息子が見ようと言うので、なでしこ隊(特攻隊を見送った15歳の少女たち)のテレビを見た。最初から最後まで涙が出っ放しで、そうなることはわかっているから見たくなかったのだが。
わたしの母は、特攻隊員と同じ年頃で、なでしこ隊と同じようなことをしていた。小樽港から出る戦艦に乗る兵士をもてなし見送っていたのだ。祖父が持っていたホテルが軍に接収されて、兵士たちが使っていた。食事や宴を共にし、港で見送って一週間もたたないうちに、その船の撃沈の報が届く日常。わたしは、幼いころからずっとその話、その思いを聞いて育った。
父は大学を休学して、海軍の大佐軍医となり、戦後はロシアの収容所に捕虜となって数年間過ごした。特攻隊の遺文集が出ると必ず読み、広島の平和祈念式典に参列していた。生き残った者という感覚がいつもあったのだと思う。
テレビでは、特攻隊の行く食堂のおかみさんが、敗戦を知り、「わたしは一度も兵隊さんが行くのを止めなかった。止めなくてはいけなかったんだ」と号泣した。
止めて逃亡兵を支援、保護する組織に送れたらよかったろうに。でも、そんな組織、あったのだろうか?
わたしの母は、特攻隊員と同じ年頃で、なでしこ隊と同じようなことをしていた。小樽港から出る戦艦に乗る兵士をもてなし見送っていたのだ。祖父が持っていたホテルが軍に接収されて、兵士たちが使っていた。食事や宴を共にし、港で見送って一週間もたたないうちに、その船の撃沈の報が届く日常。わたしは、幼いころからずっとその話、その思いを聞いて育った。
父は大学を休学して、海軍の大佐軍医となり、戦後はロシアの収容所に捕虜となって数年間過ごした。特攻隊の遺文集が出ると必ず読み、広島の平和祈念式典に参列していた。生き残った者という感覚がいつもあったのだと思う。
テレビでは、特攻隊の行く食堂のおかみさんが、敗戦を知り、「わたしは一度も兵隊さんが行くのを止めなかった。止めなくてはいけなかったんだ」と号泣した。
止めて逃亡兵を支援、保護する組織に送れたらよかったろうに。でも、そんな組織、あったのだろうか?