小さな日記

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スペース確保計画

2011年02月28日 | Weblog
ダウンコートを洗い、ブランケットをはずしたら、けさは寒かった。みぞれっぽい冷たい雨が、、、都心では雪も降ったようだけど。
それでも、もう厚着はしたくなくて、白いコットンパーカーで過ごした。春だもん!

不要な物を捨てるというだけでは、我が家の空間拡大計画はもうにっちもさっちもいかないようなので、分別仕分けした物を縮小する作戦を開始した。
で、第一弾は、作品の材料とするために取っておいてある古着などを、縫い代を切り、布目を正して四角形にしてアイロンをかけるという作業。
これは、時間がかかるけど、楽しいです。

ところで、わたしは、辞書をたくさん持っていて、でも、ここ数年、電子辞書かネット検索でことたりている。処分しようかどうか、迷っている。。。

しりとり

2011年02月27日 | Weblog
晩にお客さまなので、丁寧に掃除した。絨毯は、終わることなく、いつまでも本当に綺麗にはならないけれど。掃除モードにはいると、洗濯の虫にも火がついて、ダウンコートやウールのセーターなど手洗いもした。鶏がらで出汁をとって、料理の準備も完了。つれが母に整体をしてくれた。

お腹一杯食べた後、大昔のカセットテープが出てきたので、結婚披露パーティーでわたしの父が話したり歌ったりしているのを聞いた。思っている声と違うのでびっくり。父はその一年後に亡くなった。
わたしの歌やつれのピアノも聞いた。ずいぶん成長して変化しているつもりだったが、聞いてみたら今と変わらない歌だったのもびっくりした。

息子のたっての望みでしりとりをした。馬鹿馬鹿しいと思っていたが、これが、突っ込みどころ満載で、なかなか楽しい。お腹がよじれるほど笑って楽しかった。

もったいなくて使えない?

2011年02月26日 | Weblog
アメリカ・ナンバーワン、最強整理術(ドン・アスレット著)という本に、「もったいなくて使えない物のリスト」という章があった。

これは、盲点だと思った。わたしも、汚すのがいやだからと、好きで買った真っ白いお財布は、結婚式とかパーティーにしか持たない。ひいおじいちゃまが大昔中国から持ち帰った白い絹の手刺繍のハンカチやサッシュは、恐れ多くて使ったことがない。引き出しの整理をするときに見惚れているだけ。父がロシアの強制収容所で、壊れた鍋を叩いて作って配給の食事のスープを飲んだというスプーンも、大切に保管していた。でも、去年から普段の食事の取りスプーンとして活用することにした。使ってみると、バカデカイので、なかなか便利。あんかけなど取るのに重宝している。祖先から受け継いだ物は、自分の代で消耗してはいけないという固定観念にとらわれていた。使ってこその物の命。

もったいないから、使おう!


夜になる前に

2011年02月25日 | 映画
BEFORE NIGHT FALLS - HQ Trailer ( 2001 )


2000年アメリカ映画

キューバの詩人、作家、レイナルド・アルベス(1943~1990)の自伝「夜になる前に」を、ニューヨークの画家、ジュリアン・シュナーベルが監督。
レイナルドは、カストロ政権下で、ホモセクシュアルで芸術家の反革命分子として弾圧を受け、著作を発禁処分にされ、フランスなど海外で評価を受けていく。1973年、無実の暴行罪で刑務所送りとなり、脱走、再逮捕、投獄、ひどい待遇の中でもなんとかしてペンと紙を得て書き続ける様は圧巻。1980年、カストロの「革命に寄与しない者はキューバから出て行け!」という政策で、出国許可を得て、ニューヨークに移る。

キューバの海、空、大地。映像の美しい映画だ。レイナルドの心象と目線が意識されていて、わたしは、自分と異なる感覚をまざまざと体験させられた感じがする映画で、面白かった。

映像特典として、監督のジュリアン・シュナーベルの画家としてのアトリエでのインタビューがあった。これにつれもわたしも強く心打たれた。天井高さ6mもある体育館より広いようなアトリエで、次から次へと彼の大きい作品が紹介されるのだが、そのどれもが、嘘の無い骨太の魂が提示されていて、圧倒された。
アトリエにはグランドピアノもあって、つれは「ここで弾きたい!」と切望していた。

もうひとつ、映像特典で、違う監督の「PM]というショートフィルムがあった。これは、カストロ政権下で公開禁止処分になったそうだ。ドキュメンタリーだと思うが、立ち飲みパブのようなところで、人々がバンドの演奏に酔いしれ踊ったり歌ったり笑ったり、おしゃべりを楽しんだりが延々と続く。どこが反革命かといえば、勤勉でないからなのだろうか。このバンド演奏がまたすごい。土着的で、自由で、ものすごくいい。

カストロの革命って、ひとが自身の身体で生きることがいけないっていうものだったのだろうか?


