小さな日記

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ライフ

2011年09月29日 | 映画

映画『ライフ -いのちをつなぐ物語-』予告編

娘と息子が夜待ち合わせて「ライフ」を見に行った。息子は、このシリーズが大好きで、前から楽しみにしていた。

幸福そうに帰ってきた二人は、興奮さめやらぬ様子。あのシーン、このシーンと説明してくれた。この手の映画は、予告編を見ただけでウルウルしてしまうから、このご時世に見ると、号泣ものだなと敬遠気味のわたし。

我が子たちが、見たことがない他の生き物に感動するさまは、そこになかった命が、今はこうして在ることをひしひしと感じさせてくれてくれる。長生きして、たくさん本当の生き物を見てほしいな。

 

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19時16分 福島県沖 震度5強  19回 余震が多く、また、震源が深さ10キロがずっと続いたので、ツイッターでは、福島第一原発の爆発ではないかと緊張が走っていた、、、とはいえ、わたしは夜中に読むまで震度5強の地震すら知らなかった。。。

広島県に20年に一度ほどの高潮。厳島神社が冠水。http://sankei.jp.msn.com/science/news/110929/scn11092913100001-n1.htm

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もののけ姫 

2011年07月02日 | 映画

もののけ姫 特報

昨夜テレビで放映されていました。1997年のジブリ作品。

今見ると、原発事故でああだこうだとあわてふためいている自分たちのように思えて、感慨深かった。

原発事故は、暴力的に放射能汚染を拡大していっているが、放射能自体は暴力ではない。けれど、事故後の日本の様子は、情報の曖昧さ、政府の決定の曖昧さ、と、全てが曖昧模糊としたままに、ひそやかにもんじゅが修理を始め、玄海原発は再稼動しそうで、なにかその静けさが、凶暴な暴力を内包しているような不気味な感じだ。

もののけ姫は、暴力沙汰の映画なので、観ていて楽しいものではないが、明確な筋道のあるものたちが明瞭に戦っているので、現実の不気味さから少し離れることができた。

願わくは、アシタカの腕のあざを持ったひとがいたとしても、抑制する勇気を持ち合わせていて欲しい。


ミツバチの羽音と地球の回転

2011年06月28日 | 映画

鎌仲ひとみ監督の「ミツバチの羽音と地球の回転」 これまで数回ブログにも紹介してきたが、作品を初めて西国分寺のいずみホールで観た。鎌仲監督もトークショーに出席した。

311前から楽しみにしていたけれど、フクシマが起きてしまってから、なぜか、見に行くのに積極的になれなくて、徒歩で行ける近場の上映なのでありがたく行った。作る過程のお話やメイキングビデオを見ていたので大体のことはわかっていたが、とても良い作品だった。フクシマ以前に見たら、どう感じたのだろうかと、何度も想像した。

一番印象に残ったのが、祝島で最年少という青年(若き父親)、孝くんの言葉

「祝島の人たちは、なんであんなに原発に反対するんだっていう電話があって、自分たちの生活や暮らしを、まあ、守るためですと、まあ、そのために海を守ったり、原発のことをやってると言ったら、なんか、そんなもんのために、たくさんの人に迷惑かけて恥ずかしくないんかって言われて、まあ、やっぱり、そういうこと、うーん、島の生活を守るっていうのが、そんなものって言える人たちが、原発作ろうとしてるのかなって思うと、悲しいですよね」

これを聞いたとき、あー、やっぱり「迷惑」が出たと思った。先日も書いたが、この国は、「迷惑」をかけるということが、最大級の責め言葉になる。ものごとを滞りなく進めることが、迷惑をかけないことであり、原発も、基地も、戦争加担も、大きな権力が決定したことに従うのは、迷惑をかけない良識あるひとということになる。ただし、NIMBY(自分ちの裏庭でなければ)そして、自分ちだと主張するひとを、「自分のことだけ考えてる迷惑な奴だ」と、非難する。

