marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(88回目)

2016-08-09 18:36:18 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆  前回からのつづき・・・(その2)
ヨハネ伝のヨハネさんは弟子の中で最も長生きした。それで、愛弟子として共同体の群れが出来て、時間が経過する中でイエスが生前行っていたこと、昔から聖書(旧約)に書かれたいたことなどを反芻しその記事がますますイエスの事ことを証言していることに確信を強めていったことになる。(12:16)「弟子(でし)たちは初めにはこのこと(その前の12~15節に書いてあるが先祖伝来読まれてきた聖書の詩編に書かれている(118章25、26節とゼカリヤ9章9節)を悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い出した。」とあるのは、ヨハネ共同体ができつつあるなかでこのように「・・・思い出した」とあるように「そういえば・・・」というように様々な群れの人々からの話を確認して総括的な説明分を編集、挿入したことになるのです。38節~41節の旧約の預言者イザヤについての言葉の引用もそれに準じます。
◆異邦人であるギリシャ人が尋ねて来たとき、イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と言う。それは、7章の6節でイエスが「私の時はまだ来ていない」と話されたのと呼応しているようだ。異邦人にイエスの名が知られ父の命(メイ)のとおり十字架に掛かられる時が迫ったことを悟ったその十字架に掛けられるその時なのであった。その父の命(メイ)の内容をイエスは24節~27節で語る。(27節)「今わたしは心が騒いでいる。わたしは何と言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。」そして、その命令を集約してヨハネは12章の終50節に載せた。(50節)「わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それ故に、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」と。
さばきとは、イエスをキリストとして信じるか信じないかなのである。(12:47)「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしが来たのは、この世をさばくためでなく。この世を救うためである。」本来、イエスが十字架に掛かるのはすべての人が信じて救われるためなのだ。(3章17節に同じ)(8:15-16)「あなた方は肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない。しかし、もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである」。  ・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(87回目)

2016-08-09 10:56:03 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 前回からの続き・・・
ヨハネ伝がすこし他の福音書と異なる理由は、先に少し書いた。イエスが天に帰られ、聖霊を送られ、その体験者の群れが目の前に集まって群れをなしている。そして、イエスの言われたように天の父なる神をあがめ礼拝しているその事実をヨハネさんはヨハネ共同体として実際に体験している訳なのだ。つまり、残されたイエスを信じる人々の群れの、まさに福音の恵みと言う奴の検証が出来た人ということだ。そして、その記録を福音書として残したのです
◆ヨハネは直弟子として体験、聞いていたこと、また、その他イエスの言葉の言い伝えの語録や、奇跡の資料、受難、復活の話なども書き留め、或いは他の無名の弟子などからの資料も参照したかもしれない。ヨハネさん一人でそれらをかき集めるのは少し無理があろうし、まして書き留めるのはかなり困難であったと思う。いずれにせよ、ヨハネ共同体の中でそれは形成をなしていった訳です。ですから、都合良くとは決して言ってはいけませんが、編集がなされ、はっきりさせて良いところは明確にし、編集で少し回りくどい具体性、女性の信仰の自立や光と闇と物語の構成など(盲目の青年の癒しで光を感ずることが出来たこと、光ある内、光の中を歩めと言われたことが続く、あるいは、ユダの裏切りでイエスを渡すために夜の闇に出て行ったことなど、その他)、時間的齟齬、少し構成が乱れているところなどより、目の前の実際の主イエスにより起こされた人々の証言の事実に会わせ福音書を構成したということが考えられる訳だ。何故なら、目の前の現実、それが一番確かな”わざ”だから。それは、イエスの送られる聖霊で生かされる人は2016年の今もそうだということになる。 では、
その証拠の一つ・・・(68回目)を参照ください。
僕が福音書の中で最も好きな物語ヨハネ伝第9章、「この男が生まれつき盲目なのは、この者の罪か親の罪か」。イエスが答える「この者の罪でも親の罪でもない、神の栄光が現れるためである」。この物語は何度読んでも僕は心が奮えるね。で、なんと、生まれつき盲目で神から見放され人とも思われなかった男(青年)が天下の権威パリサイ人に説教し始めるところがあるでしょう!(9:30~33)この青年は結局、村八分になるわけだ。これは当時、恐ろしいことだった訳。その後イエスに信仰告白するのだけれど(9:38~39)。イエスが天に帰られた後、この青年はどうして暮らしたと思う? 
◆それはね、このヨハネさんのいた共同体の群れの一人として本当にまさに良き、動かしがたい生き証人として天寿を全うしてイエスの元へ帰っただろうなということが分かる訳。それは、ヨハネさんが今まで誰にも相手にされなかった青年に先んじて語らせてしまっている次の言葉にある。(9:31)「わたしたちはこのことを知っています。・・・」 Ω 

世界のベストセラーを読む(86回目)