音の不思議

2011年02月24日 | 音楽
つれの新作ソロピアノアルバムの編集についていった。いつもの立川のスタジオ。
今回は、録音状態がよく、なにもしなくてもそれなりに美しい。
ライブ録音なので、観客席の咳払いや動きが入っている。4つのマイクのうち、2つは客席にあって残響を拾っている。

まず、その残響とピアノ側のマイクとの距離による差というものを(狭いホールだから極僅かなのだが)なくす作業。そして、残響を入れた(雑音も入った)マイクの音を排除するかどうかを検証した。
音響の方達は、ピアノの音だけが綺麗に録れている2つのマイクだけを音源にして、リバーブをかけることを薦める。

それを聞くと、確かに鮮やかで艶のある音なのだが、どうも軽さとなめらかさが、木の楽器、ピアノを叩いているように聞こえない。4つのマイクで録った音の方がわたしには「ピアノ」という感じがする。なぜなのかはわからない。つれも、同意見で、雑音入りを編集していくことにした。

CDにするには、周波数の限界の上下(?)を切っていく。聞こえないはずなのだが、その作業の後も、音はなにかしら変わって聞こえた。

今回は拍手を入れないことにしたので、曲の最後の残響と拍手がかぶらないかをチェック。普通に聞いたらかぶっていないと思っていても、音量をあげると、ペダルをはずした瞬間に一発目が来たりして、それをどのように自然に切るか、技術の方が丁寧に作業してくださる。

ぐーっと集中して音を聞いた一日であった。いろんな作業をしてその説明を受けてもよくわかっていないわたしだが、とにかく耳は違いをちゃんとわかる。そして、どちらが好きかもわかる。不思議なことだ。ただ、それがCDとなって全体を聞いた時、どうなっているかは、これまたよくわからないのだ。

夢を叶える

2011年02月23日 | Weblog
大きな夢、小さな夢、いろいろあるけれど、今、わたしは10年来の夢をひとつ叶えているところです。

といっても、いつものようにチクチクしてるのですが。
10年以上前だったか、ブラウス向きシルク生地のサンプルを手に入れました。
大きいのやほんの小さいのまでさまざまで、色も多種多様。
白と色物を分けて、箱に入れ、しまってありました。
白は、いつか繋ぎ合わせて、掛け布団カバーを作ろうかと思ってました。

そのうち、ギャラリーでノクシカタ刺繍を見て、真っ白で二重にして全面に白い刺繍をした上掛けシーツを作ろうと思い立ちました。けれど、そのころは、あわただしくて、白い布を広げる余裕がなく、いつか、ゆったりしたら、作ってスリスリして眠ろう!と、夢見てました。

今がその時! 数日前からとうとう着手してます。アイロンして切って。縫ってはアイロンをかけ、また縫って。優雅な気分で、トロリとした上質なシルクの手触りを楽しんでます。きょうは、全部繋ぎ合わせました。
4m20cm×1m90cmになりました。ほんの40cmほどの箱に詰まっていたとは。
ぐるりに端ミシンをかけたら、いよいよノクシカタ刺繍が始まります。

押入れを開けるたびに、箱を見ては「いつか、作るぞ~」と楽しみだったことを思うと、しまっている時間も幸せ、構想を練るのも幸せ、作っている最中も幸せ、そして、きっと、使いながら幸せという4つの幸せを与えてくれた布たち。ありがとう。

そう、思えば、この布を手に入れるずーっと前、大学時代だったか、雑誌でシルクを繋ぎ合わせたベッドメイキングを見ていて、憧れておたんだっけ。10年来どころじゃない、40年近い夢でした。

こういう、叶う可能性の高いささやかな夢をたくさん抱いてます。タイミング待ちの夢たち。タイミングを逃して、叶うはずだったのに叶わなかったこともあります。(会うはずのひとが亡くなられてしまったとかね)

