marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(111回目)

2016-08-27 20:22:10 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ ヨハネ伝に戻りますね、口語訳。今回は理屈っぽく、でも大切。
第14章から十字架に掛かられる前の長いヨハネさん特有のイエスの告別説教に入り、脱線とともにまたうろうろし始めた。他の共観福音書とよばれるマタイ、マルコ、ルカさんとなど比較できれば、いろいろなことが書けそうなのであるが、大切なことはすべて福音書ならまず、ヨハネ伝を読みなさいとのプロテスタントの開祖、R.ルターさんの仰せに従ってます。ヨハネ伝は、福音書の中では一番あとに書かれていると言われてますから、実際はイエスが天に帰られてから、その証し(イエスのなされた”わざ”の体験者)の群れとして既に、時間経過の中で存在していたことになるわけですね。ここにヨハネさんの他の福音書とは毛色の違うところでもある。
◆イエスは天に帰られて、少なくとも見える形では居なくて(ヨハネが書いている”今”は不在なんだけれども)イエスが”今”おられるように書いている訳ですね。きっと約束された真理の霊を送られてヨハネさんは書いたのだ、そうとしか思えないな。だからその時半世紀以上昔の事でも、今イエスがおられ、話されているようにリアルに書いていることになるのだな。ここがヨハネさんのすごいところだし、僕らが読んでなんとはなく理解できそうで、でも良く読むと分からないなと思うところでもある。そのことが畏れ多くも神様の言葉なるぞ、という畏敬の念も起こさせる効果ももたらしているという訳だ。この書き方が、2016年(何年後かに読む人は読む年代に読み替えてください)の”今”の普遍性をもって、僕らに語りかける福音書のイエスの言葉なのだとなる。「天地が滅びてもわたしの言葉は滅びない」とイエスは言われたのだ。イエスの言葉を読むところ、イエスも居られる(真理の霊として)という同時性が起こる。少し難しいこれ僕なりの偉そうに考えた造語。
過去の出来事、その時は無知ではあったが、事が過ぎ去り、理解された今、経過しつつある中で、過去に話された未来の事(=十字架刑以降のこと)も含め、今としての過去を書く。しかも、それが、天地創造来の神に選ばれし先祖伝来のすごい長い歴史の中で言われてきた救い主という多々の言葉の成就であるという先理解も含めて。イエスの”わざ”の体験者も目の前に居るし、この”わざ”は動かしがたい事実だ・・・。疑い深いと言われたトマスまでインドに行って殉教し、その場に今も教会があるという動かしがたい事実もあるではないか。
◆だから、分かってしまったことが、当時、そう理解しているとすればおかしくないかい?という言葉が、ヨハネさんのフライングでなく、過去の記事であるにもかかわらず、文書の中の言葉に紛れ込んでしまっている訳だ。するすると、気がつかないで何とはなく読んでしまうのは、イエスの霊がそうさせるのだと信じたい(?)・・・(次回少しつづく)