2016-08-09 09:35:31 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
これをお読みになる前に前の回の最後の方のお断りをお読みください。どうしても12節から13節以降へは他の福音書を比較読みたくなるのですね。でも、極力我慢して・・・。
◆さて、第12章3節、イエスに甦らされたラザロとマルタの姉妹マリアがイエスに香油を塗る場面です。他の共観福音書には、名前がきちんと書かれていないのね。マタイ(26:7)やマルコ(14:3)は「ひとりの女」、ルカさんなどは「罪の女」と書いてます(7:37)→ですから、同じマリアではなくて、その手の解説書などには何度か女性に同様な葬りの備えの香油注ぎがあったということになっている訳です。ちょっと無理っぽいけど、というのは高価で純粋なナルドの香油一斤とヨハネ伝では書いてますから、もし同じ香油であれば誰彼、できないでしょうと思う訳。僕などは、きっと男まさりで商売などやって、ばりばり稼いでいた女性ではないか(そういう意味で嫉妬の意味も込めてルカさんは「罪の女」としたのか、あるいはその商売が客商売であまり他から見て風紀的に良くないと思われていた商売だったのか。・・・とすれば、ピュアなイメージのマリアさんとは全く逆)などと思ってしまうわけです。けれども、それに遡る第11章2節で、香油を注いだのはラザロの姉妹マリアであったとヨハネさんは読者に先読みさせている訳です。
◆で、時間的に見てみましょう。(11:2)ラザロの死の知らせに対し、ヨハネは香油を塗ったマリヤ、その姉マルタが姉妹であったと書いてます。そして、イエスがラザロを死からの甦らせる記事があり、第12章3節までに、マリヤの具体的な香油注ぎの記事が書かれてますね。本来、(11:2)は要らない節・・・!とは言いませんが、ヨハネの先読みが書かれた一節に当たるわけだ。この一節は第12章の7節当たりまでを総括したヨハネさんの思い入れの説明。
◆僕は、何を言いたいのか・・・。日記の開始当初にヨハネ伝のヨハネさんは、12弟子の中では最も長生きをした人(黙示録も書いた人ではないかと言われてます)と書きました。つまり、他の共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)と少し異なるのは、ヨハネ福音書はイエスが無くなってから半世紀も経た後に書かれたものだということ。従って、ヨハネさんが属していた群れの中で読まれたものであること、その中で時に追加や改訂、差し入れなどがあって編集されたであろうこの内容には、既にイエスが昇天され聖霊なるものを送られたヨハネが加わる群れの中での検証が行われていたことの確信が描かれているということなのね。・・・つづくΩ

世界のベストセラーを読む(85回目)

2016-08-09 02:04:38 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
ヨハネ伝第13章に入ろうと思うに大切で書いておかねばいけないことだと声が聞こえてきた。なぜ、ヨハネ伝には書かれたのか。41回目に書いのだがナタナエルのイエスの神の子宣言がありましたね、第1章49節のことです。(ナタナエルは12弟子のバルトロマイではないかと言われている人)。当時、「神」ということばを表記することは、大変な事だったのではなかったかしら。簡単に口にしてはいけない、当時の方もあまりに口にしてはいけない言葉だったので、なんというのか別名で呼んだり、で、本当のよんでいた名前がが不明になったと聞いてます。ここに思い出して書いておかねばと後戻りするのは、大切な箇所第11章27節、マルタの兄弟ラザロのよみがえり(蘇生)のイエスの奇跡の前にマルタがイエスにきちんと、「イエス(あなた様)は来るべき救い主(キリスト)、神の御子(みこ)であることを信じております」(口語訳)と表明しているところです。
◆個人の信仰表明を、しかも当時、地位の低かった女性のそれを書くのは、書いた方(ヨハネさんの)よほどの思いがあったのではないかと思う訳だ。復活のイエスと最初に具体的に会話をしたのも、マグダラのマリアさんでしたからね(20章15節)。これは、後々の女性はとても勇気づけられたと思いますね。どうだ!、復活されたイエス様に会って話をしたのは女なるぞ。天地創造来、悪魔にだまされて罪の誘惑にあったのはエデンの園のエバさんと言われているから、その為ではないだろうけど当時の女性の地位は低かったから、それ以降の歴史においても、キリストが述べ伝えられるところは、葬りの香油をイエスに塗ったマリアが、自分(イエス)が語られるところでは彼女の行為ものべつ伝えられるであろうと言われたように、女性の地位を男と対等の位置に引き上げたのはキリスト教意外に僕は知らない。僕は男だがこういう話にはとても勇気づけられるのだな。
◇そして戻って、第13章に入るのは、これ以降はユダが出て来たり、弟子達への告別説教が始まる訳なので、僕ような人間などは何をか言わんやなのですね。”どうぞお読み下さい”となっていきます。アーメン(そのとおりでございます)となってしまいますが、それならこの日記も終わってしまいますので、改めて進んで読まれる方には、丁寧にお断りをしておかねばなりません。それは、どうぞ、”まじめ”に読みたいと思われる方は、「つまずき」となるやもしれませんからこの先は、あまりお読みなりませんように。・・・その前に第12章をもう少し。・・・Ω