本橋成一監督作品『アレクセイと泉』予告編
国立さくらホールに、つれと一緒に「アレクセイと泉」を見に行った。とても美しい映像で、東山魁夷さんの絵のようだ。どの場面も、贅沢な絵本を見るようで、ナレーターのアレクセイのソフトな発音とあいまって、独特の幻想性をかもし出している。
しかし、これは現実にある村のドキュメンタリーで、しかも、チェルノブイリ原発から180キロに位置し、事故後は、大方の村人は高濃度の放射線汚染から逃れて、移住してしまって、地図からも消された地域なのだ。残っているのは70代以上の方がほとんどで、若者はアレクセイだけ。村にある放射能が検出されない泉の水を日に何度もバケツで汲みながら、馬やダチョウを飼って、芋を育て、ほぼ自給自足なさっている。
その日常をカメラはゆっくりと、温かく追う。泉の木枠が老朽化して、たぶん最後となるだろう補修作業を老いた男たちは、力強く進める。派手でこっくりした色合いの美しいスカーフや真っ赤なセーター、花模様のスカートを堂々と着こなす老女たちは、冬の家の中で、刺繍や織物にいそしむ。豚の飼料はペチカで作る。ギリギリという名のでかいキウリのような野菜をたくさん瓶詰めにして漬け込む。
季節に応じて次々としなくてはならないことがあふれた、けれど、豊かな手作業、肉体労働の合間にも、かれらは、話し、笑い、踊り、歌う。
放射能汚染さえなければ、村には若者と子どもがたくさんいて、老人たちの肉体労働も楽であっただろう。けれども、愚痴も不平も、映画には一言もはいっていない。政府からの年金は自給自足の暮らしに必要ないので、ほとんど町に暮らす子どもたちに送る豊かさ。
泉の木枠の完成時には、手作りの木の十字架が水に浸され、泉の際に何本も立つ。僧正も来て祝福する。そうか、キリスト教の信仰が、この村には根付いていて、それが村人の労働と結びついているから、誰一人、怠け者がいないのだ、と思った。
「放射能汚染地区の実態」を見たはずなのに、会場の明かりがつくと、ほのぼのと柔らかい心地の自分がいた。きのうのブログに書いた、悪い事を、その事だけにとどめた村。支えあい、命をまっとうしている愛にあふれた人々の美しさを見せていただいた。
会場は満席、福島から国立市に避難なさっている方々も招待されていた。感想を聞きたかったな。
終わってから、、本橋成一監督と、スタイリストで映画のロケに同行した高橋靖子さんの対談があった。その中で、印象に残った本橋監督のお話。
「なぜ、他の地に移り住まないのか」と問うてしまう本橋監督に、かれらは答えた。「わたしたちは、この地から水を借りて生きてきた。だから、この地に、水を返したいのだよ」
監督は、壇上にあるエビアンの小瓶を手に取り、苦笑した。「僕たちは、世界中の水をスーパーで買って飲んでいる。世界中に返さなきゃいけないね」
高橋靖子さんは、前からブログにも書いているが、わたしが大学時代から大好きな方。初めてお声を聞き、嬉しかった。かわいらしい笑いを含んだ声で、お肌がつやつや若々しく、お姿は思っていたよりずっと華奢だった。あまりにきさくな感じなので、終わってから「ヤッコさん」と、話しかけてしまった。握手して、ずっとファンで、本やブログも読んでいる旨伝えた。なんだか、「愛の告白」をした気分。わたしは、彼女のひとに対するオープンな心と、きめ細やかな慎みを尊敬している。見習いたいと思う方なのだ。梅干も、真似して漬け始めた。つれまで紹介して、ミーハーに舞い上がったひとときだった。
ヤッコさんのブログhttp://blog.madamefigaro.jp/yasuko_takahashi/