者で現在「ホリスティック医学」の第一人者。
私も随分前に老子・荘子を勉強した。その影響が未だに色濃く全身に残っている。高校の校長と立場を定年まで1年残して突然辞退し、最後の職場として付属幼稚園の園長を決め定年まで勤め上げた。そして街からこの阿蘇南郷谷に隠棲の道を選んだのは老子もあるし良寛もある。
医学、移植を象徴とする先進医療に対する疑念と現代医療への不信があって、ずーっと近代以前の医学者のことを勉強してきた。
山脇東洋、前野良沢、伊藤玄朴、稲本いね、関連するシーボルト、杉田玄白、高野長英、松本良順、渡辺崋山、緒方洪庵、大村益次郎、福沢諭吉・・・
そして医学に関しては生命倫理を専門に学び、そこからターミナルケアー(終末期医療)についても長い間勉強してきたし、コレはいまも続いている。最近では徳永進の「人あかり」を読んだ。医学についての本を渉猟していた時期があってその時にホリスティック医療も知っていた。随分昔の話だ。興味ある方向性と思ったし同感していた。
医学書を何故読むのかについて職務上の件があった。高校に看護科があり、将来看護師になって医療に進んでいく生徒を育てていた。その生徒・学生に倫理を教えたり、訓話をしなければならなかった関係があったのだ。熊本大学の教育学部特別看護教員養成課程の学生に講義するという仕事も持っていた。8年続いた。
ホリスティックとは全体性とでもいったりいのか、今の学問が物事を細かく分析して突き詰めていくことを中心にし、エビデンス=実証がなければ一歩も動かない。これが全てでいいのかどうかという疑問。部分は全体の一部であって全体を見ていかなければ部分=末梢は見えないのではないかー心身そして命はばらばらではなく神は全体を一つの生命体として創造された。
そこから病状・症状を見直していく。より細かく微細にこれに対するアンチテーゼ。
本は分かりやすい入門書的なものだった。先生は74歳の生涯の末期になってここに到達された。何故か私はもっと早くこの世界を知ったけど、晩年になってクロスオーバしたのは何かの因縁だと思うし、良かったというのが実感。


もう一冊は池澤夏樹の「花を運ぶ妹」。
村上龍の一連の麻薬=クスリ小説を思い出す。毎日出版文学賞を取ったというのだが、どう評価されたのだろう?確かにドイツ人の女インゲボルグと美術について議論を戦わす場面が小説の中心軸になっていると思うが、結局インゲボルグはヘロインの世界に誘い入れていく。「人は目前の動きに目を奪われすぎている。大事なのは存在の土台の方よ。揺るがない・・・永遠の闇。千年単位でしか安定しないものの方。骨が化石になる速度でものを見なければ」とインゲボルグのいう理論にはどこか死の臭いがある。そして岩になって横たわって、ゆび一本動かさないで見るだけの存在で、その感覚だけを頼りに世界観を作り上げる。それが快感。テッチはその誘惑に負けてヘロイン吸入を始める。逮捕、拘禁、裁判。死刑の声も・・・
兄の窮地を妹が救うという筋書きだが、どこをもって文学賞の価値ありとしたのか私には分からない。禁断症状で苦しむ場面も出てくる。しかし結局、刹那に生きる人間は悠久の自然の美を絵画や彫刻その他の手段で描き出すことはできないのか。1千年もじっと動かない岩には永遠を象徴する美があって、そのスパンから比べると一瞬でしかない生を生きる人間にその価値=美を掴み取ることができない。できないのはできないとした上で、人間は紙の上にそれを表現しようと血を流しながら描いてきたのだ。限りはあるだろうが、それを求めていくことが快楽なのじゃないかー。紙の上にそれを表現しようと血を流しながら描いてきたのだ。限りはあるだろうが、それを求めていくことが快楽なのじゃないかー。クスリが一瞬無限の世界を垣間見せるとしてもそれは幻覚に過ぎない。くすり賛美の文学が多い。どうもこの手の文学は好きになれない。池澤の父親が福永武彦だっていうのもなにかあるようにも思えるが。
今外はたいへんな空模様。雲に閉ざされ、強い風が時々吹き抜ける。暴風雨の注意報が出ているようだ。いやな天気の一日になりそうだ。
新しい本をどれにしようかという時が一番の快感だ。さて、ナニを読もう?
昨日の「ナニコレ」、爆発的な閲覧・訪問でパンクするかと思ったら、全然たいしたことはなかった。
私と世の中の価値観に相当差ができているのかなー?
「がんばれたみや」さんの宣伝広告、時代を先端から打つのではなく、昭和の古い手法をあくまで貫いた見事なまでの店のオヤジの依怙地さ。ある意味での時代を象徴するものなのだがー
さて、昨日は心臓のCTを撮りに、久しぶりに熊本中央病院の門を潜った。狭心症の発作が起こったのが平成18年12月。もう4年になる。その後再度心臓の不調でカテーテルを挿入し「冠動脈れん縮」を発見した。はじめはステントを入れたのだが、2回目は薬を変えただけであった。そしてこれまで無事に過してきているのだが、年に一回くらいは全身くまなく調べようと心臓も造影剤を注入しながらCTを撮ることにしたのだった。
無事終わったが、来週木曜日に主治医に結果を聞くことになっている。
こういう検査検査で病院に行く機会が多かったので、待ち時間本を読む時間も多く、読書が進んだ。
