「そんなものって言えるひとたち」に投票して政権を預けていてはいけない。「そんなものって言えるひとたち」が作る製品をバーゲンだからと喜んで買っていてはいけない。「そんなものって言えるひとたち」が薦める安楽そうな娯楽、安全そうな環境に身を任せてはいけない。

地球の生き物の一匹として、水や電気を体を使って節約して、大地や海の恵みを気合を入れて調理して、少量いただいて、自分と隣人の命を大切にすることに働いて、クタクタになって死んでいこう。そう思った。

「ミツバチの羽音はどんなに小さくても、地球の回転にすら影響を与えているかもしれない」鎌仲ひとみさん

そうだ、わたしも、ブンブン

 

 

鎌仲監督は、ヒバク、核の3部作として「ヒバクシャ」「六ヶ所村ラプソディー」「ミツバチの羽音と地球の回転」を作りました。全部観て欲しいです。

鎌仲ひとみ監督 放射能の恐ろしさを訴える 2011.4.14 渋谷アップリンク


本橋成一監督作品『アレクセイと泉』

2011年06月04日 | 映画

本橋成一監督作品『アレクセイと泉』予告編

国立さくらホールに、つれと一緒に「アレクセイと泉」を見に行った。とても美しい映像で、東山魁夷さんの絵のようだ。どの場面も、贅沢な絵本を見るようで、ナレーターのアレクセイのソフトな発音とあいまって、独特の幻想性をかもし出している。

しかし、これは現実にある村のドキュメンタリーで、しかも、チェルノブイリ原発から180キロに位置し、事故後は、大方の村人は高濃度の放射線汚染から逃れて、移住してしまって、地図からも消された地域なのだ。残っているのは70代以上の方がほとんどで、若者はアレクセイだけ。村にある放射能が検出されない泉の水を日に何度もバケツで汲みながら、馬やダチョウを飼って、芋を育て、ほぼ自給自足なさっている。

その日常をカメラはゆっくりと、温かく追う。泉の木枠が老朽化して、たぶん最後となるだろう補修作業を老いた男たちは、力強く進める。派手でこっくりした色合いの美しいスカーフや真っ赤なセーター、花模様のスカートを堂々と着こなす老女たちは、冬の家の中で、刺繍や織物にいそしむ。豚の飼料はペチカで作る。ギリギリという名のでかいキウリのような野菜をたくさん瓶詰めにして漬け込む。

季節に応じて次々としなくてはならないことがあふれた、けれど、豊かな手作業、肉体労働の合間にも、かれらは、話し、笑い、踊り、歌う。

放射能汚染さえなければ、村には若者と子どもがたくさんいて、老人たちの肉体労働も楽であっただろう。けれども、愚痴も不平も、映画には一言もはいっていない。政府からの年金は自給自足の暮らしに必要ないので、ほとんど町に暮らす子どもたちに送る豊かさ。

泉の木枠の完成時には、手作りの木の十字架が水に浸され、泉の際に何本も立つ。僧正も来て祝福する。そうか、キリスト教の信仰が、この村には根付いていて、それが村人の労働と結びついているから、誰一人、怠け者がいないのだ、と思った。

「放射能汚染地区の実態」を見たはずなのに、会場の明かりがつくと、ほのぼのと柔らかい心地の自分がいた。きのうのブログに書いた、悪い事を、その事だけにとどめた村。支えあい、命をまっとうしている愛にあふれた人々の美しさを見せていただいた。

会場は満席、福島から国立市に避難なさっている方々も招待されていた。感想を聞きたかったな。

終わってから、、本橋成一監督と、スタイリストで映画のロケに同行した高橋靖子さんの対談があった。その中で、印象に残った本橋監督のお話。

「なぜ、他の地に移り住まないのか」と問うてしまう本橋監督に、かれらは答えた。「わたしたちは、この地から水を借りて生きてきた。だから、この地に、水を返したいのだよ」

監督は、壇上にあるエビアンの小瓶を手に取り、苦笑した。「僕たちは、世界中の水をスーパーで買って飲んでいる。世界中に返さなきゃいけないね」

 

