marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(78回目)

2016-08-03 18:55:20 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
ヨハネ伝第11章 ラザロの復活。この章は何といったらいいのだろう。個人的にはいつ読んでも、やはり霊感にバイブレーションが起こる章である。何度、読んでも。・・・(35節)「イエスは涙を流された」のである。そして
◆いつも思うのはキェルケゴールの「死に至る病」(1849年コペンハーゲンで書かれたもの)である。今日は少し難しくなることをお許し願いたい。その道を伝える人で、このデンマークの哲学者、実存主義の走りをつくった人を知らない人はいないでしょう。今を去る40年以上も前、一時、フランスの哲学者サルトルや「第2の性」を書いた女性のボーボワールという方の哲学が流行った。実存主義云々がいわれたが(キ)はその前のその哲学の初穂の人。今まで書いてきた「自分」についての省察を深く洞察した哲学者である。(キ)は著作の中で「自己」ということばを使っているけれど、この日記の前の回の方に八木誠一さんの著作を紹介しているが、彼はその中で、血と肉に関する私を「自我」、その中心にあるそれに影響されない本来の私を「自己」という言葉でよんでいるようだ。その方も是非、読んで欲しいと思う。さて、(キ)のその触りを紹介する。聖書文は文語。
                             
◆緒論「この病は死に至らず」(ヨハネ伝11:4)。それにもかかわらずラザロは死んだ。キリストの弟子達が、「われらの友ラザロ眠れり、されど我よびおこさんために往くなり」というキリストのその後の言葉の真意を理解しなかったときに、キリストは弟子達に直截にこう語った、「ラザロは死にたり」(11:14)。かくてラザロは死んだ、にもかかわらずこの病は死に至らなかったのである。ラザロは死んでしまった、にもかかわらずこの病は死に至っていない。・・・(p15) 
◇彼は、死に至る病は絶望であるといっている。僕は、この緒論を読んだとき、すぐこう思った、「結局、ラザロは死んだのだ(イエスに甦らされても)。しかし、その死は、希望にあって死んだのだ(イエスに信ずることによって永遠の命に生きるという希望をもって)」◇暗かった学生時代に一筋の光を見たように思ったものだ。合わせてパウロの手紙の一節をいつも思い出す。この言葉にキリスト者というのは、自分に降りかかる負の出来事もすべて自分の成長の為の肥やしにできることなのだと理解したものだ。「艱難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずることを知っている。希望は絶望に終わらない。」・・・イエスの言葉を捕らえようとの思いはおそらく死ぬまで変わらないだろう。何と言ってもイエスの言(ことば)は「永遠の命に至る」とあるからね。
◆(第11章25-26節)「イエスは彼女(マルタ)に言われた。わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。・・・Ω