夢に向かって邁進!というのもありだけど、夢を抱いてグッドタイミングを待つのも楽しいことだと思います。


ニュージーランド地震

2011年02月22日 | Weblog
用事が多く、テレビを見なかったので、夜のニュースでニュージーランドの映像を見て驚いた。無残に壊れた建物、傷ついた人々。これからまたずっと、救出活動の安否が気になる。

実は、一昨日、ニュージーランドを第2の故郷とする友人と話したばかり。その時、「うちの娘の専攻もニュージーランドにだったらいいのになぁ。南アフリカみたいな心配がなくって」などと、気楽に言ってしまった。そうしたらすぐ、この惨事。

本当に、何処だったら安心などということはない。

今夜、娘は電話してきて、中東のデモは知っていたが、地震のことは知らなかった。
娘はニュージーランドに友人が行っているそう。

わたしたちはみんな、一歩先はわからない世界で、覚悟を決めて、今を精一杯生きていくしかないのだね。


分厚い膝掛け

2011年02月21日 | Weblog
ピンク、赤、オレンジのグラデーションで、厚くて重くて暖かい膝掛けを作った。
暖房に頼らない我が家に膝掛けは必需品。マイクロフリースの軽くてフワフワでは頼りないのだ。

不安の整理

2011年02月20日 | Weblog
不安感がだてマスクや携帯依存を生むと書きました。
不安や恐れはないほうがいいに決まっています。
でも、不安や恐れは、ひとが生き物である証。生き物なのだから、命をおびやかすものを警戒するのです。だから、不安感や恐れは放っておいてはいけません。

身体的には苦痛ですらある不安感や恐れなので、その苦痛を避けんがために、マスクやら携帯情報を一種の苦痛緩和薬として携えるのでしょう。
でも、それでは問題は解決しません。根本を放っておくと、体が耐え切れず、病気になります。

不安感や恐れは、エネルギーでもあります。そのエネルギーがあるうちは、ひとは大丈夫だとわたしは思います。エネルギーのベクトルを変えれば、不安感や恐れは、ポジティブな変化への原動力になるからです。

エネルギーのベクトルを変えるにはなにが必要か。まずは、自分の不安を詳細に観察してみることだと思います。

実際、わたしは、ここ数日、「買おうと思っているのに忘れてしまって手に入れてないもの」を数個、買うことができただけで、なんだか人生がとてもうまくいっているような嬉しさです。ミシンオイルとか、白い糸とか、他愛のないものですが、頭の「達成されていない」引き出しに入っているものが減ったからだと思います。

もちろん、その引き出しには他にもたくさん、自分が思い出せないものも入っているでしょう。でも、ひとつひとつ、思い出した時に意識していくことが、そしていつかはからっぽにすることが、不安や恐れという漠然とした思いをなくすことにつながると思います。

言っておきたいこととか、決めたいのに決められないこととかも、「達成されていない」引き出しに入っています。

決めたいのに決められないのはなぜか、理由をはっきりさせたら、決めたいという欲望が自分の身勝手と気づくこともあるでしょう。その時は、「達成されていない」引き出しから出して、「わがまま」引き出しに入れるのです。もちろん、「わがまま」引き出しの中身を全部捨ててもいいし、時々、全部取り出してみて、TPOに応じてひとつふたつ行動に移してもいいわけです。

そうやって、自分の頭の中身を分類、整理することで、漠然とした思い、身体感覚は、減っていくものです。

部屋の中の物を、分類、処分、整理するように、頭の中身を整理していくのは、とても楽しく面白い作業です。

チュニックワンピとマーガレット風ジャケット

2011年02月19日 | ハンドメイド
家族より2時間早く起きて、食卓で布の裁断。大きな布を広げるには、ひとりの時でなくちゃ。洋服を作るのには型紙作りと裁断が一番時間がかかる。チュニックは午前中に仕上がった。でかけて帰宅して、晩御飯を作る前に、ジャケットが仕上がった。チュニックはウールガーゼのツイード調。ジャケットは、厚いウールシャギーニット。側面と後ろにドレープが入る。
簡単なものとはいえ、一日に2つ完成したのは嬉しい。

サロゲート

2011年02月18日 | 映画
サロゲート (Surrogates) 予告編 (日本語字幕版)