高橋靖子さんは、前からブログにも書いているが、わたしが大学時代から大好きな方。初めてお声を聞き、嬉しかった。かわいらしい笑いを含んだ声で、お肌がつやつや若々しく、お姿は思っていたよりずっと華奢だった。あまりにきさくな感じなので、終わってから「ヤッコさん」と、話しかけてしまった。握手して、ずっとファンで、本やブログも読んでいる旨伝えた。なんだか、「愛の告白」をした気分。わたしは、彼女のひとに対するオープンな心と、きめ細やかな慎みを尊敬している。見習いたいと思う方なのだ。梅干も、真似して漬け始めた。つれまで紹介して、ミーハーに舞い上がったひとときだった。

ヤッコさんのブログhttp://blog.madamefigaro.jp/yasuko_takahashi/


愛の種

2011年06月03日 | 映画

母の教えの中で、わたしが一番胆に命じている言葉は、

「なにか悪いことが起きたら、その悪いことだけにとどまるように努めなさい。悪いことが波及して次の悪いことが起きないように」。

311も、地震、津波、原発事故、放射能汚染と、次々と、大きな悪いことが続いているけれど、それだけにとどめるためにはどうすればいいものか。悪いお手本は政治の世界で繰り広げられている。そうじゃなくて、、、

「マイネーム イズ ハーン」2010年インド映画。この映画は、アメリカの911という悪夢が、そこにとどまらず、イスラム教徒の迫害、戦争、天災の救援と、波及していく中で、自閉症の主人公が一貫して愛をもって行動する様を映し出してくれる。

ベトナム戦争時代の反戦歌として知っていた曲「勝利を我らに(we shall over come)」が、随所に使われているが、この映画での「勝利」が意味するものに感動した。戦争にも、病気にも、天災にも、放射能にも、わたしたち人間が対抗する手立ては少ない。けれども、その恐怖によって、心が愛から離れてしまうことが、負けなのだ。そのような悲惨な苦痛があったとしても、ひとの心が愛に満ち溢れ続けることが、勝利なのだと。

「愛すると心が弱くなってしまうと思う。今、わたしを強くするのは怒りなの」そんなセリフも出てくる。そう、愛とは、そんな気がするものだ。だから、ひとは辛いときには、怒りによってなんとか生きる意欲を失うまいとする。でも、それはきっと、間違いなのだ。確かに一時は、強くなった気がするけれど。

わたしたちの311も、辛さを なにかのせいにして怒りをよびさまし、強く責めることで解消することはしてはならない。辛さも悲しみも、あるがままに、愛が癒してくれるのを待たねばならない。

植物の種が、条件さえ整えば、必ず芽を出し、双葉がつき、青々と茂っていくように、わたしたちは、誰しも、愛の種を無尽蔵に持っている。なにかを責めるのではなく、なにかをいとおしもう。それがなんであろうと、そう、綺麗な服であろうと、隣の子犬であろうと、自分の爪であろうと、いとおしむことが、愛の種への水撒きになることは間違いない。

悪を探して責めることではなく、魅力を感じるものをいとおしむことに、フォーカスしよう。

MY NAME IS KHAN -FIrst Look Promo with JPN sub #1-2 日本語字幕付き


「アレクセイと泉」

2011年05月16日 | 映画
「アレクセイと泉」


チェルノブイリ原発事故で汚染区域となったブジシチェ村のドキュメンタリー映画、「アレクセイと泉」が、JR国立駅南口の国立市商業協同組合ビル2階さくらホールで上映される。3時半には監督の講演。ずっと見たかったので、近場で嬉しい。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20110515/CK2011051502000021.html

この時期、全国各地で上映会が開かれています。
また、数人で集まって上映会を開くこともできるそうです。
http://movies.polepoletimes.jp/alexei/

空想の力 志の力

2011年05月12日 | 映画
A Little Princess (1995) - All Girls Are Princesses


きょうは娘が泊まりに来て、なにか心が柔らかくなる映画を見たいね、と、久しぶりにお気に入りの「リトルプリンセス」(小公女)を見た。この映画、原作とは違う部分も多いが、子どもの役者さんたちはかわいいし、自立心旺盛で茶目っ気もあるセーラは、原作以上に胸に迫る。

