marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(215回目)脱線Ⅵ K・バルト(年末説教)

2016-12-27 19:03:19 | 日記
これは、新教出版社からでています文庫、バルトセレクション1「聖書と説教」の中の1959年12月27日 57年前の今日、イザヤ書54章10節から あなたを憐れむ方なる主 と題してバーゼル刑務所にて行われた説教の一部です。(先に述べてきましたが、バルトらしい言い回し(日本訳ではありますけれど)、そして彼は、何をポイントとしているかを念頭においてもらえれば、20世紀最大の神学者と言われるカール・バルトの膨大な著作の一部に触れることが、いつかあるかも知れない方にも恐るにたらずです。この本の表紙にもこうあります。「人は超越者の言葉を聴くことができるのか」) ひとりでも多くの方が自分の言葉でイエスと語ることができますように心から祈ります。それでは・・・
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 私たちはあと数日で大晦日を迎えることになります。そしてその意味することはこうでしょう。「1959年よ、さようなら! お前は過ぎ去り、再び帰ってくることはない」と。そして、来るべき1960年に関して全く確実なことが何かあるとすれば、それは、この年もまた大晦日を迎えるであろう、それゆえ、この年もまた倒れ、離れ去り、過ぎ去るであろう、ということです。そうです、そしていつか、つまり死が訪れる時、それは私たちすべての者にとって大晦日となるでしょう。そしてまた、いつか、あの大いなる大晦日そのものが始まるでしょう。その時、全世界にとってもはや時間は存在しないでしょう。「しかし、我が恵みがあなたから離れることはない」! 人がこれを聴くならば、そのとき人は強くなるのです。離れ去り、倒れ、過ぎゆく時間の中で生きることができるほどに、---時間が私たちになおも与えられているかぎり---その時間を所有することができるほどに、その時間を用いることができるほどに、しかしまた、---時間が致し方なくも過ぎ去りゆき、私たちから再び取り上げられる時---悲嘆に暮れることなしに、その時間を引き渡すことができるほどに、強くなるのです。
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 私は終わりに近づいています。人は新年に向かうにあたって良きことを願うのが常です。幸福や祝福、健康や喜ばしき日々を。それは麗しいことですし、正しいことです。私たちもまた互いに、そのことを願いたいと思います。私はあなたたちに、そしてあなた方は私に。けれども、根本においては、私たちが互いに対して望みうるただ一つの全く善きことだけが存在致します。それは、わたしたちが今しがたお聴きしたことが私たちを本当に真っ直ぐに起こして励まし、支え、慰め、喜ばせてくださいますように、ということです。すなわち、「我が恵みがあなたから離れ去ることはなく、我が平和の契約が倒れることはない」ということが、です。これこそが、ものを言います。なぜなら、誰か或る人間がこれを言っているのではなく、これを語り給うのは主、だからです。あなたを、私を、私たちすべての者を憐れむ方なる主が、語り給うのだからです。アーメン
(1959年12月27日 バーゼル刑務所にて カール・バルト)・・・ Ω 
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世界のベストセラーを読む(214回目)脱線Ⅴ K・バルトさんについて

