marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(115回目)

2016-08-29 19:53:28 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 今回、少し脱線、でも少し”その時”に関係・・・。
イエスが天の父なる元に帰られる。創世記、神が天地を創造以来、自分(神)の似姿に創造された人間が、神の座を狙う堕天使となった悪魔よりの策略により、神との関係が甚だしく乖離してしまった。その(神の似姿の)片鱗は残ってはいるが、完全ではなく欠けだらけ。アダムは汗水出して労働し、エバは出産の苦しみを経なければ行けなくなったとある。(創世記に! おい、いきなり旧約聖書かよ。新約ヨハネ伝ではなかったの)・・・。
◆いや、神に創造された人間は、神に創造され命の霊を吹き込まれたことを忘れぬ為に、献げものを”はんさい”(傷のない犠牲の生き物)を献げ、神に懺悔、そして感謝を表す。てっとりばやくいうと、旧約の出エジプト記で、天地創造(この時はイエスはすでに父なる神と天の右の座に栄光をもって居られた)の神、歴史に於けるアブラハム、イサク、ヤコブの神である「あってあるもの」という方から、モーセがイスラエルの民の苦しみの声を聞き、エジプトからの脱出を計る際に、その家の鴨居に傷のない羊をほふった血をぬると、神の使いの災い(死)がその家を過ぎ越し、助けられる。種を入れないパンと苦菜を添えて食べ、これが主への過ぎ越の生け贄、それが記念すべき祭りとなった(出エジプト記12章参照)とある。遠い昔のことだが、イスラエル人はこれを守ってきた。その過ぎ越の祭りの時期にイエスは、神から遠く離れたしまった人類の救済の為に自ら過ぎ越の犠牲となって十字架に掛かられるということになるのだ。「聖書が語るのは、わたし(イエス)のことだ」ということは、そのことが天地創造来の全人類に及ぶことを示している訳だ。従って、”今”、イエスが父の元へ帰り、信ずる者の住まいを用意しにいくとは、十字架に自らからがその犠牲にならなければ、それ(救い=永遠の命)が成し遂げられないことを示していることになり、イエスはその為に来たのだという。そして、最後の晩餐の聖餐式の由来が、ここに起因する。これはわたしの肉、これはわたしの血・・・。ユダヤ人、また理解しない弟子たいからもひどい話だと言われたこと(常識的には、そうだろうが)ヨハネ伝に出てくる弟子達は、天にイエスが帰られた後、時間経過の中で送られた真理の霊にことごとく教えられたときにそのことが理解できたのだった。
◆聖書には、天地創造来の気が遠くなるような脈々とした神の摂理(計画)の地下水が流れているのだ。今や、完成しようとしている。”その時”である。・・・