☆★今日のショット★☆

綺麗なお花や美味しいたべものなどあれこれあれこれ載せて行きたいと思います。

九条武子碑まで

2016-09-02 06:09:08 | 山・散歩・ジョギング
首が痛くて、整形外科で診て貰ったら、背中の筋肉の凝りだということで、
休日は軽くトレッキング + 水泳と決めて、朝から出かけました。

白銀荘から、九条武子の歌碑まで行ってみようという事で、画家さんと2人で出掛けました。

三段山の登山口左側方向に、そのルートは有って、望岳台まで繋がっています。
いきなり倒木(^^;;


塞がっていたけれど、その先に道が見えたので、強行しました。

森の中を歩き、素敵な展望にも出会え、

気持ち良く歩いていたのですが、
富良野川の源流が増水していて、人が渡れる水量ではありません。


やむなく引き返し、望岳台から歌碑を目指しました。
十勝岳、美瑛岳登山道を歩き、少し登ってから工事用の道路?みたいな所を歩きました。

しばらく登り、分岐を見つけます。


ここから溶岩流の流れた跡を越え、すぐ着くかなぁ、と思っていたのに、無い(T ^ T)


諦めて溶岩の上に腰掛け、昼食を食べようとしたけれど、先に続く道がやっぱり気になり行く事にしました。


ハイマツの間を抜ける、日本庭園の様な道。
なかなかいい感じです。

沢の音が聞こえてきます。
けれどなかなか辿り着かない。

望岳台から50分ほど経った時に、突然歌碑が現れました。


こんなに大変な所にあるんだね。
昭和4年7月9日に建立されたそうです。
九条武子と言えば、大正三大美人の1人だそうで、残っている写真も美しい。

九条武子


十勝岳爆発を詠む『九條武子の歌碑』
建立場所 十勝岳山腹泥流跡の這い松の中
建立年月 昭和四年七月九日
『たまゆらに けむりおさめてしずかなる
             山にかへれば 美るにしたしも』
この歌は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)第二十一代法主、大谷光尊氏(明如上人)の次女で、九條良致男爵(貞明皇后の弟)と結婚されたが、四十二才の若さで生涯を閉じた歌人で有名な『九條武子』の短歌で、大正十五年の十勝岳爆発とその被害に心を痛めて詠まれた。
― この短歌はどこで詠まれたのか ―
一般的に歌碑・句碑等は歌人、俳人がその地へ行って詠まれたのを記念して建立されるが、この歌は『九條武子』が仏教婦人会総裁をしていた関係で、昭和二年九月四日旭川で開催された北海道仏教婦人会大会に出席のため来道された時のものである。
大会が終了の翌日、昭和二年九月五日旭山公園への行き帰りに、中天高く呼き上げる遥るかに眺望され、又は十勝岳爆発の被害状況を聞き、遭難死者の霊安らかならんことを祈り、十勝岳の鎮静化を心から念じこの歌を詠まれた。
九條武子は十勝岳爆発に関し次の歌も残している。
◎あきらめの ため息ならず 火の山は
         憤怒の息を 大空にはく
◎けむりはく 十勝の嶽の 上にして
         まさをき空は いよよすみたり
◎十勝嶽 けむりををさめ 横雲の
         動かずてあれば 目にはろばろし
◎あなけうと 十勝の嶽の 吐く煙
         巨岩のごとも むらがりのぼる
これらの歌は九條武子の歌集『裏染』(昭和三年十一月発行)『自孔雀』(昭和四年十二月発行)にて発表された。
― 歌碑建立のいきさつ ―
十勝岳を霊山として仏教的に開発をしたいと明治の末頃から永年にわたって念願し、そして着々と実践されていた上富良野町聞信寺先代住職 故門上浄照師がこの歌碑建立に大きくかかわっていた。
門上浄照師は、十勝岳を精神教化の霊場とすべく大正十年には十勝岳中腹に太子堂を建て、大正十三年には俳人、長谷川零餘子の句『鬼樺の 中の温泉に来ぬ 橇の旅』の句碑建立、昭和二年には俳人で旭川市慶誠寺先代住職である石田慶封師(俳名雨圃子)の句碑『秋晴や 雪をいただく 十勝岳』の建立、安政火口の下流のヌッカクシフラヌイ川の三つの滝に聖徳太子の三経義疏から名をつけた。
九條武子が来旭の折に、今なお噴煙を上げている十勝岳と爆発による悲惨な災害を聞いて歌を詠まれた事を知った門上浄照師は、ぜひ歌碑の建立をと考え申し出たところ『たまゆらの……』の揮毫を御拝受した。この直筆の揮毫は歌碑と同じ大きさで、現在も聞信寺に大切に保存されている。
昭和二年八月末に来道され九月上旬に帰られた九候武子は、翌年の昭和三年二月七日、四十二才の若さで永眠された。九條武子の突然の死を知った門上浄照師は『たまゆらの……』の歌碑を十勝岳に建立しようと考え、檀徒の方々へ援助と協力をお願いした。
昭和四年七月、九條武子の兄で西本願寺法主である大谷光明猊下が、北海道開教百年記念法要に来道される事を知った門上浄照師は、本山に九條武子の歌碑建立とその除幕式に猊下の御臨席を賜りたい旨の文書を提出していたところ、六月八日に本山より電報にて歌碑建立の許可と除幕式出席の連絡が入った。
早速、旭川中学校教諭(現道立旭川東高等学校)の柴原小市氏(大正十四年~昭和六年九月まで在職で物理・地学学者で昭和四年発行の十勝岳爆発災害志に観察記録が掲載されている)と相談、旭川地区は柴原教諭、富良野地区は門上浄照師で寄附を募ることを決め、六月十一日に両者で十勝岳に登り、歌碑の建立場所の選定を行った。
歌碑建立には門上浄照師の熱意にうたれた檀信徒の方々、仏教青年会の労力奉仕による歌碑運搬、登山道路改修に旭野地区の人々の奉仕活動もあって、十勝岳の泥流跡の岩山を台座にした歌碑が完成した。
― 歌碑の除幕式 ―
昭和四年七月九日、九條武子の兄で西本願寺法主、大谷光明猊下をお迎えして除幕式は行われた。
上富良野市街から中茶屋までは元飛沢病院長の飛沢清治氏(中町飛沢尚武氏の父)が購入したばかりのフォードの乗用車で行ったが、その初乗りが光明猊下であったという。
中茶屋からは馬九頭で十勝岳に向う。光明猊下は矢野辰次郎氏の馬に乗られたが、乗馬が達者で歌碑の近くまで馬で行かれた。
大谷光明猊下ご臨席の中で九條武子の歌碑は、柴原小市氏の令嬢、千津子さん(当時八才)の手によって除幕された。
『たまゆらの けむりおさめて しずかなる
             山にかへれば 美るにしたしも』
の歌碑が十勝岳の噴煙を仰ぎ見るなかに建立された。


かみふらのの郷土をさぐる会機関誌から引用させて頂きました。


十勝岳噴火の犠牲者に贈られた、レクイエム。
再びこういう事が起こらない様に、祈るばかりです。
2時間ほどのトレッキングを終え、富良野のプールにGO!

平日で利用者も少なく、しっかり肩をほぐして来ました(^^)
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