2009年アメリカ映画

だてマスクを知った後で見たから、なおさら現実味を感じた。
近未来、外に出て病気をうつされたり事故にあったりを怖れる人間は、自分の好みの外観を持つロボットに自分の脳を接続して仕事からなにからをやらすようになっている。
全世界の98%がサロゲートというロボットを使っている。子どもも外では遊ばせない。サロゲートが身代わりになる。そんな世界の物語。

ロボット依存は、携帯依存が増えている今、ちっとも遠い話ではない。
テレビのCMで、田舎から上京する少女にナイトのように付き添う携帯電話の精(!?)を渡辺謙が演じている。少女の家族はすがる思いで携帯の精に少女をよろしくと頼む。

「東京はね、誰でも親切で道でもなんでもちゃんと教えてくれるから大丈夫だよ」と、言えるような東京にしなくちゃね。。。

携帯電話を大勢が持つようになって公衆電話がとても少なくなった。今では、携帯電話を持ち忘れると、電話はなかなかかけられない。見ず知らずのひとに、「携帯電話貸してください」と簡単には言えない。まわりに電話がうじゃうじゃあるのに、電話がかけられない世界。変だよね。

住所も電話番号も、携帯電話を当てにして覚えなくなった。ロボットをあてにして、人間の体はどれだけ衰えていくものだろう。

だてマスクも身代わりロボットも、人間の恐れる心が生み出した。
人間は、不安があって当たり前だ。不安があるから危機感も持つし、用心もする。でも、用心しながらも生身で勇気凛々、生きていくことが生きる楽しさではないのかしら。
恐れを克服するのは、ひとの心でありたい。科学や技術で克服するのは、ひとつひとつの事象であって、心は次の恐れを生み出すのだ。


だてマスク!?

2011年02月17日 | 情報
きょうの朝日新聞に、だてマスクをするひとが増えている記事があった。
中学生、高校生、そして、50代まで、男女を問わず、外出する際の自己防御としてマスクをするようだ。
http://www.asahi.com/national/update/0217/TKY201102170211.html
他人の目が気にならなくなったり、緊張から解放されたり、夕刻ひげが伸びたのを見せないためとか、、、マスク依存症のようになっているらしい。

あるがままの自分を見せていると、いやな思いをさせられるという不安感だ。
昔、20代で化粧なしでは人前に出ないというひとがいて、びっくりしたことがあったが、そういう感覚のひとが増えているということだろう。

化粧に関していえば、先日すっぴんで外を歩けるかというインタビューに60代の女性が、「化粧は身だしなみと教えられて育ったので、欠かせません」と答えていた。以前もブログで書いたが、司会業を志していた友人が、化粧しなければ司会はできないとプロダクションに言われて断念した。彼女はすっぴんを通し、50代の今でもスッピン美人である。

わたしはといえば、マスクはよほど咳がひどくなければしないし、きのうもきょうも、そういえば、完全すっぴんで、しみ、しわ、毛穴、たるみ、丸出しで町を歩いている。化粧は身だしなみだと強制されると、腹がたつ。

マスクをするひとは、他人に美人と思われたいわけではない。存在を隠したいというか、悟られたくないのだろう。自分ひとりなら、マスクなしで過ごせるはずだ。マスクがなくとも、自分の内側から世界を覗いている気分になれば、他人の目は、スクリーンの役者がこちらを見ているほどにしか感じなくなるのだけれど。自分が自分の世界にいられなくなっていることが、原因のような気がする。自分は、自分の世界にいて、外側を見るという感覚。

だてマスクさんたちは、自分が外に出て他人(世間)の目線になって自分を見ているからマスクなしでは耐えられないのではないだろうか。


2011年02月16日 | 音楽
DUKE ELLINGTON BAND AT THE COTE D'AZUR


わー、ドキドキしてしまった!
これ、1966年、コートダジュールのインターナショナルフェスティバルの映像。
最後にエラ・フィッツジェラルドが出てきて、ジャズサンバなど歌うのだ。

エリントンは、すごい作曲家で、それぞれがインパクトの強い素晴らしい曲をたくさん書いている。でも、わたしはビッグバンドに興味がなくて、歌のバックとしてしか聴いたことがなかった。

たまたま、ギャオでコンサートの模様が見れた。生の心臓を目前に突きつけられたような衝撃。手に取るようにそれぞれの命が聞こえた。

命って、聞こえるんだ、見えるんだったよね。忘れていたよ、情けない。

「命を大切にしましょう」なーんて子どもに言うより、命が見える、聞こえるような生き方してなきゃね。テクニックと音色とリズムなんて思い出さないほど、命が直接響いてくる音楽があるんだから、信念やスタイルや社交術なんてみえてこないほど、命が輝いちゃう生き方もあるんだね。野性はいずこへ!