11月に私にとっての文学の師匠であった鶴田康己先生が急逝された。大きな示唆を与えていただいた。大事な大事な社会科の同僚であり心の恩師であった。
訃報を得て自宅に駆けつけた。喪中の札も貼っていない。普段どおりの閑静な佇まいで、奥様と対面した。遺骨を前に号泣した。ハンカチを持っていなかった私は手の甲で涙を拭っていると奥様はティッシュをさり気なくテーブルに出された。
二人で先生の思い出話を2時間ほど語り続けた。
そしてテーブルに乗っていた本を「是非おやまさんに差し上げたい。うちの人もおやまさんだったらとても喜んでくれるはず」と頂いた4冊の本がある。

その内加島祥造と帯津良一の対談「静けさに帰る」(風雲舎)を読んだ。
二人とも全く知らなかった。読むと加島は老子の研究者で実践者=タオイストで都会から伊那谷に居を移しここでいろんなを著作活動している。帯津は東大医学部出身の医者で現在「ホリスティック医学」の第一人者。
私も随分前に老子・荘子を勉強した。その影響が未だに色濃く全身に残っている。高校の校長と立場を定年まで1年残して突然辞退し、最後の職場として付属幼稚園の園長を決め定年まで勤め上げた。そして街からこの阿蘇南郷谷に隠棲の道を選んだのは老子もあるし良寛もある。
医学、移植を象徴とする先進医療に対する疑念と現代医療への不信があって、ずーっと近代以前の医学者のことを勉強してきた。
山脇東洋、前野良沢、伊藤玄朴、稲本いね、関連するシーボルト、杉田玄白、高野長英、松本良順、渡辺崋山、緒方洪庵、大村益次郎、福沢諭吉・・・
そして医学に関しては生命倫理を専門に学び、そこからターミナルケアー(終末期医療)についても長い間勉強してきたし、コレはいまも続いている。最近では徳永進の「人あかり」を読んだ。医学についての本を渉猟していた時期があってその時にホリスティック医療も知っていた。随分昔の話だ。興味ある方向性と思ったし同感していた。
医学書を何故読むのかについて職務上の件があった。高校に看護科があり、将来看護師になって医療に進んでいく生徒を育てていた。その生徒・学生に倫理を教えたり、訓話をしなければならなかった関係があったのだ。熊本大学の教育学部特別看護教員養成課程の学生に講義するという仕事も持っていた。8年続いた。
ホリスティックとは全体性とでもいったりいのか、今の学問が物事を細かく分析して突き詰めていくことを中心にし、エビデンス=実証がなければ一歩も動かない。これが全てでいいのかどうかという疑問。部分は全体の一部であって全体を見ていかなければ部分=末梢は見えないのではないかー心身そして命はばらばらではなく神は全体を一つの生命体として創造された。
そこから病状・症状を見直していく。より細かく微細にこれに対するアンチテーゼ。
本は分かりやすい入門書的なものだった。先生は74歳の生涯の末期になってここに到達された。何故か私はもっと早くこの世界を知ったけど、晩年になってクロスオーバしたのは何かの因縁だと思うし、良かったというのが実感。









もう一冊は池澤夏樹の「花を運ぶ妹」。
村上龍の一連の麻薬=クスリ小説を思い出す。毎日出版文学賞を取ったというのだが、どう評価されたのだろう?確かにドイツ人の女インゲボルグと美術について議論を戦わす場面が小説の中心軸になっていると思うが、結局インゲボルグはヘロインの世界に誘い入れていく。「人は目前の動きに目を奪われすぎている。大事なのは存在の土台の方よ。揺るがない・・・永遠の闇。千年単位でしか安定しないものの方。骨が化石になる速度でものを見なければ」とインゲボルグのいう理論にはどこか死の臭いがある。そして岩になって横たわって、ゆび一本動かさないで見るだけの存在で、その感覚だけを頼りに世界観を作り上げる。それが快感。テッチはその誘惑に負けてヘロイン吸入を始める。逮捕、拘禁、裁判。死刑の声も・・・
兄の窮地を妹が救うという筋書きだが、どこをもって文学賞の価値ありとしたのか私には分からない。禁断症状で苦しむ場面も出てくる。しかし結局、刹那に生きる人間は悠久の自然の美を絵画や彫刻その他の手段で描き出すことはできないのか。1千年もじっと動かない岩には永遠を象徴する美があって、そのスパンから比べると一瞬でしかない生を生きる人間にその価値=美を掴み取ることができない。できないのはできないとした上で、人間は紙の上にそれを表現しようと血を流しながら描いてきたのだ。限りはあるだろうが、それを求めていくことが快楽なのじゃないかー。紙の上にそれを表現しようと血を流しながら描いてきたのだ。限りはあるだろうが、それを求めていくことが快楽なのじゃないかー。クスリが一瞬無限の世界を垣間見せるとしてもそれは幻覚に過ぎない。くすり賛美の文学が多い。どうもこの手の文学は好きになれない。池澤の父親が福永武彦だっていうのもなにかあるようにも思えるが。
今外はたいへんな空模様。雲に閉ざされ、強い風が時々吹き抜ける。暴風雨の注意報が出ているようだ。いやな天気の一日になりそうだ。
新しい本をどれにしようかという時が一番の快感だ。さて、ナニを読もう?