このビデオのパートは、ミンチン先生に屋根裏の宴をみつかって、明日の食事は抜きで二人分働けと命じられ、「空想なんてしたって現実は残酷なんだ。夢なんてみてるんじゃないよ。まだお姫様でいるつもりかい?鏡を見てごらん。」と、ののしられる箇所。

「わたしはお姫様よ。女の子はみんなお姫様なのよ。綺麗じゃなくてもボロをまとってようとも、狭いとこに住んでいても、若くなくても、賢くなくても、女の子はみんなお姫様。わたしたちみんながよ。先生はお父さんにそう言われなかったの?」とセーラは反撃する。この幼い少女の毅然とした反撃に、いつもはっとさせられる。ミンチン先生の反応も、彼女が背負ってきた苦渋の生い立ちをうかがわせ、また、哀れを誘う。

セーラは、想像力に富んだ子どもで、汚い屋根裏部屋にいても、絢爛豪華なお料理が並ぶテーブルを目前に映し出し、言葉で表現する能力を持っている。想像することで、自分を励まし、他人を力づけ、現実の悲惨に負けないエネルギーと笑いを生み出す。

セーラは、わたしはお姫様なのだから、飢えているひとがいたらパンをあげるんだと、自分もひどくひもじいのに、町の花売りの家族にたった一個のパンを差し出す。

空想は、想像は、逃避ではない。心の栄養だ。極上の甘美で芳しい想像ができるのは、そのひとが豊かだからだ。東北の瓦礫連なる光景も、わたしたちは、緑豊かで子どもたちの笑い声が響く住宅街、商店街を想像することができる。想像できるからこそ、創造できるのだ。

「ひとはパンのみにて生きるものにあらず」と、イエスは言った。

そうそう、電気によってのみ輝くものでもあらず。
わたしたちはこれから節電プリンセス! 日本のプリンセスたちよ、なんどきも高邁であれ!




愛の叫び~ 運命の100日

2011年05月09日 | 映画
A Sunday In Kigali - Un Dimanche 醇A Kigali


2006年 カナダ映画

ルワンダのジェノサイドを題材にしたジル・クルトマンシュのベストセラーを映画化。
「ルワンダの涙」「ホテル・ルワンダ」と、1994年のルワンダのフツ族による悲惨な虐殺を描いた映画を見たが、この「愛の叫び」が一番胸に響いた。

元は仲がよかった二つの部族が、白人の植民地政策によって、差別を余儀なくされ、権力を求めて組織的虐殺で50万人から100万人の死者を出してしまった。これは、ルワンダ国民の1割にもあたるそうだ。

この映画は日本未公開だ。
日本には興味をもつひとが少ないと判断されたようだ。
演技陣がすごい。音楽もいい。辛いけれども、お奨めする。


身代金

2011年05月02日 | 映画
Ransom Trailer HQ (1996)


元気が出る映画としてインプットされていたメル・ギブソンの「身代金」
はっきり筋も覚えていなかったので、借りて見た。

息子が誘拐され身代金を要求された夫婦。FBIに協力を求めたものの、息子の生命の存続を考えて、父親は思い切った賭けに出る。身代金を懸賞金に変えたのだ。
それが吉と出るか、凶と出るか、夫婦の葛藤は想像に余りある。

そうだそうだ、なぜ元気が出る映画として覚えていたかというと、FBIに任せて、ただ祈るのではなく、自分の責任において、自分で判断し行動した主人公に、「息子を誘拐された被害者」ではない、「人生の困難を自ら切り開こうともがく挑戦者」を感じたのだった。

