ふだん、YouTubeはほとんど見ない。
調べたり確かめたりする時ちょっと覗くだけで。
そのときは、訪問しているブロガーさんがあげているYouTubeが懐かしくて。
見終わったら、その他いろいろがラインナップされていて、おおーっとなったわけ。
陽水さん清志郎さんの♪帰れない二人があるじゃないの。いたーっとなったのよ。
なにしろドンピシャの世代だから、好きだった曲だったからね。
それからはさっそく繰り返し見ているの。うーん、しみじみ。
帰れない二人 / 井上陽水&忌野清志郎
思ったよりも夜露は冷たく
二人の声もふるえていました
「僕は君を」と言いかけた時
街の灯が消えました
もう星は 帰ろうとしてる
帰れない二人を残して
街は静かに眠りを続けて
口ぐせのような夢を見ている
結んだ手と手のぬくもりだけが
とてもたしかに見えたのに
もう夢は急がされている
帰れない二人を残して
もう星は帰ろうとしてる
帰れない二人を残して
以下のエピソードはネット記事から。
その頃、陽水さんが住んでいたのは東京都三鷹市のアパートで、電話で「一緒に曲を作らないか」
と誘われた清志郎さんは、ギターを持って出かけていったそうな。
そして陽水さんの部屋でお互いにギターを手にして向き合った2人は、わずか2時間ほどで
「帰れない二人」をワン・コーラス仕上げたというから、やっぱりできる人は違うのね。
で、一番を陽水さんがその場で完成、二番は清志郎さんが持ち帰って作詞して。
アレンジャーに星勝さんが参加して曲は完成し、シングル盤を発売するとなって陽水さんを
筆頭に主要なスタッフたちは全員、これをA面にするつもりになったという。それが。
レコード会社のプロデューサーだった多賀英典さんだけは、もう一曲の候補曲だった「心もよう」
を強く推して対立する。
多賀さんは最後まで自説を押し通して、「帰れない二人」にこだわる陽水さんとスタッフたちを
一人で説得した。というから、プロデューサーの目と感と熱意ってすごい。
「心もよう」の方が日本ではが売れる、という多賀さんの判断が正解であったことは言うまでもない。
ほんと、この曲を聞いたときは完全に心わしづかみにされたものね。ヒットするよね。
「帰れない二人」が発売されたのは1973年9月21日、シングル盤「心もよう」のB面として。
24歳の井上陽水と22歳の忌野清志郎。
今聴くと♪帰れない二人の方が「いいなあ」と思えるのはなんだろうね。
それにしても、最後に清志郎さんが「いのうえようすい!」と紹介したとき、
陽水さんがこぶしを突き上げて「いぇーい!」だなんて。そんなことする人だったんだと軽い驚きよ。
もう一曲。
RCサクセションは知らないけれど、この曲だけは印象的で。
モデルになった高校時代の美術部顧問の小林晴雄先生も、その先生に
多感で繊細な高校時代に出会った清志郎さんもほんとうに幸せだわ。
恩師ってそんな先生のことを言うのね。「ぼくのおじさん」と呼ばれるなんて。
♫ ぼくの好きな先生 ♫ RCサクセション
名曲「帰れない二人」
当時干されていたキヨシローこの曲の印税で食いつないだとか?
キヨシローさんに日比谷野音のライブの最前列でパーティ用の泡スプレー噴射されました。笑
良い思い出です。
今週もよろしくお願いします。
コメント、ありがとうございます。
♪帰れない 名曲ですね、ほんとに。
♪心もよう にちと飽きてきても、こちらはいつも
しみじみと寄り添ってくれるような。
粟スプレー噴射のエピソード、それはそれは素敵。
私も押しにしていただきたい。
こちらこそよろしくお願いします。
私は高校生の頃にRCサクセションが好きで、よくライブに行ってました、懐かしいです。
陽水さんとの曲、初めて聴きました。
しみじみ良いですね♡
キヨシローが亡くなった時はショックでした😭
まずRCサクセションの清志郎さんファンの方、
「キヨシロー」とカタカナ表記呼びつけなのですね。
新鮮、好き好き具合が伝わってきます。
ライブ、楽しかったでしょね。過去形になるのが
つらいけど。
陽水さんと玉置浩二さんの歌はよく聞きますが、
清志郎さんとのはこれくらいじゃないかしら。
いいですねえ、異質な声がまじりあって何とも
言えないです。