2016-12-27 18:57:04 | 日記
このブログのジャンルに”哲学・思想”もありますね。内容は、”哲学・思想”ではなくて倫理やメンタルセラピーに近いように思いますね。新聞の書籍広告でも情緒的な、メンタルな、涙、感動・・・etcの書籍の広告。この国では限界なのでしょうかねぇ。
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◆さてもう少し、カール・バルトのことについて書きます。前回は、元東京神学大学の近藤勝彦先生の書かれた本から、カール・バルトについての一部紹介を述べました。このブログの182回に書いたことをもう一度、書きます。20世紀最大の神学者カール・バルトがどうしてパウロが書いた神学書とも言われるローマ人への手紙、その第1章17節を本来、ギリシャ語で書かれた手紙の箇所をバルトさんは読み間違えている訳では(当たり前ですが)決して無く、バルトさんなりの意図があってそう訳したかが分かるように思われるからです。
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 来年2017年は宗教改革500年M・ルターの信仰義認を獲得した箇所でもあるです。新約聖書、パウロの書いた「ローマ人への手紙」から・・・
◆(1:16)「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。」(1:17)「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」 口語訳です。これが、新共同訳では
◇(1:16)「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(1:17)「福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しいものは信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」となっています。
◇ところが、カール・バルトさんは、そのロマ書講解で、アンダーラインのところを「真実から始まり信仰に至らせる」と訳してているということでした。この理由は、無論、神学の大家ですからギリシャ語をそのまま訳せば”信仰に始まり信仰に至らせる”となる訳ですが、なぜ”真実から”と訳されたのかは、今までの回の説明から 近藤先生の解説にアンダーラインを引きましたが、カール・バルトは意図的(思惟的)にそのように読み込んでいることがわかるのではないでしょうか。バルトは、そのように読み込んでも、「言いたいことはこれなのだ」ということを強調しているようです。過去のことを調整して理解して、そのまま満足してしまう神学なるものはない。あくまで戦う神学者でもあったわけです。そうでなければ神学は神学ではないと。現に彼は、他の神学者とも論争をしています。近藤勝彦先生は、彼(バルト)の考えにはすべてにおいて賛成できるものではないと書いているところがありますので、興味深く思います。ラインホールドニーバーの論争にもバルトは「キリストの勝利」に携わっていることが自由と喜びを与えると語ったのに対し(彼の考えの延長として)、ニーバーは「われわれは人間であって神ではない」と言ったと書いています。この反論もニーバーの日本人最後の教え子となった神学者大木英夫さんが日本に紹介した彼(ニーバー)の”冷静さを求める祈り”が有名ですがいかにもニーバーらしい反論だと思い、感動します。
あと数日で、2016年は終わります。次回、カール・バルトが1959年の年末に語った説教の一部を掲載して、しばらくバルトさんから離れようと思います。・・・ 

世界のベストセラーを読む(213回目)脱線Ⅳ K・バルトさんについて

2016-12-25 21:43:38 | 日記
カール・バルトは天才音楽家モーツァルトが好きでしたの敬意を払って You Tube の Mozart 名曲集を聞きながら・・・
◆元東京神学大学の学長であられた近藤勝彦さんの「二十世紀の主要な神学者たち」(私は彼らからどのように学び、何を批判しているか)(教文館:2011年4月10日初版) 2 カール・バルトとの出会いと格闘 から
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◇『ロマ書講解』(第二版)は当時の神学の世界に広く衝撃を与え、それ以前の神学、十九世紀の「学問的神学」あるいは「自由主義神学」と言われたものとはっきり決別した、新しい「神の言葉の神学」の出発点になりました。そこでは従来神学の基盤であった人間の宗教経験とか、それを把握する心理学的方法や歴史的方法は拒否され、神と人との無限の質的断絶が強調されました。「神のみを神とせよ」。あの第一の戒めが高らかに鳴り響きました。神学において文化的な前提とか、歴史的な資産に対する依存性は覆され、まったく圧倒的に上から迫ってくる神の言葉が強調されました。「危機の神学」とも言われたように、人間的、文化的、社会的なものは、すべて「危機」の相の下に見られ、垂直線の上方向から迫る神の言葉、多くは審判的な神の言葉にさらされました。(p30)
◇カール・バルトを代表とする「神の言葉の神学」もしくは「危機の神学」は、また、「弁証法神学」とも呼ばれました。これはバルトの『ロマ書講解』(第二版)の序文の中に自分に神学的な思惟方法があるとすれば、キェルケゴール的な永遠と時間の無限の隔たりに立ち続ける逆説的弁証法であると語ったバルトの言葉から来ています。(p32)
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◆さて、僕が本ブログの自己紹介に書いたこと”すべてのしがらみから解放されて・・・”がまがりなりにも書かれている訳です。人間的な思惑というか、神の言葉を取得したら自己了解のもとにおき、それが一人歩きする。そして、心理的に拘束することにもなる。取得した言葉、神の言葉は一方的にその個人に語られるものであって、それがまた他に、それは他の霊を持つものに対して拘束となるものではないということだと思われる。そこには、不完全な人間の言葉が入り込んでいるだろうから。
◆イエスは、疑い深いトマスに言う。「われ(イエス)は道なり、真理なり、命なり」と、また「真理はあなた方を自由する」と。本来、神の言葉は(人間の)すべてのしがらみ(無論、その中には人間の「死」もはいる)から解放された真の自由を保証するものなのである。・・・Ω  