息子を拉致され身代金を要求されているという物語を、息子を無事に帰さなければ誘拐犯は一生、懸賞金目当ての人々に見張られなくてはならないという物語に変容させたのだ。

この映画、父親のアイデアは報われ、息子は家に戻るから良かったけれど、これが悪い結末だったら、悲劇だ。しかし、FBIに任せても、悪い結末だったら、悲劇に変わりはない。ただし、両親は世間から轟々と非難を浴び、一生煩悶するだろう。そこにFBIに言われたとおりにやったけど駄目だったという諦めの言い訳はない。

被災し、原発事故を抱え、経済が破綻しかけている哀れな国日本に住んでます、という物語を、そのまま受け入れるか、自分の責任において、なにかしら斬新な切り口で自身の人生の挑戦者、開拓者である自分の物語を作っていくか。

英語では、身体障害者をdisable person(能力が劣るひと)と呼ぶが、近年challenged person(挑戦を受けたひと)という言い方もする。

手順、法律、良識、、、そういったものを無視して目的に邁進するのは、ものすごく勇気がいる怖いことだけれど、どうしてもそうしなくてはと自分がはっきり思ったら、どんなに苦しくても、どんなリスクがあっても、そうする自分なのか。

と、あれこれ勇ましく考えながら、反面、物語に惑わされてはいけない、物語のない自分でありたいと心から願うわたし。わたしはわたし。ホ・オポノポノ

私の中のあなた

2011年03月10日 | 映画
映画 私の中のあなた 予告動画


人工授精で赤ちゃんを持った野田聖子議員のインタビューを見た後にこの映画を見たので、感慨もひとしお。
野田聖子さんは、ご自分が母になりたいがために辛苦を耐え赤ちゃんを産んだ。この映画のおかあさんは、自分の娘をしなせたくないがために、もう一人赤ちゃんを産んだのだ。

子どもが欲しいと思ったことなく、なんとなく子どもを授かったわたしには、理解しがたいことだ。
それにしても、この映画は、夫の不実もなく、経済的不安もなく、子どもの非行もない、長女の病気だけが悩みという家族を描いている。
アメリカにはこんな家族もいるのかなぁ、と、思ったことでした。あ、野田さんは日本人か。

子役がみんな、上手くてかわいくて、役柄も利発で、大人がバカに見えます。そこは、リアリティーがあった。


イングロリアス・バスターズ

2011年03月09日 | 映画
『イングロリアス・バスターズ』 予告編

2009年アメリカ映画

度肝を抜くとはこのことか!
タランティーノ監督の血液過剰は毎度のことだが、ウー、顛末がすごい。
そうだ、映画なんだから、ありだよね。
映画はこうあってほしいはずだった映画といってもいい。
演技陣が上手い。脚本がいい。
そして、言語は武器、力であることをまざまざと感じさせてくれた。
強烈。

あ、内容はナチを滅亡させようという連合軍の秘密部隊の活躍と、ナチに家族を惨殺されたユダヤ人女性の復讐の二本立てで進み、最後に融合するという、、、
音楽が、昔のあっちこっちの映画から取り入れられてて、知っているひとには、場面が思い浮かび面白い。
デビッド・ボウイのキャットピープルは、スコット・ウォーカーの声と似てる。

夜になる前に

2011年02月25日 | 映画
BEFORE NIGHT FALLS - HQ Trailer ( 2001 )


2000年アメリカ映画

キューバの詩人、作家、レイナルド・アルベス(1943~1990)の自伝「夜になる前に」を、ニューヨークの画家、ジュリアン・シュナーベルが監督。
レイナルドは、カストロ政権下で、ホモセクシュアルで芸術家の反革命分子として弾圧を受け、著作を発禁処分にされ、フランスなど海外で評価を受けていく。1973年、無実の暴行罪で刑務所送りとなり、脱走、再逮捕、投獄、ひどい待遇の中でもなんとかしてペンと紙を得て書き続ける様は圧巻。1980年、カストロの「革命に寄与しない者はキューバから出て行け!」という政策で、出国許可を得て、ニューヨークに移る。

キューバの海、空、大地。映像の美しい映画だ。レイナルドの心象と目線が意識されていて、わたしは、自分と異なる感覚をまざまざと体験させられた感じがする映画で、面白かった。

