marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(212回目)脱線Ⅲ K・バルトさんについて

2016-12-25 20:28:55 | 日記
25日、日曜日クリスマス礼拝、午後は来られた方とのお食事で祝会を行う。後かたづけ後、僕は来られなかった高齢者の方にツリーをかたどったショートケーキと本日の礼拝の栞を持って訪問した。 穏やかな静かな夜である。You Tube の J.S.Bach 名曲集を聞きながら・・・。
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◆さて、バルトさんの続き・・・
僕が、K・バルトを読む時に、感じる印象を今まで述べたけれど、僕のようなドシロウトでも読むのであれば、なるほどそのポイントを押さえてみれば、何を言いたいのかは凡てとは言わないけれど、おおよそ理解していただけるのではないかと思う。おおよその神学者は基本となるその考えが、ベースにあるのであって、少なくともバルトさんは、その膨大な著作量もすごいけれど、当然といえばいいいか、その時代の読んでもらう人々が想定されているのであるから時代に対して、あるいは時代は変わった考え、あるいは時代として感化されない読み聞かれなければいけないなどということの伝達が使命となっていることです(バルトさんは一番最後だろうけれど)。どうぞ、ご興味あるかたの多く読まれることを希望致します。
◇しかしながら、プロ級のその道の大家では、当然、その先理解の知識量も膨大なものであって、その先理解がある程度、知識として実際に就いていないと少し理解度の深さには困難を生ずるかもしれません。そこで、基本に戻りますと、十字架で言えば、縦の杭に当たる、しかも鋭く、あちらとこちらとの移行時の接触点、変曲点、臨界点のように神の言葉を強調していることです。人間の自己了解のこちら側のあれやこれやではなく質的次元の断絶、相違が既にあるということ。かといって、まったくぶちぎれていれば、こちら側の人間も理解も何もあったものではないのですが・・・。僕ら凡人は、その神の接点にイエスが立たれたというその、霊的な驚愕という一瞬でも感ずることができれば、その述べられた内容の目標が達成されたとしなければいけないと思います。
◆元東京神学大学の学長であられた近藤勝彦さんの「二十世紀の主要な神学者たち」(私は彼らからどのように学び、何を批判しているか)(教文館:2011年4月10日初版)には、最初に出会った神学者はカール・バルト(Karl Barth)であったと述べています。  この後には、批判としてやはり、歴史的な見方がなされていないと述べていますが、僕から言わせると何も神学者というのは、時代の預言者としての影響を強調して欲しいのでそれは、それでいいのだと思うのだ。総括的にまさに学問としてのあれやこれやを傍観者的に理路整然と述べるのではなくてね。いつの時代も神学者は戦わないといけないのだと思う。自分の説に悦にいって学問としての象牙の塔の中に引き込むより、時代に議論を吹きかけ、引き回し、あるいは、時代を背後で動かす悪の霊に対抗すべく安穏とした人々への警告者であって欲しいのだ。その道の人々には特に僕はそう思う。教師は特別厳しい裁きを受けるとある・・・。
◇次回、近藤勝彦先生のその著作の中の『ロマ書講解』について述べた一部を紹介することにします。・・・

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