「泣いた赤鬼」は、小さいころのわたしの鬼門だった。内容を思い出すだけで号泣してしまう話だった。絵本を持っていたわけではない。たくさんの子どもたちと一緒に紙芝居か絵本を読み聞かせてもらったように思う。たった一回の経験なのに、これほど辛い思いをずっともち続けるとは。
ふと思い出したので検索してみた。浜田 廣介氏が、1933年に発表され、1965年12月に偕成社から出版している。物語はこうだ。
http://www.kca.co.jp/~nuts/tanoshi/akaoni.htm
人間ではない赤鬼が、人間と仲良くなりたいと切望するのに泣き、青鬼が去ってしまった後に、青鬼と仲良くしていたい自分に気づくのに泣いた小さいわたし。
青鬼は、自分の心がわかっていて、自分の意思で行動した。だから、小さいわたしには、それでいいのだった。けれど、赤鬼は、青鬼との楽しい交友関係がありながら、人間という異質の未知のものに憧れ、青鬼を失う。青鬼を失うことがわかっていたら、赤鬼は計画をとりやめていたかもしれない。つまり、赤鬼は、なにがなんだかわからないまま、欲望にふりまわされ、そこにあった幸福をとりあげられてしまう。それがせつなかった。自分の愛をまっとうした青鬼、自分の愛が見えなかった赤鬼。
赤鬼の「こんなに人間が好きなのにどうして友達になってもらえないの?」と愛を求める気持ち。「青鬼と別れるつもりなんてなかったのに、ぼくのせいでこんなことになってしまった」という愛を失った気持ち。
そして、なにより、青鬼は遠くに行ってしまい、とり返しがつかない、もう手の打ちようがないという事実に深く傷ついた。
あとの祭り、、、そういうどうしようもないことがある、と、知ったのが、「泣いた赤鬼」の経験だった。だから、思い出すたび、苦しかったのだ。そして、それが、わたしの恐れの始まりだったように思う。
興味深いのは、青鬼に同情しなかったこと。青鬼は、自分がしたいこと(大好きな赤鬼の夢を叶えてあげたい)をして、それが叶ったととらえたこと。小さいわたしには、それが辛いことでも、目的が達成されたからいいと判断した。
赤鬼は、「人間と友達になりたい」夢を叶えたのに、今度は青鬼を求めて泣く。欲深い。
でも、その欲深さと、自分の本当にしたいことがよくわかってないという愚かさが、無明というか、普通なのだ。
フェリーニの「道」という映画も、わたしを号泣させた。これは、ジェルソミーナという少女が大道芸人ザンパノに売られて、大道芸の手伝いをしながら、そのうち手篭めにされ、虐待ともとれる仕打ちを受けながらも、女性としてザンパノを愛し、病気になると捨てられ、死んでしまうという話。その後、ザンパノは1人大道芸を続けるが、高齢で体も弱くなってから、ふと、ジェルソミーナを思い出し、海に向かって号泣するのだ。
考えてみれば、これも、「泣いた赤鬼」に似ている。愛されていることに気づかず、相手を利用して、後に、その愛に気づき、号泣するのだもの。
「道」でも、わたしは、ジェルソミーナに対してではなくて、ザンパノに泣いた。
とりかえしのつかないことをしてしまった側に同情してしまうのだ。
人間の愚かしさが切なくて、小さいわたしは泣いたのだろうか。これからの自分の人生のとりかえしのつかないことをしていくだろうことに泣いたのだろうか。
ホ・オポノポノを知って、自分の潜在意識ウニヒピリと頻繁に話すようになったので、この物語を思い出したのではないかと思う。確かにそれまで、わたしの記憶では「母がいなくなる」こと以外、恐れはなかった。そこに、「とり返しのつかないことがある」という恐れが加わったのだ。もしかしたら、以前、死ぬたびに、わたしはそう思って悔やんだのだろうか?
クリーニングして、恐れを取り除いていこうと思う。
ふと思い出したので検索してみた。浜田 廣介氏が、1933年に発表され、1965年12月に偕成社から出版している。物語はこうだ。
http://www.kca.co.jp/~nuts/tanoshi/akaoni.htm
人間ではない赤鬼が、人間と仲良くなりたいと切望するのに泣き、青鬼が去ってしまった後に、青鬼と仲良くしていたい自分に気づくのに泣いた小さいわたし。
青鬼は、自分の心がわかっていて、自分の意思で行動した。だから、小さいわたしには、それでいいのだった。けれど、赤鬼は、青鬼との楽しい交友関係がありながら、人間という異質の未知のものに憧れ、青鬼を失う。青鬼を失うことがわかっていたら、赤鬼は計画をとりやめていたかもしれない。つまり、赤鬼は、なにがなんだかわからないまま、欲望にふりまわされ、そこにあった幸福をとりあげられてしまう。それがせつなかった。自分の愛をまっとうした青鬼、自分の愛が見えなかった赤鬼。
赤鬼の「こんなに人間が好きなのにどうして友達になってもらえないの?」と愛を求める気持ち。「青鬼と別れるつもりなんてなかったのに、ぼくのせいでこんなことになってしまった」という愛を失った気持ち。
そして、なにより、青鬼は遠くに行ってしまい、とり返しがつかない、もう手の打ちようがないという事実に深く傷ついた。
あとの祭り、、、そういうどうしようもないことがある、と、知ったのが、「泣いた赤鬼」の経験だった。だから、思い出すたび、苦しかったのだ。そして、それが、わたしの恐れの始まりだったように思う。
興味深いのは、青鬼に同情しなかったこと。青鬼は、自分がしたいこと(大好きな赤鬼の夢を叶えてあげたい)をして、それが叶ったととらえたこと。小さいわたしには、それが辛いことでも、目的が達成されたからいいと判断した。
赤鬼は、「人間と友達になりたい」夢を叶えたのに、今度は青鬼を求めて泣く。欲深い。
でも、その欲深さと、自分の本当にしたいことがよくわかってないという愚かさが、無明というか、普通なのだ。
フェリーニの「道」という映画も、わたしを号泣させた。これは、ジェルソミーナという少女が大道芸人ザンパノに売られて、大道芸の手伝いをしながら、そのうち手篭めにされ、虐待ともとれる仕打ちを受けながらも、女性としてザンパノを愛し、病気になると捨てられ、死んでしまうという話。その後、ザンパノは1人大道芸を続けるが、高齢で体も弱くなってから、ふと、ジェルソミーナを思い出し、海に向かって号泣するのだ。
考えてみれば、これも、「泣いた赤鬼」に似ている。愛されていることに気づかず、相手を利用して、後に、その愛に気づき、号泣するのだもの。
「道」でも、わたしは、ジェルソミーナに対してではなくて、ザンパノに泣いた。
とりかえしのつかないことをしてしまった側に同情してしまうのだ。
人間の愚かしさが切なくて、小さいわたしは泣いたのだろうか。これからの自分の人生のとりかえしのつかないことをしていくだろうことに泣いたのだろうか。
ホ・オポノポノを知って、自分の潜在意識ウニヒピリと頻繁に話すようになったので、この物語を思い出したのではないかと思う。確かにそれまで、わたしの記憶では「母がいなくなる」こと以外、恐れはなかった。そこに、「とり返しのつかないことがある」という恐れが加わったのだ。もしかしたら、以前、死ぬたびに、わたしはそう思って悔やんだのだろうか?
クリーニングして、恐れを取り除いていこうと思う。