映像特典として、監督のジュリアン・シュナーベルの画家としてのアトリエでのインタビューがあった。これにつれもわたしも強く心打たれた。天井高さ6mもある体育館より広いようなアトリエで、次から次へと彼の大きい作品が紹介されるのだが、そのどれもが、嘘の無い骨太の魂が提示されていて、圧倒された。
アトリエにはグランドピアノもあって、つれは「ここで弾きたい!」と切望していた。

もうひとつ、映像特典で、違う監督の「PM]というショートフィルムがあった。これは、カストロ政権下で公開禁止処分になったそうだ。ドキュメンタリーだと思うが、立ち飲みパブのようなところで、人々がバンドの演奏に酔いしれ踊ったり歌ったり笑ったり、おしゃべりを楽しんだりが延々と続く。どこが反革命かといえば、勤勉でないからなのだろうか。このバンド演奏がまたすごい。土着的で、自由で、ものすごくいい。

カストロの革命って、ひとが自身の身体で生きることがいけないっていうものだったのだろうか?


サロゲート

2011年02月18日 | 映画
サロゲート (Surrogates) 予告編 (日本語字幕版)


2009年アメリカ映画

だてマスクを知った後で見たから、なおさら現実味を感じた。
近未来、外に出て病気をうつされたり事故にあったりを怖れる人間は、自分の好みの外観を持つロボットに自分の脳を接続して仕事からなにからをやらすようになっている。
全世界の98%がサロゲートというロボットを使っている。子どもも外では遊ばせない。サロゲートが身代わりになる。そんな世界の物語。

ロボット依存は、携帯依存が増えている今、ちっとも遠い話ではない。
テレビのCMで、田舎から上京する少女にナイトのように付き添う携帯電話の精(!?)を渡辺謙が演じている。少女の家族はすがる思いで携帯の精に少女をよろしくと頼む。

「東京はね、誰でも親切で道でもなんでもちゃんと教えてくれるから大丈夫だよ」と、言えるような東京にしなくちゃね。。。

携帯電話を大勢が持つようになって公衆電話がとても少なくなった。今では、携帯電話を持ち忘れると、電話はなかなかかけられない。見ず知らずのひとに、「携帯電話貸してください」と簡単には言えない。まわりに電話がうじゃうじゃあるのに、電話がかけられない世界。変だよね。

住所も電話番号も、携帯電話を当てにして覚えなくなった。ロボットをあてにして、人間の体はどれだけ衰えていくものだろう。

だてマスクも身代わりロボットも、人間の恐れる心が生み出した。
人間は、不安があって当たり前だ。不安があるから危機感も持つし、用心もする。でも、用心しながらも生身で勇気凛々、生きていくことが生きる楽しさではないのかしら。
恐れを克服するのは、ひとの心でありたい。科学や技術で克服するのは、ひとつひとつの事象であって、心は次の恐れを生み出すのだ。


飛ぶ教室

2011年01月30日 | 映画
Das Fliegende Klassenzimmer (2003) (D)


2003年ドイツ映画
原作はエーリッヒ・ケストナー1933年ナチス政権時代の作品だ。

映画は、時代を現代に置き換え、お金の単位もユーロ、先生の昔話にはベルリンの壁越えまで出てくる。音楽学校の設定で、生徒たちのラップミュージカルもあって、とても楽しい。
12~13歳の少年たちが主人公だが、その一人が流れ星に「みんなが幸せでありますように」と祈る。それを見て、子どもが身近なひと、世界中のひとの幸せを心から願う気持ちになれるように、大人は導いてあげなくちゃいけないんだ、と感じた。自分の心が微笑んでいるとき、ひとの幸福を願いたくなるものね。

子どもがひとを憎んだり不幸になれなんて思うのは、わたしは、おとなの責任だと思う。

この映画の最初にケストナーの言葉が出てくる。子どもはちょっとしたことで驚くほど傷つくこともあるということを、忘れてはいけない、、とかなんとか。
そう、驚くほど傷つくし、驚くほど回復力もある。大人と違うんだ。