このUチューブの映像、飽きずに見られた方は、こちらもどうぞ。
http://gyao.yahoo.co.jp/player/00803/v09747/v0973600000000540495/?list_id=127169

子育て

2011年02月15日 | Weblog
31歳のおかあさんが、小さい子どもを二人、自転車に乗せて、雪道を走る中転倒、一人が車道に飛び出され、重症というニュース。

そうなっても不思議はなかった自分の経験を思い出し、せつなくなった。わたしも、上の子の幼稚園の時期に、3人乗りでフラフラしていて、何度か転倒しかけてひやっとしたことがある。後からきた自動車の運転手に罵倒されたこともある。

両手にしっかり二人の子をつかんで歩けばよかったのか。とんでもない。下の子は手をふりほどき、思いもよらない動きをしたし、上の子はひっきりなしに喋って、あちこちに行こうとするから、目的地にはなかなか着かない。荷物もある。自転車を買って、どれだけほっとしたことだろう。

今は3人乗りが禁止になった。それはそうだろう。確かに危険極まりない。それはわかっていても、そうしなくてはならない状況があるということだ。

先日、薬局の前で、おかあさんが3歳くらいの男の子に、「ちゃんと見ててね」とお願いしていた。自転車の前椅子に、もっと小さい女の子を座らせて、歩道に斜めに自転車を置いたまま、おかあさんは薬局に入った。銀行から出てその光景を見てしまったわたしは、さあ、こわくてしょうがない。斜めに置いた自転車に勢いよく歩く若い男性がぶつかりそうになるし、小さい男の子は、前に行ったり後ろに行ったりして、確かに「ちゃんと見ている」のだけれど。わたしは、自転車をすぐ支えることができる場所に立って、知らん顔して見張っていた。おかあさんは、数分で戻ってきて、男の子は胸を張って「ちゃんと見ていた!」と言った。わたしも、ほっとして、本当にほっとしてその場を去った。

もちろん、おかあさんに、「そんな止め方で、子どもほっぽいて危ないですよ」と言うこともできた。危ないのは重々承知で焦っているおかあさん、いっぱいいっぱいになってるおかあさんは、昔の自分のように思えた。昔の自分を思うと、ずっと年上の女性に説教がましく言わずもがなのことを言われても、焦りを募らすばかりだと思ったから言わなかった。

かつて、瀬戸内海の島で子育てした女性に、「子育てって、戦争みたい」と、つぶやいたことがある。彼女はきょとんとして「あら、そんなこと、思ったことないわ」と言った。そのとき、そうか、そうじゃない子育てもあるんだなぁと思った。

たった二人の子で、しかも、父親が稼ぐという環境で、戦争と思ってはりつめていたのは、わたしが不手際で能力がなかったからなのか。決定的になにかが島の子育てとは違う環境だったからと思う。ニュースのおかあさんにも、子育ては戦争だったろうか。戦士に「あなたの味方です」と告げても信じてもらうのは難しい。お子さん、どうか、元気に治ってほしい。

ホワイトバレンタイン

2011年02月14日 | Weblog
朝からつれ宛てにバレンタインプレゼントが届き、中には、老舗の佃煮なんて渋いプレゼントもあって。ふふふ、お年を召しましたわね。大昔は、匿名の大きな花束とかね、ちょっとときめいちゃうのもあったっけ。ご本人はツアー中で、お菓子などいただいた模様。

わたしはまだお雛様を持っていないという女の子に、いただきものの素敵な繭雛を送った。
これ、段も箱で、組子のように靴箱サイズに収納できるすぐれもの。顔だけでなく衣装も繭玉で丁寧に作られていてかわいい。数回飾らせていただいたけど、我が家には陶器のお雛さまがいるからね。作ってくださった方、ありがとうございます。小さい女の子がとても楽しみに待ってくれてますよ!

郵便局に行ったら、小雨で異様に冷え込んでるなぁって思ったら、夕方には真っ白。
ホワイトバレンタインとは、素敵!

雪景色を見てニコニコ笑いが止まらない息子を見て
「い~ぬは喜び 庭かけまわり♪」って歌詞を思い出した。