世界のベストセラーを読む(212回目)脱線Ⅲ K・バルトさんについて

2016-12-25 20:28:55 | 日記
25日、日曜日クリスマス礼拝、午後は来られた方とのお食事で祝会を行う。後かたづけ後、僕は来られなかった高齢者の方にツリーをかたどったショートケーキと本日の礼拝の栞を持って訪問した。 穏やかな静かな夜である。You Tube の J.S.Bach 名曲集を聞きながら・・・。
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◆さて、バルトさんの続き・・・
僕が、K・バルトを読む時に、感じる印象を今まで述べたけれど、僕のようなドシロウトでも読むのであれば、なるほどそのポイントを押さえてみれば、何を言いたいのかは凡てとは言わないけれど、おおよそ理解していただけるのではないかと思う。おおよその神学者は基本となるその考えが、ベースにあるのであって、少なくともバルトさんは、その膨大な著作量もすごいけれど、当然といえばいいいか、その時代の読んでもらう人々が想定されているのであるから時代に対して、あるいは時代は変わった考え、あるいは時代として感化されない読み聞かれなければいけないなどということの伝達が使命となっていることです(バルトさんは一番最後だろうけれど)。どうぞ、ご興味あるかたの多く読まれることを希望致します。
◇しかしながら、プロ級のその道の大家では、当然、その先理解の知識量も膨大なものであって、その先理解がある程度、知識として実際に就いていないと少し理解度の深さには困難を生ずるかもしれません。そこで、基本に戻りますと、十字架で言えば、縦の杭に当たる、しかも鋭く、あちらとこちらとの移行時の接触点、変曲点、臨界点のように神の言葉を強調していることです。人間の自己了解のこちら側のあれやこれやではなく質的次元の断絶、相違が既にあるということ。かといって、まったくぶちぎれていれば、こちら側の人間も理解も何もあったものではないのですが・・・。僕ら凡人は、その神の接点にイエスが立たれたというその、霊的な驚愕という一瞬でも感ずることができれば、その述べられた内容の目標が達成されたとしなければいけないと思います。
◆元東京神学大学の学長であられた近藤勝彦さんの「二十世紀の主要な神学者たち」(私は彼らからどのように学び、何を批判しているか)(教文館:2011年4月10日初版)には、最初に出会った神学者はカール・バルト(Karl Barth)であったと述べています。  この後には、批判としてやはり、歴史的な見方がなされていないと述べていますが、僕から言わせると何も神学者というのは、時代の預言者としての影響を強調して欲しいのでそれは、それでいいのだと思うのだ。総括的にまさに学問としてのあれやこれやを傍観者的に理路整然と述べるのではなくてね。いつの時代も神学者は戦わないといけないのだと思う。自分の説に悦にいって学問としての象牙の塔の中に引き込むより、時代に議論を吹きかけ、引き回し、あるいは、時代を背後で動かす悪の霊に対抗すべく安穏とした人々への警告者であって欲しいのだ。その道の人々には特に僕はそう思う。教師は特別厳しい裁きを受けるとある・・・。
◇次回、近藤勝彦先生のその著作の中の『ロマ書講解』について述べた一部を紹介することにします。・・・

世界のベストセラーを読む(211回目)脱線Ⅱ K・バルトさんについて(続き)

2016-12-24 17:31:28 | 日記
今日は、土曜日24日でクリスマス・イブである。教会に行く。(共同体の一部に加わり、そこで共なる生活が行われることが実は、キリスト者としてメインとなるのであります。正しくはですね。この群れの形成ができないと詰まるところ、何を言い、何を考えられておられましても駄目なのであります。ですから、あなたの一番マッチした群れをお選びになることをお勧めします。)
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今回は、K・バルトを読むときのポイント・・・
◆さて、K・バルトさんの縦の線、つまりイエスの十字架で言えば、縦の線(杭)にあたる部分はしっかり、地面に建てられていること、しかも、読む人の罪のための杭となって建てられていることに痛みを感じ、その鮮烈なイエスの裂かれた肉の間からほとばしる癒しの言葉として神の言葉が読み取られるものでなければいけないという、そのようなイメージをバルトの神の言葉についての解説を読むとき文面のいたるところに読みとることができるのではないかと思われる。それが、20世紀最大の神学者と言われるK・バルトを読むときのポイントとなる。”しかり”は同時に”否”である・・・というような表現、つまり、我々、肉なるものには神の言葉は、その、生きて働いている神、そのもとにある被創造物としての人間であるところの神の言葉を受領することの接点、臨界点、数学で言えば変曲点にあたる部分に彼イエスの言葉の真に立ち向かうことが、開示がされるのだという表現の仕方である。それは、手にしているローマ書講解のすべてにわたり、そのような表現を見ることができるのである。したがって、肉なるこちら側のわずかの思惑、善悪の判断などわずかの隙もなく許容しない。そういう読み方をするとバルトの書いた文章はわかるように思われる。・・・Ω