以前ブログに書いた加島祥三さんの「求めない」読めば読むほど、味わい深い。自分の生活の中で、物や家族に「求めない」とつぶやくことは一応できる。けれど、劣化ウラン弾の話を聞いたり、政治や企業の不祥事を知ると、当然のように「生き物の命が輝く世界であってほしい」と求めている自分がいる。
けれど、もしかしたら、もしかしたら、そういう求める気持ちが求めない世界を作っているかもしれないと、ちかごろ感じている。求めるのが正義といわんばかりに傲慢になってはいないか。その傲慢さの反映が、この世界ではないか。
求めるよりも、現実をあるがままに受け入れる中、それでもまだある世界を感謝し、慈しみ愛することが自分のすべきことではないか。
不平や批判を声高に唱えるのではなく、自分がすることをしていくこと。
誰かやどこかにしろと求めるのではなく。思い描く理想の世界に住みたいと求めるのではなく。現実が変わることを求めるのではなく。
けれど、もしかしたら、もしかしたら、そういう求める気持ちが求めない世界を作っているかもしれないと、ちかごろ感じている。求めるのが正義といわんばかりに傲慢になってはいないか。その傲慢さの反映が、この世界ではないか。
求めるよりも、現実をあるがままに受け入れる中、それでもまだある世界を感謝し、慈しみ愛することが自分のすべきことではないか。
不平や批判を声高に唱えるのではなく、自分がすることをしていくこと。
誰かやどこかにしろと求めるのではなく。思い描く理想の世界に住みたいと求めるのではなく。現実が変わることを求めるのではなく。